北国街道(信濃追分~直江津)を歩く

2011年11月07日(月) ~2011年11月12日(土)
総歩数:254228歩 総距離:183.5km

2011年11月09日(水)

戸倉~屋代~丹波島~長野

                                   曇りのち晴れ

 7時10分に出発する。外気が冷たい。
 18号線を進み、戸倉の信号から街道を外れて左折して進むと、左手に「水上布奈山神社」がある。
 ここは当初、諏訪神社から建御名方神と勧請して、諏訪社と呼ばれていたが、天保6年(1835)に現在の社名に変更したという。本殿の前に一之御柱、二之御柱が立っており、7年に一度ずつ立て直すという。諏訪神社の御柱祭りと同じだ。ここの本殿は寛政元年(1789)に再建されたもので、上り竜、下り竜、唐獅子等の彫刻が施されていて、国の重要文化財に指定されている。ちょうど祭りの準備が行われていて、本殿を見物させていただくことができた。また境内には天保10年(1839)の下戸倉宿の飯盛り女52名の名前が刻まれた石灯篭が立っている。
水上布奈山神社水上布奈山神社honndenn

 街道に戻って進むと、右手に「明治天皇行在所址」碑が立っている。ここが下戸倉宿の本陣があったところだ。
 左手に「下の酒屋」といわれた藁ぶき屋根の坂井酒造があるが、現在はむしろ蕎麦屋が主力のような感じだ。 
下の酒屋
 戸倉駅入り口の信号の少し先、左手に「左 おばすて やはた」と刻まれた明和元年(1764)の道標がある。ここから八幡道となってお八幡さん、おばすてへ通じていた。
 今井の信号の先から18号線から分岐して右斜めへ進む。車が多い18号線から外れて静かな道になり、ホッとする。右手に「百万遍供養塔」があるが、年号は読み取ることはできなかった。
 左手に名号石、二十三夜塔、常夜燈(明治23年に再建)、道祖神が並んでいるが、常夜燈以外は年不詳だ。
名号石、二十三夜塔
 下戸倉宿と矢代宿の間の宿だった寂蒔を通るが、遺構は残っていない。
 寂蒔水除土堤の説明板が立っている。この土堤は千曲川の氾濫から田畑を守るために、元禄6年(1693)に作られたという。横に二十三夜塔と道祖神があるが、このあたりはこの二つが数多く存在している。
 左手、少し入ったところに「天皇子神社」がある。ここの祭神は第十一代垂仁天皇の第十四皇子鳥取の王子といわれた「伊登志和気命」で境内はその御陵墓という。文政10年(1827)に天皇子神社と改名されたが、社紋には菊の御紋章が使われており、境内には欅の巨木が立っている。
天皇子神社
 右手に「永昌寺」があり、境内に安政4年(1857)の三界万霊や天明5年(1785)の六地蔵などがある。
 右手かなり入って、しなの鉄道の踏切の向こう側に「満照寺」がある。ここの社殿はまだ新しいが、創建は大永2年(1522)と古く、佐久間象山が嘉永4年(1851)に大砲の試射をしたところ、砲弾が当時天領だった満照寺の境内に落ちたことでひと騒動起きたという。
 街道に戻って進むと、左手、屋代南高校の入り口に天保12年(1841)の「筆塚」と「道祖神」が立っている。どちらもかなり大きなものだ。また「道祖神」の横に上部を破損した「道祖神」がもう一つ並んで立っている。
屋代南高校の入り口
 左手に「生蓮寺」があり、宝暦11年(1761)の常夜燈が立っている。
 突当りに「須須岐水神社」がある。ここはこの地における産土の鎮守として創建は古く、延喜式に記載されている祝神社ではないかと思われているがはっきりしないという。正保2年(1645)に現在地に移転、安永10年(1781)に現社名に改称したという。境内には文久元年(1861)や天保3年(1832)の常夜燈が立っている。
 「是より善光寺へ四里」「是より江戸へ 五十里」のまだ新しい道標が立っている。
 右手に「矢代宿脇本陣」跡の碑が立っている。
 右手に「明治天皇御小休所址」碑が立っている。
 その先で18号線に合流、これを横断するが、この場所に横断歩道がなく、左手だいぶ離れたところに信号が見えるだけだったので、車の流れが途切れたところで走って横断する。  
 その先で千曲川の堤防に出て、これを歩き、千曲堤防南踏切でしなの鉄道の線路を横断して進む。
 18号線に合流、篠ノ井橋で千曲川を渡ってすぐに左折、川沿いを進んで、千曲堤防北踏切でしなの鉄道の線路を横断して進み、先ほど千曲川に差し掛かった丁度対岸までくる。ここに矢代の渡し跡の説明板が立っている。昔はこの渡しを利用して対岸からここまで来ていたのだが、現在は川を渡る手段がないため、ぐるっと大回りをしたのだ。
 「軻良根古神社」がある。ここには「明治天皇御召換処」碑が立っている。明治11年明治天皇御巡幸に際し、千曲川の舟橋を渡るため馬車から板輿に召換られて川を渡り、この場所で再び馬車に乗ったことを記念して建てられたという。境内には寛政12年(1800)の常夜燈や庚申塔等があり、また巨木が立っている。
 「郡役所跡」「警察署跡」碑が左手に立っているが、これは明治初年更級郡役所がここに設置され、軍の中心地だったことから、この地に立てられたという。
突当り左手に「北国街道 篠ノ井追分宿跡」の碑が立っている。
篠ノ井追分宿
 左手に「欣淨寺」があり、入り口に文化13年(1830)の「徳本上人名号碑」が立っている。
 第3北国街道踏切でしなの鉄道の線路を横断して進むと、岡田川に架かる見六橋の袂に「せんく王うし(善光寺)道」と刻まれた嘉永2年(1849)の道標が立っている。これは見六橋架け替え工事中に川の中から発見されたという。
 左手に「香福寺」がある。ここは慶長10年(1605)に開山されたお寺で、入口に元禄3年(1690)の「筆塚」や天保12年(1841)の六地蔵が立っている。
香福寺
 左手に「宝昌寺」がある。ここは今から千年ほど前、悪事を働く鬼女「紅葉」を退治した平惟茂が、自らの像を彫って村人に与え、村人の泰平を祈ったため、村人は薬師堂を作ってこの像を安置したという。その後慶長12年(1607)に堂宇を建てて「宝昌寺」と名づけたのが始まりという。ここには文化10年(1813)の「天満天神宮」の碑や慶応元年(1865)の「筆塚」がある。
 御幣川五差路の信号の左手に「歯創医殿」がある。天明、寛政の頃、歯創(歯槽膿漏)に苦しむ行者がおり、他の人々にはこの苦しみをさせたくないと誓願を立て、幾日も艱難苦行をして行人塚で生きたまま入定したという。このことから寛政9年(1797)に村人が社殿、野燈を建てたといい、全国でも珍しい歯の神様という。
歯創医殿
 この歯創医殿の前に道が通っており、その先にもほぼ並行してもう一本道が通っている。旧道はこのもう一本向こう側の道を進む。そのすぐ先で左手に「幣川神社」があるので、街道からはずれて左折して幣川神社へ向かう。ここは慶長年間(1596~1614)に田用水の溝壁を開削中に、甲越戦争の名将の兜標に用いたと思われる高さ5~6寸の黄金の御幣を堀出した。これには八幡宮の三字が刻まれていたので産土として八幡宮を祀り、またこの頃この地は民家は僅かに二十数戸に過ぎず村名もなかったので、村名を御幣川(おんべがわ)と定めたと説明されている。 境内には二十三夜塔や道祖神がある。
幣川神社
 右手に芝沢の「秋葉神社」と「天神さん」が並んでいる。
 右手、墓地の横に万延元年(1860)の「庚申塔」がある。
 右手に高田公会堂があり、そこに「石造地蔵菩薩坐像」「石造薬師如来坐像」があるという説明板が立っていたが、戸が閉まっていたので、隙間から写真だけを撮った。
造地蔵菩薩坐像
 左手に「蓮香寺」がある。ここの楼門兼鐘楼は二層になっていて、見事な作りになっている。
「蓮香寺
 左手に「明治天皇原御膳水」の碑が立っている大久保家がある。
 右手に「北原区薬師堂遺跡地の案内」という案内板が立っている。ここに天満宮があり、その横に天保11年(1840)の「三界万霊」、文化13年の{徳本上人念仏塔」、文化14年(1817)の「馬頭観音」更に「節婦おせんの顕彰碑」が立っている。
北原区薬師堂遺跡地
 左手に「親鸞聖人御舊跡」の碑が立っている。
 左手に「淨生庵」がある。ここは元禄年間に仏門に帰依した問屋柳島市郎左衛門寛休によって建立されたもので、本尊は観音菩薩であるが、享保7年(1722)にこの地に移設された地蔵菩薩も併尊されている。堂内には徳本上人の名号碑と寛休の経塚があるというが中を見ることはできなかった。
 「於佐加神社」が枡形になっている角の左手にある。ここは丹波島宿の産土神の鎮守様で、丹波島宿開設に合わせて、諏訪河原の地から寛文2年(1662)に現在地へ移設、明和9年(1764)、神礼殿が造営され、安永5年(1776)に遷宮されたという。境内には秋葉社や道祖神、庚申塔等九社があり、文久3年(1863)や文化3年(1806)の筆塚がある。このあたり筆塚が数多く立てられている。
於佐加神社
 丹波島宿を通るが、ここには宿場に入ってくる邪気を追い払うため、街道の入り口や脇道からの突き当りの家の屋根の上に様々な形をした鍾馗さんの飾り瓦が鎮座している。
鍾馗さん
 左手に「高札場」が復元されており、すぐ横に問屋だった柳島家がある。ここは脇本陣を兼ねており、冠木門は松代藩廃止後払い下げを受けて、移築したものという。「明治天皇御膳水」碑が立っている。
 そのすぐ先、左手にもう一軒柳島家があり、ここには「明治天皇御小休所」碑が立っている。ここが丹波島宿の本陣のあったところだ。
丹波島宿の本陣
 ここでは各家に「丹波島宿 よろずや」というように昔の屋号が書かれた看板が下がっていた。
 犀川に突き当たるところに「北国街道 丹波島宿開設四百年記念 丹波島の渡し」碑が立っている。
 犀川に架かる丹波島橋を渡って進むが、この橋には当初の船渡しの時代から舟橋、木橋そして昭和7年に鉄橋が架けられるまでの推移が記されている説明板がある。
 橋の左手を進んでいったが、橋を渡り切ったところから右手に旧道が伸びているのだが、道路を横断する道がない。仕方がないのでその先の信号で右手の旧道に合流する。
 左手に宝永4年(1707)に善光寺金堂を再建したとき、犀川に流した普請用材を陸揚げしたという「木留神社」があり、その先左手に源頼朝が善光寺参詣の際、創設したという「観音寺」がある。
ここには文政7年(1824)の宝篋印塔が立っている。
文政7年(
 左手に「西光寺」がある。ここは刈萱上人が正治元年(1199)に開山したところで、市指定文化財になっている刈萱父子地蔵尊を本尊としている。九州の大名だった加藤左衛門尉重氏が法然上人の弟子となって出家するが、妻子が訪ねてくることを嫌って高野山に移る。石動丸は母とともに父を追うが、そのうち母は亡くなってしまう。一人になった石動丸はそれでもまだ見ぬ父を捜し歩くうちに、高野山で父と出会うが、父から探している人はもうこの世にはいないといわれ、それではと、父とは知らずに上人に弟子入りをすることになる。しかし、上人は修行の邪魔になるといって、高野山を去り、この地に移って草庵を開いた。上人はこの寺で亡くなるが、石堂丸も父の死後、この寺に来て入寂したという。謡曲「苅萱」や説経節「かるかや」あるいは浄瑠璃など、中世以来多くの芸能で語り伝えられてきた有名な悲劇で、「かるかや親子の対面」の像があり、親子の対面を果たしながら、父が子に親であることを告げなかった場面を像にしているという。現本堂は昭和12年に再建されている。
西光寺
 右手に「栽松院」がある。ここは天文の頃(1532~1555)に名主で造り酒屋だった菊屋(山埼家)が建てた観音堂から始まったお寺だという。通称シマンリョウといわれているが、これはここが南八幡川と栗田堰の分岐点で島のようになっていたことからこういう呼称になったという。現在の本堂は明治35年に建立されたという。
 右手に「鶴ケ橋碑」が立っている。源頼朝は善光寺参詣の際、この橋の下を流れる北八幡川で身を清め、はるかに鶴ケ岡八幡宮を拝んだという。
 左手に「十念寺」がある。ここは建久8年(1197)に源頼朝が善光寺参拝の際、紫雲とともに善光寺如来が現れて、空中より十念を授けたので、寺を建立し、紫雲山頼朝院と号したという。境内には寛政11年(1642)の大仏を安置する大仏堂と観音堂、更に徳本上人の名号碑が立っている。
十念寺
 右手に「藤屋ホテルがあるが、ここが本陣だったところだ。

 15時37分に今日の宿に到着する。ここは善光寺に一番近い宿ということだ。

 本日の歩行時間   8時間27分。
 本日の歩数&距離  41952歩、29.6km。

 予定通り早めに宿に着いたので、宿に荷物をおいて善光寺に参拝をする。
 仁王門は宝暦2年(1752)に建立されたが、その後地震、火事で焼失、現在の建物は大正7年に再建されたものだという。
仁王門
 山門は寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門で、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されたという。 楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられており、これは通称「鳩字の額」と呼ばれて、3文字の中に鳩が5羽隠されているという。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っているという。
山門
 本堂は創建以来十数回も火災に遭ったが、その都度再建され、現在の本堂は宝永4年(1707)に再建をされたという。現在は丁度屋根の修理中でシートが架けられていた。12月半ばまで工事が行われるということだった。
本堂
 内陣は百五十畳敷きの大広間で、ここで参拝後 内々陣の奥、右側を進むとお戒壇巡りの入口がある。お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場ということだ。本当に真っ暗な中を手探りで進んでいく。貴重な経験だ。
 本堂の裏手に「徳川家大奥供養塔」がある。ここには三代将軍だった家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の二男綱重の正室徳川家大奥供養塔紅玉院など大奥関係者の供養塔が立っており、その横に、歴代別当の碑石が並んでいる。
徳川家大奥供養塔bettou


         

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