赤間関街道(中道筋)を歩く

2010年03月22日(月) ~2010年03月26日(金)
総歩数:85173歩 総距離:61.7km

2010年03月22日(月)

明木~雲雀峠~絵堂~秋吉町~美祢

                     晴れ

 江戸時代、城下としての萩と最大の海関町であった赤間関(下関)とを結ぶ赤間関街道は中道筋、北道筋、北浦道筋の三ルートがあったが、そのうち中道筋は両地点を結ぶ最短距離の街道であったため、萩藩通行路として政治向きの用途ばかりでなく、対外関係における外交や緊張時の異国船出没警護に対処するための機能も持っていた。
中道筋は萩唐樋札場から明木までは萩往還と重なり、一方吉田から赤間関(下関)間は山陽道と重なっており、山陽道と萩往還は既に歩いたため、今回は明木から吉田までの中道筋を歩くことにした。
 9時13分に明木から出発する。 萩往還から右折、明木小学校の横を左へ周囲を回るようにして進み、小学校の先の突き当たりを左折して進む。
明木から
今日は天気もよく、このあたりは長閑な田園風景が広がっている。
 262号線に合流し、その先の角力場の信号から右斜めに伸びる32号線を進む。沿道にある桜がもう咲き始めている。今年の桜の開花は例年よりかなり早いようだ。
桜
 小野山川に架かる角力橋を渡って進むと左手に明木中学がある。32号線は車が多いが歩道があるので歩きやすい。
 明木川に架かる横瀬橋を渡り、その先の山下橋の手前から右斜めへ伸びる旧道に入る。ここの入り口に「赤間関街道」の道標が立っている。
赤間関街道」の道標
 ここから山道へ入っていくが、最初の頃は土道ではあるが、歩きやすい道だった。途中で二股に分かれているところがあり、一方は右へ上るようになっているが、もう一方はこれまで歩いてきた道を直進するようになっているので、何も考えずそのまま直進した。ところが次第に倒木などがあって道が荒れてきた。道がなくなるそれでも前へ進んでいったが、やがてがけ崩れがあったりして、全く道がなくなってきた。これはおかしいぞと思いながらそれでも先へ進んでいった。すぐ左手はかなり深い谷になっていて、道はそれに沿っているし、その向こうには32号線がみえるので、進んでいる方向に間違いはないのだが、とにかく進むのが大変だ。しかし方向は間違っていないし、折角ここまできたのだから、もう少し頑張ってみようと思って遮二無二藪を掻き分け、掻き分け進んでいった。荊が身体に絡み付いてきて痛い。がけ崩れはその先にも何カ所かあって、谷川スレスレまで土砂が積み重なっている。谷川は急な崖になっており、しかもかなり深いので落ちないように気をつけながらなんとか歩いていくと、ようやく32号線に沿ったところまで来た。この間、約40分間藪の中をもがいていたことになる。ところが資料には32号線に合流したところに家があるようになっているが、それがない。道を間違えた道を間違えたかなと思いながら進んでいくと、少し先に家が一軒立っており、その前の道路に先ほど入り口で見かけたのと同じ「赤間関街道」の道標が立っていた。その先の山のほうを見てみると道がある。この道が旧道なのか、どこで間違ったのだろうと思っていると、丁度この家の方がおられたのでお聞きしてみた。そうすると、家の裏を通っている道が中道筋だといわれる。私が通ってきた道を説明すると、その道は一番古い昔の道で、使われなくなって随分なるということだ。荊を引っ掛けてあちこちから血を流している私を見て、大変だったろうね、ご苦労さんといわれてしまった。途中にあった二股の右に上る道が中道筋だと教えていただいたが、それでも全く見当違いの道を歩いたわけではなかったので、よしとしようと気を取り直して先へ進む。
 右手にお地蔵様があり、「當村念佛講中」と刻まれており、明和3年(1766)に建立されたようだ。このお地蔵様の顔も白く塗られている。
當村念佛講中
 その先に雲雀峠、標高246mの標識が立っており、その下に「美祢郡赤郷村」「阿武郡明木村」と刻まれた郡塚が立っている。ここから美祢市に入ることになる。
美祢郡赤郷村

すぐ先で旧道は32号線と分岐して右斜めへ進む。左手に「小野の地蔵・弘法大師像」がコンクリート製の祠の中にあり、その横に小野の庚申塔が立っていて、「庚申」と刻まれていた。
小野の地蔵・弘法大師像 
 右手、大田川の横に台座に享保19年(1734)と刻まれた「一ツ橋地蔵」とその横に「猿田彦」が立っている。
一ツ橋地蔵 
 その先、右手に「寛永通宝 銭屋鋳銭所跡」がある。ここは萩藩銭座跡で寛永14年(1637)~17年に稼動したというが、今では看板が立っているだけで遺構は何も残っていなかった。このあたりから左手に入る旧道があるようだったが、入り口が分からず、また萩の山中さんから無理はしないほうがいいというアドバイスをいただいていた場所なので、32号線を進む。
 その先で左折する道があり、これを進む。
 その先で右へ下る土道があり、これを進んでいく。
右へ下る土道 
 橋を渡り、山際を進んでいく。鶯の鳴き声が盛んに聞こえる。気持のいい道だ。
 町頭橋があり、ここから右折して絵堂の町へ入っていくのだが、ここで昼食にする。今日もいつものようにパンだ。
 絵堂には大田・絵堂戦役で俗論党の本陣となった柳井氏宅があるはずだと思って道に立っておられた方に聞いてみると、道路の拡張工事に引っかかって立ち退いており、今はその跡に酒屋さんが新しく家を建てていた。ただ、門だけがその先に保存されているということだった。
 元治元年(1864)の第一次長州征伐以来、長州藩は保守派(俗論党)が藩の要職につき、進歩派(正義党)の人々は処刑されるか難を逃れるために身を潜めていた。しかしこの年の12月、高杉晋作は下関功山寺で挙兵、山県狂介(有朋)等諸隊もこれに呼応して萩政府軍と対峙することになった。翌慶応元年(1865)諸隊は伊佐から秋吉台を通り、赤間関街道を進軍、この地にあった俗論党本陣〈柳井氏宅)を奇襲した。
 萩政府軍〈俗論党)は敗れて明木へ敗退し、諸隊はここ絵堂の地が攻守共に不利なので大田に転陣したという。これが大田・絵堂の戦役で右手に「絵堂戦跡記念碑」が立っており、絵堂戦跡記念碑そのすぐ横に移転した柳井氏宅の欅一枚板の門が立っていて門柱や板に弾痕が今も残っている。欅一枚板の門 
 そのすぐ前、道路を挟んだ反対側に「白山神社」がある。ここには宝暦9年(1759)と刻まれた鳥居や安政6年(1859)と刻まれた石灯籠が立っていた。
白山神社 
 暫く241号線を進んでいくと、大掛かりな道路工事が行われていた。その横に右手に入る旧道があり、その入り口に「全国歴史の道百選 赤間関街道 秋吉台へ」と書かれた標識が立っていた。傘をさしたまだ新しい三界万霊が横にある。
全国歴史の道百選 
 またここには「下ノ垰」の道標があり、それには「右 せき 左 大田 道」と刻まれていた。ここが下関方面(赤間関街道)と大田方面(堪場道)の分岐点にあたるところで、大田・絵堂の戦いの激戦地になった道であり、昭和2年までは小郡~萩間の主要道だったということだ。
下ノ垰 
 ここから山の中の道へ入っていく。最初の頃は比較的きれいな道だったが、次第に笹薮の中に入っていく。ただありがたいことに笹が刈られているので歩くことが出来るが、刈られていなければ、藪コギしなければいけないような道だ。
笹薮の中
 途中できれいな道と交差するが、ここは直進する。このあたりも萩の山中さんから詳細に教えていただいたので分かりやすかった。
できれいな道と交差 
 その先は孟宗竹の林になっており、そこは下草がないので歩きやすい。
 その先で急に視界が開けて右手にちょっとした広場になった場所があるが、そちらのほうへは行かず、これまで来た道の延長線上を進むと、右手に古い小屋がある。
古い小屋 
 ここは竹が繁っていて歩き難い。竹を掻き分けながら進むと、やがて右手に二軒の家があり、十字路の道がある。右手に二軒の家ここから前方へ土道が伸びているので、これを進んでみたが、途中で完全に道はなくなっていて道がちがうようなので引き返し、先ほどの道を家を右に見ながら左折し、すぐ先の突き当たりを右折して舗装道を進む。
 その先で道は二股に分かれているので、ここは右側を進む。左手に大理石の工場がある。
道は二股 
 左手に地蔵尊を祀った小祠があり、その先右手に大きな養鶏場がある。
左手に地蔵尊 
 このあたりは秋吉台の雰囲気がよく出ている景色が広がっており、牛の放牧も行われている。
秋吉台の雰囲気 
 その先で道は二股に分かれており、ここに「大田 4.3km 長者ケ森 1.3km」の標識が立っており、これを左へ進む。
大田 4.3km 長者ケ森 
 牧草地が途切れたところの少し先に右斜めへ分岐する旧道があるので、これを進む。入り口に標識が立っている。字が消えいているが進む方向はわかるので、これに従って土道を進む。
 牧草地が途切れたところの 
 この先も分岐する場所がいくつかあったが、この標識が随所に立っており、それに従って進む。
 ところが途中で道が二股に分かれているところがあり、ここには標識が立っていなかった。
途中で道が二股 
 さて、どちらにするか迷ったが、左側の道へ進んでいった。少し行くと石畳と街道松の説明板が立っていて、道を間違っていないことを確認できてホッとする。
 説明板によると、ここは大久保台と呼ばれており、この付近には石畳が敷かれ、今も名残りがある。また萩より六里の一里塚や御駕籠建場があったと説明されている。たしかに石畳の跡が残っていた。
大久保台 
 その先から木で作られた「歴史の道」と書かれたしっかりとした標識が立っているようになり、これに従って進む。
木で作られた
 山を抜けると32号線に接する。左手に秋吉稲荷宮があり、その先にも32号線に並行して旧道が続いている。
秋吉稲荷宮 
 広谷橋という跨道橋を渡ると、右手に「歴史の道(赤間関街道)秋吉宿へ2.2km 絵堂宿へ7.6km」と書かれた標識が立っている。
広谷橋 
 道なりに進んでいくと、32号線に合流するが、ここが秋吉台の町の中心部だ。
 32号線を進み、突き当たりの秋吉台随徳の信号を右折して進む。右手に「秋吉八幡宮」があり、ここの入り口に町指定有形文化財の4.5mという大きな「文久の石灯籠」が立っている。文久元年(1861)に献納されたという。
秋吉八幡宮 
 その先右手に地蔵尊を祀る祠があるが、ここでも地蔵尊の顔は白く塗られていた。
地蔵尊を祀る祠 
 秋吉の信号を直進、厚東川に架かる原田橋を渡って435号線を進む。
 右手に霊亀元年(715)に日向国宮崎から勧請されたという「岩永八幡宮」がある。ここには宝暦7年(1757)に社殿造営の時、御神殿に用いられていたという龍の彫刻があり、境内には寛政12年(1800)の石灯籠が立っている。またここの境内には弥生時代終末から古墳時代前期にかけての集団墳墓である三戸古墳がある。
岩永八幡宮 
 本郷川に架かる清水橋を渡って進み、その先で右へ伸びる土道の旧道に入る。この旧道はそれほど荒れておらず、歩きやすかった。
本郷川 
 旧道の出口、240号線に合流するところに「河原の道標」があり、「右 山口 左 萩 道」、右側面に「山露中」左側面に「正法寺中」と刻まれている。これは道標設置に尽力した地区名ということだ。その横に地蔵尊も祀られている。
河原の道標 
 その先で左斜めへ伸びる旧道に入る。正法寺のバス停があり、その先で再び240号線に合流する。
正法寺 
 その先で今度は右斜めへ伸びる旧道に入り、河原の集落の中を進む。左手に専正寺を見ながら進むと、左手に「諸隊(奇兵隊・南園隊)宿陣跡」の案内板が立っている。
 大田・絵堂戦役の際、奇兵隊、八幡隊、南園隊が伊佐市に滞陣し、一部は河原宿に進出して専正寺を本陣としていたと説明されている。この宿は明治4年の大火で全焼したという。
案内板
 大嶺町曽根と書かれた電柱があり、その先から左斜めへ伸びる旧道へ入る。
大嶺町曽根 
 右手に注連縄を巻いた庚申塔があり、その横に明和3年(1766)と刻まれた小さな石仏が祀られている。誰かが参拝するのだろう、花が手向けてられていた。私もなんとなく気になってお参りをさせていただいた。
注連縄 
 曽根の集落を通り、突き当たりを左折、すぐ先を右折して進み、316号線を横断して厚狭川に架かる上領橋を渡り、下領第3踏切を渡ると、右手に「上領八幡宮」がある。参道に石灯籠が並んでいる。
上領八幡宮 
 ここから左折して進んでいくと左手に「八幡磨能宮」があり、ここのシラカシ群落は美祢市指定天然記念物になっている。
八幡磨能宮 
 18時25分に美祢駅に到着、18時47分の電車で小倉へ帰る。この電車の次は2時間40分ほど後の21時26分までないので間に合ってよかった。

 本日の歩行時間   9時間12分。
 本日の歩数&距離 49674歩、36km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん