柳生街道を歩く

2016年04月20日(水)
総歩数:321890歩 総距離:22.5km

2016年04月20日(水)

柳生~円成寺~地獄谷~奈良 

                              晴れ

 柳生新陰流で有名な柳生の里は奈良県と京都府の県境にある。この柳生の里と奈良を結ぶ街道を柳生街道と言い、宮本武蔵や荒木又右衛門、柳生十兵衛などが通ったことで有名だ。柳生街道の起源は定かではないが鎌倉時代初期に存在したとする説があるという。今回は近鉄の「てくてくマップ奈良ー4 柳生街道(剣豪の里]コース」と「同 奈良ー3 柳生街道(滝坂の道)コース」を参考にしたが、街道の随所に標識が立っていて、マップがなくても十分に歩くことが出来る道だった。

 近鉄奈良駅の近くのバス停を8時19分のバスで出発し、9時5分に柳生のバス停に着く。この区間はバスの本数が少ないので要注意だ。
バス停に着くとすぐ前に「剣塚」へ向かう階段があり、これを登っていく。この道は元弘の乱(1331年)で後醍醐天皇が笠置に逃れた時に、柳生永珍が後醍醐天皇を助け、その糧道を守るために作ったといい、「殿さま街道」と呼ばれていたという。現在は剣塚から先の道は失われていると説明されている。急坂だが往復で10分ほどの距離であった。
剣塚1剣塚2

バス停に戻って下って行き、打滝川に架かる今川橋を渡って柳生の里を散策する。
右手の山にひときわ大きな「十兵衛杉」が見えるが、枯れている。この杉は約350年前に柳生十兵衛三巖が三代将軍家光の内命を受け、柳生村を出立する時、先祖の墓所である中宮寺に杉の若木を植えたと伝えられている。しかし昭和48年に二度の落雷を受けて枯れてしまったという。
十兵衛杉
 柳生藩の「家老屋敷」がある。ここは柳生藩の財政立て直しを行った、家老小山田主鈴の旧屋敷で、 見事な石垣が築かれている。これは天保12年(1841)尾張の石工が築き、屋敷は嘉永元年(1848)に上棟されたと説明されている。 昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり、徳川将軍家兵法指南役だった柳生宗矩を主人公とした氏の小説「春の坂道」(NHKでドラマ化された)の構想をこの屋敷で練ったという。氏の亡き後は、その遺志により、奈良市へ寄贈された。
家老屋敷
 紅い欄干のもみじ橋を渡って進むが、この道には石畳が敷かれている。この近くに柳生石舟斎宗巖の家があったという。
のもみじ橋石畳

 「芳徳寺」は柳生家の菩提寺で、寛永15年(1638)柳生又右衛門宗矩が亡父石舟齋宗厳の供養のため創建したという。宝永8年(1711)の火災で全焼したが、正徳4年(1714)に再建をされた。廃藩置県後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が遺贈して本堂が再建されたという。
芳徳寺
 裏手に回ると「柳生家の墓所」がある。
柳生家の墓所
 芳徳寺から道を下っていくと、右手に「正木坂剣禅道場」がある。 ここは柳生十兵衛の弟・友矩の邸宅跡で、昭和40年春に完成したという。 屋根や柱などの構造物は、もと興福寺の別当だった一乗院の建物で、玄関は京都所司代の玄関を組み合わせたものという。
正木坂剣禅道場
 静かな山の中の道を案内板に従って進んでいくと、「天之石立神社」がある。ここには扉形に3つに割れた「前伏磐」、「前立磐」、「後立磐」と呼ばれる花崗岩の大きな岩があり、この周囲を注連縄で囲って御神体として祀っている。この神社は延喜式神名帳に記されている式内社で、手力男之命(アマノタヂカラオノミコト)が天照大神が隠れた天の岩戸を開いた時、その扉石が空を飛んでここに落ちたという伝説がある。一度にすべての岩の写真を撮ろうとしたため、かえってわかりにくくなってしまった。一つずつの岩を撮ればよかったと後になって思った次第です。どうも写真は苦手なのです。
天之石立神社1天之石立神社2

 その奥に「一刀石」がある。この岩は長さ 8m、幅7m、高さ2mの花崗岩で、中央付近で斜め一直線に割れている。上泉信綱と試合をして敗れた石舟斎宗厳が3年間この地で毎夜天狗を相手に剣術修行をし、ある夜一刀のもとに天狗を切ったと思えば実はこの岩だったという。因みに宗厳はこの修行で無刀の極意を悟り、柳生新陰流の始祖になったという。
一刀石
 「旧柳生藩陣屋跡」がある。ここは柳生又右衛門宗矩が寛永19年(1842)に建てたが、延享4年(1747)の火災で全焼したという。現在は公園になっている。
「旧柳生藩陣屋跡
 柳生の里の散策はここで終わって、いよいよ柳生街道を歩き始める。10時35分に出発するが、そのほとんどが山の中の道である。
柳生街道
 歩きだしてすぐ、右手に巨岩に彫られた「中村六地蔵」がある。
中村六地蔵
 更にその先右手に元応元年(1319)十一月の銘を持つ「疱瘡地蔵」がある。 疱瘡よけを祈願してつくられたお地蔵尊だ。ここに「史蹟 正長元年柳生徳政碑」という説明文が立てられている。それによると、その横の石碑の長方形の枠取りの中に「正長元年ヨリ/サキ者カンヘ四カン/カウニヲ井メアル/ヘカラス」と刻まれている。これは大正14年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が、正長元年(1428年)の徳政を記念する碑文とし、「正長元年より先は神戸四箇郷(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地)に負目あるべからず」とその文意が現在解釈されている。石刻みの時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について、民衆が刻み残した資料として価値は高いと説明されている。
疱瘡地蔵1疱瘡地蔵2

 木漏れ日の中、山の中を黙々と歩くが、気持ちがいい。このあたりを阪原峠というようだ。
木漏れ日
 山を抜けると阪原の集落があり、左手に「おふじの井戸」がある。「柳生の城主但馬守宗矩がこの井戸の付近を通りかかった際、洗濯をしていたおふじという娘に「桶の中の波はいくつあるか」とたずねると、娘は「お殿さんがここまで来られた馬の歩数はいくつ?」と訊ね返しました。但馬様はその器量の良さと才気を見初め、妻に迎えたという伝説があります。今も「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の娘になる」との里歌が残っています。」という説明板が立っている。
おふじの井戸
 そのすぐ先左手に「南明寺」がある。11時15分に到着する。
ここは敏達天皇4年(575)に百済の僧によってこの地に営まれた「槇山千坊」の一であったという説や宝亀2年(771)の創建ともいわれるなど諸説ある古寺で、本堂は鎌倉時代の寄棟造りで、本尊薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の藤原三仏が安置されており、これらはいずれも国の重要文化財に指定されている。境内には鎌倉時代の宝篋印塔、室町時代の十三重石塔などがある。南明寺
 大柳生の集落の中を歩いていくと、「水木古墳」がある。この古墳は1999年に発掘調査をされた古墳で、須恵器等出土した土器類の形から見て、6世紀後半に造られたと考えられており、この古墳に埋葬された人物は、この古墳の規模や副葬品から考えて、古墳時代に大柳生地域を治めた首長(村長)クラスの墓であったと考えられているという。
水木古墳
 「夜支布山口神社」に11時51分に着く。「この神社は大柳生の氏神で平安時代の延喜式にもあらわれている古い社です。境内にある摂社立磐神社の本殿は、春日大社の第四殿を延享4年(1747年)に、ここに移したものです。この神社には、一年交代で集落の長老の家に神様の分霊をむかえる「回り明神」と言う、珍しい行事が伝わっており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊りが奉納されます」と書かれた説明板が立っている。 
夜支布山口神社
 円成寺には12時27分に着く。お寺のHPでは「天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。その後文正元年(1466)、応仁の兵火により、堂宇の大半を失います。しかし、当山子院知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心に、直ちに復興造営が開始され、栄弘が没した文明19年(1487)には、14の堂宇が復興されました。幕末の動乱と維新の神仏分離以降は、寺領の返上と社会風潮の一変で衰退の一路をたどり、明治10年(1877)には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなりました。明治15年(1882)、盛雅和尚の晋山以降、楼門、本堂の大修理と本坊、脇門の移建が行われ、県道の整備もあり、ようやく残った伽藍の保持がなされ、次の霊瑞和尚、先代賢住和尚の時代に主要堂宇のほとんどが改修、多宝塔も再建、浄土庭園などの境内地も整備され、今日の姿が整いました。」とされている。本堂は文化庁の資料では棟木銘から文明4年(1472)建立としている。内部には本尊阿弥陀如来坐像と四天王立像を安置されており、重要文化財に指定されている。また、本堂の脇に建つ春日堂・白山堂は安貞2年(1228年)の再建といわれる。春日造社殿の現存最古の例として国宝に指定されている。また平成2年に再建された多宝塔には、運慶が25歳頃に刻んだ第一作の国宝・大日如来像をお祀りしている。
円成寺1円成寺2

 庭園は浄土式船遊式庭園といい平安末期のもので、「浄土式と舟遊式を兼備した寝殿造系庭園」とのことだ。
浄土式船遊式庭園
 ここで昼食のおにぎりを食べて出発する。
 県道を横断して再び山道に入っていくと、すぐ左手に「5体の石仏」を刻んだ石碑がある。
5体の石仏
 更にすぐ先左手に「六地蔵」がある。この辺りは説明書きがないので、どういう由来があるのかわからない。
六地蔵
 右手に「八王子神社」がある。ここは八柱神社ともいうが、八柱(八王子)とは須佐鳴尊命(すさのおのみこと)の八柱の御子神を祀る神社のことで、全国にあるが、ここのその一社のようだ。
八王子神社
 誓多林(せたりん)の集落に入ると、その先右手に「峠の茶屋」がある。ここは江戸時代の建物で、かつて柳生街道を往来した人々が必ずここで一服したといわれる。時間を見ると13時50分だ。今日はこの後、姫路まで行く予定があって先を急いでいるので、立ち寄らずに進む。
峠の茶屋
 その先で道は二股に別れており、左手に標識が立っている。「地獄谷石窟仏 0.5km」「首切地蔵 1.4km」と書かれており、ここを左折して細い山道を進む。
地獄谷石窟仏 
 谷底へ向かう道はかなり急な下り坂になるが、それなりに整備されていて、道に迷うことはない。やがて巨岩の間の谷川に架かる2本の橋を渡るが、2本目の橋の手前は道幅が狭く、崖の側に鎖がつけられている。
崖の側に鎖
 急坂をかなり下った先に「地獄谷石窟仏」があり、14時17分に着く。
保護のためだろう、周囲を鉄条網で囲まれている。ここは俗に聖人窟(じょうにんぐつ)と呼ばれており、凝灰岩層をくりぬいた洞に線刻された像は平安時代に彫られたもので、春日山石窟仏の中では最も古いといわれている。これは石を切り出したあとの洞(ほら)に線刻したもので、正面中央の中尊は、高さ1.4mの盧舎那仏(または釈迦如来ともいわれ、奈良時代後期の作らしい)、左が薬師如来、右は十一面観音(室町時代ごろの追刻)といわれ、右壁には妙見菩薩、左壁には阿弥陀如来と千手観音が刻まれている。これらの石仏は、山伏が岩窟に寝起きして彫刻したとか、大仏殿建立のおりに、石材採りの石工が彫刻した、などと伝わっている。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれているという。
地獄谷石窟仏1地獄谷石窟仏2

 やがて登り道になるのだが、下るとき、あれほど急坂を下ったので、登りもかなりの急坂なのだろうと思っていたのだが、それほどの急坂ではなく、登りは楽だった。

 「首切り地蔵」に14時39分に着く。この地蔵は彫刻の手法から鎌倉時代の作とみられており、首の部分に横一文字に切られたような線が入っていて、柳生の里に剣の修業に通っていた荒木又衛門がこの地蔵で剣の試し切りをしたという話が残っている。
首切り地蔵
 ここで先ほど谷へ向かう道と分岐した道と合流する。ここから先、江戸時代中期に奈良奉行によって敷かれたという石畳の道を下っていく。
右手能登川の渓流の向こう側に「朝日観音」がある。「対岸の岸壁に彫られているのは朝日観音です。これは早朝高円山の頂からさしのぼる朝日につま先に照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥靭仏 左右は地蔵仏です。 この石窟には文永二年(1265)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われています」という説明板が立っている。
朝日観音
 更にその先、右手に「夕日観音」の標識が立っていて、上の方に磨崖仏がある。「滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏」だ。これは南北朝時代のものということで、崖を登って写真を撮ったが、ここで大変な間違をおかしてしまった。この磨崖仏を夕日観音と勘違いしてしまったのだ、。なんとまぁ、後で気が付いてがっくりきてしまった。

滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏
「夕日観音」は更にその上にあったのだ。これは鎌倉時代に彫られて、人の背丈ほどもある西向きの仏様で、夕日が当たるから「夕日観音」と呼ばれているが、実際は阿弥陀如来像という。しかしながら上記のような理由で写真はございません。私の全くのミスです。

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 「5月22日に「山の辺の道」を歩いた際、ゴールが柳生街道と合流していたため、その場所からさかのぼって、「夕日観音」を見にいった。
上を見上げると、確かに観音像らしきものが見える。カメラを思いっきりアップにして撮ってみたが、よく映っていないので、急斜面をよじ登って近くまで行って撮影することにした。ところが夕日は逆光になっていて、撮りずらい。まさに夕日観音だ。それでも頑張って 何とか写真に撮って急斜面を滑り降りるように下った。だいぶ頑張ったのだが、後で見るとあまりよく撮れていない。ほかの方のHPの写真を見ると、とてもきれいに撮影されているものがあるが、どのようにして撮ったのだろうか?
まぁいずれにしてもなんとか「夕日観音」を拝むことができてよかった。」
夕日観音1
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 すぐ先右手に「寝仏」がある。裏側に彫られているということだったので、後ろに回ってみたが、確かに何か彫られているようだったが、よくわからなかった。これは大日如来が刻まれており、近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町前期の作ということだ。
寝仏
 左手少し高い所に「常夜燈」が立っている。文久という文字が彫られているようだが、良くわからなかった。
常夜燈
 やがて奈良の市街地に入っていき、15時35分に破石(わりいし)のバス停に到着する。

 本日の歩行時間      6時間30分。
 本日の歩数&歩行距離  32189歩、22.5km。

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん