佐屋街道を歩く

2023年01月29日(日)
総歩数:43865歩 総距離:27.9km

2023年01月29日(日)

伝馬町~佐屋

 佐屋街道は東海道付属のう回路で、東海道宮宿と桑名宿の間を結んでいた。この間は「七里の渡し」と呼ばれる海路があるが、佐屋街道は海路を避けて、岩塚宿・万場宿・神守宿を経て佐屋宿へ至り、佐屋湊から川船で桑名宿へ、水路三里の渡しによって結んでいた。寛永11年(1634)将軍家光の上洛の際に尾張藩初代藩主である徳川義直によって開かれたという。今回は伝馬町で東海道から分岐するところから佐屋宿の三里の渡址碑までを歩いた。
愛知県歴史の道調査報告書Ⅲ「佐屋街道」と風人社「ホントに歩く 東海道 別冊佐屋街道」を参考にした。

伝馬町の東海道と分岐するところ右手に「北さやつしま 同 みのち」「東 江戸かいとう 北 なこやきそ道」「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貳丁」と刻まれた寛政2年(1790)の道標が立っている。
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 左手には「ほうろく地蔵」がある。この地蔵は野原の中に倒れ、捨石のようになっていたが、三河から焙烙を売りにきた者が、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、この地で捨てて帰っていった。地元の人がこの石仏を安置しようとしたが動かないのでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、その台石を掘り出してこの石仏を置いたのがこの地蔵という説明がされている。
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東海道はここから左へ進むが、佐屋街道、美濃路は、右へ進んで1号線を歩道橋で渡って進む。10時2分に出発する。正面に熱田神宮があり、一の鳥居が立っている。
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左手に「上知我麻神社」と「八剣宮」がある。上知我麻神社は江戸時代までは源大夫社と呼ばれており、八劔社の南、市場町の美濃路と東海道の追分にあったが、昭和24年に熱田神宮境内に移され、昭和40年に現在の社殿を建てて遷座したという。
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左手に弘法大師お手植えとも伝えられ、樹齢千年以上という大クスが立っている。
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そのまま参道を進んでいくが、本殿の前は大勢の参拝客が列を作って並んでいたので、遠くから参拝をする。
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参拝後西門まで戻って22号線を進んで行くと、左手に「誓願寺」があり、その前に「源頼朝生誕の地」の石標が立っている。
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左手に「白鳥御領 従是西二丁」と刻まれた標識が立っている。白鳥御領は前方後円墳で日本武尊の陵といわれているところだ。
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右手に「熱田神宮第二神門址」碑が立っている。刻まれている文字が歩道の右手車道に面して立っていたので、気が付かずに通り過ぎるところだった。
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左手に「断夫山古墳」がある。ここは愛知県では最大規模の古墳で6世紀前半頃(古墳時代後期)の築造と推定されているという。
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その先左手に、宝暦6年(1756)にこの地に生まれたきの女が開いた、如来教の本山である「青大悲寺」があり、道路に面したところに地蔵堂があって、ここに室町時代の作といわれる鉄地蔵が安置されている。
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新尾頭交差点の手前に「熱田神宮第一神門址」碑が立っている。第二神門址碑と同じように道路の一番車道よりに車道に向かって立っている。
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新尾頭交差点を渡ってすぐ、街道から外れて左へ行くと「住吉神社」があり、入口に「名古屋城建設守護神」と刻まれた社標が立っており、境内には明和元年(1764)の常夜燈等が立っている。ただ資料によると由緒には享保19年(1734)に摂州住吉神を勧請とされたとなっているが、そのころには徳川家康によって築城された名古屋城はすでに建設されていたのでは?と思った。
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金山新橋南の交差点に「左 さや海道つしま道」「右 宮海道なこや道」「右 木曽 かこや海道」と刻まれた、佐屋街道の旅籠仲間が建立したという文政4年(1821)の道標が立っている。
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ここが佐屋街道と美濃路の分岐点になるところで、美濃路は直進するが、佐屋街道は左折して進む。
右手に「唯然寺」があり、道路に面したところに「津島街道一里塚」碑が立っている。ここは五女子一里塚で、佐屋街道には五女子、岩塚、千音寺、神守、埋田の5ヶ所に一里塚があった。五女子という珍しい地名は、長者の7人の娘の嫁ぎ先に付けられたものといい、すぐ先には二女子町、中川運河を越えた左手には四女子町の地名が残っている。
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その先、左手中川福祉会館の前に「佐屋街道」と刻まれた石碑が立っており、佐屋街道の説明書きがある。
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長良橋手前左手に「明治天皇御駐蹕之所」碑が立っている。
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佐屋街道には道路の所々に「佐屋街道」という文字と絵が描かれたパネルが埋められている。絵柄は統一されていなくて、色々なものがあった。
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長良町2丁目信号から街道から外れて左へ進むと、「萬念寺」がある。江戸中期のある日、近くの教専坊の万念という坊さんが、村人の飲料水になっていた更池のそばを通ると、池の中から「万念や、万念や」と呼ぶ声がするので、村人に頼んで池の水を干すと泥の中から仏像が出てきた。更池には、鎌倉時代に旅の僧が濁った池の水を阿弥陀如来像を沈めてきれいな水に戻したという伝説があり、その阿弥陀如来像であった。村人はこの像を教専坊に祀り、以後このお寺を萬念寺と呼んだという。「亀齢山」と刻まれた寛政5年(1793)の手水鉢がある。
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街道に戻って進み、右手に烏森駅がある高架下を進むと、右手に「八幡社」がある。ここの本殿左に「正一位秋葉山大権現」と刻まれた安政元年(1854)の常夜燈があり、竿の部分に「左 なごや道」と刻まれた道標になっている。以前は柳街道との分岐点にあったものをこの場所に移したという。
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岩塚宿に入っていくが、昔の面影は全く残っていない。
右手に半分以上埋まった道標が並んでいる。一つは「キヨス本町 柴山(?)」とかろうじて読むことができる。
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ここから右折して進むと、突き当りに「七所神社」がある。ここは元慶8年(884)に創建されたと考えられている古い神社で、尾張三大奇祭の一つである「きねこさ祭」で有名な神社という。「きねこさ」は「きね」は餅を突く竪杵、「こさ」はきねからこすり落としたお餅のことを意味しており、きねこさ祭は五穀豊穣が願われたお祭りで、「御田祭り」と言う別名もついているという。三大奇祭とは熱田神宮の「歩射神事(ほしゃしんじ)」、尾張大國霊神社・国府宮の「はだか祭」とこの「きねこさ祭」のことをいうそうだ。ちょうど祭の準備なのだろう、注連縄造りが行われていた。また社殿右奥に「日本武尊腰掛岩」があり、日本武尊が東国平定から帰還の際、渡し舟が来るまでのあいだ腰掛けた岩石と伝えられている。
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また奈良時代初期の古墳とみられる古塚があるが、境内には三つの古墳があり、中村区で現存する古墳はここだけで、岩塚という地名の由来となっているという。
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庄内川に架かる万場大橋を渡ってすぐ川沿いを左へ行くと、「秋葉神社」があり、「秋葉山常夜燈」と刻まれた常夜燈、明治31年の石碑および親柱が並んで立っている。
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ここは万場宿で、寛永11年(1634)に宿場となり、2年後に宿となった対岸の岩塚宿と二宿で一宿の役割を果たし、月の上半分を万場宿が、下半分を岩塚宿が人馬継立の役務を行ったという。
右手に文化10年(1813)の題目石がある。

この辺り歴史を感じさせる旧家が立っている。
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右手に「ちゝの観音 医王山覚王院」の石柱が立っていて、その奥に覚正院があるが、ここの観音様のお告げで、境内にある乳の木の実を食べたら、乳の出が良くなったという言い伝えがある。又その横に高札場があったという国玉神社が並んで建っている。
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左手に「光園寺」がある。ここの山門は織田信長と斎藤道三が会見をした聖徳寺から移設したもので「臥龍山」と金字で書かれた額が掲げられている。
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その先右手に浅間神社があるところから左折して進み、新川に架かる砂子橋を渡って進むと、右手に十二所神社の鳥居が立っており、その先右手に地藏堂があり、左手に高札場跡の碑が立っている。
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街道を外れて右へ進むと、町指定有形文化財の薬師如来坐像を安置する自性寺がある。
街道は地蔵堂から左折して進む。
右手に題目石と常夜燈が並んで立っている。
右手に稲荷社がある。境内に篝火を燃やすためのものだろうか、駕籠のようなものがある。このあたりの神社で見かけるものだが、他ではあまり見かけないものだ。
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左手に七所社神社を見ながら進んで行き、狐街道東交差点を左折すると、その先右手に熱田神宮の別宮の八剣宮を勧請したものという「八剣社」がある。
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秋竹の信号から街道を外れて右へ行くと「藤島神社」がある。ここは白鳳4年(676)の創建と伝えられる式内社で入口に「延喜式内縣社 藤島神社」という社標が立っており、境内には石造りの蕃塀がある。蕃塀は愛知県の神社に多く見られるもので、不浄なものが本殿まで行かないよう防ぐ、不浄避けの意味と、神様を直接見るのは畏れ多いという考え方から視線隠しの意味もあるとされているという。
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七宝小学校北東の信号の右手に「七宝焼原産地 寶村ノ内遠島」「従是六町」と刻まれた明治28年の道標が立っている。尾張七宝は誕生の直後から海外向けの販売を主にしており、明治15年頃から外国人がこの周辺を訪れ、鑑賞、購入を行っていたという。そのため道標の上部には「shippoyakitosima]と当時としては珍しくローマ字が刻まれている。
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蟹江川に架かる下田橋があり、その横に弓掛橋という名前の歩道橋があるので、これを進んで行く。
神守口のバス停の所で道は二股に分かれおり、左手の川沿いの細道を進み、すぐ先で右折して68号線に合流するが、ここに街道で唯一現存している「神守一里塚」がある。右塚のみ残っていて、椋の大木が立っている。
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この辺りは神守宿があったところだ。神守宿は正保4年(1647)に開設された佐屋街道では最も新しい宿場だった。
左手消防の神守分団がある所に「神守村道路元標」がある。
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突き当りに「神守宿跡」の標柱が立っている。標柱の道路を挟んだ前に歴史を感じさせる旧家が立っている。
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街道はここから左折して進むのだが、街道を外れて右折すると「憶感神社」がある。ここは創建年代などは明らかではないが、『日本文徳天皇実録』の仁寿3年(853)の記事に「憶感神」の記述が残り、『延喜式神名帳』にも記載されている古社だ。以前は北神守村内にあったが、正保4年(1647)の佐屋街道の神守宿開設に伴う集落移転によって、慶安元年(1648)に現在の地に移ったという。ここにも蕃塀がある。
その横に二重屋根六角堂の延命地蔵がある。ここは宝暦8年(1758)に祀られ、文政3年(1820)に六角堂が建立されたという。
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街道に戻って進むと、右手に穂歳神社を見ながら進み、日光川に架かる日光橋を渡ると、左手に日光橋の親柱と常夜燈が立っている。
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階段を下ったところ、右手道路の向こう側に秋葉神社がある。
その先日光の信号の所左手に祠がある。資料によると日光寺はお寺はなくて祠があるとなっていたので、この祠が日光寺かな?と思ったがよくわからなかった。
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右手に「式内諸鍬神社」 「獅子舞開祖 市川柳助碑」と刻まれた石標が立っている。
津島市役所前のバス停の少し先から左折、すぐ先を右折して進むと、道路の真ん中に「右 つしま天王みち」「左 さやみち」「あつたなごや道」と刻まれた道標が立っており、その先に常夜燈が二基、更にその先に上部がない一の鳥居が立っている。ここが埋田追分だ。
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ここから先の旧道は失われているようで、津島市民病院の前を通り、愛宕神社の前を進んで行く。105号線を横断して進むが、105号線沿いに日置八幡宮や大聖院、明通寺があるので見てみたかったのだが、日没が近づいているので先を急ぐ。歩いている道からは見えないが、右手に日比野駅があるところまで来たとき、17時のチャイムが鳴った。今日の日没時間は17時17分なので、ここから佐屋までいくと、残照が残っている間には歩き終わりそうにないので、ここで一旦歩き終わって、明日続きを歩こうかと思ったのだが、残りはそれほど長い距離ではないので、暗くなることを覚悟して最後まで歩くことにした。
佐屋変電所の前を通り、458号に合流するところ右手に昭和54年に建てられた「佐屋海道址」碑が立っている。
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須依の信号から右折するが、ここに筆塚があるはずだが、とにかく先を急ぎ、周囲が暗くなってきたことから、写真も撮らずに歩き、17時40分に「さや舟場道」碑がある所に到着する。
この辺りは翌日津島街道を歩き終えた後にここまで戻ってきて、写真を撮った。
「筆塚」は須依の信号の左側の民家の前にあった。この場所は慶応2年(1866)佐屋の造り酒屋の長男に生まれた眞野香邨の生家跡で、香邨は山水画の数々の賞を受けたという。
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「さや舟場道」の道標がある。舟場への道を示すもので、以前は民家の屋敷内にあったが、寄付を受けて昭和54年にここへ移設したという。
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この道を挟んだ反対側に昭和60年に建てられた「佐屋代官所址」碑が立っている。
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左手角に公園があり、ここに「佐屋三里之渡址」碑が立っている。佐屋川の川底が浅くなって、三里の渡しの湊が川平湊や前ケ須になってからは佐屋からは陸路を歩いたという。
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今日は移動を含めると一日で54000歩ほど歩いたので、さすがに膝にきた。
膝を痛めて以降、無理をせず、ほどほどの距離を歩こうと決めたのに、なかなか決めたことが守られない。。。

本日の歩行時間  7時間38分
本日の歩数&距離 43865歩、27.9km
本日の純距離    25.1km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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かっちゃん
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かっちゃん