東高野街道を歩く

2016年09月21日(水) ~2016年09月23日(金)
総歩数:98884歩 総距離:70.5km

2016年09月21日(水)

石清水八幡宮~星田      

                               曇り


 高野詣でのために高野山へ歩いていく道のことを高野街道と呼び、淀川を船で下って、大坂へ上陸し、四天王寺・住吉を通って堺に出、そこから紀見峠へ向かう西高野街道、四天王寺からまっすぐ南下して紀見峠を越える中高野街道、そして京都の石清水八幡から生駒山脈の西側山ろく沿いを南下して紀見峠へ向かう東高野街道の主として三つのルートがあった。またこれ以外に天王寺から南に進み、中高野街道と平行する形で狭山に達する下高野街道があったが、前述の三高野街道と比較すると利用度はかなり低く、道標や茶屋、一里塚等の伝承も今のところないという。
 本来、貴族達が高野山へ参詣するときは、南都の諸大寺を巡って高野山へ向かうか、四天王寺や住吉を拝して高野山へ赴くことが多かったので、今回歩いた東高野街道のように、京都から特に名所や大寺のないコースを歩くことはまずなかったと思われる。これらのことから、この道は高野詣での起こる以前より、人の通行や物資の輸送のための道で、京都と高野を結ぶ重要な道路だったと想定されている。そのため、幕府が管理をしたり、また、村が責任をもって掃除をしたり、馬継ぎをする道ではなく、従って宿場もなかった。
今回歩くに際し、大阪府教育委員会の歴史の道調査報告書「高野街道」と「大阪府歴史街道ウォーキングマップ」、それにこの街道を歩かれた先人の方のHPを参考にさせていただいた。

 9時37分に八幡市駅を出発する。石清水八幡宮の一の鳥居の前から右へ進むと「神応寺」があり、総門の左手に高さが6mもある日本最大と言われる鎌倉時代の「五輪石塔」があり、重要文化財に指定されている。この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまったので、竹で作った綱で引いたという話が残っているという。
五輪石塔
 かなり急な階段を昇っていくと神応寺の本堂がある。ここは貞観2年(860)、石清水八幡宮を勧請した行教が一宇を建立したことに始まるという。文禄・慶長の役(1592~1598)の際、豊臣秀吉は石清水八幡宮に詣でて当寺に止宿し、200石の寺領を寄進したという。

神応寺1神応寺2


 「石清水八幡宮」は平安前期に八幡宮総本社の宇佐神宮から勧請された神社で、日本三大八幡宮(宇佐神宮、筥崎宮(または鶴岡八幡宮)の一つとされており、京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として、鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視されていた。
 境内への入口に立っている「一の鳥居」の左右には元文2年(1616)の常夜灯が立っており、また鳥居に掲げられた銅製の額には「八幡宮」と刻まれているが、これは一条天皇の勅によって藤原行政が書いたものを、松花堂昭乗が元和5年(1619)に書写し、打ち出したものとされる。「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けた形に作られている。
一の鳥居一の鳥居学

 右手に放生池があり、その先の頓宮北門をくぐって進むと「頓宮」がある。この頓宮は祭事における神輿の待機所で、他の神社でのお旅所に相当するもので、年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築して仮宮としていたが、大正4年に現在の社殿が造営され、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われた。
頓宮北門頓宮

また、南門は、もと山上の南総門であったものを昭和14年に移築してきたものであり、頓宮殿と同様「平成の大修造」事業において桧皮葺屋根から銅板葺屋根に葺き替えられたという。
頓宮南門
 「二の鳥居」の前には明和8年(1771)の常夜燈が立っている。
二の鳥居
 二の鳥居をくぐって進むと七曲りと呼ばれるジグザグの階段を昇っていく。
 「三の鳥居」の前には享保7年(1722)の常夜燈が立っており、参道の先に本殿が見える。
三の鳥居
 三の鳥居から本殿へ向かう道の両側には古い石灯籠が立っているが、それぞれに形や大きさが異なっている。造られた時代もバラバラだ。
古い石灯籠
 石清水八幡宮の本殿の手前に楼門があり、楼門から東門まで、楼門から西門までと、両門から北へ背面にコの字型に廻した、入母屋造、本瓦葺の廻廊があって、本殿はその中にある。寛永11年(1634)に造替されており、これらの建物10棟が平成28年に国宝に指定されている。
石清水八幡宮
 裏に回ると「若宮社」と「若宮殿社」が並んで建っている。左手の大きい社殿が若宮社で応神天皇の皇子である仁徳天皇を祀る男性の守護神、右手の少し小さな社殿は若宮殿社で女性の守護神として応神天皇の皇女が祀られている。これらは摂社の中で最も大きな社殿で、本殿や総門と同時期の建築であり、重要文化財に指定されている。
若宮社」と「若宮殿社
 そのほかにも住吉社や気比社、水若宮社、神倉等数多くの摂社があり、それぞれ重要文化財に指定されている。
 参拝を終えて裏参道から山を下っていくと、「安居橋」(あんごばし)に出る。橋の名前の由来には諸説あって、一説では鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名づけられたといわれ、また、かってすぐ川下にあった五位橋に相対する仮の橋として造られたため、相五位橋(あいごいばし)と呼ばれ、これが変化して安居橋と呼ばれるようになったとの説もあるという。慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで焼失したが、古くから高橋という反り橋(太鼓橋)が約150m川下にあったことから、この高橋を偲ばせる形で再興されたと説明されている。
安居橋
 橋を渡ったところで「飛行神社」を見落としていたので、街道から外れて左へ進む。ここは日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功した二宮忠八によって創建されたものだ。その後、人を乗せることができる飛行機をライト兄弟が実現したことを知った忠八は飛行機開発から離れたが、飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社を大正4年に創建したという。平成元年に境内の拡張、改装を行い、拝殿は古代ギリシャの神殿を模し、鳥居は航空機に使われることの多いジュラルミンで作られているが、一般的な神社を想像していた私にはちょっと違和感があった。街道に戻って10時55分に改めて出発する。
飛行神社
 大谷川に架かる買谷橋を渡った先、左手に「東高野街道」の案内板が立っている。この案内板はこれから先もしばらくあり、歩くうえで助かった。
案内板
 ここから右手に少し入ったところに「泰勝寺」がある。ここには松花堂昭乗の墓という五輪卒塔婆があると資料に書かれていたが、境内に入ることができなかった。
泰勝寺
 その先、街道から左へ少し進んだところにスーパーがあるので、ここで昼食の弁当を購入する。まだ11時頃だったが、この先に食事をできる場所がないようだったので、念のため購入しておく。今日は朝5時に朝食を摂ったので、この時間でもかなりの空腹だったのだ。
 街道に戻って進むと電柱に街道の案内板が立っており、それに従って左折、その先の右手に「小野頼風塚」と刻まれた碑が立っており、ここから細い路地を入っていくと「頼風塚」がある。平安時代の初期、小野頼風という人がこの地、男山に住んでいた。彼は京の都で仕事に就いていて、京の女性と深い契りを結んでいたが、その後、頼風は八幡に帰ってしまうと、いつしか二人の間は冷えてしまった。彼女は八幡へ頼風を訪ねてきたが、頼風が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり放生川の上流「泪川(なみだがわ)」に身を投げて死んでしまった。やがて、川のほとりに彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いたという。この花は恨みを含んだ風情があり、近寄れば遠のき、立ち退くともとのようになるのを見て、頼風は自責の念にかられ、同じように放生川に身を投げて死んでしまった。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたという。女の塚である「女郎花塚」はここから少し離れた松花堂庭園内にあるという。
小野頼風塚頼風塚

 街道に戻って進むとすぐ先に図書館があり、その前に東高野街道の案内板とその横に「金剛律寺故址 京都元標四里三十二丁」と刻まれた石碑が立っている。金剛律寺は、建武年間(1334年~37年)ごろに建立されたが、江戸時代末に壊れてしまい廃寺になったという。また、大正3年にこの地に町役場ができ、ここが八幡における里程の計測基点となったという。
金剛律寺跡 街道の雰囲気を感じさせる道を進んでいくと、左手に「巡礼道 右 宇治近道」と刻まれた道標が立っている。
巡礼道
 右手に「正法寺」があり、その入り口右手に「千躰の地蔵尊」を安置する地蔵堂がある。扉の隙間から写真を撮らせていただいた。このお寺は、源頼朝の御家人で石清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基となり、建久2年(1191)に創建した寺と伝えられ、以後この寺は志水氏の菩提所となったという。現在の建物は、寛永7年(1630)に再建された本堂・方丈・唐門・鐘楼など七堂伽藍を備えているというが、お寺は公開日が決まっているようで、今日は境内に入ることはできなかった。
11時40分になったので、地蔵堂の前で先ほど買った弁当を食べる。
千躰の地蔵尊正法寺

 その先、道が二股に分かれる所に「右 京街道 左 本在所道」と刻まれた石碑が建っている。
右 京街道 左 本在所道
 進んでいくと、道は二股に分かれており、そこに「水月庵」と刻まれた道標が立っている。
水月庵
 ここを右へ進んでいくと、右手に「八角堂」があるのだが、現在修理中らしく、周囲をシートで囲まれていたので、シートの隙間から辛うじて写真を撮った。ここは現在正法寺の境外仏堂となっており、堂は健保年間(1213~1219)に石清水八幡宮の社家善法寺祐清が石清水八幡宮の境内に建立したもので、のちに大破、慶長12年(1607)豊臣秀頼によって再建、更に元禄11年(1698)、社務の善法寺央清が堂宇を再興したという。
八角堂
 その先、街道から左へ外れたところに松花堂庭園があり、ここに女郎花塚があるということだったが、中に入らずに先を急ぐ。
 その先で、左手に「もみじ寺」があるので、街道から少し外れて行ってみた。ここは石清水八幡宮検校職であった善法寺宮清の建立。宝冠阿弥陀如来坐像をはじめ、僧形八幡坐像を安置しており、また足利義満の母良子の菩提寺であった。境内には寄進された紅葉が多く、「もみじ寺」ともいわれるそうだが、拝観には予約が必要ということで、中を見ることはできなかった。
もみじ寺
 やがて道は洞ヶ峠へ進む。ここは京都府と大阪府の境の場所だ。天正10年(1582)の本能寺の変の直後に、明智光秀軍と羽柴秀吉の軍が山崎で激突したが、そのとき、筒井順慶は洞ヶ峠まで兵を進めたものの、態度を明確にせず、日和見をしたことから、日和見することを洞ヶ峠、あるいは洞ヶ峠を決め込むという表現をすることがある。しかし実際は筒井順慶は洞ヶ峠へは行かず、中立を保ったという。ただ峠とはいっても現在ではほぼ平坦な道になっている。12時49分にここを通る。
 右手入ったところに「円福禅寺」がある。ここは天明3年(1783)、臨済宗最初の専門道場、江湖道場として建立された。重要文化財で日本最古と伝えられる達磨大師坐像が坐禅堂の聖僧として安置されているので「達磨堂」とも呼ばれている。ただここも拝観はできなかった。
円福禅寺
 その先で旧道は失われているようで、道なりに進んで1号線に合流する。
右手に池を見ながら進んでいくと、左手少し入ったところに石仏群がある。歴史の道調査報告書によると「鶴龍山飛鳥地蔵や石仏板碑、一石五輪塔などが集積しており、江戸初期のものが多い」となっているが、それがこの場所なのかどうかよくわからなかった。
石仏群1石仏群2

 出屋敷北の信号のところから、1号線と分岐して旧道に入るが、この辺りも昔を感じさせる雰囲気がある。
昔を感じさせる
 右手に「円通寺」があり、境内に「宝永の役行者」と古い石碑が立っている。
宝永の役行者古い石碑

 そのすぐ先、1号線に合流するところ右手に、東高野街道の案内板と里程標が立っており、「東高野街道 三里 距京都府綴喜郡八幡町弐里拾弐間 明治33年」と刻まれている。
13時47分にここを通る。
東高野街道 三里
 右手に浄水場があり、その先右手に郡津墓地がある。この墓地に文政2年(1819)の谷村古光の句碑を兼ねた道標と文政7年(1824)の宮古路紋太夫塚の墓碑があると資料に書かれていたので、探してみたがわからなかった。
 その先で18号線から左へ分岐して郡津の集落の中を進むが、標識がなく、わかりにくくて道を間違ってしまった。地元の方にお聞きしてなんとか18号線に合流することができたので、そこから元に戻って、どこで道を間違ったのか確認をしてみると、左手前方に郡津小学校が見える所で道は二股に分かれており、最初はここを間違って直進してしまったのだが、本来の街道はこの二股を右に分岐する道だったということがわかった。
 18号線を進んで、新天野川橋を渡るが、道の右手に「地蔵堂」がある。資料によるとこれは地蔵道標で「京 やわた道 ○○霊尊 舟形光背 天野川西詰」「右高野道 左 大和道」と刻まれているようだ。15時3分にここを通る。
天野川地蔵堂
 旧道はこの地蔵堂の反対側、18号線から左へ分岐して進む。
 右手に「本尊掛松」がある。元亨元年(1321)融通念仏宗中興の祖法明上人が男山八幡神の霊夢を受け、男山へ向かう途中、この地で八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来の画像を授かった。上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏を唱え、感激のあまり踊り出した。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。本尊掛松はこの画像を掛けたことに由来すると説明されている。
本尊掛松
 その先左手に「大峰山 右宇治 左京八幡道 すぐ高野大坂道」と刻まれた安政2年(1855)の道標と「右 山根街道 私部○津田 山城道 すぐ東高野街道京道」と刻まれた明治37年の道標、さらに享保10年(1725)の地蔵尊がある。ここが山根街道との分岐点になる。
安政2年(1855)の道標
 1号線の高架下を通って進むと、田んぼの中、右手に「一里塚跡」の碑が立っている。
一里塚跡
 星田駅に15時45分に着く。今日はこれから京都で行われるクラブのOB会に出席するため、ここで終わることにする。
 京都ではいつものメンバーで食べて、飲んで、歌って、深夜まで宴は続き、楽しいひと時を過ごすことができたが、終わる頃にはさすがに疲れを感じた一日だった。もう若くないことを実感する。

 

 本日の歩行時間  6時間8分。
 本日の歩数&距離 31814歩、22.6km。
 本日の街道純距離 16.1km。(途中、石清水八幡宮等に寄り道をせず、道も間違えずに街道だけを歩いた場合の距離)
                           

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