底井野往還を歩く

2023年03月07日(火)
総歩数:24293歩 総距離:16km

2023年03月07日(火)

黒崎~六反田追分

                         晴れ
 福岡藩は参勤交代の際、唐津街道の赤間道上の六反田の追分から自藩内の近道である底井野往還を通って長崎街道の黒崎へ進んでいた。また参勤交代だけでなく、底井野御別館屋や同茶屋に遊猟することが多かったことから、底井野往還のことを古門往還、御成り道、殿様道ともいい、唐津街道の本宿通りに対して内宿通りとも言ったという。
「九州文化図書 長崎街道シリーズ 大里・小倉と筑前六宿」を参考にした。

涼天満宮があり、ここから長崎街道から右へ分岐して進むが、涼天満宮のことは長崎街道を歩いた際、以下のように記述しているので、これをそのまま引用させていただきます。
「ここは菅原道真公をお祭りしている神社だが、境内にあった大松の下で旅人が休息したので、この松は「夢想の松」「涼みの松」と呼ばれ、いつの間にか神社も「涼天満宮」と呼ばれるようになった。いまでは松は枯れてしまっているが、ここには次のような言い伝えが残されている。
江戸時代正徳年間(1711~1716年)のある日、長崎の熊部新冶郎という人が、所用で京都に向かうときここで休息し、松の枝にお金の入った荷物を掛けたことを忘れて立ち去ってしまった。翌年新冶郎が帰郷の時再び立ち寄ってみると、荷物はそのまま残っていた。新冶郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したことからこの松の木を「金懸けの松」と呼ばれるようになったと説明されていた。」

今回改めて境内を見てみると、奥の方に「かね懸け松の址」と刻まれた石碑があることに気が付いた。
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街道はここで長崎街道と分岐するので、9時12分に出発する。211号線の中の原信号で右折、すぐ先を左折して中の原東公園を左手に見ながら住宅街の中の入り組んだ道を進み、200号線に合流して左折、沖田3丁目の信号で200号線から分岐して右折、その先で再び右折して進み、右手に中尾小学校がある所から左折して進むと、下上津役2丁目の信号の右手に「熊野神社」がある。
境内には保存樹となっている大楠が立っており、社殿の前には今年の干支にちなんだのだろうか、ウサギの竹細工が並んでいた。
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その先左手に「観慈亭」がある。明治6年暴動の首謀者と見られた大和与一が投獄され、拷問を受けたが、無事冤罪と認められて釈放されたことから、その後全国各地の神社・仏閣を巡礼して回り、その後この地に観慈亭を建立したと説明されている。
境内の下段には四国八十八か所、上段には西国三十三か所の多数の石仏が立ち並んでおり、「四国八十八か所霊場御砂踏道場」と刻まれた碑が立っている。
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右手に「役之郷清水ケ池古駅水」があるはずの所で、土地の造成工事がされていて、井戸は確認できたが、「右 あかまみち 左 やまみち」と刻まれた寛延元年(1748)の道標地蔵と「右 やまみち 左 くろさき道」と刻まれた道標地蔵が見当たらない。ご近所の方にお伺いすると、現在工事中なので一時的に移設していて、工事が終わった段階で元に戻す予定ということだった。平安時代、この辺りは「役之郷」(やくのごう)と呼ばれていたが、これは「夜久の駅」(やくのうまや)にかかわる地名といわれている。「夜久の駅」は延喜式の兵部省諸国駅伝馬の条に見える筑前十九駅の一つで、明確な場所はわかっていないが、「役之郷」という地名の由来や伝承から、この地が「夜久の駅」だったのではないかといわれているそうだ。
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そのすぐ先は妹ケ谷の切通しで、道が狭くて歩道がなく、車の流れも多くて歩きにくい。
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通谷の電停から右折、48号線に出る直前で右の細道へ分岐するが、その先で48号線を横断できないので、信号迄戻って、その先のこれまで歩いてきた道の延長線上の細道を進むと、右手階段の上に6体の地蔵尊を安置する地藏堂がある。
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すぐ先で左折して進み、左手に法専寺を見ながら進むと、左手に「梅安天満宮」がある。ここは大永年間(1521~1527)に太宰府から勧請されたもので、延享年間(1744~1748)にこの地に移設されたが、この地が梅安といわれていたことから梅安天満宮と称されるようになったという。
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右手に「大宮篠隈宮」と額に書かれた鳥居が立っている。ここは「篠隈宮」があったところだが、階段の上は現在中間市の武道場になっていて、「篠隈宮址」と刻まれたまだ新しい石碑が立っていた。
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中間市役所の前を左折、堀川沿いを進むが、文化庁の歴史の道百選に選ばれたというこの堀川は初代福岡藩主黒田長政の時代、慶長18年(1613)に工事が始まり、長政の死去で一旦途絶えていたが、六代藩主黒田継高の時代に再開され、宝暦12年(1762)に正式に開通した。12㎞に及ぶ堀川は特に明治時代、筑豊地方の石炭を洞海湾に運ぶ大動脈として機能したという。
堀川の対岸に「唐戸の大楠」が二本立っている。一本は樹高2○m(○は読み取ることができませんでした)で樹齢250年~300年、もう一本はそれより若い樹だが、樹高は22mあるという。中間市の天然記念物に指定されている。
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「唐戸水門」がある。唐戸とは水門のことで、遠賀川が増水すると堀川下流域を水害から守るため、唐戸は閉鎖されたという。福岡県指定文化財になっている。
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唐戸水門の横に厳島神社の鳥居が立っている。
遠賀川に架かる遠賀川橋を渡り、すぐに左折して川沿いの道を進むと、街道は途中で右折するのだが、直進したところに十五社神社がある。社殿前に古い狛犬があり、「癸巳」と刻まれているようだが、それ以外は読み取ることができなかった。
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街道に戻って進むが、ここで道を間違えてJRのガード下を潜り抜けたところで間違いに気が付いて、後戻って本来の街道を進む。
ガードをくぐった先、右手民家の敷地内のようなところに「熊鷹稲荷神社」があり、ここを右へ進む。
右手に底井野小学校がある所から左折して進むと、左手に「正覚寺」がある。ここは治承元年から治承3年(1177~1179)に創建され、元和2年(1616)に現在地に移ったという古いお寺で、境内には享和2年(1802)の石仏を含む数多くの石仏が立っていた。
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その先右手に「蓮光寺」があり、その道路を挟んだところに「薬師堂」がある。
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丁度12時になり、お寺の前に食堂があったので昼食にした。この辺りなかなかお店がなかったので助かった。
食事を終わって店を出たすぐ前に「小田宅子生家」の碑が立っている。
小田宅子は筑前国遠賀郡底井野の商家小松屋の娘で、江戸後期の歌人だった。伊藤常足に和歌を学び、歌仲間阿部峯子の『伊勢詣日記』に刺激されて、天保12年(1841)友人らと5カ月かけて京坂、伊勢、日光、江戸を見物してまわり、その10年後に『東路日記』を著した人という。ちなみに俳優の高倉健は本名が小田剛一といって、小田宅子の子孫にあたるという。
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右手に「月瀬八幡宮」がある。ここは寛永15年(1638)、福岡藩二代藩主 黒田忠之公が、宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが始まりで、室町時代に麻生氏の端城として築かれた猫城の城跡にある。猫城という名前の由来は「猫が背を丸めた姿にみえる」とか「敵が攻めてくれば高くなり、城より攻め下るときは低くなって、まるで猫のようだ」と言われていたことによるという。社殿前に天保3年(1833)の狛犬や境内に慶應元年(1865)の常夜燈が立っている。また大きな「猫城址」と刻まれた自然石があるが、横に「奉納 高倉健」と書かれた札が立っている。
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上木月の信号を横断、次の信号を右折すると、右手に大銀杏とその前に「庚申尊天」と刻まれた、まだ新しい碑を安置する祠がある。これは「上木月庚申」と呼ばれていて、永禄2年(1559)僧信空によって勧請されたもので、石塔はその後寛延元年(1748)に再建され、今回さらに新しく再建されたという。牛馬安全の神、水害を防ぐ豊作の神、また子供の守り神とされているという。
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照安寺に突き当たるので、これを右折して進み、住宅街の中の細道を進んで行く。木月橋を渡ってすぐ左折、次の信号で右折して進む。55号線を跨ぐ橋(黒橋)を渡ると道は二股に分かれている。右へ行くと苦しケ峠へ向かう道であり、左へ進むと山裾を通る道になる。本当は苦しケ峠の道を歩きたかったのだが、膝に爆弾を抱えている身としては安全を考えて、山裾の道を歩くことにした。
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田んぼの中の平坦な道を進んで行くが、右手に苦しケ峠が見える。
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右手に石仏を祀る小祠がある。
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左手に老人施設があるところで道は二股に分かれているので、右の細道を進む。
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29号線に合流したところが「六反田の追分」なのだが、標識等は何もない。
14時3分に歩き終わる。

本日の歩行時間    4時間51分。
本日の歩数&距離  24293歩、16.0km。
本日の純距離     14.1km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)            

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