金毘羅参詣道 高松道を歩く

2021年12月10日(金) ~2021年12月11日(土)
総歩数:55850歩 総距離:36km

2021年12月10日(金)

高松~栗熊

                           晴れ
 金比羅参詣道の一つである高松道は讃岐を支配した長曽我部、仙谷、生駒、松平氏と関係が深かったが、特に松平頼重が寛永19年(1642)に高松藩主として讃岐に入部、それ以後の歴代藩主も度々金毘羅参詣を繰り返すことによって整備が進んでいった。このことからこの道のことを「殿様の道」「お成道」とも称されていて、藩主にまつわる逸話も伝承されているという。また高松と琴平間を結ぶこの道は他の金毘羅参詣道と比較しても距離が長く、領国支配のうえで重要な意味を持っていて、政治的、軍事的な要素も強かったという。
香川県歴史の道調査報告書第七集「金毘羅参詣道Ⅱ」を参考にした。
 高松城は別名「玉藻城」と呼ばれ、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものであり、近世城郭の海城としては、最初で最大の例で「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われていたという。写真の鞘橋は本丸と二の丸を結ぶ唯一の連絡橋で、当初は欄干橋だったが、江戸中期末ごろに現在のような屋根付きになっていたという。
写真は高松築港駅から撮影したものです。
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 街道の起点は左手に高松城があり、右手に四国電力があるところだ。7時40分に出発する。
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アーケードの中を進み、アーケードが終わったところ左手に「琴平神社」がある。ここは明和7年(1770)に建立され、明治43年にこの地に移転したという。
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その先左手に「藤塚神社」がある。ビルとビルの間の狭い隙間に鎮座されている。
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琴電の高架下を通って進むと、右手に栗林公園が見える。その先で道は二股に分かれているので、右へ進む。この道は車が少なくて静かな道だ。その先で11号線を横断して進み、その先で道は二股に分かれているので、右へ進むとすぐ左手に「ハゼ地蔵」がある。
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このあたり道が分岐していてわかりにくい。左手に金毘羅灯籠が立っている。これは一説によれば内井家の先祖山村傳八が建立したといわれている。傳八が傷を負ったとき、金毘羅さんにお祈りしたところたちまち治ったので、そのお礼として天明7年(1787)にこの燈籠を立てたという。
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266号線に接するところ右手に「観賢堂」がある。ここは仁寿3年(853)に生まれた観賢僧正が、奏請して空海に弘法大師の号を賜った際、そのことを伝える使者となって、空海に御下賜の紫衣を着せ、大師の御髪を剃って大任を果たした。その後この地に戻った時、大師の御髪を剃った剃刀をこの地に埋めたので、ここを剃刀塚というと説明されている。8時57分にここを通る。
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266号線に並行する形の細道を進んでいくと、西ハゼの信号で172号線を横断するが、ここの左手に釈迦堂がある。
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その先の信号から右へ分岐すると、左手に自然石の常夜燈が立っている。
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その先T字路の角にこれも自然石でできた天保6年(1834)の常夜燈が立っている。
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ここを左折し、266号線に合流するところに小山というバス停があり、ここの右手に「編笠の墓」という享保元年(1716)の三界萬霊と刻まれた地蔵堂がある。江戸時代、編笠康斉という武者が城主の命で試合をして勝ったが、負けた人間の門下生の多数が編笠という武士をこの地で闇討ちにして殺してしまったという。里人はこれを憐れんで供養のためこの地蔵堂を造営したという。地蔵堂にはほかにも墓石があるが、この地は事故が多く発生していて鬼門の辻とも言われており、死者の霊を供養したという。
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高松自動車道の高架下を通って進むと、香東川に架かる成合橋の左手に「
右 こんぴら道」「左 一のみや道」刻まれたまだ新しい地蔵尊がある。10時丁度にここを通る。
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橋を渡った右手に祠があり、その横に「五大神」と刻まれた石碑が立っている。
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282号線から分岐して川沿いの道を進み、その先で道は二股に分かれているので、右へ進む。下円座の信号の手前右手に「金毘羅奉燈」と刻まれた寛政9年(1797)の常夜燈が立っている。
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地下道で32号線を横断し下円座の信号から左へ進むと、次の信号の手前右側に「金 長柄 若講中」と刻まれた自然石の常夜燈がある。
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 横内の四辻と呼ばれる交差点があり、この左手に「金刀比羅末社」がある。幕末のころ、この地に金の御幣が天から降ってきたので、本社の許しを得て御幣を祀る末社を建てたと説明されている。また「金」「大権現」と刻まれた常夜燈、「大納言頼経神霊」と刻まれた鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の墓と伝えられているものがある。
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左手民家の庭に「はしくら道」と刻まれた道標が立っている。
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44号線の高架の手前、川の脇左手に地蔵尊2体と観音像1体を安置する地蔵堂があり、その横に資料によると弘化4年(1848)の石碑がある。
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高架下手前左手に明治と読める石仏がある。
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岡本町の信号で道は二股に分かれているので、282号線から左へ分岐して細道を進むとすぐ左手に「左 高松道」「右 佛生山道」「紀元二千五百六十四年五月下完」と刻まれた明治37年の道標が立っている。
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282号線に合流したところに「金」「象頭山大権現(高松鶴竹組講)」と刻まれた文化15年(1818)の常夜燈が立っており、その横に地蔵堂がある。
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282号線から右へ分岐して池に沿って進むと、道は二股に分かれており、ここに「三ツ池地蔵」がある。資料によると「三界萬霊」「右 こんひらみち」「左 やまだみち」「金毘羅講中」と刻まれているようだ。ここを右へ直進する。
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その先の二股を左へ下って進むと山際の細い道になる。
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更にその先の二股を右へ下る。
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細道を進んでいくと、三叉路に来るのでここは真ん中の道を進む。このあたり細い道が続いており、わかりにくかった。
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ここを抜けると車道に出るので、左折して福家の交差点に出る。昔は車道に出たところから直進して川を渡っていたそうだが、今は橋が左手に架かっているので福家の信号から右へ進んで橋を渡り、すぐ先で右折して、車道に出たところの対角線上に延びている道を進むことになる。福家の信号の左手に「象頭山 献燈」と刻まれた安政5年(1858)の自然石の常夜燈が立っており、その横に4体の石仏を安置する祠がある。11時34分にここを通る。
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先ほどの旧道から車道に出た対角線のところに「金毘羅大権現」と刻まれた文化12年(1815)の常夜燈が立っている。
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坂道を登っていくと、登り切った少し先左手に「薬師如来」と刻まれた慶応元年(1865)の石碑とその横に資料によると文久2年(1862)の地蔵尊を安置する祠がある。
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その先で道は二股に分かれているので右へ進む。
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右手に「地神宮」「金比羅大権現」という額がかかった神社があり、安政5年(1859)の常夜燈が立っている。ちょうど昼になったので持参したパンを昼食として食べる。
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その先で視界が一気に開ける。
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坂を下って行くと道は二股に分かれているので右へ行き、その先で再び二股に分かれているので、今度は左折して進み、282号線に合流する。
その先で282号線から分岐して右折し、すぐ先で左折して再び282号線に合流する。合流したところ左手に「吉盛神社」がある。ここは「平吉盛」という平家落人を祀っており、その横に馬と馬丁の墓がある。
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新開の信号で282号線から右へ分岐して、少し低くなっている旧道を進む。
その先282号線沿いに「稲荷神社」「金比羅宮」と額がかけられている神社があるので、旧道から少し外れていくと、ここに「金毘羅大権現」と刻まれている文政5年(1822)の常夜燈が立っている。
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旧道に戻って進むと、すぐ先で282号線に合流する。陶小学校が左手にある先の信号から右折すると、「辻の岡の地蔵堂」がある。13時4分にここを通る。
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282号線に合流して進むと、前方に琴電の陶駅がある手前を右折するが、ここに資料によると「右 ことひら」「左 やまだ道」と刻まれた明治44年の道標がある。
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その先で琴電の高架下を通り、次の角で右折すると、大正13年の地蔵尊がある。
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スーパーマルナカが左手にあり、そのすぐ先から左へ分岐する。
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左手に「八百萬御神」と刻まれた明治29年の常夜燈が立っている。
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左手に「瀧千鳥之墓」と刻まれた明治31年の墓石がある。
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次の十字路を右折、すぐ先を左折し、琴電の線路を横断するが、ここには踏切はなかった。282号線に合流して進むと、右手に「滝宮天満宮」がある。ここは菅原道真が仁和2年(886)から寛平2年(890)の間、讃岐守として讃岐国に赴任していた際の官舎(有岡屋形)跡に建てられた由緒ある神社という。
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その横に「瀧宮神社」がある。和銅2年(709)に行基が創建したとされており、もともとは「牛頭天王の祠」と称されていた。また菅原道真が、讃岐の国に赴任した仁和2年(886)から 寛平2年(890)にかけては、讃岐の国一国の氏神とされていた。その後に、細川頼之が康暦年間に滝宮神社と滝宮天満宮を再建補修し、さらに天正年間に兵火にあい、その後慶長になって当時の国守生駒親正が祈祷料を寄付した。当地が高松藩となって後は初代藩主の松平頼重が寛永21年(1644)に随神門を建設、万治3年(1660)には本殿などが再建されたという。本殿の前には明和3年(1766)の常夜燈や入口には安政2年(1856)の常夜燈、天明8年(1788)の狛犬などがある。
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神宮から282号線を横断して直進し、その先で綾川に架かる橋を渡って進む。
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左手に「西山庵」があり、その前に資料によると「金毘羅大権現御廣前」と刻まれた文化11年(1814)の笠、火袋、竿すべてが円形の常夜燈が立っている。
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すぐ先を左折して進み、282号線を横断、すぐ先を左折する。
十字路の右手に白梅神社があり、その前に「右 まるがめ道」「左 こんぴら街道」と刻まれた、再建されたまだ新しい道標があり、その横に古い道標が並んで立っている。
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その先で282号線に合流し右折して進む。32号線に合流する手前で左折して進むと、左手に脇神社があり、ここに「金 脇 献」と刻まれた大正3年の常夜燈立っている。
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その先で二股を右折し、32号線を横断して進むと、右手に「一里松跡」と刻まれた石碑が立っている。
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その先で道は二股に分かれているので左へ進み、山際の道を進んでいく。
右手に「間男地蔵」がある。「二百年ほど前、妻が間男と駆け落ちしたが、二人とも首をはねられてしまった。それから夜になると人魂が出るようになったので、これを鎮めるためこの地蔵を祀った」という子供が書いたような説明板が立っている。文化4年(1807)の台石があり、なぜかこの地蔵尊の鼻は白く塗られている。
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その先の二股で右へ進んでいくと、右手に池があり、その水門のところに「八大龍王権現神社」が祀られている。
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一旦32号線に合流して進むと右手に住吉神社がある。
神社の横から32号線から右へ分岐して進むと、左手に「三界萬霊」地蔵尊があり、(資料では享保廿六○となっているが、享保は21年までしかないので、よくわからない。)その横に「権大僧都法印快邦」「権大僧都法印快英」霊前と刻まれた常夜燈とその両横に石碑が二つ並んでいる。
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道が二股に分かれるところに、資料によると「右 丸亀 先祖代々為菩提之」「左 金毘羅」と刻まれた地蔵浮彫の道標が立っている。
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左へ道を下り、32号線に合流するが、すぐ先で32号線から右へ分岐、さらにその先で小さく左へ分岐するが、その先で再びこれまで歩いてきた道に合流する。15時42分、馬指の信号で今日の歩きは終わることにして栗熊駅へ向かう。

本日の歩行時間   8時間2分。
本日の歩数&距離 40452歩、25.7km。

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