日田往還(朝倉街道)を歩く

2009年12月11日(金) ~2009年12月12日(土)
総歩数:72149歩 総距離:50.4km

2009年12月12日(土)

甘木~杷木~夜明~日田

                   曇一時雨

 7時52分に比良松中学校前のバス停に着き、歩き始める。    
 右手に岩に文字が深く掘りこまれた道祖神が立っている。
文字が深く 

 左手に「恵比須神社」がある。
恵比須神社 
 右手に「淨福寺」を見ながら進むが、このあたりの町並みには昔を偲ばせる雰囲気が残っている場所だ。
昔を偲ばせる雰囲気 
 左手に「厳島神社」がある。斉明天皇6年(660)朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に破れ、日本朝廷に救援を求めてきたので、翌7年(661)天皇は御西下し、筑紫の国「朝鮮橘広庭宮」に入られ、遠征の準備を進められた。天皇が遠征軍の海上安穏と武運長久の祈願のため中大兄皇子(後の天智天皇)に命じ、創建されたのがこの厳島神社であると説明されている。境内には弘化2年(1845)の常夜燈が立っていた。
厳島神社 
 大分自動車道の高架下を通り、すぐ先で左斜めへ進む道があるので、これを進む。
 古毛の信号で386号線に合流するところに明治37年と刻まれた板碑が立っていた。
板碑が立っていた 
 その先、菱野の信号から街道を外れて、「三連水車」を見に行く。寛文3年(1663)旱魃による飢饉が契機となって、筑後川から取水する人工の堀川用水が完成、更に享保7年(1722)岩盤を切り貫いて現在の取り入れ口を新設した。しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかったので、自動回転式の水車が考案されたという。三連水車は寛政元年(1789)にもともと二連式であったものに一挺加えることにより現在の形態になったという。
三連水車 
  三島、久重の二連水車は宝暦のころに設置されたという。日本では水田を潤す唯一つの揚水車として毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、灌漑面積は3基で35ヘクタールにも及ぶということだ。
三島
 三連水車から堀川沿いに歩いていくと、三島、久重の二連水車が間を置いて存在している。
久重 
 久重の水車の先に「史跡 嘆きの森」がある。斉明天皇が橘広庭宮に滞在僅か75日で亡くなられたため、この悲報をお聞きになった中大兄皇子はこの地で非常にお悲しみになられたと言い伝えられている。この地は寛保2年(1742)刊「小夜の中山」の中の朝倉29景の一つに選ばれていると説明されている。
史跡 嘆きの森 
 街道に戻り、菱野の信号から386号線と分かれて左斜めへ伸びる旧道を進む。
 通堂川に架かる通堂橋を渡って進む。橋の袂に石祠と石碑が立っている。
通堂橋 
 その先、街道から外れて右折していくと「隠家森」がある。巨木が立っており、祠が祀られている。昔ここには関所があったそうで恵蘇八幡宮のお神輿が出るときは、ここへお下りになるということだ。
隠家森 
 街道に戻って進むと、左手に「恵蘇八幡宮」がある。ここは斉明天皇が7年(661)百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られた。このとき随行の中大兄皇子は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮に奉幣使を遣わされた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇、天智天皇を合祀し、この頃に社名を恵蘇八幡宮に定めたという。この場所はまた天智天皇が母である斉明天皇を弔うために、喪に服したところともいわれている。現在の本殿は安永元年(1772)の改築と説明されている。
恵蘇八幡宮 
 道路をはさんだ先、右手に「水神社」がある。ここは筑後川から山田大堰による堀川への水取口水路の上に祀られており、境内には枝張り東西南北それぞれに16.7mという県指定天然記念物の大樟が立っている。
水神社 
 水神社の下に「山田井堰」がある。これは大石堰、恵利堰と並ぶ筑後川三大堰のひとつで、「傾斜堰床式石張堰」といい、日本では他にない石張り堰である。寛文3年(1663)筑後川に石堰を築き、樋をかけ、堀川を作って、筑後川の水を引いて150haの開田を行い、更に寛政2年(1790)大庄屋古賀百工が藩命によって、筑後川に巨石を投じ、石畳の堰を作ったという。堰総面積は25370㎡に及ぶ堰で現在663haの水田を灌漑しているという。ここは何度も洪水で崩壊と復旧を繰り返したが、平成10年に原型復旧し、往年の姿を保存することができたと説明されている。
山田井堰 
 大分自動車道の高架下を二回通り、二回目の高架下から右斜めへ旧道が伸びているのでこれを進む。
 左手に「志波宝満宮」がある。ここは境内社業全体が県の天然記念物に指定されており、境内に古墳があって、人骨とともに家形葉庭等貴重な埋蔵品が出ているということだ。
 ここの参道石段の左側に楠の巨木がある。
「志波宝満宮」 
 これは二本の木が中途で一緒になって一本の木を形成しており「連理の楠」と呼ばれているが、昔は石段の左右にあって雄楠、雌楠の神木であったという。戦国時代、豊後の大友氏が筑前、筑後の国を襲ったとき、この宝満宮も焼き払われたが、当時の神主がこの大楠の根元に御神体を隠してこれを守ったという。この時の火災の痛手からか根元が空洞になっている。またその根元には白蛇が棲み、神木を守っていると説明されている。
志波宝満宮  
 筑後川に沿って歩く。この川は利根川、吉野川とともに日本三大暴れ川の一つといわれ、別名筑紫次郎とも呼ばれているが、このあたりでは平野部ということもあって、静かな流れになっている。特につい先日、急峻な崖の間を流れる球磨川を見てきたからか、長閑な流れに見えてしまう。
筑後川 
 原鶴温泉へ向かう道が右手に分岐しており、その先から左斜めへ伸びる旧道を歩く。
 そのすぐ先に「大膳楠」と呼ばれる二本の大楠が立っている。円清寺本尊鴛鴦観音の主人公三原弾正貞吉が鴛鴦を射たのもこのあたりといわれ、更に黒田藩の忠臣栗山大膳が大亀を射殺したのもこの楠のところといわれている。当時の楠は延宝7年(1679)に焼失、その根元から生じたのが現在の楠と説明されている。
大膳楠 
 二股に分かれている場所があり、これを右側の道を進むと山際の道になる。
 街道から左へ入ったところに「一本木の地蔵尊」がある。安永年間(1772~1781)に天災地変、悪疫の流行に苦しめられた里人がこの地に地蔵尊を勧請したのが始まりといわれており、また、天正9年(1582)に秋月種実と大友宗麟が原鶴温泉の付近で戦った「志波の瀬の戦い」の戦死者の遺体を集めて葬った千人塚ともいわれているということだ。
一本木の地蔵尊 
 左手に「愛宕神社」がある。これは京都の愛宕神社から勧請されたと思われるそうだが、詳細は不明ということだ。天明2年(1782)に再興され火防の神様として祭られていると説明されている。
愛宕神社 
 左手に「西宗寺」がある。ここは万治3年(1660)に浄土真宗本願寺派の筑前総道場として開設され、寛文3年(1663)現在地に移った。明治4年に落雷で本堂、庫裡が焼失、17世現燈は感電死されたということだ。その後明治35年に再建され現在に至っているということだ。
西宗寺 
 横に「長念寺」、道をはさんだ前に「建立寺」が立っている。いずれも浄土真宗本願寺派となっている。
 その先、左手に「須賀神社」がある。ここは京都の八坂神社から勧請されたと思われるが、詳細は不明とのこと。元禄8年(1695)に初めて山笠が作られ、毎年地元の方々によって輪番で祭られていると説明されている。
左手に「須賀神社」 
 浜川の信号で386号線を横断し、左へカーブする386号線と分かれて直進する。
 右手に「息引神」がある。この場所は杷木大明神の古宮で、現在は息引の神を祀っており、昔から御神木である藤つるを引いて祈れば、喘息が治るとの言い伝えがあるという。左の石段は旧幕時代、筑後地方への渡舟場道で、川端には仙崖和尚の一字一石塔がある。
息引神 
 街道から少しはずれた左側に「杷木神社」がある。第26代継体天皇の御代、筑紫の豪族磐井が反乱を起こしたため、これを討伐しようとしたが、苦戦していた。そのとき、この神社の前に幣帛を捧げ、祈願すると一気に平定することができたといわれている。日本の神は10月に出雲大社に神集いがあっていくが、杷木神社の祭神はそれには参加せず、一年中氏子の安全と豊作を守って働き続けているので年二回はゆっくりと休まれることになっている。これが鎮祭といわれる行事で春秋の年二回行われるが、この間は大きな声を出すことはもちろん、歌舞音曲を停止し、下肥等のにおいをさせず、生の木や竹を切ることも禁じられているということだ。
杷木神社 
 街道に戻って進み、白木谷橋を渡って進むと386号線に合流する。赤谷川に架かる頼母橋を渡って進むと「杷木神籠石」がある。
 これは1967年に工事中偶然発見されたもので、神籠石の郭内には2箇所の水門や一部版築工法を使用した土塁線、総延長2250mの列石線の存在が確認されたということだ。
杷木神籠石 
 階段を上ったところに「阿蘇神社」がある。ここは元禄4年(1692)穂坂の産神として肥後熊本の阿蘇大明神を勧請したもので、3月28日にある例祭は「泥打祭」と呼ばれて福岡県の無形文化財に指定されている。この祭りはおみくじでその年の代宮司を決め、純白の神衣に着替えた代宮司が泥で作った「神の座」につくと、氏子12名(小学校高学年)が一斉に泥を代宮司の身体に塗りつける。大盃で酒を飲み、酔いのまわった代宮司は牡獅子、牝獅子の先導のもとに約500m離れた村はずれの道祖神までの御神幸が始まる。この間3~4m毎に用意してある泥土をとって12名の子供達が代宮司めがけて投げつける。代宮司の身体に泥が多くつくほど、その年は豊作であるといわれている。
阿蘇神社 
 その先左手に国境石が立っている。それには「大分縣日田郡夜明村字関」「福岡縣朝倉郡杷木村大字穂坂」と刻まれている。
国境石 
 その横にある堺谷川に架かる堺谷橋を渡る。ここから大分県に入る。
 新櫛崎トンネルを抜けると右手に夜明ダムがある。ここは福岡県と大分県に跨っている昭和27年から2年間で完成したダムで、発電専用のダムだ。昭和28年西日本集中豪雨によって建設中だったこのダムが決壊したという。ここからしばらくダムに沿って歩くが、ここで霧雨が降ってきた。
夜明ダム 
 杷木山バス停のところからガード下を通ってJRを越え、右折して進むが、ここから山道を進んでいく。果樹園が広がっており、左上に大分自動車道が通っている。
 途中で道が二股に分かれている場所があるが、ここは左側の道を進んでいく。
途中で道が 
 大分自動車道に併行して歩いていくと、右折する道があるので、これを下っていく。ここもきれいに舗装された道だ。
 211号線に合流し、これを左折して進み、大分自動車道の下を通って進むが、左手に地蔵堂と寛政11年(1799)と刻まれた石碑が立っているところから右折する道があり、これを進んで大肥川に架かる茶屋ノ瀬橋を渡る。
左手に地蔵堂と寛政11年 
 その先で「小月橋」を渡る。この橋は嘉永2年(1849)に豆田の手島氏が施主となり、肥後の石工岩永大蔵によって造られたものだ。
小月橋 
 JRのガード下を通り、その先で右折して大分自動車道の下を抜け、左折して坂道を上る。山の中の道だが、きれいに舗装されていて歩きやすい。このあたりで雨が止む。約1時間ほどで止んだので助かった。
 左手に「萩尾稲荷神社」がある。九州三大稲荷という看板が立っていたので、行って見たが、詳しい由来は書かれていなかった。
萩尾稲荷神社 
 ここで左折する道があるが、直進する。
 坂を下っていくと、右手に日田中央木材市場があり、数多くの木材が並べられていた。日田は杉の産地で有名なところだ。
日田中央木材市場 
 坂を下り終わったところに二串川が流れており、これに架かる大内田橋を渡って進むと、JRの線路に突き当たるので、左折して進む。
 左手に「片山磨崖仏」がある。 これは「バク」と読み、釈迦如来を現した梵字で市内最大のものという。願主の沙弥圓阿は誰であるか不明だが、康永元年(1342)後醍醐天皇の勅願寺である岳秋禅寺が日田郡司大蔵永貞によって完成されているので、康永3年(1344)に岳林禅寺の霊域の両端に大蔵永貞かそのゆかりの者が願主となって造られたものと推定されているということだ。
片山磨崖仏 
 「永昌禅寺」が左手にある。ここは後醍醐天皇の頃の元弘元年(1331)元の高僧明極楚俊によって開山された九州唯一の勅願の霊場で、境内の墓地には日田代官の一部の墓や方広寺の鐘の銘(国家安康)を撰して豊臣、徳川両家の紛議をかもした文栄清韓和尚の墓もあると書かれている。大坂の陣の遠因となったといわれるあの和尚の隠墓がこんなところにあったのかと思った。後で調べてみると本来の墓は東福寺の塔頭の天得院にあるようだ。この地とどのような関係があったのだろう。
太平興国 ここの総門は安永元年(1772)宇佐八幡の門を模して建造された欅造りで、上掲の「太平興国」の大額は潘世恩の筆によるもので、後醍醐天皇よりご下命の国家安寧祈願のための額と説明されている。
永昌禅寺 
 境内には足利尊氏より寄進されたという「六面地蔵」が立っていた。
六面地蔵 
 吹上町の信号で212号線を横断、渡里川に架かる吹上橋を渡って進み、花月川に沿って進む。
 右手に御幸橋があるところから左折して進むと、「永山布教所」跡に着く。ここが日田代官所の跡だ。
永山布教所 
 15時7分に到着する。

 思えば今年は九州内の街道を歩こうと思い、日田のこの場所から2月6日にスタートしたのが始まりだった。そして今、この地で一年間の歩きを終えることになる。最初と最後が同じ場所だったというのも、なにかの因縁なのだろう。
 最近は山の中の道なき道を歩くことが多かったことに比べると、朝倉街道は道は分かりやすく、アップダウンも少ない街道で歩きやすい街道だった。

 本日の歩行時間   7時間15分。
 本日の歩数&距離  43280歩、30.5km。

 朝倉街道総合計
 総歩行時間  12時間。
 総歩数    72149歩。
 総歩行距離  50.4km。
 朝倉街道純距離 41.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん