淡路街道を歩く

2021年12月22日(水)
総歩数:34450歩 総距離:22.4km

2021年12月22日(水)

岡崎湊~徳島城

                               晴れ
 淡路街道は城府徳島と淡路を結ぶ街道で、藩政期には撫養街道、土佐街道、讃岐街道、伊予街道とともに五街道の一つに数えられていた。ただほかの街道と比べて比較的短い街道だったため、本道とは称されないこともあったようだ。しかし徳島藩主蜂須賀家が淡路国を加増されてからは領内の淡路国と往来する幹線道路として重要な役割を果たすようになった。参考にした徳島県歴史の道調査報告書第1集「讃岐街道」「淡路街道」では徳島城から岡崎渡まで行くような記載になっているが、アクセスの関係上、今回は岡崎湊から徳島城に向かうことにした。
 鳴門駅から約30分ほど歩いて、岡崎湊を8時42分に出発する。海との間には防波堤が築かれていて、遺構は何も残っていない。
左手に地蔵堂があり、その前に「四国へんろ道 是ヨリ一」と刻まれた明治35年の道標が立っている。
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右手に市杵島姫神社があり、境内には明治6年の百度石や明治14年の狛犬がある。
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すぐ先左手に歓喜天と読める神社があり、明治30年の百度石があるが、境内にはかなり荒れている。
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左手に慶應4年(1868)の延命地蔵がある。
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左手に地蔵堂があり、その横に題目石が立っている。その横に妙見山公園に登る階段がある。ここから右へ進む。
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左手に「肥料商 庄野熊蔵商店」があり、古い看板がまだ掛けられている。電話番号が歴史を物語っている。
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右手に「傳 撫養街道 遍路道 関所跡」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
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右手に「事代主神社」があり、境内に寛政4年(1792)や享保9年(1724)の常夜燈や慶應4年(1868)の百度石などがある。
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左手に「祇園神社」があり、文政13年(1830)の手水鉢がある。
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左手に「市杵島姫神社」があり、嘉永4年(1851)の鳥居、文政10年(1827)の常夜燈、藤原基房の歌碑、更には鳴門市指定天然記念物のウバメガシがある。
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左手に地蔵堂がある。
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右手に「西楽庵」があり、その入り口右側に寛政5年(1793)の馬頭観音菩薩があり、正面には享保10年(1725)の六地蔵がある。
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右手階段を登ったところに「金比羅神社」があり、文化14年(1817)や安政6年(1860)といった古い常夜燈が境内には数多く立っている。
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その横に文明12年(1480)に奈良の長谷寺から本尊を迎えたことから名付けられたという「長谷寺」がある。ここは江戸時代駅路寺として街道を往来する人々に宿泊の便を与えるとともに,撫養から入出国する者を監視する役を負っていたという。ここにも古い常夜燈や百度石がある。10時21分にここを通る。
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11号線の高架下右手に「脚気地蔵」を祀る地蔵堂があり、大正13年の再建記念碑が立っている。
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右手に地蔵堂があり、文政8年(1825)の光明真言供養塔が立っており、その左右に地蔵尊が立っている。左の地蔵尊には「法界萬霊」「文化14年(1817)」と刻まれている。ここは能化(のうげ)の地蔵尊と呼ばれていて、能化とは人々をよく導き助けるという意味だと説明されている。
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左手に「八幡神社」があり、境内には元文3年(1738)の常夜燈などがある。
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左手に地蔵堂があり、地蔵尊と観音像がそれぞれ1体安置されている。
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左手に「大津賀神社」があり、鳥居の右手に「是ヨリ四丁」と刻まれた道標が逆にひっくり返って置かれている。
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左手に「八坂神社」があり、上部が壊れている文政2年(1819)の常夜燈があり、その横に明治28年の常夜燈が並んで立っている。
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高速道路の高架下を通って進むと、右手に地蔵堂があり、資料によると宝暦13年(1763)の地蔵尊がある。ここが撫養街道と淡路街道の分岐点になる。
ここを11時7分に通る。
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淡路街道はここから直角に左折して進む。この先は一直線の道となっていることから「立道」という地名がつけられたという。畑をみるとレンコンの収穫が行われていた。この先もレンコンが数多く植えられていて、収穫がされていた。香川はレンコンの産地のようだ。
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その先で39号線から右へ分岐して直進すると、右手に寛延4年(1751)の地蔵尊と天保2年(1832)の地蔵尊が向き合うようにして立っている。
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左手に地蔵堂があり、延命尊が安置されている。
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その先で右折、更にその先で左折して進むと、橋の手前左手に地蔵堂が立っている。
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橋を渡って進むと、五差路があり、右から2番目を進むと、左手に「諏訪神社」があり、文政2年(1819)や嘉永元年(1848)等の常夜燈が立っている。
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左手少し入ったところに正福寺があるが、その入り口に地蔵堂があり、その前に文化6年(1809)の常夜燈が立っている。
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街道から少し外れて正福寺へ行くと、「十三佛御尊像」や「六地蔵」がある。
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街道に戻って進むと、左へ少し入ったところに「三木宋珪の地蔵」がある。この地の庄屋だった三木宋珪は慶安の検地で農民たちが厳しい年貢を課せられることを憂い、検地の中止を藩主蜂須賀忠英に直訴したが、受け入れられず処刑された。宋珪が刑場に赴く際、何度も振り返ったことから別名見返り地蔵といわれたという。
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街道に戻って進むと、北島北小学校の手前で左へ入ったところに「光福寺」があり、境内には主幹周7.75m樹高20mという徳島県指定天然記念物のイチョウが立っている。また北島町指定文化財になっている元禄3年(1690)の弘法大師坐像もあると説明されている。
また、道路を挟んだ前に「北村天満宮」があり、文化5年(1808)の鳥居が立っている。12時15分にここを通る。
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街道に戻って進むと、右手に明治28年の石仏がある。
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右手に「末廣萬治の墓」がある。天保時代に活躍をした力士で、藩主の行列が近隣を通過する際、萬治の屋敷で休憩をとり、その際の藩主のお相手も萬治がしていたという。
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右手に「大将軍神社」があり、その門前に宝暦4年(1754)の「十方法界萬霊」と刻まれた地蔵尊がある。境内には北島町指定文化財のクスノキがある。
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右手に「錦山嘉吉の墓」がある。淡路街道沿いに二人の阿波藩お抱え力士のお墓があり、一人は先ほどあった末廣萬治で、もう一人が錦山嘉吉だった。この力士も天保年間に活躍をした力士だったという。
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右手に原の地蔵堂があり、天井には天井絵が描かれているので、カメラを差し込んで撮影した。
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29号線を横断して進むと、川に突き当たるので左折して進むが、右手堤防の上に「鯛の浜渡し跡」のまだ新しい碑が立っている。
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水門橋を渡り、右折、その先で左折すると、右手に「高良大明神」と刻まれた石碑がある。
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堤防に突き当たる手前左手に地蔵堂があり、資料によると延宝3年(1675)の地蔵尊とほかに地蔵2体、庚申塔1体、別名大進地蔵がある。
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吉野川に架かる吉野川橋を渡るが、13時48分に渡り始めて、渡り終えるまでに11分かかった。橋の長さは1071m、さすがに吉野川は大河だ。この辺りに重要な渡し場だった古川の渡しがあった。
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橋を渡って右折、最初の角を左折したが、このちょっと先に明和元年(1764)の地蔵尊があり、その横に明治13年の「大般若心経十万巻供養碑」が立っている。更にその横に遍路道標の一部が倒れていた。
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ここは道がわかりにくくて、もう1体地蔵尊があるはずなのだが、よくわからなくて、ぐるぐる回ってようやく見つけることができた。これは文政9年(1826)の地蔵尊で「デバリの地蔵」と呼ばれているようだ。
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12号線に合流して進むと、右手に「万福寺」がある。
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右手に「八幡神社」がある。境内には天明元年(1781)の狛犬がある。ここには馬場があって、明治初期までは競馬が行われていたという。
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ここから左折して進むと左手に「春日神社」があり、境内には享保4年(1719)の鳥居や天明元年(1781)の狛犬などがある。
右手に「明王寺墓所」と書かれた標識が立っているところから右へ入ったところに延命地蔵尊がある。
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右手に「興源寺」があり、ここに蜂須賀家の家祖正勝から十三代藩主斉裕までの歴代当主を祀る墓がある。三代藩主光隆が慶長3年(1598)にそれまで城内北蔵にあった墓地をこの地に移転したという。広大な敷地に五輪塔が林立していて見ごたえがある。
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左手に助任小橋があるが、ここが下坂街道との分岐点だ。
ここを右折する。
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その先で左折して進むと、十字路の左手に遍路道道標が立っている。明治30年に大村万平という人が建てたもので、2mを越える大きな道標だ。
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資料ではこの先の11号線あたりに橋が架かっていたようだと書かれていたので、11号線迄進み、橋を渡って、右折してここから直進した道に出て進んだ。
15時29分に徳島城鷲の門に到着する。

本日の歩行時間   6時間47分。
本日の歩数&距離 34450歩、22.4km。
本日の純距離    19.3km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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