多度津街道を歩く

2020年02月04日(火) ~2020年02月05日(水)
総歩数:45673歩 総距離:29km

2020年02月04日(火)

丸亀城~海岸寺

                          晴れ


 慶長2年(1597)に生駒親正によって築かれ始めた丸亀城は、親正の長子一正の居城になったが、慶長15年(1610)に一正が高松城に移ってしまったため、丸亀城は城代によって治められるようになっていた。しかし元和元年(1615)の一国一城令によって丸亀城は一時廃城になってしまったが、寛永18年(1641)幕府は讃岐国を二分して東讃を松平頼重に、西讃を山崎家治に治めさせるようになって、丸亀城の再建と整備が進んだ。その際、丸亀藩が発展していくためには金毘羅参詣の上陸地として繁栄していた多度津との結びつきを強めることが重視され、丸亀と多度津を結ぶ街道の整備につながったという。今回は「香川県歴史の道調査報告書第二集 多度津街道」を参考にしたが、この書では丸亀と多度津を結ぶ道を「多度津往還」とし、多度津藩陣屋大手門と大見村(三野町大見落合付近)を結ぶ道を「白方道」、更に詫間峠を越えて仁尾に至る道を「仁尾越道」とし、それらを総称して「多度津街道」としているため、この記述に従って、今回は丸亀城から詫間にある「辻の札場」までを「多度津街道」として歩いた。この道も参勤交代などで使った道ではなく、生活道路として使われていた道だったので、狭い道幅しかないところもあった。

 丸亀街道を歩き終わって、市役所の食堂で昼食を済ませ、12時45分に出発する。
 丸亀街道を歩いてきた道をそのまま戻ってアーケードの中を進んでいき、途中でアーケードの中で左折する道があって、ここもアーケードが続いているので、これを進んでいくと、右手に昭和7年に建立されたという「本町大神宮」がある。江戸時代にはこの付近に城下と地方を区切る出口番所が設けられていたので、資料ではここを街道の起点としている。
本町大神宮
 その先で西汐入川を渡るが、ここには二本の橋が架けられており、江戸時代までは北側の橋付近に木橋が架けられていたということなので、右手の橋を渡る。江戸時代の終わりまでは処刑した罪人の首をこの橋の近くの河原に晒していたという。
 左手に「正宗寺」があり、その前に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立っている。この寺には法然上人が承久元年(1207)にこの地に配流された際、水を所望したがなかったので、乗ってきた小船の櫂で近くの地面を掘ったところ、清水が湧き出したという伝説が残っている「かい堀りの井戸」があると資料にあった。そのため墓地の中を探してみると井戸があったので、これを掲載しておきます。ただ説明書がなかったので、確認はできていません。
南無阿弥陀仏かい堀井戸

 西本願寺塩屋別院へ向かう道との三差路右手に「本願寺坊舎」「逆遍んろ通りぬけ道あり」と刻まれた道標が立っている。逆遍路を行うと必ず弘法大師に会えるという考えがあって、八十八カ寺を逆の順番で巡る逆打ちが行われていた例証にもなっている。
本願寺坊舎
 右手に「天満天神社」がある。安政3年(1856)に再建されたもので、明治末期に国の方針で天満天神社に併合され、大正2年に現在地に移転したという。四国を歩いていて気が付いたのだが、こうした神社の塀の石碑に大きく名前が刻まれている。寄進した人の名前なのだろう。
天満天神社石塀

 その先で道は二又に分かれるので左へ進み、金倉川に架かる幸橋で分岐した道と合流する。
幸い橋
 橋を渡ると道は三本に分かれているので、その真ん中の道を進む。その先で再び分岐した道に合流するが、この左手に「右 どうりゅう寺 道隆寺」と刻まれた明治27年の道標と二体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
道隆寺
 左手に「道隆寺」がある。ここは和銅元年(708)に和気道隆によって創建された古寺で四国霊場七十七番札所だ。その裏門の前に「四国第七十七番道隆寺」「是与り右宇田津道場迄一里半」と刻まれた寛政4年(1894)の道標が立っている。13時54分にここを通る。
道隆寺道標1道隆寺2

 陸橋でJR予讃線を越えて進むと、左手、多度津高校の裏手に文政9年(1826)の常夜燈が立っている。
多度津高校道標
 桜川に突き当たり左折するが、そのすぐ左手に二基の五輪塔を祀る祠がある。
五輪塔2基
 桜川に架かる豊津橋を渡るが、左手に町役場があり、この前庭に道標や常夜燈が移転されていると資料にあったので探してみたがわからなかった。豊津橋を渡って進むと、右手に元慶7年(883)に聖宝によって開基されたという「多聞院」があり、その向かいには延命地蔵尊を本尊とする「摩尼院」がある。
多聞院摩尼院

 すぐ先の十字路左手に「右 はしくら道」「すくふなハ」「すく金刀ひら道」と刻まれた明治14年の道標と「きしゃば」と刻まれた大正10年の道標が立っている。14時19分にここを通る。多度津往還はここから右折して極楽橋の袂を終点とする。
右はしくら道
 ここから先を白方道として進むと、右手細道の奥に「えびす神社」がある。この場所が天保期以前のこんぴら道の起点となった場所ということだ。
えびす神社
 その先のT字路を右折、すぐ先を左折、更にその先を右折すると左手に桃山隧道が見える。そのすぐ先を左折して進むと、左手少し入ったところに稲荷神社がある。
稲荷神社
 ここを右折、すぐ先を左折と、この辺り細道を右折、左折を繰り返して進む。資料によるとこの辺りで道は「山越えルート」と「海岸ルート」に分かれるようだが、海岸ルートを進むことにする。

 左手に「右屏風浦道 是ヨリ十五丁」と刻まれた道標が立っており、その横に地蔵堂がある。
屏風浦道
 その先で道は二又に分かれており、資料では右へ行くようになっているが、雰囲気は左の方へ進む感じがあったので、あえて左へ進んで行くと、左手に地蔵堂がある。
旧道の雰囲気地蔵堂

 東白方北の信号で21号線を横断して進むと、右手に「荒神社」がある。
荒神社
 右手に「地蔵尊」を祀る地蔵堂がある。ここが資料に書かれている制札場跡なのだろう。
制札場
 左手に弘法大師ゆかりと伝える艫取観音を祀っているという「上生寺」がある。
上生寺
 右手に天保11年(1840)の五輪塔や石碑、墓石がまとまって置かれている。
天保11年五輪塔
 右手に「熊手八幡宮」がある。ここは神功皇后が朝鮮出陣の帰途、この地に立ち寄り、旗、熊手等を留め置いたのを村人が祀ったのが起りという。文明13年(1481)に社殿が改築された時に奉納されたという高麗犬(こまいぬ)が随身門に安置されている。15時15分にここを通る。
熊手八幡2熊手八幡1

 八幡宮のすぐ横から右折して進むと、右手に地蔵堂がある。
右地蔵堂
 細道を進んでいき、十字路を直進すると、21号線に合流するが、すぐ先で左手に分岐する。ここに「弘法大師御母公旧跡大日本唯一之霊場」と刻まれた昭和13年の石碑と、看板に隠れて読むことができなかったが、資料によると「弘法大師 御えな塚道南一町 御母公旧跡 佛母院」と刻まれた道標が並んで立っている。
日本唯一
 左手に安政7年(1860)の常夜燈が立っている。
安政7年常夜燈
 弘田川に架かる弘法大師にまつわる伝説があるという十四橋を渡ると、台座に「屏風浦 白方海岸寺」」と刻まれた地蔵がある。
屏風浦地蔵
 そのすぐ先で右折すると「海岸寺」がある。ここは大同2年(807)に弘法大師が創建したといわれている。文化年間に空海の誕生所として善通寺と争ったが、幕府等の裁断によって敗訴したという。
 海岸寺の手前右手に資料によると「海岸寺前 左屏風ケ浦 右 まんたら道」と刻まれた道標が立っており、左手には「海岸寺前 弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁」と刻まれた昭和12年の道標が立っている。
右まんたら道仏母院東三丁

 海岸寺の両脇には大豪と琴ケ濱という二人の力士像が飾られている。どちらも懐かしい名前の力士だ。特に琴ケ濱は内掛けの名手として大関を張った力士で、応援していたものだ。
海岸寺
 ここから少し先に「海岸寺奥の院」があるので海岸寺第1踏切でJRの線路を渡って行ってみた。右手に「弘法大師遺跡 白方屏風浦」と刻まれた石碑と「右奥の院」と刻まれた石碑が立っており、左手には「左 いやだに寺」と刻まれた道標が立っている。
奥の院道標1奥の院道標2

 ここから右折して進むと奥の院の正門に出る。
奥の院
 15時52分にここに着く。この後小高い丘に塔が立っているので、それを見に行ったのだが、木々にさえぎられて見通しが悪い。ここからすぐ近くにある海岸寺駅の時刻を調べると、次の電車まで時間がなく、それに乗ることができないと、しばらく駅で待たなければいけないので、急いで海岸寺駅まで行って、丸亀駅まで引き返した。

 本日の歩行時間   3時間7分。
 本日の歩数&距離  18173歩、11.9km.
 本日の純距離    9.2km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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