伏見街道を歩く

2022年04月25日(月) ~2022年11月30日(水)
総歩数:17301歩 総距離:10.6km

2022年04月25日(月)

五条本町~藤森

                       晴れ
 京都から奈良へ向かう道として奈良街道や大和街道と呼ばれる街道があり、伏見はその途中に位置していたが、文禄年間(1592~96)に豊臣秀吉が伏見城を築いたことから、京都と伏見を直接結ぶ道が必要となったため、新しく伏見街道が開かれた。この道は大阪と陸路や水路(宇治川や淀川)でつながっていたため、江戸時代に入って、物資の輸送や旅人の通る道、更には参勤交代のための大名行列などが通る道としてその重要性が増していったという。ちなみに西国大名は山陽道、西国街道、東海道を通って東上していったが、京都には入らず、伏見に入って大津へ向かうルートをとっていたという。これは有力大名が参勤交代を理由として京都に入り、ひそかに朝廷と結ぶことを嫌ったためという。
資料は「京の古道を歩く」増田潔著 光村推古書院を参考にした。

9時33分に五条本町通を出発する。街道はここからほぼ一直線に南下しているが、道幅のわりに交通量が多い。
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左手街道から少し入ったところに「耳塚」(鼻塚)がある。これは豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1592~1598)で朝鮮および明兵の戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚だ。戦国時代は戦功の証として、高級将校は死体の首をとって検分し首塚で供養していたが、文禄・慶長の役では朝鮮から首をそのまま持ち帰ることが難しいこと等の理由から耳や鼻を持ち帰ったという。この塚は慶長2年(1597)に築造されたもので、古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。
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その横に「明治天皇御小休止所下京第廿七區小学校址」碑が立っている。
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その先に「豊国神社」がある。ここは神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀っている。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により明治13年方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し再興された。正門の唐門は伏見城の遺構と伝えられており、二条城から南禅寺の金地院を経てここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門とされている。
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街道に戻って進むと、左手に地蔵堂がある。京都では、地蔵菩薩の縁日を中心に行われる、子どもたちが主役の行事、地蔵盆が昔から行われており、この先の沿道にも同じような地藏堂が数多くあった。
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その先で東海道線、東海道新幹線を陸橋で渡って進む。
右手に歴史を感じさせる旧家がある。このような造りの家屋はこれから先の沿道にも数多くあった。
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右手に「寶樹寺」があり、その横に「伏水街道一之橋○址」碑が立っている。
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「寶樹寺」は昔この地の北辺に一ノ橋と呼ばれる橋が架かっていたことから橋詰堂とも呼ばれていた。宝永3年(1706)僧聖空によって中興され、寺名を寶樹寺と改められた。 本堂には、本尊の阿弥陀如来立像及び薬師如来座像を安置しているが、この薬師如来座像は、俗に「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が、今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願した像と伝えられている。
 また、境内には、「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和(奈良県)へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたと伝えられていると説明されているが、境内に入ることはできなかった。
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左手に「瀧尾神社」がある。ここは創建は不明だが、平安末期に書かれた『源平盛衰記』に「武鶏ノ社」という記述があることから、この頃には存在したと考えられている。応仁の乱によって焼失し、吉坂に移って多景の社と改称して鎮座していたが、天正14年(1586)に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したことに伴って現在地に遷座。その後、宝永年間に江戸幕府の命令によって改築され、社号も多景の社から現在の瀧尾神社と改称したという。拝殿の天井には、江戸時代後期の彫物師である九山新太郎が製作した全長8mに及ぶ龍の木彫り像が飾られているということだが、あいにく改修工事が行われていて、ぎりぎりまで近寄って写真を撮ったが、うまく映っていなかった。
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その先九条通高架下に「伏水第二橋」碑がある。
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左手に東福寺北大門がある。桃山時代に造られた門で、京都府指定文化財になっている。
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街道から外れて進むと、その先右手に「退耕庵」がある。ここは貞和2年(1346)に創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長4年(1599)安国寺恵瓊によって再興された。慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。 ここは写真撮影は禁止されていたので入口のみ写真を撮った。
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その先に東福寺があるのだが、広大な敷地があることを思い出して、途中まで行ったが、参拝することはあきらめた。
左手に「東山本町陵墓参考地」がある。ここは承久の乱で廃帝となった仲恭天皇の陵墓参考地であると考えられていて、宮内庁が管理していて中に入ることはできないようになっている。仲恭天皇陵としては九條陵が宮内庁により比定されている。仲恭天王はわずか4歳で践祚されたが、(践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。仲恭天皇の父は順徳天皇。また天皇が践祚ののち、帝位についたことを天下万民に告げる儀式を即位という)わずか78日で廃位されたため、歴代天皇の中では在位期間が最も短い天皇だった。即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝、承久の廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。天福2年(1234年)に17歳で崩御されたという。
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三ノ橋川にかかる「伏水街道第三橋」があり、往時の面影を残している。一本だけ事故で破損したのだろうか、新しい橋柱になっている。
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沿道に「藤森祭」と書かれた旗が数多く立っている。藤森神社のお祭りが5月5日にあるようだ。
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左手に伏見稲荷大社の赤い鳥居が立っている。ここも以前来た事があり、数多くの赤い鳥居が印象的だったが、立ち寄らずに先に進む。
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JR奈良線の伏見街道踏切の手前左手に摂取院があり、ここに腹帯地蔵尊が祀られている。横に地蔵堂があり、その前に天保15年(1844)の常夜燈が立っている。
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右手に「伏見義民焼塩屋権兵衛旧宅址」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。天明5(1785)年9月,伏見の町人文殊九助と丸屋九兵衛が伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを寺社奉行へ訴えた。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ,天明8年5月に小堀は改易,出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。焼塩屋権兵衛は7人の一人で,この碑は権兵衛を顕彰するものという。
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左手に「元政上人旧跡 瑞光寺」の明治36年の道標が立っている。
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左手に聖母女学院がある。ここは旧陸軍 第16師団 の敷地の払い下げを受けたもので、本館は明治41年に竣工した司令部庁舎の建物を継承しているという。
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今日は歩き始めて以降なんとなく膝がおかしかったのだが、ここにきていきなり右ひざがグキっと来て、思わずつんのめってしまいそうなほどの衝撃がきた。強烈な痛さで右足を地面に付けることができない。何とか回復できないものかと思って色々やってみたが、ついにギブアップ。これ以上歩くことができなくなって無念のリタイアになってしまいました。幸い藤森駅が近くにあったので、びっこを引きながらなんとか11時15分にたどり着いて引き返すことにした。近くに駅があって本当に助かった。帰宅後、診察を受けると半月板の後根が損傷しているそうで、骨切り術という手術を勧められたが、身体にかなりの負荷がかかる手術のようなので、手術は回避してしばらく様子をみることにした。

本日の歩行時間  1時間42分。
本日の歩数&距離 8535歩、5.4km。
本日の純距離    4.6km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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