熊野古道・紀伊路を歩く

2010年11月15日(月) ~2010年12月01日(水)
総歩数:294766歩 総距離:197.9km

2010年11月16日(火)

和泉府中~井原里~山中渓

                     晴れ

 7時20分に出発する。空気はヒンヤリしているが、天気はよさそうだ。
 街道に戻る途中に「泉井上神社」がある。境内の清水は神功皇后渡韓の途次、一夜にして湧出したので霊泉と名づけられ、和泉という地名も泉井上神社という名前もこの泉に由来するという。本殿は慶長10年(1605)に豊臣秀頼が建立したもので、国指定重要文化財になっている。また境内には正平3年(1348)の石造板状塔婆が立っている。
泉井上神社
 30号線に合流したところ右手に「井ノ口王子跡」とその横に「子安地蔵尊」がある。
井ノ口王子跡
 槇尾川に架かる柳田橋を渡ると道は二股に分かれているので右へ進み、その先突き当たりを右折して進んで松尾川に架かる小栗橋を渡る。このあたりの街道を小栗街道と呼ばれているが、それは江戸時代以降、浄瑠璃や歌舞伎で有名になった小栗判官と照手姫の伝説によって呼ばれているもので、この小栗橋もその伝説にちなんで付けられた名前という。左手にある小田公園の周囲を回るようにして進み、その先で30号線に合流する。このあたり、街道沿いに小祠がいくつも置かれている。
 右手に「小栗街道」と刻まれた道標が立っている。「従堺市○○・・・四里」と刻まれているが、それ以上読み取ることは出来なかった。
小栗街道
 左手に鳥居が立っているが、これはここから東5kmにある「積川神社の鳥居」で、この鳥居の扁額は「正一位積川大明神」と書かれている。これは寛治4年(1090)に白河上皇が熊野へ御幸の際に書かれたものの模写で、実物は今も積川神社に社宝として保存されているという。
積川神社の鳥居
 左手に「道標地蔵尊」があり、「右 水間○犬鳴」「左 堺 大坂」と読むことができる。
道標地蔵尊
 作才町の信号で道は二股に分かれているので左へ進む。その先左手に道の池があるところから土道になっている。農作業をしている方がおられたのでお聞きすると、「この先は行き止まりになっていて進むことができないが、ここは熊野古道なので行ってみれば・・・」と言われたのでこれを進むと左手に「地蔵尊」が2体置かれている。
左手に「地蔵尊
 ここから池の堤を進んでいくが、最後のところが急斜面になっており、藪状態になっている。その先には金網が張られていて、小川が流れているようだ。すぐ前は駐車場になっているので、何とか通ることが出来ないかと思ったが無理だったので、元に戻って30号線を進み、先ほどの急斜面のところから先に伸びる旧道に合流する。その先の突き当たりで右折して30号線に合流して進み、虎橋を渡って進む。その先に「三和製作所」という会社があって、そこが「麻生川王子跡」とされていると資料に書かれていたが、うっかり三和製作所を見過ごしてしまって、30号線をそのまま進んでしまった。半田北の信号の左手に「史跡熊野街道半田一里塚」という石柱が立っているところで道を間違ったことに気がついて元に戻る。
 三和製作所は街道を歩いてきた方角からみると右手にあったが、王子跡の遺構は何もなかった。ここから30号線と分岐して左斜めへ伸びる旧道を進む。堂ノ池に沿って進むと、左手に「半田一里塚」がある。熊野街道にも一里塚が設置されたが、近世の主要街道に設置された一里塚ほど正確に配置されたものではなかったという。半田一里塚はこの中でもほぼ完全な形を残す数少ないものの一つという。
半田一里塚
 左手に中央小学校があり、その横に「地蔵尊」を安置した小祠がある。2体の地蔵尊が安置されており、その一体は道標地蔵になっているようだが、半分に割れていて何と刻まれているか読み取ることが出来なかった。
半分に割
 右手に忠魂碑が立っているところから右折、その先の突き当たりを左折して進むと地蔵尊二体を安置する小祠がある。一体は道標地蔵のようだったが、何と刻まれているのかは読み取れなかった。
一体は道標地蔵
 その先、道が二股に分かれているところを右へ進み、池に沿って進む。池はこの時期水が溜まっていなかった。40号線のガード下を通って進み、近木川に架かる福永橋を渡って進む。このあたりは長谷川ノ坂といわれるところで、往時の面影を色濃く残している町並みだ。
長谷川ノ坂
 和泉橋本南の踏切でJRの線路を横断してその先の突き当たりを右折、地蔵堂の信号を直進、その先で道は二股に分かれているので左へ進む。
 右手、少し入ったところに「正福寺」がある。ここの本尊は勝軍地蔵菩薩で淳和天皇の時代(823~833)に建てられ、勝軍寺あるいは近義地蔵堂と呼ばれていた。永禄年間(1558~1570)に焼失したが、寛文元年(1661)快栄によって再興され、正福寺と改名された。毎年3月24日と8月23日に勝軍地蔵像がご開帳されるという。
正福寺
 左手に「南近義神社」がある。ここは弘安7年(1284)近木庄が高野山鎮守の丹生郡比売神社(天野明神社)に寄進された際、分霊が勧請されたと伝えられている。「鞍持王子」と「近木王子」が合祀されている。
南近義神社
 突き当たりを右折して進むと、右手少し入ったところに「吉祥園寺」がある。ここは7世紀後半から8世紀前半の白鳳時代に創建されたといわれ、戦国時代に焼失したが、その後再建されたという。鎌倉時代から室町時代のものという十六羅漢画像は十六尊像が揃っていて貴重なものといわれている。
吉祥園寺
 その先右手に蓮如が滞在したという善正寺があるが、門が閉まっていた。
 信号を渡った左手に地蔵尊があり、右手にも地蔵尊が立っている。いずれも道標地蔵のようで、右手の地蔵尊には「右 へ うくりみち」「左 かいずりみち」と刻まれているように読める。
右 へ うくりみち
 貝田橋を渡って右折して進んだが、鶴原王子跡といわれる貝田町会館がみつからなかった。後で資料を見ていると、ここは左折して進むようで、道を間違ってしまったようだ。
 大藪池の信号で26号線を横断するが、このあたりでは本来の道に合流している。ここで昼食にする。
次の信号を左折、すぐ先をもう一度左折し、池の横を進む。64号線に合流し、佐野川橋を渡った先、左に入ったところに「奈加美神社」がある。ここの本殿は大坂府指定文化財になっており、境内にある常夜燈には文化9年(1812)と刻まれていた。
奈加美神社
 街道に戻って進み、高圧線鉄塔のあるところで道は二股にわかれているので、ここを左へ進む。その先右折する道があり、街道から右手へ少し入ったところの生垣の中に「佐野王子跡」がある。
佐野王子跡
 左手に道標があり、「すぐ和歌山」「ふどうみち」と刻まれている。
すぐ和歌山
 庄屋だったという土壁の立派な家があり、その先にも歴史を感じさせる家が並んでいる64号線を黙々と歩いていく。
庄屋だったという
 長滝西の信号で道は二股に分かれているので右へ進むと、右手に「安松八丁畷の石地蔵」がある。顔は補修されているが、それ以外は原状のままで、正平18年(1363)の年号が刻まれている。建立理由は分からないが、昔、大坂の人がおいはぎに襲われかけて、この地蔵の所に隠れて難を逃れたことがあり、以来一層信仰する人が増えたという。
安松八丁畷の石地蔵
 長南中学校の先、左手に「塙団右衛門の五輪塔」がある。これは慶長20年(1615)大坂夏の陣で討ち死にした塙団右衛門の墓で五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の小笠原作右衛門が建立したという。
塙団右衛門の五輪塔
 その先、右手にいづみモータースがあり、その裏、民家の庭に「籾井王子跡」が立っている。
籾井王子跡
 右手に「奥家住宅」がある。ここは17世紀初め、慶長、元和の頃に建設されたと推定されているそうで、江戸時代はこの地の庄屋を努めていた。国の重要文化財に指定されている。
奥家住宅
 右手に「淡輪六郎兵衛の宝篋印塔」がある。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で戦死した淡輪六郎兵衛の宝篋印塔で、寛永16年(1639)に建立されたという。
淡輪六郎兵衛
 明治大橋の袂に「大坂夏の陣 樫井古戦場跡」碑が立っている。この戦いで大坂方は敗れ、戦いの行方は決したのだ。
樫井古戦場跡
 明治大橋を渡って進み、更に新家川に架かる明治小橋を渡って進む。

 右手に「海会寺跡」がある。海会寺は7世紀中頃から後半の白鳳時代に建立された寺院だが、今は遺構は残っておらず広場になっている。その横に「一岡神社」がある。ここは欽明天皇元年(539)に創建され、崇峻天皇5年(592)に厩戸王子が海会寺を建立し、一岡神社をその鎮守としたと伝えられている。明治40年に熊野九十九王子の厩戸王子を合祀したという。
一岡神社
 その先の四角に案内板が立っている。熊野古道はこうした各種案内板が頻繁に立っていて、歩く上で非常に助かる。各種案内板
 街道はここから左折して進むのだが、右折して暫く歩いていくと「厩戸王子跡」碑が立っている。
厩戸王子跡
街道に戻って進むと右手に「紀州街道信達宿本陣跡角谷家」と書かれた提灯が掲げられた家がある。信達宿の本陣だった家だ。
信達宿本陣跡
 左手に文化11年(1814)、文化12年(1815)の常夜燈が立っており、その横に西国秩父坂と刻まれた石仏が立っている。
文化11年
 信達集落の先、64号線から道が左へ分岐するところがあり、そこに林昌寺への道標と、その横に小さい「左あたご道」と刻まれた道標が立っている。
左あたご道
 この右手に馬頭観音が祀られており、これが「信達一ノ瀬王子跡」ということだ。ここには標識が何もないので分かり難い。
信達一ノ瀬王子跡
 熊野古道はここから64号線を直進するようだが、左へ分岐して「林昌寺」へ行ってみることにする。林昌寺付近は「長岡王子跡」と推測されているということだ。
林昌寺
 林昌寺から山を下って細い道を通っていくと、左手に文化11年(1814)の道標が立っており、ここから左折して進む。
文化11年(1814)の道標
 左手に「波太神社の遥拝所」だったといわれる鳥居が立っており、その先の山中橋を渡って進み、64号線に合流、その先の滑下橋を渡る。
波太神社の遥拝所
 渡って最初の角を左折して進むと公園があり、その横に「地蔵堂王子跡」の説明板のみが立っている。ただ、この道を行くと公園に着くのだが、石垣になっていて登り口がない。今更引き返すのはイヤだったので、石垣にかじりついてこれをよじ登ったが、本来の道は橋を渡って二つ目の角を左折するようだ。街道へ戻る時はこの道を進んだが、街道に戻ったところにちゃんと案内板が立っていた。
 64号線を進んでいくと左手に「馬目王子跡」がある。ここは大坂府最後の王子跡で、現在馬目王子のご神体は山中神社に合祀されているということだ。
馬目王子跡
 64号線から分岐して山中宿へ入って行く。分岐するところにも標識が立っている。ここはまだ新しい石畳になっている。
石畳に
 左手、少し入ったところに「地福寺」がある。ここには嘉承年間(1106~1108)の作といわれる子安地蔵尊がある。
地福寺
 右手に江戸時代中期の建築といわれる「旧山中宿の庄屋屋敷」が残っている。
旧山中宿の庄屋屋敷
 左手に「山中神社」がある。承暦3年(1079)澤四郎善眞が紀州の岡崎から信仰する八王子神をもって山中へ移り住んだ。後日、当地の西北にある高山の頂き(上之宮)へ社を建ててこれをお祀りしたが、この山中神社には上之宮から移記した八王子神を祀る社と馬目王子の社の二つがある。元和3年(1613)ごろ、この観音は盗難にあったが、いつの間にか元の社に返されていたという言い伝えがあるという。
山中神社
 右手に「賽の神」がある。これは山中宿の南の入口にあることから、南から邪神、疫病が入るのを防ぎ、また熊野詣をする旅人の道中の安全を祈っている。
賽の神
 その先に山中渓の駅があるので、今日はここまでとする。

 16時40分 山中渓駅に着く。
 今日はここから和歌山まで出て、駅の近くのホテルに宿泊する。

 本日の歩行時間   9時間20分。
 本日の歩数&距離 49877歩、33.4km。 

 

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