鳥羽街道(鳥羽作り道)を歩く

2022年12月01日(木)
総歩数:19603歩 総距離:11.9km

2022年12月01日(木)

羅生門~納所

                             晴れ
この道は平安京の造営にあたり、多くの資材を搬入するために計画的に造られた道で、鳥羽作り道といわれ、平安京の玄関口であった羅生門から真っ直ぐ南下して鳥羽を通って淀へ至る道だ。数ある古道の中でも最も主要な道路だった。 この道の久我森ノ宮から山崎へ南西方向に直線的に進んでいたのが久我畷であり、桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所(のうそ)へとつながっている。納所と呼ばれるのは平安京へ運ぶ物資の倉庫に由来するもので、水上交通との接点となっていた。豊臣秀吉は伏見城築城に合わせて、巨椋池に堤をめぐらせ交通体系を整備したが、このとき、現在の下鳥羽・納所間の桂川左岸に堤を築き、現在の鳥羽街道のルートになったという。慶応4年(1869)鳥羽街道の小枝橋付近で起こった新政府軍と幕府軍との間での衝突によって、鳥羽・伏見の戦いが起こり、沿道が戦いの場になったことは有名だ。
資料は「京の古道を歩く」増田潔著 光村推古書院を参考にした。

羅生門跡の碑が立っている。羅生門は延暦13年(794)に建設した平安京の正門で、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部に朱雀大路があり、その南端に羅城門があって、北端の朱雀門と相対していたという。弘仁7年(816)大風で倒壊し再建されるが,天元3年(980)暴風で倒壊,以後再建されることはなかった。この碑は明治28年(1895)の平安遷都千百年紀念祭の事業として建立されたという。
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羅生門跡碑のある入口に「矢取地蔵」がある。干ばつが続く天長元年(824)時の天皇であった淳和天皇は西寺の守敏僧都と東寺の空海に対して祈雨の修法(雨乞いの祈祷)を命じた。まず西寺の守敏僧都が7日間にわたって修法を行ったが、あまり効果がなく、雨は降ったが、国中を潤すほどではなかった。次に東寺の空海が修法を行ったところ3日間に渡り国中に大雨を降らせることができた。こうして祈雨の修法に敗れた守敏僧都はこのことを恨み、羅城門近くで待ち伏せをして空海に矢を放ったが、その矢はどこからともなく現れた黒衣の僧にあたって空海は難を逃れることができた。その黒衣の僧こそが地蔵菩薩の化身であったので、人々は身代わりになった地蔵を矢取りの地蔵とよび、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊をたてて長らく敬まってきたという。地蔵の右肩には矢傷の跡が残っているという。現在の地藏堂は明治18年に建立されている。
地藏堂の前右手に「右ハやなぎ谷」「觀世音菩薩」、「左 やわ多 八幡宮」「徃来安全」と刻まれた嘉永7年(1854)の道標が立っている。
また左手には「愛宕山大權現」と刻まれた天保3年(1832)の常夜燈と「車除」「津田八良兵衞」「寄進」「底樋三ヶ所」と刻まれた弘化元年(1844)の車除けの石碑が立っている。
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ここを9時1分に出発する。今日もI君と一緒だ。
旧千本通を歩いていくと、交差点の右手に「天満宮」と刻まれた常夜燈とその前に正徳6年(1716)の石碑が立っている。
信号を渡った先右手にも「天満宮」と刻まれた明治35年の常夜燈が立っている。
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静かな旧道を歩いていくと歴史を感じさせる旧家が立っていて、風景に同化したI君の姿が横に映っている・・・・
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左手に「妙蓮寺」がある。入口に明和6年(1769)の題目石が立っており、その横に今月の聖語として写真のような言葉が掲載されている。小さな虫でも良馬の尻尾につかまっていれば、考えられないような距離を進むことができる。即ちどんな人でも進むべき道を示してくれる師匠が立派なら自ずとその域に近づいていけるという意味と説明されている。
わが身を顧みて、そのような師匠がいなかったから現在のような人間になってしまったのか?(すぐ人のせいにする・・・)ましていわんや、自らが人を導くなど滅相もない。。などと考えながら先へ進む。
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一直線の道を進んで行くが、右手少し入ったところに「實相寺」があったのを見落として先へ進んで行ってしまった。途中でこのことに気が付いて引き返す。
實相寺は「南朝正平年(1352)の夏、京都が大干ばつの被害に見舞われたとき、妙実上人は朝廷より祈雨の勅命を請けました。寺伝によると「山城国桂川のほとり鍋ヶ淵に於いて数百人の僧を率いて請雨のご祈祷を行った」と伝わっております。効験が現れたことにより、天皇より日蓮聖人は「大菩薩号」、日朗上人・日像上人は「菩薩号」、妙実上人は「大僧正」の位を賜りました。当寺はそのご祈祷された場所に創建されたと伝えられ、開基妙実上人の「勅願祈雨の旧蹟」といわれております。」(お寺のHPより引用)
このお寺も日蓮宗のお寺で妙蓮寺と同じ聖語が掲げられていた。
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境内の写真を撮っているときにちょうどご住職がおられたので色々とお話を聞かせて頂いた。境内には俳諧鼻祖の松永貞徳とその一門の墓碑がある。松永貞徳は江戸時代前期の俳人・歌人で俳諧を全国に普及させたという。
また鳥羽街道に敷かれていた「車石」が展示されている。鳥羽街道は横大路・下鳥羽の港に荷揚げされた年貢米や穀物を洛中へ運ぶ牛車の専用道路だったが、ぬかるみが多かったため、江戸時代後期に車道の車輪の通る場所に二列に規格化された厚板石を敷きならべ、牛車を通りやすくした。その敷石を車石というが、車石は道に一本しかなかったため、上り、下りで時間を分けて通っていたという。また江戸時代の朝鮮通信使がこのお寺に6回立ち寄っていることが、朝鮮側、日本側の資料によって判明しているが、通信使はこの寺を休憩場所として衣袋・衣服を着替え、京の都に入っていったという。
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このあたりの家屋には屋根に独特の飛び出しがあり、昨日からこれは何だろうと思いながらここ迄来たのでお聞きすると、ちょうど檀家の方がおられて、あれは煙出しで、台所から吹き抜けになっていて、煙を出すために設けられているということを教えて頂いた。
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I君によると金沢でも形状は異なるものの、同じような造りの家があるが、それは明り取りの為のものと言っていた。やはり台所の上にあるそうだ。
この間、ご住職にはかなりの時間を取っていただいて、色々なことを詳しく説明をしていただいたのでありがたかった。
街道に戻って進むと右手に「行住院」がある。ここは天正元年(1573)行蓮社存誉信西により創建されたとされる浄土宗の寺院で、当初は「普願庵」と称したが寛永年間に知恩院宮良純親王から「行住院」の扁額を賜りこの名となったという。
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その先道は二股に分かれており、左へ進むが、ここに「恋塚 淨禅寺」がある。ここは寿永元年(1182)文覚上人の開基と伝えられている。
鳥羽離宮の北面の武士であった遠藤盛遠が、渡辺左衛門尉源渡の妻袈裟に横恋慕し、その夫 源渡を殺して袈裟御前を我ものにしようとした。袈裟御前は一計を案じ、自ら夫の身代わりとなって遠藤盛遠に殺されたが、その事実を知った遠藤盛遠は自らの罪を悔いて出家し文覚と名乗った。それ以後文覚は全国各地を廻って荒行し、のちにこの淨禅寺をはじめ高雄神護寺等を再興した。恋塚は袈裟御前の首を埋めた塚で、天保4年(1647)当時の領主 永井日向守直清が林羅山に撰させて袈裟御前の貞女を顕彰した碑が境内に建っている。地蔵堂に安置する地蔵菩薩は平安時代の初め、小野篁が一度息絶えて冥途へ行き、生身の地蔵尊を拝してよみがえった後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられており「京の六地蔵めぐり」の一つ「鳥羽地蔵尊」として知られている。観音堂には9~10世紀とされる十一面観世音菩薩(京都市指定文化財)を祀っている。
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名神高速道路の高架下を通り、左折して小枝橋をわたり、そのすぐ先で右折するが、ここに「城南離宮 右 よど やハた」「左り 京ミち」と刻まれた安政6年(1860)の道標が昭和63年に復元されている。
またその横に「鳥羽伏見戦跡」碑が昭和43年に建てられている。明治元年小枝橋を渡ろうとした幕府軍に対し薩摩軍が発砲したことから戦端が開かれ、鳥羽伏見の戦いとなっていった。当時幕府軍は約2万人、新政府軍は約5千の兵力だったが、新式の大砲や鉄砲を武器として持つ新政府軍が幕府軍を圧倒したという。
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その先左手に「鳥羽離宮跡公園」がある。鳥羽離宮は平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営したもので、ここで院政を行ったのだが、院政の終焉とともに姿を消した。現在は史蹟公園として整備されている。
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千本通赤池の信号の所に「愛宕山」と刻まれた弘化2年(1845)の常夜燈が立っている。
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左手に「恋塚寺」がある。少し前にあった恋塚淨禅寺で述べたように遠藤盛遠が自らの罪を悔いて出家して文覚と名乗り、袈裟御前の菩提を弔うため一宇を建立したのがこのお寺という。境内には袈裟御前の墓とされる宝篋印塔があり、恋塚と呼ばれている。またその横には法然上人の筆による六字名号「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑とその横に本寺の縁起が刻まれた石碑が立っている。
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「月の桂」と看板がかかっている酒蔵がある。ここは創業300有余年の伏見の中でも古い蔵元のひとつで、増田德兵衞商店という。鳥羽伏見の戦で罹災に見舞われたり、またかつては京から西国に赴くお公卿さんの中宿もつとめていたという。「月の桂」は、古い中国の伝説の「月中に桂あり 高さ五百丈常に人ありてこれを切る・・・」からとってつけられた名前とのこと。
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右手に「愛宕山」と刻まれた文久3年(1863)の常夜燈とその横に地蔵堂がある。
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その先、鴨川の河原に「鳥羽の大石」がある。これは河原を公園化する整備事業の際に川底に眠っていたものが数百年の時を経て偶然に発見されたという。
この石材は寛文2年(1662)に京都を中心に発生した大地震で被害を受けた二条城の石垣の修復のため、大阪から淀川を船で遡り、当時の京都の水運の玄関口である「鳥羽の港」に陸揚げされて運ばれる予定の石が、何らかの原因で鴨川の川底に沈み現代まで眠っていた説が有力という。
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左手に「法傳寺」がある。ここは聖武天皇が諸病平癒の為の勅願所としたところで、行基によって神亀3年(726)開基され、当初は法田寺と号していた。当初は真言宗だったが、後に知恩院11世円智が浄土宗に改めたという。
個人が改宗をする、宗旨替えというのはなんとなく理解できるのだが、お寺自体が改宗したということを時々聞くが、そこにはどのような理由があったのだろうか?それぞれに色々な事情があったと思うので、それらを調べてみると意外に面白いかもしれないとちょっと思った。
鳥羽伏見の戦いでは、この境内に死傷者を受け入れて、さながら野戦病院のようであったという。明治30年(1897)に東軍慰霊祭が営まれ、その記念として境内に「戊辰東軍戦士の碑」が建立されている。
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読経の際に木魚をたたきながらお経を唱えるスタイルは江戸時代までは異端だったそうで、寛延2年(1749)に当寺の住職だった不退円説がこれを始め、それ以降全国に広がったことから、このお寺が「木魚念仏最初の地」とされているという。
左手に「鳥羽伏見の戦跡」と刻まれたまだ新しい碑が立っている。
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左手に「一念寺」がある。ここは寺伝によれば、天武3年(674)僧道昭が創建し、当初、奈良の元興寺に属する法相宗の寺だったが、永享年間(1429~41)に、後亀山天皇の皇子であった真阿上人によって再興され、浄土宗に改められたといわれている。ここでもお寺の改宗が行われている。
 本堂に安置する本尊阿弥陀如来像は、定印をむすんで結跏趺座する丈六の巨像で、俗に「鳥羽の大仏」と呼ばれ、人々から親しまれている。この大仏は、当寺の再興に当って、東大寺念仏堂から移されたものと伝えられている。門前の鴨川畔は、永享12年(1440)66歳で没した真阿上人遺命により、遺体が水葬されたところで、「真阿ヶ淵(しんあがぶち)」と呼ばれ、以後永く殺生禁断の地とされてきたという。
境内には法然上人御乗船「船繋石」がある。
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桂川と鴨川が合流するところで道は二股に分かれていて、ここに地蔵堂が建っている。
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ここは左へ千本通を進んで行くと、右手に藤田家住宅母屋がある。藤田家は横大路村の庄屋を務める一方、運送業を生業としていたという。ここは登録有形文化財に 指定されている。
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その先田中神社御旅所がある先から右折して進むと、川沿いの道に出るが、ここに草津街道鱧(はも)海道の由来が書かれた説明板が立っている。 桂川と鴨川との合流地点、横大路には明治時代まで草津湊と呼ばれる河川港があり、大阪湾、紀州、淡路、阿波、瀬戸内海などで獲れた鮮魚が夜を徹して淀川を遡る舟で運ばれ、この地で荷揚げされていた。港には江戸幕府の命により公設魚市場が開かれ、多くの問屋が軒を連ねていたという。荷揚げされた生鮮魚介類は、ここから鳥羽街道を北上し、陸路で御所への献上品として、洛中の魚商人を通じで京の人々に届けられていた。夏でも生きたまま運ばれた鱧は京の料理を代表する魚として珍重されたという。
左折して川沿いを進んで行くと、左手に「やなぎ谷」「舟のり」を刻まれた天保3年(1832)の道標が立っている。
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そのすぐ先左手に「魚市場跡」碑が再建されている。
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ここから千本通に戻って進むと、左手に天保15年(1844)の常夜燈が立っているが何と刻まれているのかは読み取ることができなかった。
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左手に明治21年の「式内 飛鳥田神社」と刻まれた社標が立っており、その後ろに明治25年の常夜燈が立っている。
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左手に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が立っている。ここは慶応4年(1868)に勃発した鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の遺骨を埋めた地を示す碑で、鳥羽街道の茶屋愛宕茶屋のあった所だ。
静かな人影のない道を歩いていくと、左手に「納所村道路元標」がある。
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右手に「唐人雁木旧跡」と刻まれた石碑が立っている。
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この辺りが朝鮮通信使一行が上陸した船着き場だったという。上陸地点には雁木と呼ばれる特設の桟橋が設けられ、その長さは36間(64.8m)、幅7間(12.6m)とだったという。また、朝鮮通信使一行は、慶長12年(1607)~宝暦14年(1764)に11回、この唐人雁木を利用したという。
ここが納所で、鳥羽街道の終点になり、京街道と合流する。このあたりは京都と大阪を結ぶ重要な港で、「納所」という地名の由来は皇室に納める穀物の重要な倉庫があったことからきているという。
13時23分に鳥羽街道を歩き終わることにする。

本日の歩行時間   4時間32分。
本日の歩数&距離  19603歩、11.9km。
本日の純距離     9.6km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

この後すぐ近くにある「淀城跡」を見学した。幕末に旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶された話は有名だ。
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旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん