中津街道を歩く

2009年06月04日(木) ~2009年06月08日(月)
総歩数:91893歩 総距離:62.8km

2009年06月08日(月)

南行橋~中津 

                                  曇り

 8時に南行橋から出発し、羽根木の信号で28号線に合流する。行橋市竹田の信号の少し先から右へカーブする28号線と分かれて、旧道は直進するが、すぐに28号線に合流する。祓川に架かる辻垣橋を渡ってすぐ先で再び28号線と分岐して右折、行橋バイバスの高架下を通って進む。今井入口の信号の少し手前で28号線を横断して旧道は進む。
 左手に「ぎおんみち」の道標がかなり傾いて立っている。側面には「明治19年一月建立 願主 築城郡湊村蛭崎壮太郎」とl刻まれている。
ぎおんみち 
 ここから街道を離れて左折して進むと、右手に「勝手神社」がある。ここは天慶元年(938)覗城主の高橋太郎種忠が創建しており、明治12年の社寺宝物古文書調べには「当社元禄3年(1690)の棟札あり」と書かれていると資料に掲載されている。
勝手神社
 その先で二股に分かれているところを右折して進むと、右手に仲津小学校があり、その前を通って進む。道の両側に石堂池が広がっており、その真ん中を道が通っている。
 行橋市稲童の信号で10号線に合流する。このあたりまで来ると飛行機の爆音が響いてくる。近くに航空自衛隊築城基地があるのだ。
 亀田池があり、そのすぐ先で10号線を離れて左斜めへ進むが、再び10号線に合流、更にその先で今度は右斜めへ10号線から分岐、音無橋の信号で再び10号線に合流と何度も10号線と分岐、合流を繰り返す。音無橋を渡ると左手は築城基地だ。スクランブル発進なのか訓練なのか分からないが、戦闘機が何機も飛んでいる。
 基地が終わってもうっかりそのまま歩いていっていたが、途中で気がついて引き返し、基地が終わったところから左折して基地の塀沿いに歩いていき、最初の角を右折して進む。
 築城自衛隊前の信号で10号線を横断、210号線を進むと築城踏切があるのでこれでJRの線路を越えて進み、突き当たりを左折、左手に築城駅を見ながら直進すると右手に池があるので、ここから街道を離れて右折し、「法然寺」へ行ってみる。ここは天仁元年(1108)西願法師の開基で当時は天台宗台蔵寺と称した。永正年間(1504~1520)に僧行信が入山し、荒廃した寺院を再興、浄土宗法然寺と改めた。行信は晩年、即身成仏の願により地下に土倉を作り、入定に入った。七日七夜土倉から鐘の音と読経が聞こえたが、12月5日、遂に声と音の双方とも消えた。門徒たちは嘆き悲しみ、行信を土葬にし、その上に松を植えた。この松を「行信松」と呼び、大木となったが枯死してしまった。この寺には天正15年(1587)豊臣秀吉から豊前国六郡を与えられた黒田孝高(如水)が暫く滞在したと説明されている。
法然寺 
 街道に戻り、その先の突き当りを右折、すぐ先の二股に分かれているところを左へ進む。それにしても飛行機の爆音がすごい。このあたりの住宅には全て防音装置が取り付けられているということだ。
 城井川に架かる二口橋を渡るが、資料ではここから左折して旧道があったが、今では失われているように記されている。
 橋を渡って左手をみると、あぜ道が線路に併行してあるようなので、田んぼのあぜ道を通ってその道に合流する。
あぜ道 
 このあぜ道はすぐに車道に合流するので、その先で左折する。踏切の手前右側に道標が立っており、「従是東中津道」「従是北小倉道」と刻まれている。
道標1  
 高塚踏切を渡って進み、高塚の信号で10号線を横断、その先の突き当たりを右折、岩丸川に架かる西之橋を渡る。10号線の手前で左折して進むが、このあたりに延塚記念館があるように資料ではなっており、丁度派出所があったので聞いてみたが分からなかった。
 旧道に戻って進んでいると、右手に築上町立歴史民族資料館があり、その前に「延塚筋奉行の銅像」が立っていた。ここに移転したようだ。ただ、資料館は休館日で中を見ることはできなかった。
延塚筋奉行の銅像
 小倉藩士延塚卯右衛門敷充は天保3年(1832)に築城郡筋奉行になったが、翌4年(1833)天保の飢饉が発生、この地でも大凶作になった。庄屋をはじめとした村人はこのあたり全郡を統轄する郡代に年貢米の軽減を願い出たが、聞き入られなかった。窮状を見かねた卯右衛門は郡代などの上司に無断で五十五貫目を免足(十年無利子返済)にし、この地で遺書を残して切腹した。延塚家は一時期家禄断絶となったが、やがて再興した。卯右衛門の顕彰碑は大正13年綱敷天満宮境内に建立されたという。
 10号線を横断、その先街道から右手へ少し入ったところに「西福寺」があり、その前に道標が立っていて「従是松江迄壱里八町」「従是川田迄四里半」「従是山鹿迄三里三拾壱町」と刻まれている。
西福寺 
 真如寺川に架かる椎田橋を渡って左折して進むが、ここは私の母の実家があるところで、私が五歳の時、母は病で倒れた父の看病にかかりきりだったため、一時期この家に預けられていて、祖父母や叔父夫妻にかわいがられたことを覚えている。その家の前を通っているこの道が中津街道だったとは今回調査するまで全く知らなかった。先ほどの西福寺の境内でもよく遊んだことを覚えている。長崎街道が我が家のすぐ近くを通っていたことも知らなかったし、こうして街道を歩き始めてみると思わぬ発見がある。これはこれで楽しいものだ。
 10号線を再び横断して進み、突き当りを右折して進むと、右手に「金富神社」がある。ここは聖武天皇の神亀元年(724)豊前守男人藤井連毛が天皇の勅を奉じて宇佐の小倉山に神殿造営の命を受けた。このとき神託によって築城郡の金富の岡に神幸されることになり、三間の仮殿を造った。そのことがあってから宇佐の大神首人が来てこの地に社殿を建立し八幡を勧請したのが創祀という。当初は矢幡八幡と呼ばれ、次いで湊八幡、絹富八幡と変わり、江戸時代になって金富八幡、更に今日は金富神社と呼ばれていると説明されている。境内に「虫切塚旧跡」の看板が立っている。それによると寛政年間(1797)このあたりの稲作が虫害によって大きな被害を受けたので豊前六郡の神々を奉斎し、虫害駆除の祈祷をしたので、この地を虫切塚と称していると説明されている。
金富神社 
 この少し先に老人の施設があり、母の実家でお世話になった叔母さんが入所しているので訪問した。今年93歳になるのだが、まだお元気で私が訪問するととても喜んでくれる。いつまでもお元気でいて欲しいと願う。
 ここから先は旧道が失われているので、とりあえず10号線に合流して進む。
 10号線が左へカーブする少し手前で左斜めへ進む旧道が残っているのでこれを進み、その先で10号線と石堂踏切でJRの線路を横断し、石堂川に架かる石堂橋を渡って進む。
 右手に「海神社」がある。階段を上って行くと堂山の山頂に神社がある。福間地区は近世の頃まで海側は入り江で「福間ヶ江」と呼ばれており、天明7年(1787)福間ヶ江の神池海岸に毎夜霊光があるのを福間の世話役が見て、「豊玉姫神の神霊なり」と堂山に神社を建立したという。
海神社 
 左手に「一之盛武八墓」がある。天保2年(1831)に生まれた武八は江戸時代末期に京築地方から宇佐地方にかけ、宮相撲の有名力士で四股名を「一之盛」といった。二十歳のころ、相撲名所の宇佐八幡相撲で横綱級の力士を負かせ、その名を鳴り響かせたという。この碑は明治16年に建立されたという。
一之盛武八墓 
 上ノ河内川に架かる瀧ノ本橋を渡り、森口踏切でJRの線路を横断し、滝ノ本信号で10号線を横断して進む。
 角田川に架かる角田橋を渡って進むが、左手には海が広がっている。
 左手に「七社神社」がある。七社とあるからにはこのあたりの七つの神社が合祀されたのかなと思ったが、由来を書いたものがなかったのでわからなかった。宝暦5年(1755)と刻まれた鳥居が立っている。
七社神社 
 右手に「淨圓寺」があり、その境内に「真田増丸」の像が立っている。真田増丸は明治10年に淨圓寺に生まれ、大正3年に「心の貧しさをいかに仏教で救うことができるか、屍の供養よりも、目の前の民衆の供養を」という仏教救世軍を興した。清貧に安んじ、無一物中無尽蔵と信じて念仏を唱えれば極楽往生疑いなしと専修念仏、感謝奉仕の一生を送った人物である。
真田増丸 
 構内踏切でJRの線路を横断し、左手に豊前松江駅がある先から道は二股に分かれているので、右手の道を直進、坂を上り、その先で坂を下ったところで10号線を横断する。
 右手民家の庭に郡境碑が立っており、「従是東上毛郡」「従是西築上郡」と刻まれている。
郡境碑 
 迫川に架かる迫川橋を渡り、10号線を横断して進むと、右手に「道の駅豊前おこしかけ」があるが、このあたりの台地は古代神功皇后が豊前路を巡幸した際、ここで休憩したという伝説が残っており、今もこの地は「お腰掛け」と呼ばれているので、そこから道の駅の名前を取ったのだろう。
 その先で右へ分岐する道があり、これが「上往還」「勅使街道」と呼ばれる山側の道で、勅使が宇佐八幡に参拝した道である。 私が今回歩いた道は中津城下へ至る道で「下往還」と呼ばれている。
 113号線に合流し、最初の十字路の次を右斜めへ進み、更にその先の二股に分かれているところを右斜めへ進む。
 右手階段の上に「菅原神社」があり、その横に「宝福寺」がある。ここは今から三百数十年前に黄檗宗として建立され、その後菅原道真を祀った菅原神社が開かれたという。ここの境内に上が欠けた道標が立っており、「求菩提道」「中津道」「小倉道」と刻まれた部分が残っている。かっては八屋本町の四辻に建っていたが、昭和30年代初めに道路工事で倒されたため、寺の住職が保存したと資料に書かれている。
欠けた道標 
 城根川に架かる前川橋を渡り、八屋小学校を左に見ながら進み、宇島駅前の信号で113号線に合流、豊前市中央区の信号から右斜めへ分岐する。経済川に架かる昭和橋を渡り、豊前市赤熊の信号で113号線を横断、港踏切でJRの線路を渡る。最初の角を右折、すぐに左折、突き当りを右折して進む。
 左手に「教円寺」がある。ここは文久3年(1863)に宇島港を基地として財をなした萬屋の主人小今井潤治が建立したお寺で、鐘楼は二層三階建てで、高さは13mもある。当時は見張り台の役割も果たしていたと考えられると資料に書かれている。
教円寺」  
岩岳川に架かる岩岳橋を渡って進むと左手に「沓川神社」がある。神楽が各所に伝統芸能として残っている京築で三毛門神楽の元になった沓川神楽が行われていた神社で、この神社の大宮司の高橋氏が神楽を伝え、明治時代に沓川神楽と三毛門神楽が一緒になったといわれている。ただ火災で資料が全く残っていないため詳細は不明ということだ。
沓川神社 
 御界川に架かる御界橋を渡る。この川が中津藩と小倉藩の境界で、中津領、小倉領の藩界を示す木標がこの川を挟んで立っていた。これが界木という地名にもなっている。木標は後に石標に替わり、中津領の石標は直江の八坂神社境内に保存されており、小倉領の石標はこの少し先にある福田氏宅に残っていると説明されている。
御界橋 
 この橋から数軒先の右手にその福田家があり、庭に「従是西小倉領」と刻まれた石標が立っていた。
福田家道標 
 ほぼ直線に近い旧道を歩いていくと、山国川に突き当たるが、そこが「小犬丸渡しの跡」だ。ここには寛保2年(1742)橋が架けられたが二年後の洪水で橋は流失してしまった。寛政元年(1789)の古文書によると自前の渡し舟五隻が稼動しており、嘉永年間(1847~1853)の頃には小犬丸村の治助が漕ぎ手を雇い、渡し賃一人三文を取って船渡しをしたので、「小犬丸の三文渡し」と呼ばれていた。当時中津城下への出入りは規制が厳しく、この渡しを利用できたのは幕府役人や大名、そして通行手形のある人だけだったと説明されている。
小犬丸渡しの跡 
 この渡し場跡のすぐ横、川土手の下に「宇賀貴船神社」が立っている。
 天正15年(1587)約四百年間この地方を支配してきた宇都宮鎮房は豊臣秀吉によって豊前六郡の領主を任命された黒田孝高に従わなかったが、孝高の長男黒田長政が宇都宮の鶴姫を迎えるということで和議を結んだ。翌天正16年(1588)長政は中津城を築城、天正17年(1589)中津城に宇都宮鎮房を迎えて酒宴の席でこれを謀殺、家来や鶴姫も磔の刑で殺してしまった。
 それから百三十年後の元禄15年(1702)鶴姫の塚から長さ五尺もある両足のある蛇が這い出したので、木村文兵衛に鉄砲でこれを殺させ、塩付けにして江戸に送った。ところが文兵衛は五日後に血を吐いて死んでしまった。江戸では藩主小笠原長円公はこれを見て狂気になり、「我は城井の娘なり、咎なき身の殺されて、今に思いの晴れがたく、長く恨みを成すぞかし、父鎮房も討死の諸家中も皆、怨念の積もり来て城主に恨み申すなり」とうわ言をいうので家臣は恐れ驚き、蛇の箱を中津へ送り返してしまった。中津では小社を建て、宇賀神として祀り、毎月祭祀を行ったので長円公の病は回復したと説明されている。ここは入口が分かりにくくてグルッと周囲を一回りしてしまった。
宇賀貴船神社 
 また、中津藩主奥平昌高公の治世、文化9年(1812)中津領内で毎年の重税に苦しむ農民が二万人規模の大一揆を起こして城下に迫った。昌高公はこれを昔殺された宇都宮の娘、鶴姫の怨霊の祟りと恐れ、鶴姫が処刑された千本松原に追善供養塔を建立した。これが「醍醐経一字一石塔」である。近年石塔の風化が進んだので、平成20年に宇賀神石祠の傍らに御堂を建立したと説明されている。 
醍醐経一字一石塔 
 山国川に架かる山国橋を渡ると、小犬丸の渡しの延長線上に小倉口渡し場跡の案内板が立っている。
 その先で右折、更に左折して進むと中津城の西門に着く。
中津城 
 ここから中津城内に入っていき、15時55分城内に到着する。

 本日の歩行時間  7時間55分。
 本日の歩数&距離 45576歩、31.7km。

 今回は「豊前の街道をゆく会」著の「小倉と中津を結ぶ豊前の道 中津街道」を参考にして歩いたが、この資料を読んでいると、「編集と執筆に携わったメンバー」の中に私のいとこの名前が掲載されていることに気がついた。そういえば郷土史を研究されていたことを思い出す。今は故人になってしまったが、とても懐かしく思い出してしまった。

 中津街道総合計
 総歩行時間 15時間43分。
 総歩数    91893歩。
 総歩行距離 62.8km。
 宿場間距離 53.6km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん