平戸街道を歩く

2009年04月28日(火) ~2009年04月29日(水)
総歩数:117281歩 総距離:78.4km

2009年04月28日(火)

平戸~江迎~佐々~本山

                                  晴れ
八幡を朝一番,5時34分の特急で出て、たびら平戸口駅に9時46分に着く。九州内なのだが4時間以上の時間がかかっている。ここは日本の最西端の駅という石柱が立っていた。
平戸駅 
まず田平港にある「日ノ浦番所跡」へ行く。ここは寛永18年(1641)に口留番所を船着場の真正面(現在は駐車場)に設け、通行人の出入りや物資をチェックしたところだ。跡地の一角に石柱が立っており、「御番所跡」の説明文が刻まれている。
日ノ浦番所跡 
ここを起点としてカウントする。10時10分に出発する。
突き当りを右折し、信号を横断して、その先の突き当りを右折して進むと、左手に恵比寿大明神が祀られており、そのすぐ先左手に平戸街道の入口の坂がある。ここに平戸街道の標識が立っているのでこれに従って坂を上って行く。この標識は各所に立てられており、歩く上で非常に役に立った。
街道入口 
「日ノ浦本陣跡」は遺構は残っておらず、現在は駐車場になっている。坂を上って行くと左手に石垣があるが、これは本陣の目隠しをする石垣で山笠の形をした笠石と共に昔のままの姿で残っている。
石垣 
 松浦西九州線のガードをくぐって進むと、田平北小学校が右手にあり、その前を通って坂を下っていく。ここにも標識が立っている。このあたり古い石垣が残っている。
左手に「総社神社」がある。創建は平戸松浦11代持時代(1221~1230)と推定されており、上里の宗像神社と共に田平三村(小手田村、里村、下寺村)の氏神として祀られている。ここの鳥居は長崎街道でよく見かけた石造肥前鳥居で文政元年(1818)と刻まれていた。
総社神社 
小さなコンクリートの橋が架かっている。「メバル橋」と呼ばれているこの橋は、昔この小川に平たい大きな石を架けようとして男数人がこの石を持ち上げようとしたが、うまくいかなかった。これを見ていたハルという女性が加勢したところ見事に持ち上げられたので、この橋をメバル橋と名づけたという。メは愛でる、バルはハルのこと。ハルを褒める意味でメバル橋ということだ。(平戸街道ネットワークの会の資料より、以下資料という)
メバル橋 
 釜田川に架かる橋の元橋を渡って左折して進み(標識あり)、突き当りを右へ(標識あり)、その先の二股を左へ(標識あり)上り、左手に墓地がある先の二股を左へ(標識あり)進む。このように分岐する所のほとんどに標識が立っており、それに従って歩いていくと迷うことはない。
左手に「笠松天神社」があり、その横に「古墳」がある。ここは前方後円墳で墳形から前期古墳と推定されているようだが、昭和63年実施された発掘調査の結果、板石が散乱していたことから埋葬主体は竪穴式石室か石棺で盗掘を受けたものと考えられていると説明されている。
傘松神社 
坂を下り、突き当りを右折して進むと草道に入る。ここにも標識があるのでそれに従って進むと線路にでるがここには踏切がない!ちょっと危険だが注意して左右を見渡し、電車が来ていない事を確認して線路を横切って204号線に出、これを右折して進む。今回の平戸街道ではこのように踏切のない線路を横断するケースが何度かあった。
一関バス停の先、右手に一関踏切があり、これを渡ると直進する道路と左折する道路の二股に分かれる。左折する道路はまだ新しい道路のような感じだ。この分岐点には標識がなかったが、直進する道路の前方をみると標識が立っているようなので、そのまま直進していくと、街道の標識が立っており、左手に下る道がついている。それを下っていくと、左手に小さな橋が架かっており、これを渡る。渡ると道が二股に分かれており、ここにも標識がない!さて、困った!よく見ると、左折する道は先ほどのまだ新しいと感じた道路にすぐ先で合流している。一方右折する道はこれまでの道と同じような感じの道が続いているので、右斜めへ伸びる道を歩いていった。ここで振り返ってこれまで歩いてきた道を写真に撮っておく。
迷い道 
 道なりに進んでいくが地図と見比べてみるとなんとなく違うような感じだ。人に道を尋ねたいが、いつものようにだ~れもいない。困ったなと思いながらも歩いていくと前方に人がおられたので、道をお聞きすると、先ほどの分岐点から左折してまだ新しいと感じた道路を行く道が平戸街道だと教えていただいたので、元に戻って先に進む。まだ歩き始めて1時間ほどしか経過していないのにもう失敗だ。
舗装道路を歩いていく。車の通行量は少ないが立派な道路だ。ただ昼近くなってきて、好天なのでさすがに暑い!やがて二股に分かれるところがあり、ここにはちゃんと標識が立っていて、それに従って左斜めに進んでいく。ゆるい上り坂の一本道で周囲は森、鶯が気持ちよさそうに鳴いている。
しばらく森の中の道を歩いていくと右手に「本山一里塚跡」の碑が立っている。
本山一里塚 
このあたりにはちょっとした集落があり、何人かの人たちが働いている姿が見えた。その先に十字路があるが、これを直進して進む。
左手に「吹上駕籠立場跡」碑が立っており、その横に平らな石が二つ並んで置かれていた。これに腰をかけて休んだのだろうか、それともこの石に駕籠を置いたのだろうか?と想像しながら歩いていく。
吹上駕籠 
やがて道が直進する道と左側に二本の道がある場所に来る。ここにも標識が立っているので、それに従って真ん中の道に入っていく。ここは林の中の道で落葉が一杯積もっており、一段低くなっているので雨が降ったときはここを水が流れるのだろう。下はかなり湿っていた。標識に「琵琶石峠」と記されていた。
 一旦開けた十字路に出て、これを直進するとすぐにまた森の中に入っていく。
 このあたりをチャエン坂と呼ぶようだが、資料によるとチャヤンザカ(茶屋ン坂)の転化だろうと推測している。
突然右手に牛が現れた。4、5頭いる。私を見てこちらに寄ってきたので口笛を吹くと更に近づいてくる。写真を撮って、歩き始めると、なんと牛が走って私を追いかけてきた。間に一応鉄条網が張られているのだがそれにしてもかなり大きい牛が私の歩くスピードに合わせて併行して走ってくる。ひょっとすると鉄条網を乗り越えてくるのではないかと思ったが、やがて追いかけることをあきらめたようだ。それにしても牛に追いかけられたのは初めての経験だ。
牛 
 すぐ先で道は二股に分かれており、ここにも標識が立っているので、それに従ってこれを直進する。
やがて前方に梶ノ村溜池が現れる。ここは大正の初めに造られた溜池なので旧道はここで一旦途切れる。
梶の村溜池 
池を左回りして進むが、旱魃の時には池が干上がって街道松の古株が現れると資料に書かれている。今日は満々と水を蓄えていた。
右手に才木公園があり、その少し先右側に「長人駕籠立場跡」の石碑が立っており、その横に松浦公が駕籠を留めたといわれる駕籠立石がある。 この道は幕政時代、江迎駅から長坂を越え、平戸にいたるただ一本の道で、辻の堂から田平道を長人街道と呼ばれており、吉田松陰も歩いたと説明されている。
長人駕籠 
その先で228号線に合流し、右折して進む。
その先、道が二股に分かれるところに「伊能忠敬木星観測地」の石碑が立っている。文化10年(1813)伊能忠敬はこの場所を天体観測の適地と定めて、木星とその衛星が重なり合う現象をとらえようとしたのだが、当日は天気が悪く観測できなかったと資料に記されている。
伊能忠敬 
ここで今回お世話になった「平戸街道ネットワークの会」の本多さんから電話をいただいた。今日から歩くとご連絡を差し上げていたので、わざわざ電話を頂いたのだ。色々とお世話になったお礼を申し上げる。
街道はここから車道と分かれて一気に下っていく。下り始めると間もなく二股に分かれるので、左斜めに進むとここから暫くは階段を下っていく。階段を下ると車道に出るので、これを右へ下っていく。九十九折の坂を下っていくと右手少し小高くなったところに「長坂一里塚跡」の石碑が立っている。
長坂一里塚 
ここから更に下っていくと左手に江迎中央公園があり、そこに「吉田松陰腰掛石」がある。吉田松蔭は嘉永3年(1850)平戸に来た。その際、佐世保から平戸へ向かう途中で江迎の庄屋に一泊したが、くたくたに疲れた身体をこの石に腰を下ろして休んだと説明されている。またここには旧庄屋跡にあったという樹齢400年を越えるムクの木が立っている。
松蔭腰掛石 
ここから江迎本陣〈山下庄左衛門)へ行く。本陣は街道から少し離れたところにあった。ここは平戸藩主松浦熈(ひろむ)が天保元年(1830)に再整備したところで、県下で唯一当時のままの姿が残っている。藩主専用の座敷〈御成間)は一段高く作られ、賊の侵入を防ぐために二重天井や床下の格子張が施されているという。またその横には山下家の酛(酒母)蔵(もとぐら)がある。この建物は酵母を発酵させる蔵で元禄年間に建築されたものだ。一階から二階を突き抜けた中央の一本の柱と周囲の柱によって屋根を支え、まるで傘を広げたような形になっている。
江迎本陣 
ここでカウントする。
 13時24分、江迎本陣を通る。
 平戸から3時間14分、9.8km。
街道に戻り、江迎町役場の裏を通って進むと左手に「深江将監自刃の地」がある。深江城三代城主忠昌は平戸松浦軍に攻められ、自刃したという言い伝えもあるが、平戸松浦家の重職として長く仕えており、慶長19年(1614)7月、第二十六代法印公鎮信のあとを追って殉死したものと考えられると説明されている。
深江墓 
 その先、嘉例川に架かる嘉例橋があり、右手にコンビニを見つけたので、ここで弁当を買って昼食にする。いつものことだが、食事は出来るときに食べておかないと、食べる場所がないことが多々あるので、注意を要するのだ。
その先に三叉路があり、左手に墓地が見える。そのすぐ先で左手に空き地がありそこに入って行くと階段があって、そこに標識が立っているので、それに従って階段を上って行く。階段を上ると道は広くなり、左手に江迎幼稚園があり、右手には江迎保育園があるところを進んでいく。
三浦川に架かる三浦ふれあい橋を渡って進むと、アパート群があり、道が三方向に分かれている。ここでちょっと道を間違いかけたが、すぐ気がついて一番左の道を進み、そのすぐ先で左折して川沿いの道に出る。ここから暫く川に沿って進んで行き、左手に高岩橋があるところに出る。ここは橋を渡らず、少し右手に直進して川沿いを進む旧道がある。すぐ先に松浦鉄道のガードがあるのでこれの下を通って進む。
 川沿いのこの道はいかにも旧道らしい雰囲気があり、気持ちがいい。進んでいくと、この道の最後のところで岩が川にせり出すようになっているところに来る。道は川のすぐ横、岩を削って作られているので、そこを進む。
岩を削った道
ここを抜けると赤穂木橋に出るので、これを渡り、その先の県道に出て、右折して進む。
 この先で頂いた地図では少しの距離左斜めに入る道があるので注意して見ているが、よく分からない。そのうち、それらしい砂利道があったので入ってみたが、どうも違っていたみたいで、元に戻って県道を進む。
その先左手少し入ったところに「山ノ田薬師如来堂」がある。この堂に薬師如来坐像が安置されており、大檀那は源松浦隆信(1529~1599)、博多の仏師猪熊治部丞の製作という墨書の銘が胎内にあると説明されている。
山の田薬師 
ここも資料では旧道が県道から少し離れて描かれているが、道は分からなかった。
その先で大井手口橋と黒岸橋を渡って進むと右手ガードレールの向こう側に「山ノ田一里塚跡」の石碑が立っている。資料によるとこの場所は実際の一里塚から少し北側にずれているそうで、県道の拡幅工事で以前あった標柱はなくなったと書かれている。
山の田一里塚 
「山ノ田茶室跡」碑が右手に立っている。ここは井手家が平戸候のために建てたもので、藩主愛用の茶室があったところという。
山の田茶室 
その先、県道が大きく右にカーブするところに下へ下る道があり、標識が立っているので、これに従って旧道を歩いていく。二股に分かれているところがあり、左の道は森の中へ入っていくので、右手の道を直進する。ここには珍しく標識が立っていなかった。
分岐4 
左手は山になっており、右手は一段低いところに畑がある境目の細い道を歩いていく。
やがて右手の川に堰があるところに来る。ここにも標識が立っていたが、矢印の方向が分かりにくい。堰を渡らずに直進する道が森の中に伸びており、矢印もその道を示しているように見えたので、そのまま直進して森の中に入っていった。しかしどうも旧道ではないようだったので、一旦戻って堰のところまできて、堰を渡って左折して進む。
川堰 
川の流れに沿って半円を描くようにして進むが、その先で乱橋と書かれた標識があり、その先は川になっいる。川を渡るのだろうが、水量が多く、川を渡ることができない。仕方がないので、そのまま川堤を歩いていったが、川を渡れないので、一旦県道に出て、露切橋を渡り、すぐに左折する。左折すると道は二本あったが、左側の道を歩き、先ほどの川を渡るように書かれていた標識の延長線上に来て、そこから右にカーブしながら進んでいく。
道は森の中に入るがこれを抜け、突き当りを左折して右から来る道に合流して舗装された道を進む。ここにも標識が立っており、それに従って進んだつもりだったが、ここから旧道に入る道があったようだ。結局間違った道を歩いていき、やがて五叉路に出たので、そのまま直進して進むと右手坂を上ったところに「江里峠駕籠立場跡」の石碑が立っており、その横に標識が立っている。
江里峠駕籠 
それを見ると矢印で街道の道が書かれているのだが、私が歩いてきた道と違うことに気がついた。そのためそこから矢印に従って元に戻ってみると、森の中の道に出た。先ほど合流して舗装された道を歩いてきたのだが、そこで道を間違ってしまっていたようだ。どこで間違ったか、そこから戻ってみようかと思ったが、時間はもう16時近くになっている。今日は最低でも本山駅までは行きたいと思っており、というかそこまで行かないとアクセスがなく、宿を取った佐世保へたどり着かないのだ。そのため、このあたりではかなり気持ちが焦り始めていたので、道を間違ったことを分かりながらそのまま前へ進むことにした。あとで地図をよく見ると舗装された道の少し横に線が引かれていたので、そこが旧道だったのだろう。
その先で新道と旧道に道は分かれるが、旧道のほうが街道の雰囲気が残っていると聞いていたので、旧道を歩く。
 途中、道が3本に分かれているところがあり右への道は上へ上っており、左への道は下っているので、ここは真ん中の道を歩いていく。ここには標識はなかった。林の中を抜けると十字路があり、これを直進して進む。その先で北部運動公園に突き当たり、これの周囲をグルッと回るようにして進む。右手に市ノ瀬小学校跡の石碑が立っており、その横に社のようなものがあった。これが資料に記されている「大日庵」なのだろうか?
 平野橋を渡って進み、その先で右折する。ここにも標識が立っている。その先で道は二股に分かれており、地図では右斜めの山手の方へ行く道を通るようになっている。少しその道を進みかけて、丁度そこにおられた男性の方にお聞きすると、今ではその道は通れなくなっており、二股に分かれたところから左手の直進する道を進むということだった。この道はその方が小さい頃は殿様道と呼ばれていたということだったので、その道を歩いていくと204号線に合流する。
 佐々宿の本陣がこのあたりにあったようだが、分からないのでここでカウントする。

 16時39分、佐々宿を通る。
 江迎宿から3時間15分、9.8km。

合流して右へ進んでいくと川の向こう側に清峰高校が見える。今年の甲子園選抜大会で優勝した学校だ。道路の左側に「古川一里塚跡」碑が立っている。資料によると昔このあたりには三本の松があったそうで、そのうちの一本が一里塚だったと思われるが、道路拡張工事のためになくなったとされている。現在ある一里塚碑は本来の場所から少しずれているようだ。
古川一里塚 
 古川橋を渡り、松浦鉄道の野寄踏切を渡って右へ進むと「竜王城」の説明板が立っている。それによると佐々氏の居城で鎌倉期より戦国時代の城で空堀等を備えた砦式の城だった。北側、西側は要害堅固で岸壁をなし、東南側は堀を巡らしており、三方にその堀の跡が残っていると説明されている。
 佐々中学校の左横に「庚申塚(犬塚)」がある。佐々大新田の工事が寛文4年(1664)12月より松浦藩直営工事として四国その他から移住者を迎えて行われたが、汐止めは延宝3年(1675)10月、満11年を要した難工事だったため、人柱を立てようとしたが、人のかわりに39匹の犬にして龍神を鎮めた。その霊を弔うために庚申塚(犬塚)を作ったと説明されている。
犬塚
 佐々中学校を右手に見ながら歩いていき、中学校を過ぎたところ左手に標識が立っており、これを見ながら右にカーブして進んでいった。ここが間違いのポイントだった。後で分かったのだが、中学校を過ぎたところで右にカーブする手前に直進する細い道がある。これが旧道だったのだが、間違えてしまった。そのまま進んでいくと204号線にでて、それに沿って歩いてしまった。
しばらく行くと左手に「東光寺」があるので、参道を入っていった。途中で交差する道があったが、これが旧道だ。このときは分からず、そのまま東光寺に参拝した。「東光寺」は永享8年(1436)の創建、第22代平戸松浦領主松浦豊久公によって開基、土佐国から来た松蔭禅寺によって開山された。平戸26代松浦鎮信は朝鮮出兵の際、東光寺の本尊「薬師瑠璃光如来」を奉持して戦い、また朝鮮戦役や半坂合戦〈宗家松浦氏との戦い)の戦死者を供養したという。戦国動乱で一旦焼失したが、天正3年(1575)再建されたと説明されている。高い石垣がある立派なお寺だ。
東光寺
204号線にもどり、先に進むとこれも左手に「三柱神社」がある。ここは貞元2年(977)に武蔵国氷川神社三柱の分霊を古川嶽頂上に祀り三尊大明神と称した。寛文7年(1667)三柱大明神と改称、文化2年(1805)に現在地に遷座、更に明治4年に三柱神社と改称されたと説明されている。この神社の二の鳥居は佐々町で一番古い鳥居で、元禄元年(1688)に鉄道官舎の宮地に建立後、現在地に移転された。拝殿の天井絵馬八十枚は旧平戸藩士が明治10年までに作成、奉納したと説明されている。
 三柱神社 
 その先の左手に街道の標識が立っているのを見つけた。その場所に左手から道が204号に合流している。これが旧道なのだ。ここでようやく道を間違ったことに気がついた。時計を見るともう17時半だ。今日はどうしても本山駅までは行きたい。どうするか一瞬迷ったが、今日二度目の間違いだったので、ここから旧道を引き返して、正しい道を歩くことにした。歩いてみると確かに旧道らしい雰囲気がある道だ。途中で、東光寺や三柱神社への参道を横切って歩く。そして江迎中学を過ぎたところの分岐点にでた。すぐ横にここを通るとき見た標識が立っていた。標識が微妙な場所に立っていたので間違えたのだ。ここからもう一度引き返して先ほどの場所にもどり、204号線を歩いていく。
 小川があり橋が架かっている。地図を見るとこのあたりで左折するようになっているのだが、標識はない。ほとんどの分岐点に標識が立っているので、このようにたまに標識がないとつい道を間違っているのかなと思ってしまう。実際間違ったのかもしれないが、小川に沿って歩いていき、次の橋のところで左折、突き当りを右折して進む。
 左手に正福寺がある。丁度18時になっており、子供さんが山門を閉めようとしていたが、私がカメラを構えたので少し待ってくれた。ここは天正11年(1583)淨慶により開基、元禄3年(1690)に現在地に移転したとされている。
正福寺
 このお寺の前から右折して進んで204号線に出、すぐ先に左斜めに進む道があるので204号線と分かれてこの道を進むと右手に「口石一里塚跡」碑が立っている。
口石一里塚 
 その先で道は二股に分かれており、右側の道に入る。
半坂分岐 
 これから半坂峠を登るのだ。峠といってもどのような道になっているのか分からないため、とにかく暗くならないうちに峠を越えたいと思い先を急ぐ。小川に架かっている橋を渡り、左手に犬山口溜池を見ながら進んでいく。道はきれいに舗装されている。
 急な坂を登りきったところに「半坂峠駕籠立場跡」の碑が立っている。資料によると半坂は埴坂(ハネサカ)の変化したもの、埴とはネバネバした赤土のことで、昔は赤土の滑りやすい急な坂道で平戸街道の難所の坂だったということだ。
半坂駕籠
 そのすぐ先に右斜めに下る草道があり、これを下っていく。分岐するところに標識が立っているのでこれに従って進む。
 坂を下っていくと右手から2本の道が合流しているところがあり、その先で車道に合流するので、これを右折して進む。ここには標識はなかった。ここもかなりの急坂で、登りよりもはるかに急だ。これを下っていくと右手の山の中腹にピンクの建物が見える。産業廃棄物の処理場のようだった。
 やがて204号線に合流、少し左へ進み、その先から右斜めに下る道があるのでこれを歩く。ここには標識が立っている。なんとか暗くなる前に半坂峠を越えることができたようだ。少しホッとする。
 小川を渡って進むと十字路があり、直進して進むと再び小川があり、これを渡る。ここには標識が立っていた。
 その先で松浦鉄道に突き当たるのでこれを左折して進むのだが、ガードレールがあり、その向こう側に溝が流れていて、その奥に標識が立っていて、その前に小路が通っている。最初はあまり深く考えず、ガードレールのこちら側を左折して進んでいったのだが、その先で突き当たりになっていた。仕方がないので、先ほどの突き当たりの場所まで戻ると、その少し先にガードレールの切れ目があり、そこから溝を渡って向こう側に出て、ここで左折して線路に沿って歩いていくと、すぐ前に本山駅があった。このあたりは線路で旧道が失われているようだ。19時丁度に本山駅に到着する。夕暮れが迫ってきているので、今日はここまでとして、本山駅から松浦鉄道に乗って佐世保駅まで出て、ホテルに入る。

 本日の歩行時間  8時間50分。
 本日の歩数&距離 51581歩、33.9km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん