高野山女人道を歩く

2015年06月06日(土)
総歩数:9961歩 総距離:7.6km

2015年06月06日(土)

奥ノ院~大峰口女人堂跡~大滝口女人堂跡~相の浦口女人堂跡~龍神口女人堂跡~大門口女人堂跡~不動坂口女人堂

                         晴れ

 高野山は八葉の峰と呼ばれる1000m前後の山々に囲まれた山上の平坦地で、参道として高野七口(不動坂口、大門口、龍神口、相の浦口、大滝口、大峰口、黒河口)と呼ばれる道があったが、この尾根道の内側は女人禁制で女性は山内に立ち入ることができなかった。そのため各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建っており、御廟を拝みたいという信仰の心や、身内で出家した人をひと目見ようとの思いで女人堂から女人堂へ女性がたどったこの尾根道は女人道と呼ばれている。開山から一千年余り、明治5年に解除されるまで(山内居住が認められるのは明治39年以降)女人禁制は続いていたという。
今回は九度山産業振興課、観光協会、高野町観光協会の資料を参考にしたが、この資料では女人堂巡りとして黒河口以外の女人堂跡を回るようになっているので、この資料に従って歩いた。

 奥ノ院から歩き始めようとしたが、女人道の入り口がわからない。ここにも観光案内所があったので聞いてみたがわからないとのこと。しばらくウロウロして、ようやくお店のおばちゃんに教えて頂くことが出来た。女人道は意外と知られていないようだ。実際に歩いてみると、山道ばかりだったが、標識もあって道は整備されていた。ただここを歩く人はあまりいないようで、人とはほとんど会わなかった。
 入口は奥ノ院前のバス停の前の駐車場の左側、屋根の奥にトイレがあり、その横の細い道にポイント25と記された女人道の看板が立っているので、ここから入っていく。13時26分に出発する。
女人道入口1女人道入口2

 トイレの裏はすぐ山へつながっていて、ここに「大峰口」と書かれた看板が立っている。
大峰口
 道はすぐに山の中へ入っていくが、ここに「東口  大和口又は大峰口とも呼ばれ、吉野より大峰山、洞川、天川を通り、高野山へとつながる修験道の道で、弘法大師が高野山へと初めて入ったのもこの道です」と書かれた看板が立っている。
 ここから山道を登っていくが、木の階段が作られているので歩きやすい。女人道はこのように木で作られた階段が数多く存在していた。
木の階段
 やがて道は平坦になり、更にその先で再び坂道を登っていく。町石道はなだらかな道だったが、女人道は厳しいというほどではないが、アップダウンがある道だった。
「五大尊堂跡」の看板が立っていて、この脇に「大峰口女人堂」があったと説明されている。ここが弥勒峠と呼ばれているところだ。13時50分にここを通る。
大峰口女人堂
 右手に石仏を祀る祠がぽつんと建っている。ここから峠を下っていく。
石仏
 山を抜けると道は右手に二股に別れている。ここにポイント22の看板が立っており、それに従って右へ平坦な道を進む。
 その先に右手「円通律寺」へ向かう参道と、左手山へ登る道がある。「円通寺は修行道場のため拝観できません」と書かれた看板が立っている。ここは真言宗の僧侶を目指す人々の修行寺院で、律宗を兼ねて学んだ当時の名残りで寺号に「律」の字がそのまま残っている。現在も女人禁制、特別に用事のある人以外は立ち入り禁止という、厳格な規律を守っているという。ここは弘法大師の甥で天台宗の智証大師が修行した跡と伝わり、東大寺再建で有名な俊乗坊重源上人が荒廃したこの地に専修往生院を建立した。 後に再び荒廃を極め、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の側近、山口修理亮重政が登山、出家して智証大師、重源上人の旧跡を慕ってお堂を再興し、密教と律宗の兼学道場となった。14時6分にここを通る。
円通寺
 円通寺への参道から引き返して左手の山道へ入っていくが、ここにポイント21の看板が立っている。この看板は分岐する場所に必ず立っているので、道を間違えることはない。
ポイント21
 山道を登っていくが、鶯やカッコーの鳴き声が聞こえる。のどかで、気持ちがいい。
 山道を抜けると広い道に出る。ここにポイント20の看板が立っているので、それに従って右へ進む。
 その先で道は二股に分かれており、ここにポイント19の看板が立っているので、それに従って右へ進んで行くと、「大滝口女人堂跡」がある。ここは轆轤(ろくろ)峠で、熊野古道小辺路と交わるところだ。小辺路を歩いた時この道を通った記憶が残っている。14時28分にここを通る。
大滝口女人堂跡
 「この付近で熊の出没が確認されました。山歩きをされる方は十分気を付けてください」という看板が立っている。この看板はこの先、何か所も立っていた。
熊の出没
 鉄塔が立っているところで視界が開ける。かなりの高さに来ていることがわかる。
 鉄塔が
 その先に鉄塔が立っていた跡の広場があるが、広場があるだけで、何もない。
広場
 「相の浦口女人堂跡」があり、そこに「やまみち」「くまのみち」と刻まれた道標地蔵が立っている。14時44分にここを通る。
相の浦口女人堂跡
 ここから右へ進むが、ここも二股に別れているので、左手の細道を登り、その先で木が伐採された道を下っていく。
左手の細道
 しばらく下っていくと「左 くまの道」と刻まれた道標が立っており、ここにポイント16の看板が立っている。
左 くまの道
 その先で小川を渡ったところにポイント15の看板が立っており、ここを左折する。このように分岐するところにはポイントの看板が必ず立っている。
 すぐ先でポイント14の看板が立っており、そこから右折して再び山道を進んでいく。
ポイント14
 ポイント13の看板が立っているところから鉄条網に沿った道を進んでいく。
鉄条網
 ポイント9の看板が立っていて、大門まで0.3㎞となっている。ここで2人連れの人に会う。ここまで歩いてくる間、誰とも会わなかったので、女人道で初めての出会いだ。お互いに「こんにちは」と挨拶をしてすれ違う。町石道は数多くの人が歩かれていたが、女人道を歩く人は非常に少ないようだ。
 ポイント8の看板のところに「お助け地蔵」がある。15時17分にここを通る。
助の地蔵
 ポイント6まで来ると、すぐ前に大門が見える。この場所が「龍神口女人堂」の跡だ。町石道を歩いた際、山を抜けてここに出たのだ。15時21分にここを通る。
大門
 大門を右手に見ながら直進すると、鳥居があり、ここにポイント5が立っている。町石道の7町石もここに立っている。ここから鳥居をくぐって山道を登っていくが、ここにも熊が出没したという看板が立っている。
 その先に「大門口女人堂跡」の看板が立っている。15時31分にここを通る。
大門口女人堂跡
 坂道を登っていると、前方から若い外人の女性が二人下ってきた。「コンニチハ」と挨拶してくれたので、こちらも挨拶を返した。今日出会った二組目で、出会った人はこの二組だけだった。
 右手に地蔵堂がある。
地蔵堂
 山を登り切ったところが弁天岳(984.5m)で、ここに高野山七弁天の一つ、「嶽弁天」がある。ここは弘法大師が大和の天河弁天社より勧請した弁才天であると伝えられており、その昔、妙音坊という天狗が一本杉に住んでいて、嶽弁天を守護していたと伝えられている。江戸時代までは山内のお坊さん達によって社(やしろ)などが維持され、おまつりしていたが、現在では地域一般の方々によって弁天講が結成され、引き継がれている。現在の御社は昭和34年に再建されたものという。15時44分にここを通る。
嶽弁天
 ここから山を下っていくと、「谷上女人堂」跡の看板が立っている。15時51分にここを通る。
谷上女人堂
 「不動坂口女人堂」に16時ちょうどに到着する。ここは現存している唯一の女人堂だ。 ここはケーブル駅からバスで来ると、最初のバス停にあたる場所でもある。
不動坂口女人堂

 本日の歩行時間   2時間34分。
 本日の歩数&距離  9961歩、7.6㎞。