高野七口 町石道を歩く

2015年04月18日(土) ~2015年04月19日(日)
総歩数:29300歩 総距離:26.2km

2015年04月19日(日)

女人堂~徳川家霊台~壇上伽藍~霊宝館~(バス移動)~奥ノ院~金剛三昧院~苅萱堂

                                      雨後曇り

 昨日、180町石を歩き終わったので、今日は電車とケーブルカーを使って高野山まで行き、バスで女人堂へ向かう。今日は出発するときに弱い雨が降っていたが、山を登っていくにしたがって、かなり雨が降った形跡が認められた。山を登るのが昨日でよかったと思う。
 ケーブル駅からバスに乗って最初のバス停が「女人堂」で、9時22分に着く。高野山には七つの登り口があり、明治5年に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれていた。この女人堂はその中でも一番大きかった不動坂口の女人堂で唯一現存する建物だ。
女人堂
 ここから歩いて「徳川家霊台」へと向かう。ここは徳川家康公、秀忠公の御霊を祀るために、三代将軍家光公によって創建されたもので、寛永10年(1633)に着工、寛永20年(1643)に落成したという。実に10年の歳月をかけて完成したものだ。建物は左右同じ二棟の建築物からなり、右が家康の霊屋、左が秀忠の霊屋となっている。写真は家康の霊屋です。これらは江戸時代の代表的霊廟建築として重要文化財に指定されている。
徳川家霊台
 檀上伽藍には10時5分に着く。写真は「大会堂」で、後ろに見えるのは「根本大塔」だ。「大会堂」は鳥羽法皇の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が安元元年(1175)に建立、鳥羽法王の菩提を弔うために創建した「蓮華乗院」で、現存の建物は嘉永元年(1848)に再建され、法会執行の際の集会所的役割を担っている。
大会堂
「根本大塔」は弘法大師が高野山開創にあたり、この大塔を真言密教の根本道場として建立されたので、根本大塔といい、昭和12年、空海入定1100年を記念して鉄筋コンクリートで再建されたという。中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界四仏を安置している。塔内の柱などに描かれた仏画は堂本印象の筆という。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは、両者は根本的には1つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するという。
根本大塔
  「金堂」は昭和元年に焼失後、昭和9年に再建された建物で、屋根は入母屋造である。本尊薬師如来像は金堂と共に新造されたもので、高村光雲の作である。昭和元年の焼失時、堂内には旧本尊を始め7体の仏像が安置されていたが、堂と共に焼失してしまった。旧本尊像は公開されたことのない秘仏であったため、写真も残されておらず、どのような像であったかは永遠に不明となった。明治時代には文化財調査という名目で再三の開扉要求をしたそうだが、認められなかったという。秘仏の秘仏たる所以なのだろうが、不測の事態に備えるということもあってはいいのではないかとも思うのは、世俗の人間の浅はかな考えなのかな?像名についても阿しゅく如来とする説と、薬師如来とする説があり、両者は同体であるという説もあったという。高村光雲作の本尊像は高野山開創1200年を記念し、2015年4月2日から5月21日までの間、初めて開扉されることとなったが、高村光雲は参考にする像が何もない中、どのような思いで本尊象を刻んだのだろうか。
 本尊の両脇に安置されていた6体の仏像(金剛さった坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像)については、焼失以前に撮影された写真が残されており、作風から見て、空海の時代からあまり隔たらない9世紀頃に作られた密教像として、極めて貴重なものであったという。
金堂
 「中門」は平成27年4月2日に172年ぶりに再建されたばかりだ。焼失以前の中門には持国天・多聞天の二天像が安置されていたが、平成27年に落慶した中門には上記の二天に増長天・広目天像を加えた四天王像が安置されている。持国天・多聞天像(江戸時代末期の作)は、旧・中門の焼失時に難をのがれ、寺内に保管されていたものを、2015年落慶の新・中門に再び安置した。増長天・広目天像は仏師松本明慶により新造されたものという。
持国天                      多聞天
 
持国天多聞天

増長天                      広目天
増長天 広目天

 その他、壇上伽藍のお寺を見物した後、「高野山霊宝館」を見物する。ここには大正10年に開設されたもので、国宝や重要文化財などの指定文化財が約28000点、絵画・彫刻・工芸品・書跡が約5万点と数多くの文化遺産が展示されていた。じっくり見ようと思うと、ここだけで大変な時間がかかってしまうだろう。
 
 ちなみに高野山の見物に関しては、かって「熊野古道小辺路」を歩いた時にも見物しており、その時のことを下記のアドレスで記載していますので、それを参考にしていただけると幸いです。有名武将の墓石の写真もそちらのほうに掲載しています。(熊野古道小辺路を歩くをクリックしていただけると、該当のページへ飛びます。)

熊野古道小辺路を歩く

ここから奥ノ院までバスで移動し、奥ノ院を参拝する。
奥ノ院
 奥ノ院から20万基を超えるという墓石群の中を歩いて千手院まで向かうが、墓石郡の途中に「町石道」の説明板が立っていることに気が付いた。ただその場所はガイドと思われる方が何かを説明されており、大勢の団体客がその方を取り囲んで、説明に聞き入っていた。もし、この方々がいなければ、この説明板を読んだかもしれず、そうすることによってこの道筋に36の町石が立っていることに気が付いたと思うのだが、人が多かったため、そのまま素通りしてしまった。そうなのです。今回私はミスをしてしまったのです。今回事前の調査で、町石がほぼ100mおきに立っていて、道に迷うことはなさそうだし、地図も入手できたし、更に千手院から奥ノ院までは熊野古道小辺路を歩いた際に一度歩いていて、様子もわかっているので、すっかり安心してしまい、壇上伽藍から奥ノ院までの間にも町石が立っているということを見落としてしまっていたのです。これは言い訳のしようもない私のミスでした。町石道に沿って歩いているのに、しかもほぼ一往復しているのに、そういう意識がなかったため、全く目に入らなかったのです。従ってこの間の町石の写真は一切ありません。
私が参考にしたHPには別項目として、以下の記述がありましたので、ごく一部ですが、これを掲載させていただきます。

「1町石は壇上伽藍・愛染堂前左側にあり、36町石は大師御廟柵内にあります。壇上伽藍から金剛峰寺までの蛇腹道と一の橋から大師御廟までは雰囲気のいい道ですが、金剛峰寺から一の橋まではお世辞にも歩いて楽しい道とは思われません。」

 確かに金剛峰寺から一の橋まではバスや車が数多く往来するメインストリートなので、初日に歩いた山道とは全く異なる雰囲気の道ではあります。高野山は人口が約4000人で、そのうち僧侶だけでも1000人はおられるという町なので、それなりの規模があり、しかも今回は開創1200年ということで数多くの参拝客で賑わっていて、観光バスや車が多く、この道路はとても混雑していました。と、なんか言い訳がましいかな??
 結局千手院まで歩いて、ここの店で各自土産物を買い、ここから少し遡って、「金剛三昧院」を見物する。
ここは健暦元年(1219)に北条政子の発願によって源頼朝菩提のために禅定院として創建され、承久元年(1219)に源実朝菩提のために改築して金剛三昧院と改称された。ここには源頼朝と源実朝の菩提を弔う多宝塔が立っているが、これは承応2年(1223)に建立されたもので、石山寺の塔に次ぎ、日本で2番目に古く、高野山に現存する最古の木造建設物で、国宝に指定されている。
 前回高野山小辺路を歩くときにもここへ来たが、その時は本坊、庫裡はちょうど解体修理中で見ることが出来なかったが、今回は修理は終わっていた。
金剛三昧院1金剛三昧院2

 ここから更に遡って「苅萱堂」へ行く。加藤左衛門尉繁氏は、妻と妾の醜い嫉妬心を見て世の無常を感じ、領地と家族を捨てて出家し、寂昭坊等阿法師、苅萱道心(かるかやどうしん)と号して、源空上人(法然)のもとで修行し、高野山に登った。その息子である石童丸は、母とともに父親探しの旅にでる。旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。高野山は女人禁制のため、 母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為の誓のために、自分があなたの父親ですと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言ったため、石童丸は実の父親に会いながらそれと知らずに戻ってしまった。石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していたため、頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話が残っている。中にある厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられている。
苅萱堂
 このあたりまで来たところで町石が道路沿いに立っていることに気が付いた。しかし時すでに遅し。もう一度1町石から探して歩き直すという時間と気力は残っていなかったため、ここからバスでケーブル駅まで出て、帰途に就く。
わずか4㎞ほどの距離だったし、しかもその町石道を実際に往復していたのだが、注意を払っていなかったため、町石が立っていることに全く気が付かなかったのだ。かなり残念。再度訪れることがあるかもしれないので、その時のために残しておこうと思う。
 今日は最初から観光目的だったため、GPSは使用しておらず、歩いた距離は不明です。ちなみにこの日一日の歩数は19663歩でした。
 今回は初めて3人で歩いたが、気心知れた仲間だったので会話も楽しく、また歩くテンポも問題なかったので、歩いていてとても楽しかった。日頃は一人で黙々と歩いているので、今回は一味違った歩きだった。二人に感謝である。