七里半街道を歩く

2017年10月30日(月)
総歩数:36115歩 総距離:24.3km

2017年10月30日(月)

海津~敦賀

                             雨

 七里半街道はかっての街道の起点であった敦賀市疋田と峠道が平坦になる高島市マキノ町海津までの距離が約七里半(約30km)であったことに由来するという。古くは別名として山中峠、愛発越(あらちごえ)海津越(かいづごえ)とも呼ばれていた。大津を起点とする西近江路とダブっているようだが、今回は大津から海津までを西近江路、海津から敦賀までを七里半街道に分けて記載することにした。
 二週続けての台風の来襲で、今回は22号。昨日は終日強い雨だったので、一日休んで今日歩くことにする。
 台風一過の好天を期待していたのだが、吹き戻しの強風が吹き、しかも雨まで降っていて最悪のスタートになる。

 7時41分に海津の信号から出発するが、ここにコンビニがあったので、とりあえず昼食用のパンと牛乳を購入しておく。これは途中に食事をする場所などなくて大正解だった。
 旧道は信号から161号線とは別れて左手にあるので、これを歩いていくと、右手に「清水の桜」がある。これはエドヒガンザクラで、私は読んでいないのだが、水上勉の小説「櫻守」の題材になったそうだ。加賀藩前田候が上洛の折、その美しさに何度も振り返って眺められたことから「見返り桜」と呼ばれたという。滋賀県自然記念物に指定されている。
清水の桜
 その先で道は二股に分かれており、ここを左へ進んでしまった。進んでいくと養魚場があって、そこで道は行き止まりになっている。ここで間違いに気が付いて、元に戻って、二股を右へ進む。その先で再び道は二股に分かれているので、ここは左へ進む。
道は二股
 この先は山道で一昨日からの雨で道が水路になっており、水がかなりの勢いで流れてきて歩きにくい。この道はどこまで続くのだろうと思いながら進んでいくと、右手に階段がある。ここから先は全くの藪になっているので、この階段を登っていく。あまり人が通らないらしく、かなり草が繁っている。
階段
 階段を登ると161号線に出る。この坂道が追坂峠と呼ばれるところで、昔は難所だったという。
 右手に道の駅マキノ追坂峠を見ながら進み、その先で161号線から右に分岐して小荒路の集落の中を通る。
 右手に「長善禅寺」というお寺があり、金色の大きな仏像が立っている。
長善禅寺
 右手に地蔵堂があり、その横に五輪燈や石仏がある。
五輪燈や石仏
 ここで雨がさらに強くなってきたので、ちょうどガレージがあったので、そこに入って雨が小やみになるまで休憩し、更に風が強いのでカッパを出してこれを着て歩くことにする。
 旧道を進んで行き、一旦161号線に合流するが、すぐ先の野口の信号で再び161号線から右へ分岐する旧道を進み、野口集落の中を進んでいく。
 右手に「伝正寺」がある。ここの本堂は文化6年(1809)に再建されたという。門前に「蓮如上人御休地」と刻まれた石碑が立っている。
伝正寺
 その先、右手に「剣熊関之跡」碑が立っている。小荒路辺りでは比較的開けていた土地も、この辺りでは急に谷あいが狭まり、抜け道がなく関所の適地だったという。関所の館の背後には土留めの石積みが現存していると資料に記載されており、よくよく見てみると、それらしきものがかすかに見えた。ここは徳川家康が東海道に設置して重要関所であった新居関所と格が似ているとされ、新居関と似た機能と規模をもっていたという。それだけ北国海道沿いで重要な役目を担っていたということのようだ。碑の横に地蔵堂がある。ここを9時8分に通る。
剣熊関之跡
 その先で161号線に合流する。この辺りは歩道がない。ここを歩く人間なんてほとんどいないと思われるので仕方がないが、車の通行量はそれなりにあるので、あまり気持ちのいいものではない。
 路原集落があり、ここの左手に「本慶寺」がある。ここは寛永4年(1627)に開基されたという。
本慶寺
 右手に国土交通省の国境スノーステーションの建物がある。
 この辺り地図には161号線が一本描かれているばかりで目印になるものが何もない為、横を流れている川が右手にあるのか左手にあるのかで自分が今歩いている場所を地図上で確認しながら進んでいく。
国境といういかにも国境いという感じのバス停があるところで、台風の影響で湖西線が現在不通になっているという有線放送が流れていた。先週の台風21号の際も湖西線が4日間不通になったそうだが、今日は敦賀まで歩いた後、帰宅する予定なので、湖西線が不通だとちょっと困るなどど考えながら進んでいく。
 滋賀県と福井県の境を10時8分に通る。
 左手にスノーパークというスキー場があり、その前の道路に温度計が立っていて9度を示していた。さすがに寒い。
温度計
 道路に設置されている融雪装置のテストが行われているようで、管から水が勢いよく放出されている。いかにも雪国を思わせる光景なのだが、ただでさえ雨で道路が濡れているのに、その上に放出される水で道路は水浸しだ。ここを信号がないため、車がスピードを出して勢いよく走るので盛大な水しぶきが跳ね上がって、歩いている者としては大変だった。
融雪装置
 左手に「親鸞聖人有乳山旧跡碑」が立っている。昭和47年に建立されている。
親鸞聖人有乳山旧跡碑
 ここから161号線から左へ分岐して山中宿跡に入っていく。ここは江戸時代には宿場があってかなり賑わったということだが、現在は入り口に廃屋が一軒だけ建っているだけで、それ以外は人家は全くなくなっている。10時33分にここを通る。
山中宿跡
 ここは草が繁っているが、道はしっかりとついているので、車も通らなければ、散水もなくて歩きやすい。左手に光伝寺跡があり、ここに「親鸞聖人有乳山奮跡 正中2年(1325)」と刻まれている石碑と資料によると「親鸞聖人御詠歌 越後なるあらちの山に行きつかれあしもちしほに染むるはかりそ」「大坂播磨屋弁右衛門」と刻まれた文化11年(1814)の石碑が並んで建っている。
光伝寺跡
 その先で161号線に合流するが、ここからは散水が行われていなくてほっとする。
 左手に足利尊氏の命を受けて、金ケ崎城の戦いに参加して亡くなったという小笠原貞宗を祀っているという地蔵堂がある。
小笠原貞宗
 道の両側にタブの大木が立っている左手の木の下に「一里塚」碑がある。昭和11年に建てられたものだ。
11時12分にここを通る。
一里塚」1一里塚」2

 その先で161号線から左へ分岐して駄口宿に入る。
駄口宿
 左手に神社があり、境内にかろうじて安政、享保と読める常夜燈が立っている。名前がどこにもなかったので何という神社なのかわからなかった。
左手に神社
 左手階段の上に「清光寺」が見える。
清光寺
 161号線を進んでいくと、左手に企業の工場社屋があり、その先で旧道は右へ分岐して追分集落へ入っていく。
追分集落
 小さな橋を渡ったところに「深沢古道入口」と書かれた標識が立っている。深沢古道とは敦賀市と滋賀県西浅井町を分ける道のことで、古代における越前・近江国境越えの主なルートであった。塩津山越えともよばれて塩津に出て、水路で大津に向かうというものだったという。
 この辺りを愛発(あらち)深沢区と呼ぶようだ。
 左手に「日吉神社社標」が立っており、右手に「真光寺」がある。
日吉神社社標
 12時7分に新疋田駅に着いたので、ここで昼食にする。海津を出てここまで食事をするような店が全くなかったので、パンを買っておいて正解だった。
 食事を済ませて進むが、駅の前で旧道は161号線に合流する。JR北陸本線の高架下を通り、そのすぐ先で左斜めへ進む。
 左手に岩に「天下和順 延享4年丁卯(1747)南無阿弥陀仏 日月清明 八月十五日」と刻まれた岩がある。
天下和順
 右手に資料を参照すると「右 西京かい津志ほつ 左 東京きの本道 西方はれて千鳥みせたきねかひかな」と刻まれた明治6年の疋田道標が立っている。
疋田道標
 すぐ先左手に「定廣院」がある。
 右手にまだ新しい「疋田会館」がある。資料では疋田公会堂が本陣跡となっていたので、この疋田会館がそれにあたるのかなと思った。12時46分にここを通る。
疋田会館
 ここに敦賀運河(疋田舟川)がある。これは江戸時代後期、日本海を経由して運ばれてきた膨大な荷物を敦賀湊から京都へ送るために設けられた運河遺跡ということだ。昔から敦賀湾と琵琶湖を水路で結ぶ運河の開削を何度も挑戦したが、その一部として敦賀湾から当地まで開通したのが疋田舟川だと説明されている。現在の川幅は約1.5mだが、以前は2.8mあったという。川舟は川沿いの道路から人夫たちによって曳きあげられていったという。
敦賀運河
 左手に「光明不動明王」と書かれた石仏を祀る小祠がある。
光明不動明王
 その先で地下道で8号線を横断して笙の川に架かる市橋橋を渡って進む。
 右手に「ワレ地蔵」がある。右から左に見事に割れている。
ワレ地蔵
 右手に「日吉神社」があり、明治32年の社標が立っている。
明治32年
 右手に「農兵隊の鳩原水害記念碑」が立っている。幕末のころ、北陸街道の重要な分岐点である鳩原に農兵隊の屯所が設けられていたが、慶應2年(1866)大雨で屯所の裏山が崩れ、隊長以下17名の方々が亡くなられたことを悼んで、この碑が建てられたという。
鳩原水害記念碑1鳩原水害記念碑2

 その先で8号線から左へ分岐して進むと、右折して線路のガード下を通って進む道がある。ここが木の芽峠を越えて今庄へ向かう道との分岐点になる。13時57分にここを通る。
木の芽峠
 当初、木の芽峠を越えて今庄まで歩くことも考えたが、今回は七里半街道として歩くことにした。ただ、七里半街道はどこが終点(起点)かわからなかったので、敦賀市役所に問い合わせたところ、七里半街道は官道ではないため、明確な場所はないが、清明神社の辺りが昔は浜だったので、そのあたりから出発したと考えらえるという返事をもらったことから、今回は清明神社を終点とした。
 七里半街道はこの分岐点を直進して進み、8号線に合流、敦賀市内を通って白銀の信号から左折、すぐ先の信号で右折して進んでいくと、14時52分に清明神社に到着する。安倍晴明は正暦年間(990~994)にこの地に住んで、天文、地文の研究したと説明されている。
清明神社
 ここで七里半街道を歩き終わる。

 本日の歩行時間   7時間11分。
 本日の歩数&距離  36115歩、24.3km。
 本日の純距離    23.8km。

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