伊賀街道を歩く

2019年03月08日(金) ~2019年03月09日(土)
総歩数:73926歩 総距離:49.8km

2019年03月09日(土)

平木~伊賀上野

                                晴れ

 朝、ホテルに学生時代、同じ体育会で汗を流し合った仲間のG君が迎えに来てくれた。G君は亀山に在住していて、津のホテルまで会いに来てくれ、ついでに昨日歩いたところまで車で送ってくれることになったのだ。津から平木までのバスは始発が7時45分しかないので、少しでも早く歩き始めたい私にとって、これは助かった。G君は東海道を歩いた時もお世話になったことがある。

 車の中で色々と話をしながら進むが、G君の奥さんが昨日歩いた平木の出身だということだった。途中食事を摂るところがないということでおにぎりとバナナ、リポDの差し入れをいただいた。
 平木のバス停まで来たが、これから長野峠の入り口までは特にみる物はなく、163号線を歩くだけなので、ついでに長野峠の入り口まで送ってもらうことにした。この間約2.5㎞ほど歩きを省略したことになる。

 長野峠の入り口は前方に新長野トンネルがあり、左手に旧国道がある。長野峠には明治のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルと呼ばれる三つのトンネルがあり、これらを見学する方もおられるようだ。新長野トンネル(平成のトンネル)以外は現在通行することはできなくなっているということだ。
ここでG君と別れるが、彼とは4月に京都で行われるクラブのOB会で会う予定になっているので、再会を誓って別れる。

 8時15分に出発する。
旧国道を2分ほど進むと、右手に「犬塚地蔵」がある。昔、長野氏の家来に鹿間という武士がいて、猟をするため犬を連れて山を歩いていると、犬が吠えて吠えて進もうとする鹿間氏を噛みつこうとしたので、腰の刀で犬の首をはねたところ、犬の頭は空を飛んで大木の陰でこちらを狙っていた大蛇の喉に噛みついたという。犬の忠義に感じ入った鹿間氏がこの地に首を葬り、お祭りをしたという言い伝えがあると説明されている。天保5年(1834)の地蔵尊や供養塔が3基ある。
犬塚
この横からいよいよ長野峠を登り始める。旧長野峠まで徒歩30分という標識が立っている。長野峠は伊賀七口の一つということだが、事前調査ではこの峠のことは情報が少なくてよくわからない状態だったので、どのようになっているのだろうと思いながら登っていく。しばらくは落ち葉が道一杯に積もってはいるものの、途中までは舗装された道なので、わかりやすい。
長野峠
 やがて舗装はなくなり、山道になるが、道は一本道だし、所々に標識が立っているのでそれに従って進んでいく。
長野峠1長野峠2
 
やがて階段があり、これを登ると林道に出る。
階段
 林道を横断したところに、「旧伊賀街道 長野峠」と書かれた標識が立っており、その横にイノシシを捕る罠の金網がある。
ここが長野峠の頂上になるようで、その先はすぐ下り道になる。8時47分にここを通る。標識に書かれていた通り、ちょうど30分で頂上まで来たことになる。
峠頂上
 小川が流れており、それに沿って下っていくと、途中に石垣の跡が残っている。街道の名残なのだろう。
石垣
 しばらく下っていくと、道は二股に分かれている。GPSで確認して左へ進む。9時7分にここを通る。
二股
 右手、川の対岸に何やら建物らしきものがあり、石仏が安置されているようだが、よくわからないし、対岸へ渡る道もないのでそのまま道を下っていく。
建物
 やがてT字路に出る。右手に「従是 旧長野峠道」の石柱が立っている。長野峠を越えたのだ。思ったより簡単に、迷うことなく峠を越えることができてほっとする。9時12分にここを通る。登り始めて55分が経過している。
出口1出口2

 ここから右へ緩やかに坂を下っていくと、42号線に合流するので、これを左へ下っていく。
 右手に猿蓑塚があり、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と自然石に刻まれた天明8年(1788)の芭蕉句碑や菊山九園の句碑が立っている。芭蕉が元禄2年(1689)に奥の細道を歩き終え、伊勢の遷宮を拝して、故郷の伊賀上野に帰るため、この長野峠を越えた時に詠んだ句ということだ。この句碑の少し上に弁天堂があったそうだが、現在は汁付に移されているそうで、この後、これを見ることになる。9時23分にここを通る。
猿蓑塚
ここからすぐ先で左手に新長野トンネルがあるところに来る。
ここに温度計があり、5℃を示していたが、そんなに寒さは感じなかった。
トンネル
 汁付の集落に出てくると、左手に「常夜燈」がある。草に覆われているのでわからないが、資料によると「五社八幡宮」と刻まれているようだ。9時42分にここを通る。
汁付
 汁付のバス停があるところ右手少し入ったところに「弁天堂」がある。これが先ほど芭蕉の句碑があったところにあった弁天堂で、昭和の初めにこの地へ移したということのようだ。これを見ているとおばさんが寄ってきて、何をしているのか?と聞いてきたので、伊賀街道を歩いていますとお答えすると、先ほどの常夜燈を指して、草を刈らなければいけないのだが、それもできない。弁天堂も毎月21日にお祭りをしているのだが、若い人がいなくなって、お世話をできる人がめっきり少なくなり、いつまで続けられるかわからないといわれていた。過疎はどこも深刻な問題になっていることがよくわかる。弁天堂の前に細道があったので、これが旧道かと思って少し歩いてしまったが、これは間違いだった。
弁天堂
 左手に「慈眼寺・観音堂」がある。ここは永和3年(1322)に創建されたお寺で、本尊の十一面観音は弘法大師の作と伝えられているが、明治維新の神仏分離によって観音堂と呼ばれるようになったという。本尊を祀る厨子は文政元年(1818)に改宗され、本堂は昭和22年に再建されたという。正徳3年(1713)の手水鉢や古い宝篋印塔、また資料によると「弘法大師 当国八十八か所第三番 慶應三丁卯(1867)仲秋」と刻まれた道標が立っている。
慈眼寺1慈眼寺2

 観音堂の左手階段を上ったところに愛宕社があって社前に慶長20年(1615)に造立された石灯籠があり、これは村内に現存する灯籠の中では最も古いものという説明がなされていたが、階段は通行禁止になっていて登ることができなかった。10時10分にここを通る。
この辺りが上阿波宿があったところだが、火災が相次いで村が全焼したこともあり、元禄10年(1697)に平松へ宿場を移したという。
 すぐ先で旧道は右へ分岐するようになっているが、通行できないようになっていたので、そのまま163号線を進む。
通行不可
 左手に「天真大御神」があるところから163号線から右へ分岐して進む。10時24分にここを通る。
天真大御神
 突き当りを左折して進むと、右手に平松構造改善センターがあり、そこに「宿内安全御神燈」と刻まれた慶應2年(1866)の常夜燈と昭和12年に改建された木製の道路元標が立っている。この辺りが平松宿があったところだ。
慶応2年
 右手に自然石の阿波大仏道標が立っている。資料によると「右 大佛 いはやふどう明王 しゅんじょうだうみち かけぬけ本みちよりちかし」と刻まれているようだ。10時40分にここを通る。
阿波大仏道標
 すぐ先で163号線が右へカーブをするところで旧道は直進する細道を進み、その先で163号線を横断して進んで、服部川沿いの道を通る。服部川は水がきれいで、まさに清流という感じの川だ。
服部川
左手に御菓子工場があるところに石仏がある。
石仏1
その先にも左手に石仏がある。
石仏2
更にその先の大樹の下にも小祠がある。
小祠
 その先で一旦163号線に合流して太平橋を渡るのだが、その橋の袂、左手に「からかさに 押しわけみたる 柳かな」という松尾芭蕉の句碑と、その横に道中祈願塔(道標)が立っており、資料によると「南無阿弥陀佛」「左 京 なら 大坂道」「往来安全 嘉永二年(1849)」と刻まれている。11時6分にここを通る。
太平橋道標
 大平橋を渡ってすぐ163号線から左へ分岐して進む。
 川に沿ったところに看板が立っており、それによるとこの服部川にはオオサンショウウオが生息していると書かれている。オオサンショウウオも住むことができるほど水がきれいなのだろう。
 左手天神橋の袂に資料によると「右 なら道」と刻まれた小さな道標があり、その傍に小さな祠があって石地蔵が祀られている。またその横に明治26年の「郷社 延喜 式内 阿波神社」と刻まれた社標が立っている。
天神橋
 163号線に合流してしばらく進み、その先で左へ分岐するが、その先に潜水橋が架かっている。11時32分にここを通る。
潜水橋
 その先で一旦163号線に合流し、すぐ先で再び左へ分岐するようになっているのだが、入り口が閉じられていて通ることができないので、そのまま163号線を進んでいく。その先で旧道は163号線と合流するようになっているので、確認をしてみると、ここに「私有地につき立ち入り禁止」と「通り抜けできません」と書かれた標識が出ていた。
私有地
 すぐ先で川が左へ大きく蛇行している右手の藪の中に「南無妙法蓮華経」「山神権現」「経力龍王」「大石霊神」と刻まれた自然石がある。ここは昔、椎の木岩伝いと呼ばれた難所だったという。
藪の中
 三谷のバス停があったので、ここで昼食にする。G君からもらったおにぎりとバナナが今日の昼食だ。
 その先で木の資料館という立派な建物があるところから163号線から右に分岐して進むが、その先で再び163号線に合流する。
木の資料館
その先で及び163号線から右に分岐するのだが、2本の道が続けて分岐しており、2本目の道を進んで、その先で再び163号線に合流して進む。旧道は163号線と合流したり、少し分岐したりを繰り返している。
 平田の信号から163号線から右へ分岐するが、その場所に榎の大木が立っており、その下に水神社祠と資料によると嘉永5年(1852)の水神碑がある。13時5分にここを通る。
水神社1水神社2

 その先のT字路を右折して進むと、右手に「植木神社」がある。ここは創建は明らかではないが、久寿2年(1155)に書写された大般若経に「伊賀国山田郡殖木宮」と記されており、また文永6年(1269)の洪水で社殿が流出したので、その後この地に遷ったという伝承があるなど、旧い歴史のある神社だ。ここは祇園会が現在でも盛大に行われているそうで、境内には樹齢400年の欅や樹齢200年のイチョウ、更に享保6年(1721)の石灯籠などがあり、歴史を感じさせる。
植木神社
 植木神社があるところから左折して進むが、この辺りは平田宿があったところで、歴史を感じさせる家屋が立っている。
平田宿
 「つばや」という屋号のお菓子屋があるが、ここは祇園祭の時にせいろく餅を作っているという。
つばや
 その先で道が鍵の手になっているところが札ノ辻だったところで、ここに高札が建てられていた。右手に津島神社という小さな神社が祀られている。13時20分にここを通る。
鍵の手津市m神社

 右手に八王子社跡がある。ここは現在植木神社に合祀されて、祇園祭の時の御旅所になっている。鳥居の前の階段右手には「施主當社祭講中間」、左手には「元禄十四〇〇(干支でいうと辛巳なのだが、刻まれている文字は違うようで判読できなかった)九月吉日」と刻まれている。
八王子社1八王子社階段

 その先で163号線に合流するが、ここに旧伊賀街道の説明板が立っている。
 真泥大橋北詰の信号で左折して服部川に架かる真泥大橋を渡り、すぐに右折して川沿いの道を進む。この辺りは洪水が頻発し、その度に街道を通行できなくなったようで、真泥という地名もそのことを感じさせる名称になっている。
進んでいくと「車両 本当に 通行できません」「徒歩では通行できます」と書かれた標識が立っている。車かバイクで無理をして通ろうとする人がいるのだろうか?
看板
 その先で道に金網の門扉が設けられており、「この先通り抜けできません」「徒歩で通行される場合は門扉を開閉下さい」と書かれた看板が掛けられているので、鎖を外して中に入り、改めて錠をして先へ進む。14時6分にここを通る。
中ノ瀬
 しばらく進んでいくと、左手に「目明し地蔵」がある。かっては眼病の願掛けで賑わい、眼鏡を描いた絵馬が多数奉納されたというが、今がその面影は全くない。これから先、苔むした摩崖仏が次々に存在していて、見ごたえがある。この辺りの道は江戸末期から明治初期にできたものと推測されている。
目明し地蔵
 文殊立像がある。これから薄肉彫釈迦立像までは大正時代の作という。
文殊立像
 地蔵立像。
地蔵立像
 普賢菩薩。
普賢菩薩
 持錫地蔵立像。
持錫地蔵立像
 肉薄彫釈迦立像。
肉薄彫釈迦立像
 大神宮岩。資料によると「太神宮 奉三十三度 結願成就所」「寛永六年(1629)」「上野宮前」と刻まれているようだ。
大神宮岩
 八幡宮。「八幡宮」と刻まれている。
八幡宮
 彌勒座像。
彌勒座像
 本尊と六地蔵と刻まれた石の横に六地蔵がある。
本尊と六地蔵
 小石仏三基。資料によると、室町時代末期のもので、「ア」「ウン」「バン」の種子が彫られているという。 その横に小石仏一基があり、これも室町時代末期のものという。
小石仏三基
 六地蔵があり、幅2メートルの石の枠彫の中に彫られている。
六地蔵
 三体地蔵。
三体地蔵
 中ノ瀬を抜けて荒木の集落に入ると、左手に「須賀荒木神社」がある。ここは式内社ということだが、創建時期は不明とのこと。境内に天保10年(1839)の巨大は常夜燈が立っている。また「畠うつ音やあらしのさくら麻」という元禄三年に松尾芭蕉が詠んだ詩の句碑が立っている。14時39分にここを通る。
須賀荒木神社1須賀荒木神社句碑

 荒木の交差点を渡ったところに大正15年の「荒木又右エ門生誕地記念碑」が立っており、その横に弘化5年(1848)の太神宮常夜燈が立っている。荒木又右エ門は妻の実弟渡辺源太夫が河合又五郎に討たれたため、妻の兄数馬が寛永11年(1634)に伊賀上野で仇討ちを行ったが、その助太刀を又右エ門が行ったことから、この仇討ちは伊賀越仇討と言われている。
荒木又右エ門
 その横に「大釜地蔵」がある。これはもともと室町時代中期の像なのだが、下荒木に不幸が続いたので、これを摸刻したのが今の地蔵で、延命地蔵として信仰されているという。
延命地蔵
 ここから左折して服部川沿いを進んでいき、徐々に川から離れて行くと、左手に「山の神」がある。
山の神
 右手に寛政11年(1769)の「太神宮常夜燈」が立っている。
寛政11年
 「伊賀街道起点の地」という石柱とその横に「すぐ 京 大坂 なら いせ道」「すぐ いせ 左り 江戸みち」「是より 北江 東海道関」と刻まれた道標が立っている。
終点
15時37分に着く。これで伊賀街道を歩き終えたことになる。

 本日の歩行時間   7時間22分。
 本日の歩数&距離 38353歩、28.4km。(距離は平木から長野峠入口まで車で移動した2.5kmを含む)

 伊賀街道総合計
 総歩行時間    13時間7分。
 総歩数&総距離 73926歩、49.8km。(距離は平木から長野峠入口まで車で移動した2.5kmを含む)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん