北国脇往還を歩く

2019年12月18日(水) ~2019年12月19日(木)
総歩数:58580歩 総距離:39.5km

2019年12月19日(木)

浅井~木之本

                      晴れ

 7時37分に北国脇往還の道標のところを出発する。ここの道標には「左 江戸 谷汲」「右 北國道」と刻まれている。「谷汲とは西国巡礼札納めの谷汲山華厳寺のことで、当時巡礼巡りの多くの参拝者が往来したようである」と説明されている。
道標
 この道標の横に当時大名の御休所を務めた佐々木家がある。
佐々木家
 その先で道は二又に分かれており、その真ん中に石仏を安置した小祠がある。
二股に石仏
 ここを左へ進み、草野川に架かる草野川橋を渡ると、右手に「ふくらの森跡」の説明板が立っている。それによるとここから約一㎞先の八島集落までは「ふくらの森」と呼ばれて、昼なお暗く、追いはぎや狐、タヌキ、狼などが出てくるという伝説があり、古くから旅人たちに恐れられていたという。この森を草野川までたどり着いた越前の殿様が国の奥方に早飛脚をつかわせて、無事を知らせたという言い伝えが残っていると説明されている。現在ではその面影は全く残っていない。
  内保東の信号のところ、273号線との交点に「左 元三大師御誕生所」「是よ里二十九町」「右 北國道」と刻まれた延享元年(1744)の道標が立っている。
内保祇橋
 365号線を進んでいくと、あねがわ温泉へ向かう道と分岐しているところから365号線から左へ分岐して旧道に入るが、右手に秋葉神社の社標が立っている。
 右手に「東 関ケ原ミチ」「西 木之本みち」「南 内保約五丁」「北 田根みち八島」と刻まれた、近代になって寄進されたという道標が立っている。ここは田根道との分岐点で田根とは高畑や小室等十四集落を総称した田根村を示していると説明されている。
田根道
 左手水路のほとりに祠と石仏群がある。
祠と石仏群
 左手に「左 江戸道」「右 越前道」と刻まれた、八島集落の中にある道標の中では最も古いといわれる道標がある。
最古の道標
  この右手には「東 関ケ原ミチ」「西 虎姫驛 一里」「南 内保 約四丁 木之本 三里」「北 八島」と刻まれた道標が立っている。八島集落には現在六本の道標が確認されているが、一つの集落でこれだけ残っているのは珍しいと説明されている。
虎姫驛道標
 両側に道標が立っている左手に永禄元年(1558)に開基され、中世の真宗総道場の遺構といわれている「玄龍寺」がある。8時38分にここを通る。
玄龍寺
 玄龍寺から右折して進むと、正面に八幡神社があり、ここを左折、次の角に「左 江戸道」と刻まれた道標が立っている。八島集落で行先に唯一江戸道が刻まれており、かっては江戸に通じる主要道路だったことがうかがわれると説明されているが、先ほどあった道標にも「江戸道」と刻まれていたのだが?
江戸道道標
 ここを右折して進むと、左手に今から1500年前の古墳時代に築造された円墳の「亀塚古墳(こがね塚)」がある。これは大友皇子の重臣で、近江朝廷右大臣だった中臣蓮金の墓で、壬申の乱で近江方の軍を率いて奮戦したが、敗れて殺されたという。
亀塚古墳
 その先で365号線に接するが、すぐに左折、突き当りを右折、更に左折、右折を繰り返して265号線に合流するが、ここに「水田となった街道」という説明板が立っていて、山ノ前集落の街道はこの先で失われていると書かれている。
山ノ前
 そのため265号線を進んで行くと、右手に天満宮と蓮光寺が並んで建っている。その先を右折すると、左手に「小谷道」「小谷道 北国脇往還」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。
小谷道
 伊部に入ると、右手に「古矢眞神社」があり、その先左手に「伊部本陣 肥田家」がある。伊部は小谷宿の上小谷宿が設けられていた。小谷宿は伊部宿と郡山宿の二宿一駅の形態がとられていて、上りは伊部が上小谷宿として本陣と問屋を、下りは郡山が下小谷宿として脇本陣が問屋をかねていたという。伊部本陣には享和3年(1803)に伊能忠敬も宿泊をしたという。9時37分にここを通る。
伊部本陣
 その先で365号線を横断した右手に「小谷城址」がある。
小谷城址
 郡上集落に入ると、左手に「大谷市場跡」碑とその横に常夜燈があり、水車が回っている。この辺りが城下町の中心だったそうで、若狭から運ばれてきた海産物を扱う市場だったという。
大谷市場跡1大谷市場2

 右手に尾崎神社を見ながら進み、突き当りを左折するが、この左手角に「高札場跡碑」が立っている。
高札場碑
 すぐ先で右折すると、郡上宿の案内と「高札場跡碑があったところから尾上道、若狭街道が分岐していた」と書かれた説明板が立っており、その横に石仏を安置する祠がある。
郡上宿
 左手に「一里塚跡」碑が立っている。
一里塚碑1
 その先で道を間違えてしまった。街道は365号線に接するところから右折して進まなければいけなかったのだが、その一つ手前の橋を渡ってしまったのだ。細道をぐるぐる歩き、ようやく「走落神社」にたどり着いた。ここは神亀年間(724-729)に創建された神社で延喜式内社である。賤ヶ岳の戦いの際、豊臣秀吉が必勝祈願を行ったという。門前に大きな槻ノ木(ケヤキ)が立っている。当初は高槻と呼ばれていたが、平安時代の歌人大江匡房が月の名所として和歌を詠んだことから、「槻」を「月」に改め、現在の地名「高月」となった説明されている。
走落神社
 どこで道を間違ったかこの段階ではわからなかったため、ここから道をさかのぼって進み、365号線に接するところまで戻って本来の街道を確認をした。
 走落神社まで戻って、ここから左折して進むのだが、曲がり角の右手水路のところに指差付の「左 北國きのもと道」と刻まれた道標が立っている。11時5分にここを通る。 
指差道標
 高時川に架かる阿弥陀橋を渡ってすぐ右折、川沿いをしばらく進んでいき、二又に分かれているところから左へ堤を下っていくと、T字路にでる。街道はここから左折するのだが、右折していくと「天川命神社」がある。ここには樹齢300年以上、樹高32mという大きなイチョウが立っていて、滋賀県指定自然記念物になっている。
天川命神社
 街道に戻って進むと、右手に「北国脇往還」「みぎ せきがはら」「ひだり きのもと」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。
新しい道標
 右手に「日吉神社」がある。ここの銅鐘は寛喜3年(1231)の作とみられ、重要文化財に指定されている。
銅鐘
 その先のT字路を左折、更に右折して進むと、右手に「等波神社」があるが、ここは白鳳13年(684)に創建されたと伝えられる神社で式内社である。天明7年(1787)に火事で全焼したが、その後再建されたという。
等波神社
 左手に「弘法水」があり、碑が立っている。弘法大師が杖を突いたら、そこからきれいな水が湧き出したという、各地で言われていることと同様なことがここでも言い伝えられている。
弘法水
 その先で左折、右折、左折と進んでいくと、北国街道に合流する。ここに「みぎ 京いせみち」「ひだり 江戸なごや」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。12時30分にここに着く。
北国街道道標

 本日の歩行時間   4時間53分。
 本日の歩数&距離  27910歩、18.3km。
 本日の純距離     16.5km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

 北国脇往還総計
  総歩行時間     10時間45分。
  総歩数&総距離  58580歩、39.5km。
  総純距離       35.9km。 (途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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