金刀比羅参詣 丸亀道を歩く

2021年12月07日(火)
総歩数:26216歩 総距離:17.7km

2021年12月07日(火)

丸亀~金刀比羅宮

                           晴れ
 
 江戸時代、海上交通の守り神である金毘羅大権現への信仰が一般民衆にも広がると、金毘羅参りが盛んに行われるようになり、全国各地から多くの参詣客が訪れるようになった。そうした中、参詣道には灯篭や丁石などが設置され、街道として整備されていった。丸亀街道は丸亀港から琴平に至る道で、陸路の距離が短く、平坦であったため、参詣客は多く利用しており、特に大坂や備前国などから金毘羅船で讃岐を訪れた参詣客が多く利用していて、数ある金毘羅街道の中でも最もにぎわった街道だったという。
 参考資料として香川県教育委員会の歴史の道調査報告書第五集「金毘羅参詣道Ⅰ」を参照した。
 「京極船魂神社」がある。ここは江戸時代初期、京極藩の海上の守り神としてまつられていたが、大正年間に埋め立て工事が行われた関係から、大正6年に山北八幡宮に遷されたが、最近は社殿の荒廃が進んだので、社殿の改築を機に、元の社地に近いこの場所に建立されたという。
船魂神社
 今回はここをスタート地点とした。10時35分に出発する。
対岸に「太助灯篭」が見える。これは江戸在住の人々(千人講)が浄財を出し合って天保9年(1838年)に完成。台座には「江戸講中」、灯籠の側面には寄進者や世話人ら1,357人の名前が刻まれている。この寄進者の中で、最高額の80両(現在の価格で約1000万円)を寄付した「塩原太助」の名にちなみ、「太助灯籠」と呼ばれるようになったという。
太助灯籠
 二股になっている道を右の細道を進み、JRの高架下を通って進むと、右手に「妙法寺」がある。ここは明和3年(1766)から明和5年(1768)の間に数回にわたって与謝蕪村が滞在して揮毫した大作六点があることから、蕪村寺とも言われているという。
妙法寺
33号線を右折、次の信号の一つ先の角を左折するが、ここに「左 こんぴら」「すぐこんぴら」と刻まれた明治13年の道標が立っている。
明治13年
左手に「すぐこんひら道」「田宮坊太郎墓所」と刻まれた弘化4年(1847)の石碑が立っている。
田宮墓所
右手少し入った突き当りに「京極高朗」の墓所がある。万治元年(1658)播州竜野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治2年の版籍奉還まで7代210年にわたって京極家がこの地を統治した。7人の藩主のうち6代藩主高朗の墓所だけがこの地にある。高朗は名君で文化8年(1811)に14歳で丸亀藩主になり、嘉永3年(1850)まで40年にわたって丸亀発展の礎を築いたという。
京極墓所
街道に戻って進むと、左手に明和元年(1764)の常夜燈が立っている。
明和元年常夜燈
その先、四つ角左手に資料によると「西せんつうしことひら道」「北汽車海岸へんろふ道」「南きのさき阿波街道」と刻まれた大正3年の鶏鳴軒道標が立っているので、ここを右折する。
鶏鳴軒道標
左手に「田宮源八之旧跡」碑が立っている。江戸時代、歌舞伎や人形浄瑠璃で広まった田宮坊太郎の仇討ち物語があるが、その坊太郎の父親、源八郎がこのあたりに住んでいたという。この仇討ちは現在では史実ではないといわれているようだ。
田宮源八之跡
左手から道が合流するところに「金毘羅大権現」 「百四十丁」と刻まれた文化5年(1808)の灯籠が立っている。
百四十丁
右手に「従是金毘羅町口江百五拾丁」と刻まれた、明和4年(1767)の道標が立っている。
百五十丁
すぐ先に「金比羅宮 天下泰平 明治4年」と刻まれた金刀比羅宮一の鳥居が立っている。この辺りは昔、三軒屋と呼ばれていたが、この付近には三軒しか家がなかったことからそう呼ばれていたという。その後金毘羅参詣客の往来が盛んになるにつれて人家が増えていったという。11時28分にここを通る。
一の鳥居
205号線を横断して進むと、左手に平成17年に建てられたまだ新しい「五丁」と刻まれた石碑が立っている。
五丁
ここを左折して33号線を横断、次の信号で204号線に合流するので、これを右折して進む。
その先で道は二股に分かれていて、ここに「二十丁」と刻まれた平成17年のまだ新しい石碑が立っており、その奥に「金毘羅大権現 亀商人中」、台座に「右こんひら道」と刻まれている文久3年(1863)の柞原の常夜燈が立っている。
二十丁柞原の常夜燈

ここを右へ進み、11号線を横断して進むと、右手に万延元年(1860)の自然石燈篭が立っている。
万延元年
右手に石仏を祀る祠がある。
石仏
高松自動車道の高架下を通るとすぐ先に「北 丸亀 東高松 西いよ こんそうじ ぜんつうじ」と刻まれた明治7年の道標が立っている。
明治7年
ここは二股になっているので、右へ進むと、右手に神野神社があり、その入り口に「金毘羅大権現」「すくこんひら道」と刻まれた文政13年(1830)の常夜燈が立っている。ここを12時44分に通る。
神野神社本殿神野神社

その先で4号線に合流して進み、交差点を渡った左手に「五十丁」「金毘羅大権現 願主北邊田村 須賀村講中」と刻まれた道標が立っている。
五十丁
左手民家(梶氏宅)の庭に資料によると「六十五丁 住吉屋六右」と刻まれた道標とその横に「金毘羅大権現」と読むことができる石碑、更に「六十一丁 番州明石西本町 島屋良エ門」と刻まれた道標が立っている。民家の庭の中なので少し離れたところから写真を撮らせて頂いた。
梶氏宅1梶氏宅2

4号線から分岐して直進するが、車の数も少なくて静かな、歩きやすい道だ。
再び道は二股に分かれているので、左へ直進し、突き当りを右折すると、四つ角に「永代常夜燈」「金毘羅大権現」と刻まれた寛政7年(1795)の常夜燈とその前に資料によると「七十丁」「金毘羅大権現」「願主 北邊田村 須賀村講中」と刻まれた同じく寛政7年(1795)の道標がある。
寛政7年
右手に「与北の茶堂」があり、街道最大の常夜燈が立っている。これは昭和21年南海道沖で倒壊したが、昭和42年に有志によって再建されたと説明されている。現在は宗教団体によって管理されているという。13時16分にここを通る。
最大常夜燈
右手に「永代常夜燈」「金毘羅大権現 武州」と刻まれた寛政7年(1795)の常夜燈が立っている。
武州
その先で右折し民家の間の用水路沿いの細道を進んでいく。
民家の間の細道
右手に資料によると「東讃 八十八 右 第三十四番札所如意山」と刻まれた道標が立っている。
東讃
その先で道が二股に分かれているところに「右 金毘羅 左 川劔山道」「すぐ丸亀」「吉田伊吉郎」と刻まれた明治11年の道標と、その横に「九十丁」「金毘羅大権現」「願主 北邊田村 須賀村講中」と刻まれた道標が並んで立っているので、ここを右折する。
九十丁
200号線を横断して進むが、その先で少し道を間違えた。右折する道が二か所続いてあり、街道は最初の分岐から右へ入るのだが、その先から右折してしまった。間違いに気が付いてすぐ本来の街道へ戻って進む。写真は本来の街道の分岐点です。ここを右へ進む。
分岐
水門があり、道は分岐しているので、右へ進む。
水門
富隈神社がある。
富隈神社
ここの創建は延喜13年(913)といわれる古い神社で、享保2年(1717)の常夜燈が立っており、参道の階段の左右に「九十二丁」「九十七丁」「百三丁」「百六丁」百十七丁」「百十九丁」といった道標がある。ここにまとめて置かれたのだろう。
道標1道標2

47号線を横断して進み、その先でわずかの距離右折、すぐ先で左折するが、ここに「百十丁」のまだ新しい道標が立っている。
百十丁
その先でこれまで歩いてきた道を横断、その先で再びこれまで歩いてきた道に合流する。城下町にある枡形のようだ。
左手水路の横に「百十○」まで読める道標がある。
百十○
左手に「金」と刻まれた常夜燈と「百二十四丁」「京小道具屋 笹屋嘉右エ門」と刻まれた道標が並んで立っている。
京小道具屋
右手に天領代官所跡の説明板が立っているが、遺構は何も残っていない。
その先の信号を渡った次の角を右折して進むと、右手に資料によると「百三十一丁」「京後藤辻 後藤八郎兵衛」と刻まれた道標がある。
 京後藤
右手に大木と祠があり、その先に石井八幡宮の参道があるその一つ先の道を右折して進む。
石井八幡宮
319号線を横断して進むと、横瀬の鳥居があり、その横に「百三十五丁」の道標が立っている。
横瀬鳥居
JRの踏切の手前、右手に民家の庭に「百三十三丁」の道標が立っている。
百三十三丁
JRの高架下を通り、琴電の横瀬踏切を渡ったすぐ先手に、資料によると「往来安全」と刻まれた嘉永7年(1854)の地蔵尊を祀る祠と、その横に「金 常夜燈」と刻まれた寛政10年(1798)の横瀬常夜燈が立っている。
嘉永7年地蔵
右手に「高燈篭」がある。万延元年(1860)に完成した、高さ27メートルの日本一高い燈篭で、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていたという。
高燈篭
この前に道標の起点となる「従是丸亀江 百五拾町」「奉献道案内立石」と刻まれた明和4年(1767)の道標が立っている。
起点道標
高燈篭の反対側の道路の左手に明治3年の常夜燈が並んで立っている。
明治3年」
その横には天保2年(1832)の常夜燈が立っている。
天保2年常夜燈
道路を渡った左手には「永代常夜燈 金毘羅大権現」と刻まれた文政6年(1823)の常夜燈が立っている。
文政6年
その先右手に「常夜燈 京都願主 鍵屋平兵衛 栗田彦次郎」と刻まれた常夜燈が立っている。
常夜燈 京都
その先で右折してアーケードの中を通り、一之橋を渡って進む。
ウイークデイなのでさほど人は多くはないものの、それでもそれなりの参拝客がいた。
参道1
参道を進んで階段下に15時28分に到着する。ここから785段の階段をひたすら登ることになる。
84
途中左手に安政5年(1858)に建てられたという「灯明堂と釣灯籠」がある。いかにも島の大工が建てたらしい珍しい構造になっていると説明されており、重要有形民俗文化財に指定されている。
灯明堂
大門に着く。ここは2層入母屋造瓦葺きで慶安2年(1650)に初代高松藩主・松平頼重が寄進したものという。ここまでに365段の階段を登ってきているが、大門から先は神域であり、国の名勝・天然記念物に指定され、瀬戸内海国立公園に含まれている。
大門
更に登っていくと旭社がある。高さ約18メートルの社殿は、金刀比羅宮の旧神宮寺の金堂として40年の歳月をかけて天保8年(1837)に竣工されたもので、下重が方五間の大規模な二重仏堂で、明治に仏壇を廃して神座に改めている。
旭社
16時2分に御本宮に到着する。ここは社関棟造檜皮葺きの建物に大物主大神と崇徳天皇が祀られている。
本宮
御本宮の社殿の創建については分かっておらす、長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっているという。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となったという。
ここは象頭山。「こんぴらふね~」の歌詞の中に「回れば四国はさんしゅなかんごおり、ぞうずさん金毘羅大権現」と歌われているところだ。階段785段目、海抜251メートルに鎮座していて、この高さから見る景色はなかなかのものだ。
象頭山

本日の歩行時間  5時間27分。
本日の歩数&距離 26216歩、17.7km。

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歩人
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