岐阜街道(鮎鮨街道)を歩く

2023年02月23日(木)
総歩数:49952歩 総距離:31.5km

2023年02月23日(木)

岐阜~四ツ家追分

                             雨のち晴れ
岐阜街道は岐阜から美濃路の四ツ家へ至る道で、信長が岐阜城攻略後は清州と岐阜を結ぶ主要街道になった。
また慶長8年(1603)に美濃国奉行だった大久保長安が徳川家康、秀忠に岐阜の鵜飼で捕れた鮎を加工した鮎鮨を献上、元和元年(1615)以降は毎年10~20回この道を通って献上したことから「鮎鮨街道」とも呼ばれている。「鮎鮨」は現在の「にぎり寿司」や「押し寿司」とは違って「熟れ鮨」と言われるご飯を発酵させたもので、琵琶湖の鮒ずしの鮎版ともいうものだという。そのため江戸に着くころにはちょうど食べごろになるように五日間の昼夜兼行で江戸迄運んで将軍に献上したという。かなり強い臭いがあったようだ。
愛知県歴史の道調査報告書Ⅳ 「美濃街道・岐阜街道」と「鮎鮨街道いま昔」(高橋恒美著)を参考にした。

岐阜長良川に架かる長良橋の所から7時50分に出発した。
281
右手に秋葉神社を見ながら進むと、右手に「十八楼」がある。ここは、万延元年(1860)創業という老舗旅館だ。
284
この辺りは昔の面影を色濃く残している家々が立ち並んでいる。
286
左手に法運寺がある所で道は二股に分かれているのでここを左折して進み、その先で街道から外れて左折して常在寺へ行ってみる。ここは斎藤道三以後の斎藤氏3代の菩提寺として知られ、重要文化財に指定されている斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が所蔵されている。境内には斎藤道三の供養碑があるが、写真の奥に写っている石碑が供養碑のようだ。
297294

山の上に雨にかすむ岐阜城が見える。
290
街道に戻って進むと、右手に本陣跡の説明板がある。それによると尾張藩主が岐阜を訪れる岐阜御成の際、宿泊をした賀島家があったところで、明治24年の濃尾大震災で焼失したという。
301
右手に「高札場」跡の説明板が立っている。その先に御鮨街道の説明板が立っているが、この説明板はこれから先、何か所も立っていた。
302303

左手街道から少し外れた所に「橿森神社」がある。ここは景行天皇の御代、この地に鎮座されたという。織田信長は楽市・楽座を開いた際、市神をこの橿森神社の神木、榎の元に祭ったという。御園の榎というこの榎は2022年6月30日に倒れてしまったので、伐採されて現在は切株のみが残っていた。
308315

JR東海道線の高架下の先右手に「亀姫侍女 十二相祠堂阯」と刻まれた石碑が立っている。亀姫は徳川家康の長女で、初代加納城主奥平信昌の正室だったが、その亀姫にとがめられて処刑された侍女を祀ったのが十二相祠堂という。
317
名鉄の踏切の先右手に道標が立っているが、これは最初は「左 中山道」「右 岐阜道」と刻まれていたが、明治初年に「左 西京道」「左 東京道」と標識が追加されたという。中山道と岐阜街道の分岐点に立っている。
318
左手に「岐阜問屋跡」の説明板がある。それによると熊田家は信長の時代、加納の問屋役を務めていたが、次第に手広く商売を行うようになって「岐阜問屋」と呼ばれるようになったという。
右手に専福寺がある。ここには戦国時代を中心とした文書が残されており、そのうち、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制礼状の三種が岐阜市重要文化財に指定されているという。
321
ここで道を間違えた。そのまま進んで行けなければいけなかったのだが、左へ分岐してしまったのだ。少しうろうろしてしまったが、本来の街道に戻ることができた。本来の街道は専福寺の前を直進し、その先で左折、すぐ右折して進むと左手に「左 西京」「右 岐阜 谷汲」と刻まれた明治18年の道標があるので、ここを右折する。
327
加納大橋を渡って左折、すぐ先で右折するが、右手に「ぶたれ坊と茶所」の説明板が立っている。江戸時代の鏡岩浜之介という力士は土俵の外での行いが悪かったことを改心して、ぶたれるために等身大の自分の木像をおいて罪滅ぼしをし、茶店を設けて旅人にお茶をふるまったという。ここにあった妙寿寺は廃寺となり、ぶたれ坊の像は妙泉寺に移されている。「鏡岩の碑」の横に立つ道標には、「東海道 いせ路」「江戸木曽路」「天保12(1841)年鏡岩濱之助内建立」と刻まれている。
331
その先左手に地藏堂が立っており、境川沿いを歩いていく。秀吉の時代この境川が木曽川の本流だったそうで、東が尾張領、西が美濃領だったという。
335337

右手に旧笠松問屋だった高嶋家があって標識が立っており、その横に鮎鮓街道の石碑が立っている。
340
すぐ横に「善光寺」がある。ここは笠松陣屋の牢屋があったところで、境内にキリシタン処刑地の大臼塚から移設された供養碑が立っている。11時1分にここを通る。
343
木曽川に突き当たると、ここに灯台と天保4年の道標が再建されている。
352
木曽川橋で木曽川を渡り、名鉄とJRの線路を越えて行くと、右手に「法蓮寺」があり、「山内一豊出生地」の碑がある。奥の墓地に山内一豊の父・山内但馬守盛豊と兄・十郎の墓がある。兄は弘治3年(1557)に黒田城で夜襲にあい死亡。父は永禄2年(1559)に岩倉城落城時に死亡したとされる。12時14分にここを通る。
356
右手に「善龍寺」があり、門前に「明治天皇御駐輦之處」と刻まれた石碑が立っており、境内には「明治天皇黒田御小休所」碑が立っている。
359
右手に「彼岸縄手地蔵」がある。説明板によれば、この地蔵尊はかって剣光寺というお寺に安置されていたもので、源頼朝上洛の折には地蔵尊を拝し、剣一口を奉納されたという。その後南北朝時代の戦乱により剣光寺は焼失・廃寺となったが、永禄3年(1560)以安和尚によって再興されたという。
362
右手に「酒見神社」がある。ここは元伊勢と呼ばれる神社の一つで、倭姫命(垂仁天皇の王女)が天照皇大御神を祀る地を求めて旅の途中一時留まり、その後地元の人々によって社殿が造られたという。ここは酒に縁の深い神社で、斉衡3年(856年)、文徳天皇の勅命により伊勢神宮から、大邑刃自・小邑刃自の2名の酒造師がこの地に派遣され、伊勢神宮にお供えする御神酒を造ったと伝えられる。このことから、清酒の醸造が最初に行われた所といわれている。ここは蕃塀がある。13時36分にここを通る。
366
境内には磐舟がある。この磐船で、毎年伊勢神宮に供える神酒を醸造したという。もろみを石の上で押し搾り、酒粕と清酒を分離させる働きを持っていたと考えられているという。
369
その先で左へ分岐して進むが、この道は道幅が狭いが、その分車が少なくて歩きやすい。
左手に「真清田神社」があるので、街道を外れて寄ってみた。ここは平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、「尾張國一之宮」となっている。14時6分にここを通る。
374
アーケードの中を進んで行くと、左手に「三八市の市神堂旧地」と「真清田神社二の鳥居跡」のまだ新しい石碑が立っている。
375
アーケードを抜けた先、右手に江戸末期から明治にかけての漢詩人だった「森春濤宅址」碑が立っている。
376
左手に「地蔵寺」がある。ここは行基の草創といわれており、その後火災にあって荒廃したが、建長年間(1249~1256)に了智空円によって再興されたという。14時25分にここを通る。
379
その先十字路左角に「岐阜街道 一里塚跡」碑とその横に常夜燈が立っている。
380
ここから右折するとすぐ右に「真清田神社一の鳥居跡」碑が立っている。
牛野通の信号から右へ分岐して進むと、多加木北の信号の左角に「妙興寺石標」が立っている。資料によると「諸山列刹禅林」「従是六丁」「妙興寺恩禅寺」宝暦12年(1762)と刻まれているようだ。
384
190号線に一旦合流するが、すぐに右へ分岐して川沿いの道を進む。
左手に「一里塚跡」碑とその横に「天皇陛下御巡幸に際し、勧農のお言葉を賜りたる地」と刻まれた「御巡幸之跡」碑が並んで立っている。
387
左手に「阿弥陀寺」があり、その参道の入口に「二十四斐阿弥陀寺」と刻まれた石碑が立っている。16時5分にここを通る。
396397

左手に「妙長寺」があり、題目石が三つ並んで立っている。一番左手は天保12年(1842)、真ん中が文化13年(1816)と刻まれている。
399
16時42分に四ツ家追分に到着し、岐阜街道を歩き終える。
402

本日の歩行時間   8時間52分。
本日の歩数&距離 49952歩、31.5㎞。
本日の純距離    28.3km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん