中高野街道を歩く

2017年02月06日(月)
総歩数:31542歩 総距離:22.5km

2017年02月06日(月)

平野~河内長野市楠町(西高野街道交点)

                            曇りのち雨

 
 中高野街道は時代によって道筋に変化が見られ、守口市から平野を経由して西高野街道との交点までを示すこともあるようだが、「大阪府歴史の道調査報告書」では平野から始まるように書かれているので、今回はこれに従って平野から歩くことにする。この街道は高野山へ向かう道の中でも距離や時間の面で便利な道であったため、西高野街道に次いで利用者が多い街道であったという。
 
 「杭全神社」にまず参拝する。ここは貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。拝殿の奥に三つの本殿があり、神社のHPによると、一番左手の第一本殿は貞観四年(862)に建立され(現在の建物は元禄3年(1690)に旧春日大社本殿を移設)、第二本殿は元享元年(1321)に、更に第三本殿は建久元年(1190)に建立された(ともに現在の建物は永正10年(1513)に建立)歴史があるという。それぞれ重要文化財に指定されている。
杭全神社
 境内には樹齢千年と記された巨楠が立っていて、大阪府指定天然記念物になっている。
樹齢千年
 10時41分に神社を出発する。
 神社を出て宮前の信号で25号線を横断して進むと、突き当り左手に「當社 熊野権現 祇園社」「右 ふちゐ寺 大峯山上 かうや山」「右 大坂」「すぐ 天王寺 大さか」と刻まれた寛政12年(1800)の道標が立っている。
宮前の信号
 ここを左折、すぐ先で右折して進んでいくと、左手に「全興寺」がある。
ここは聖徳太子がこの地に小宇を建立して薬師如来の像を安置されたと寺伝にあり、これが全興寺の草創と言われている。
本堂は天正4年(1576)に建立されたが、元和元年(1615)の大阪夏の陣で一部を焼失したため、寛文元年(1661)に再建されたもので、大阪府下では古い木造建築の一つという。
ここの境内に「左 ふじ井寺 道明寺 大峯山上 是より一丁東 乃辻右へ同所 道」「右 さ山 高野山 すぐ信貴山道」「右 天王子 大さか すぐ 住吉 さかひ 道」と刻まれた慶應2年(1866)の道標が立っている。
全興寺1全興寺2

 全興寺の横の道に「旧流門筋」の案内板がある。それによると平野は環濠集落で、各地へ通じる13の出入り口があり、この筋の南詰に流口木戸門があったことから、この筋を流門筋と呼んでいたと書かれている。平野は交通の要衝で戦国時代には周囲に環濠をめぐらす町だったのだ。
 「流口地蔵」が右手にある。ここが流口木戸門があった場所だ。地蔵堂の右前に環濠に架かっていた石橋の親柱がある。
流口地蔵
 その先左手に「北向地蔵」がある。
北向地蔵
 右手に「北口地蔵」がある。ここは喜連環濠集落の北の出入り口で、この地蔵尊は天文年間に(1532~1555)喜連城主細川氏綱によって創建され、現在の地蔵堂は明治10年に再建されたものという。ここにも地蔵堂の右前に松山橋と刻まれた一本の親柱がある。松山橋はかってこの場所に存在した小川を渡る橋だったという。
北口地蔵
 左手に「式内楯原神社」があり、参道右手に松山橋の残りの親柱3本が無造作に置かれている。
親柱3本
 楯原神社は崇神天皇の頃に創建されたという式内社で、境内の奥に「十種神宝大神」がある。これは石上神宮が信長から焼き討ちにあった際、十種神宝が持ち去られ、その後行方がわからなくなっていたが、ある篤志家が町の小道具屋でこれを見つけ、それをこの神社に献上したという。その後 石上神宮の守護職を歴代つとめている庄司氏が返還を求めてきたが、返さなかったと楯原神社のHPに書かれていた。
楯原神社十種神宝大神」

 その横に「息長眞若中媛」と刻まれた石碑が立っているが、息長眞若中媛は応神天皇に娶られた女性のようだ。
息長眞若中媛
 次の四つ角右手に、正面に「中高野街道」と刻まれ、側面に「すぐひらの 大坂」「左 住吉」「すぐこう野」「左 ふちゐ寺」と刻まれた道標が立っている。これは天保4年(1833)に設置された道標だったが、近年紛失したため、平成26年に新しく設置されたという。
天保4年
 その先で昔ながらの屋敷が立ち並ぶ「屋敷小路」と呼ばれる細道を通る。まるで江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の道と記されているが、まさにそんな感じの場所だ。11時30分にここを通る。
屋敷小路1屋敷小路2

 左斜め前方に喜連小学校があるところ、左手に「馬倉地蔵」がある。喜連環濠はこの地蔵堂があるところだけが石垣の会所枡となっていて、馬繋ぎ場があったことから馬倉という名前が付いたという。
馬倉地蔵
 すぐ先、右手に浮彫地蔵があり、何やら文字が彫られているのだが、前掛けがかかっていて読み取ることができなかった。
浮彫地蔵
 この先にコンビニがあったので、ここで弁当を買って昼食にする。
 右手に「瓜破天神」がある。ここは孝徳天皇の大化年中(645~649)当地に住んでいた高僧船氏道昭が五月晦日、三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。このことを朝廷に上申したところ、宮地を賜ったことがこの神社の起源と言われているということだ。12時7分にここを通る。
瓜破天神
 大和川の堤防に突き当たったところ左手に「右 かうや道 すぐ志ぎ山なら」「左 ひらの大さか」「右ハかし原しぎ」「左リハ○○さかい」「すぐさ山」と刻まれた地蔵道標を安置する祠が立っている。
大和川の堤防
 高野大橋を渡って左折し、旧道に合流して進む。
 阪神高速の高架下を通った先、右手に2体の地蔵尊を安置する祠がある。
2体の地蔵尊
 左手に「屯倉神社」がある。当地にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があったという。その後、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えられる延喜式内社で、本殿には神像として菅原道真像が安置されているという。これは体部は近世の作だが、挿首形式の頭部は南北朝時代の古様を示しているという。
屯倉神社
 境内には「神形石」があるが、これは菅原道真が京都から九州へ赴く途中、この寺に立ち寄り、この石に座して祖神の天穂日命に無実の罪をはらすことを祈ったと伝えられているという。
神形石
 屯倉神社を出てすぐの信号のところ左手に、バラック建ての小屋があり、その中に赤い布が見えた。資料ではここに宝永3年銘の地蔵があることになっているので、この赤い布が地蔵尊に掛けられた前掛けだったのではないかと思った。12時39分にここを通る。
赤い布
 左手に阿保神社の看板が立っているところから左折すると池に突き当たるので、右折してこの池に沿って進む。
阿保神社
 その先で先ほど左折した道と合流するが、ここに延命子安地蔵を祀る祠があり、その前に「右 八尾信貴山 左 平野大坂 道」と刻まれた明治十○の道標がある。
延命子安地蔵
 そのすぐ先で長尾街道との交点に来る。右手に「日露戦役記念碑と忠魂碑」が立っている。この辺りは以前は数軒の茶屋があって、阿保茶屋と呼ばれていたという。12時58分にここを通る。
長尾街道
 その先左手に河内松原駅を見ながら進んで細道に入って進むと、右手に「右 平野 大坂道」「左 さやま かうや よしの道」「左 さかい 住よし道」と刻まれた天保5年(1834)の道標がある。
河内松原
 その先で道はアプロというスーパーマーケットに突き当たるので、ここを右折するが、そのすぐ先左手に中高野街道の案内板が立っている。
 さらにその先で竹内街道との交点があり、ここに「右 ひらの 大坂道」「左 さやま 三日市 かうや道」「左 さかい道」と刻まれた寛政9年(1797)の道標が立っている。13時27分にここを通る。
竹内街道
 資料ではここから左折、その先で右折して進むようになっており、その通りに進むと、その先右手に「右 さやま (三日市) かうや」「左 ふぢゐ寺 上太子 やまと道」「左 ひらの 大坂道」と刻まれた寛政9年(1797)の伊勢講が建てた道標が立っている。これは長い間地中に埋もれていたが、平成25年の竹内街道敷設1400年にあたって旧地に復元したという。
寛政9年
 ここから右折して進むが、その先で中央環状線に突き当たって先へ進むことができないので、環状線に沿って右折し、その先の信号(先ほど左折したところを直進した道に合流)を渡る。信号を渡って先ほど環状線にぶつかったところまで一旦戻ってみたが、特にこれといったものはなかったので、元に戻って先へ進む。
 右手に丹南バス停があり、その横に3体の地蔵尊と役行者を祀る祠がある。
3体の地蔵尊
 その先で左折したところ右手に小洞がある。資料に書かれている「延喜式内社櫟木神社」の跡地にある小祠なのだろうか?よくわからなかった。
櫟木神社
 阪和自動車道の高架下を通った先で右折すると「蓮光寺」があり、この前に2体の地蔵尊と役行者を祀る祠がある。資料によると永禄9年(1566)の地蔵尊という。
「蓮光寺
 左手に「菅生神社」一の鳥居が立っており、その横に「すぐ 三日市 高野山」「當社菅生天満宮」「すぐ 平野総本山 大阪 天王寺 右 葛井寺 誉田八幡宮 道明寺」と刻まれた慶應2年(1866)の道標が立っている。14時42分にここを通る。
「菅生神社
 その先で198号線から左へ分岐して進むと、右手に「一の木地蔵」と記された地蔵堂がある。
一の木地蔵
 東野公民館が右手にあり、その前に寛政元年(1789)の伊勢灯籠が立っており、その横に二つの力石がある。
寛政元年
 大阪狭山市に入っているので、街道の案内が道路に埋め込まれている。大坂狭山市は街道に関して標識等がかなり整備されている。
大阪狭山市
 大烏池の周囲を回って進むが、この辺りは新興住宅街になっていて、道がわかりにくい。
 右手に寛保元年(1741)の地蔵を安置する祠があり、その横に安永4年(1775)の伊勢灯籠が二つ並んでいる。
寛保元年安永4

 すぐ先で198号線に合流するが、ここの右手に享保14年(1729)の丸彫り地蔵尊を安置する祠がある。
享保14年
 南海高野線のガード下を通って進むと、東小学校の先で三差路になっているので、一旦198号線から右へ分岐、三差路の真ん中の道を進み、その先で東除川に架かる狭山橋を渡るが、ここが下高野街道との合流点だ。15時26分にここを通る。
この辺りは狭山藩の陣屋の裏門があったと資料に記されている。何か遺構が残っているかなと思ったが、何もないようだった。
狭山橋
 橋を渡ったところで道は二股に分かれており、最初うっかり右へ進んでしまったが、これは間違いで、左へ進むのが街道だ。
 街道を進むと、すぐ先で198号線を横断するが、その交差点の左側に狭山北条氏の菩提寺の報恩寺があり、その門前に天保11年(1840)に神南辺大道心が建てた標石が立っている。
報恩寺1報恩寺2

 そのすぐ先左手に下高野街道と中高野街道のことを説明した案内板が立っている。ここでも中高野街道は平野から南下した道と説明されている。
 大阪狭山市駅を左に見て南海高野線の踏切を横断したところ左手に「右 かうや」「左 よしの道」と刻まれた道標と「左たきたにミち こんごう」と刻まれた道標、その奥に浮彫地蔵を安置する地蔵堂とその横に文化2年(1805)の伊勢灯籠が立っている。
文化2年
 そのすぐ先で再び南海高野線の踏切をわたり、線路に沿って進んでいくと、左手に「中高野街道」と書かれた標柱とその横に中高野街道と狭山神社と書かれた案内版が立っている。
中高野街道と狭山神社
 左手に金剛駅を見ながら進んでいくと、右手に「伊勢 雨宮常夜燈」と刻まれた伊勢灯籠が立っている。
雨宮常夜燈
 右手に風輪寺があり、境内左手に「六十六部廻国碑」「六字名号碑」が立っている。16時丁度にここを通る。
風輪寺
 道はすぐ先で二股に分かれているので、左へ進むと左手に安楽寺があり、門前に寛政12年(1800)、明和5年(1768)の宝篋印塔や天明5年(1785)の伊勢灯籠が立っている。
安楽寺
 その先で急坂を下っていくと、途中左手に寛政9年(1797)の地蔵堂がある。
 急坂

 その先でこれまで時々降っていた小雨が激しくなり、みぞれ交じりの強い雨が降ってきた。今日は朝から風が強かったので、その上に雨が降ってきて参った。
 あと少しで歩き終えるところまで来ているので、もう少し待ってくれ、と祈りながら先を急ぐ。
 左手に延命地蔵を安置する祠がある。
延命地蔵
 16時39分に西高野街道と合流する。これで中高野街道を歩き終えたことになる。
西高野街道と合
 ここから千代田駅まで歩く。

 本日の歩行時間   5時間58分。
 本日の歩数&距離 31542歩、22.5km。
 中高野街道純距離 20.5㎞(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん