日田往還(日田~中津)を歩く

2009年02月06日(金) ~2009年02月08日(日)
総歩数:100734歩 総距離:61km

2009年02月07日(土)

守実温泉~一ツ戸洞門~耶馬溪

 朝から快晴。谷間にある宿から外を見ると一面の霜で真っ白。今日も気持ちよく歩くことができそうだ。
  宿から集合場所である中津市しもげ商工会山国支所へ向かう途中、左手に「神尾家」がある。
 神尾家は江戸時代には組頭を務めた旧家で、この家は三つの棟を連結しているので、全体として三度折れ曲がった屋根のかかる寄棟造り茅葺の建物になっており、修理工事中に発見された墨書きから明和8年(1771)に建てられた事が判明したということだ。国の重要文化財に指定されている。
神尾家採用分
 ここから商工会山国支所はすぐ近く。受付のチェックをうけて 9時35分に出発する。
 近くの方は日帰りで参加されており、今朝改めて一緒になる。「昨夜の宿はどうでしたか?」と聞かれたので、「修学旅行を思い出しました」というと、「枕投げはしませんでしたか?」といわれてしまった。なるほど、と思ったが、初対面のいい年をしたメンバー連中ではそんなことなど思いつきもしなかった。
  山国川に架かるあさひつり橋を渡ってすぐに右折。
あさひつり橋
その先の市場公民館の横から右折して川沿いに歩く。前方川の向こう側に昨夜泊まった「やすらぎの郷」が見える。
 川沿いを歩くがその先で旧道が畑になっているため、この場所は迂回して田んぼの畦道の中を歩き、再び川沿いの道に出てこれに沿って歩く。
 田んぼのあぜ道
 その先、三条保育園が左手にあるところで国道212号線に合流して少しの間、国道を歩き、右手に中摩郵便局があるところから国道と分かれて右斜めへ進む旧道に入る。
  中摩の集落の中を歩き、国道に「耶馬サイクリングロード、白地入口」の標識がかかっているところでこれを横断、すぐ先から右折して国道と併行して通っている旧道を歩く。
白地入口
  左手に「亀岡八幡宮」があり、その境内に「白土楽(カッパ祭り)」の案内板が立っている。それによるとこの祭りは元文2年(1737)亀岡八幡神社仲秋祭典神事として始まり、永く白地地区の氏子によって伝承されている楽で、毎年9月15日に古式そのままの服装で大団扇を持った4人の大人が、水神(カッパに扮した4人の子供)を鎮める所作が繰り返されるという。もともとは文治元年(1185)壇ノ浦で源氏に敗れた平氏の残党が筑後川で滅亡したが、その亡魂が河川の水神となり、河童と化したので、これを音楽を奏で、雅楽を舞って慰めたという縁起に由来すると説明されている。
亀岡八幡宮
 その先で国道に合流、しばらく国道を歩くが、歩道がついていて歩きやすい。
  一ツ戸集落に入る。ここは城下町として榮え、廃城後は随道(トンネル)ができるまでは宿場町として賑わったということだ。
 その先国道212号線に一ツ戸隧道があり、その右手横に「一ツ戸洞門」がある。
一ツ戸洞門
 ここで耶馬溪観光女性案内人会の会長から説明を受ける。それによると一ツ戸宿と中摩の間は以前は川を渡って行き来していたが、日田代官羽倉権九朗秘救と中摩、宮園の住人が4年の歳月をかけて隧道を掘り、文化2年(1805)完成、以後川を渡らずに歩くことが出来るようになったということだ。その13年後、ここを通過した頼山陽は「山腹を穿ちて道となし、又窓を穿ちて明かりを取れり、余、松明を買い入る。窓に遇うて窺えば、月の渓水にありて朗然たるを見る」と賞賛したという。現在は国道の隧道を建設する際、七ヵ所あった窓は一つを残して壊されており、旧隧道は通り抜けできないようになっている。 更にその先にあった宮園の洞門は国道工事のため全て破壊されている。
 開発という名前のもと、こうして貴重な遺産が失われている現実を実感する。
 その先左手に一ツ戸城址登山道の入口があり案内板が立っている。それによると一ツ戸城は建久6年(1165)に標高360mの断崖上に築かれた堅固な山城で、代々の城主は友杉氏(仲間、中摩氏ともいう)であったが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定で黒田孝高が豊前に入ると、時の城主中摩六郎左衛門は城内家臣の意見を「入れ札」により取りまとめ、黒田側に臣従することに決したということだ。その後細川忠興の出城となったが、元和元年(1615)徳川秀忠の一国一城令により取り壊され廃城となったと説明されている。
一ツ戸城入口
 登山道のすぐ横に一ツ戸川が流れており、そこに昔の石積みの橋が現在も残されている。
 一ツ戸橋
 この先で道は二股に分かれており、その右斜めに伸びる道を進むが、少し先で直進してきた道と合流する。
 山国川沿いに国道を歩いていくと、左手に「雲八幡宮」がある。ここの境内を数百メートル下ったところに「雲石」といわれる磐座がある。これは天宝3年(703)ここに神が出現し、「雲の社」と尊んだ。天延元年(973)都から当地に配流になった少納言清原正高卿が現在地に社殿を造営したという。以来歴代藩主の尊崇を受けている古い歴史のある神社で境内には千年杉が立っている。ここにはカッパの登場する民俗芸能「宮園楽」があり、カッパ祭りといわれている。源氏の追っ手に討たれた平家の落人の妄念がカッパになって田畑や牛馬に災いをなすとして、カッパに涼風を送る所作を踊ると説明されているが、少し前にあった亀岡八幡宮の白土楽と同様の言い伝えである。
 雲神社
 この先から国道と別れ左手の旧道を歩くと二股に分かれているところがあり、右手に大きな常夜燈が立っている前を通って進む。
 常夜燈
 ここから土道になる。山国川に突き当たり、それに沿って土道を歩いていくと、左手少し入ったところに旧耶馬渓鉄道下郷駅跡があり、ここで休憩を取る。
 ここにも耶馬渓観光女性案内人会の皆さんがおられて、おやつの接待をしていただいた。女性案内人は10名おられて活動をされているということだった。耶馬溪鉄道は1913年に山国川に沿って中津から青の洞門、羅漢寺、守実温泉の観光地を結んだ36kmの鉄道だったが、1975年に廃線になった。現在はこの線路がサイクリングロードになっており、日本で一番長いサイクリングロードということだ。
下郷休憩所 
 ここでしばらく休憩をとった後、再び川沿いに戻って歩き始める。途中、「三隈山」「靏ケ濱」「文化2年」と刻まれた石碑が並んで立っていた。相撲取りの名前のようだったが説明がなかったのでわからなかった。
相撲取り石碑  
 その先でサイクリングロードに合流し、橋を渡って右折して進む。 このあたりに昔は沓掛の渡しがあり、川を渡っていたということだが、今は遺構は全く残っていない。ここを渡る時、脱いだ靴を掛けたことから、沓掛という名前が残っているということだ。
 柳ヶ平橋を渡って、国道212号線に合流し、その先祗園橋で山国川を渡る。国道に沿って歩き、柿坂地区へ入っていく。大分銀行耶馬溪出張所の横から右折していくと、右手に柿坂小学校の跡地があり、今はゲートボール場になっていた。ここから左折し細い道を歩いていき、突き当りを左折して国道を横切ると、サニーホールがある。
 ここの文化ホールで昼食をとる。ここも中津市しもげ商工会の皆さんが昼食の準備をしていてくれ、おいしい豚汁とおにぎりを食べる。また、食事をしながら皆さんが作ったという「耶馬溪の成り立ち」「頼山陽と耶馬溪」という紙芝居を大きなプロジェクターに写して上映していただいた。丁寧に作られており、とてもわかりやすい内容だった。
紙芝居 
 また、APUの学生さんが「山国川と食を活かして」と題した山国川川床を提案するレポートの発表をしていた。よく考えられたレポートで、こうした試みは将来に繋がるものがあるのではないかと思った。
 文化ホールの裏が「擲筆峰」だ。ここに「頼山陽先生詩碑」が立っている。
頼山陽石碑
 文政元年(1818)頼山陽がこの地に立ち寄った際、景勝を描写しようとしたが、感動がきわまり、「筆舌に尽くしがたし」といって筆を擲げたと伝えられている。
 以後この地を「擲筆峰」と称されるようになった。後日、頼山陽はこの時の印象を著書「耶馬溪図鑑記」に「耶馬の溪天下になし」と紹介し、耶馬溪の名前がついたと説明されている。
擲筆峰 
 文化センターを出て、ガソリンスタンドの横から旧道に入る。ここも細い道が続いている。お墓の前を通って進み、その先で国道212号線に合流する。
 左手に旧耶馬渓鉄道の鉄橋がある。今はサイクリングロードになっているが、この鉄橋は曲線を描いており、ほかにあまり例を見ない珍しい鉄橋だ。
鉄橋
 その先で右手カーブする国道から分かれて旧道に入り、津民入口のバス停のところで橋を渡り、更にその先で再び橋を渡ってサイクリングロードを進む。
 車道のガード下を通って進むと、「頼山陽八景その3」の標識が立っている。「巻峰の景(朝天峰)」「両石相闘い其の一倒れんと欲するもの、石数層にして夏雲の状を累成するものあり」と書かれている。巻峰 
 そのすぐ先に「頼山陽八景その1」があり、そこには「菩薩峰の景(酔仙巌)」「廿五菩薩楽を奏して至るが如し」と書かれていた。
 八景その1
 八景となっているのだから、その他にも六ヶ所の景色のいい場所があったはずだが、気がつかなかった。
 このあたりサイクリングロードと併行して旧道が走っている。小友田の四つ角で右折して進み、小友田大橋を渡って212号線に合流、その先で城井橋を渡ってすぐに右折して川沿いに進んでいく。 「
 左手に城井八幡宮」がある。ここは建久年間、今から約800年前に長岩城主野中重房が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し建立したといわれ、「若八幡宮」ともいわれている。天正の頃、城主の命により、修復の任に当たった長岩城の重臣で土田の城主百留河内守が一人で運んだという大石が道路に面した玉垣に積まれており、「天正十二年百留河内守」の字が刻まれている。 城井八幡
 ここで左折して耶馬渓鉄道平田駅跡で休憩を取る。ここでもこれまでと同様にお接待を受ける。ありがたいことだ。
 平田駅跡
  旧道に戻って川沿いを歩くと「馬溪橋」がある。
馬溪橋
 このあたりは川の向こう側が天領で、こちら側が中津藩の領地ということで橋がなかったそうだが、大正12年にこの橋が架けられたということだ。五連の石積みアーチで、下流にある三連の羅漢寺橋、青の洞門下流にある八連の耶馬溪橋(オランダ橋)とともに「耶馬の三橋」として有名だ。
 その先突き当りを左折、その先で右折すると右手に「西淨寺」がある。この寺は大内氏の由緒あることで有名で、慶長年間に現在地に移転しており、大内義隆の筆による「三慶山」の扁額が掛けられている。この額は最近修復がされたようで、新しかった。
 大内義隆扁額
 また鐘楼も古く、大鐘も貞享の鋳造で三百年以上前のものである。
西淨寺鐘楼 
  川沿いの道から左折して進むが、右手川向こうに「立留りの景」が見える。ここは今から250年ほど前のある夜半、大音響とともに岩山が崩れ落ち、この景観ができたということだ。道行く人々が立ち留ってこの景観を見ることから、この名前がついたと説明されている。今は岩山に木が生えているが、以前は木がなく、岩がむき出しになっていたということだ。その理由はここに生えている木はカタガの木で炭の材料になっていたのだが、最近は炭を使わなくなってしまったので、木を切る人がいなくなり、現在のように木が繁ってしまっていると一緒に歩いていた方から教えていただいた。岩がむき出しになると景色の迫力が違うので、木を切ることを検討しているということだ。
立ち留りの景 
 左手に「巌銅山の景」がある。この景は岩屋集落の上で岩の形が自然観音の妙趣を表しているので一名浦陀落石ともいわれていると説明されている。
巌銅山の景
 山の中の道、サイクリングロードを歩いていくが、左手に「冠石野水路」が通っている。これは川の上流から高低差を利用して水を下流の田まで運んでいる水路でかなりの距離、道に沿って作られている。道より高いところを通っているため水路の最後のところでようやく写真に撮ることができた。ここはコンクリートで固められていたが、そこに至るまでは崖を掘って自然石を水路にしていた。
 冠石野水路
 その先で「羅漢寺橋」が架かっている。大正3年に着工、大正9年に完工した橋で三連アーチの「耶馬の三橋」の一つである。 羅漢寺橋
 ここから先、沈み橋を通って川を渡り、今日の宿山国屋に入る。
 17時25分に到着する。
 この宿は天皇陛下行幸之間、秩父宮殿下御宿泊となっており、川端康成も逗留したという宿だ。古いが歴史のある宿だ。今日は十畳の間が二つと十二畳の間が一つ並んであり、そこに十三人が泊まったので、広さは十分にあった。

本日の歩行時間  7時間50分。
本日の歩数&距離 40309歩、25.3km。
 
 

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歩人
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