薩摩街道(豊前街道)を歩く

2008年06月23日(月) ~2008年06月27日(金)
総歩数:183161歩 総距離:112.9km

2008年06月23日(月)

石櫃~松崎~府中~羽犬塚

 薩摩街道を調べてみると、福岡では小倉から鹿児島までを薩摩街道と称しているのが一般的のようだが、熊本では熊本城の札ノ辻を基点にして、そこから北を豊前街道、南を薩摩街道としており、熊本県の「歴史の道調査報告」でもそのように記載されていた。そのため前者を薩摩街道(豊前街道)とし、熊本以南を薩摩街道と分けて書くことにする。
 また小倉から山家までは長崎街道を歩いた際、すでに踏破しているので、今回は山家宿にある石櫃の追分を出発点とした。
 朝6時15分に自宅を出て、追分石のところに8時23分に到着する。当初調べた段階では386号線の石櫃交差点のところに追分石があると思っていたが、ここから少し北寄り、中牟田小学校の方へ行ったところにあった。
 この追分石は江戸時代初期の道標で「右 肥後薩摩道」「左 豊後、秋月、日田、甘木道」と印されている。
 石櫃は山家宿の下宿として賑わい、道標は山家宿の問屋武作が世話人となって建てたと説明されている。
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ここから386号線を直角に横切って直進し、突き当りを左折して進む。曽根田川を渡ってすぐに右折する道があり、ここを行くと筑前、筑後の「国境石」が立っている。ここは延宝年間(1673~1681)に府中宿(久留米市)から松崎宿(小郡市)を経て山家宿(筑紫野市)にいたる薩摩(豊前)街道が整備されたことにともなって、久留米藩と福岡藩の国境を示す道標が立てられた。当初は木杭だったが、18世紀中頃には小形の石柱に変わり、19世紀中頃までに現在のものに建て替えられたということだ。現在でもここは筑紫野市と小郡市との市境となっている。
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 この国境石の前に大きな榎が立っていたが,説明書きがなかったのでくわしい樹齢等はわからなかった。
 このあたりは旧道は車の通行量も少なく、気持ちのいい道が続いている。周囲は田んぼが多く、田植えを終えたばかりの小さな苗が並んでいる。
 「千潟の一里塚跡」があるが、道端に小さな碑が立っているだけだった。ここは昭和の中頃までは大きな榎の名残も見られたということだが、現在では何も残っていない。
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 ここから先で道を間違えてしまった。旧道を歩かなければならなかったのに、気がつかず132号線を通ってしまっていたのだ。立石中学を目印にしていたのだが、なかなか見当たらない。それに旧道にしてはいやに車の通行量が多いなと思いながら歩いていくと、甘木鉄道の西太刀洗駅に出てしまった。本来は松崎駅の横を通るはずなのに、なんと二つも離れた駅に来てしまったのだ。電車を待っている方がおられたので聞くと、親切に間違った場所を教えてくれたのでそこまで戻る。
 この間15分、往復で30分ほどロスしてしまった。
 大分自動車道の下をガードでくぐり抜けると右手に「霊鷲寺」がある。大きなお寺で創建700年、本堂大改築の看板が立っており、中に入っていくと新しい立派な本堂が立っていた。
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 甘木鉄道を横断して進むと「松崎宿の北構口」があり、道の両側に石塁が残っている。構口は宿の東西南北の出入口に、それぞれ高さ一間、縦横二間の石類があり、その上に物見櫓が構えられていたと説明されていた。この構口、長崎街道にもあったが、これまで歩いた五街道にはなかった。九州独特のものなのだろうか?
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 その少し先、枡形になった道を進むと「上町の恵比寿」が立っていた。ここは恵比寿が町のあちこちに立っていた。長崎街道の佐賀宿にも同じような恵比寿が数多く立っていたことを思い出す。
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 突き当りを左折すると右手に茶屋跡の家がある。重厚な感じの土蔵が残っており、それらしい風情がある建物だ。ここが本陣の跡だ。
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 ここでカウントする。
 11時13分、松崎宿本陣跡を通る。
 石櫃から2時間50分、17747歩、9.3km。
 ここから先、道は再び枡形になっており、その先に「旅籠鶴小屋」がある。
 ここは黒岩家の住宅で、黒岩氏は元和6年(1620年)吉兵衛が久留米有馬氏と共に丹波(京都府福知山市)より入部し、御鶴番(鶴は高級食材として重宝された)として久留米藩に仕えた。御鶴番は松崎の最南端(現下岩田)にあり、軍事的役割も担ったとされる。この後、幕末から明治にかけて「御宿 鶴小屋」を始めた。現存する家屋は明治28年(1895)に建てられ、平成12年まで実際に居住されていたと説明されていた。
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 この先に「南構口」も残っている。ここも延宝年間(1673~1680)に開設され、明治5年(1872)の宿駅廃止に至るまで約200年間使われていたということだ。
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 このあたりも静かな旧道が続いていて、なかなかいい雰囲気だ。ただ人とはほとんど出会わないので一人黙々と歩く。
 「下岩田の一里塚跡」があったが、ここも石碑が一つ立っているだけだった。
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 日本赤十字精神の祖といわれている「高松凌雲の碑」がある。天保7年(1836)古飯の庄屋高橋家の三男としてこの地に生まれ、江戸で医学の修養に励んで慶応2年(1866)15代将軍徳川慶喜の奥詰医師となる。その後フランスで医術の研究を続けたが、戊辰戦争の報を受けて帰国、榎本武楊らと行動を共にし、箱館では敵味方の区別なく傷病兵1300余人の治療にあたったという。戊辰戦争後は一介の町医者として貧民施療に力を注いだと説明されていた。
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 「郡境石」がある。これは当時の御原郡と御井郡の境を示すために文政12年(1829)に建てられたものだ。 両郡の境は山や川といった自然の地形によってではなく、人工的に決められたものなので境界が分かりにくく、そのためこのような境界石が各所に建てられたが、現存するものは少ないと説明されている。
 石には「北 御原郡、南 御井郡」と刻まれていた。
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 昼になった。このあたりは食事をするような店がないなと思いながら歩いていると、山賊鍋というかなり大きな店が一軒だけあったので、そこに入って昼食を摂ることにする。ところがここは超満員で何人も順番を待っている客がいる。どうしようかと思ったが、ここから先、昼食をする店があるかどうか分からないので、順番を待ってでもここで食べることにする。結局食べ終わるまでに一時間かかってしまった。歩くときの昼食時間は大体30分もあれば十分なので、いつもの倍の時間がかかってしまったことになる。
 筑後川に架かる神代橋を渡る。筑紫次郎と呼ばれた筑後川は先日来の雨で増水をしており、茶色に濁った川はかなりの流量があった。
 橋を渡ったところに「史跡神代浮橋之碑」が立っていた。文永11年(1274)元・高麗の連合軍の襲来にあたり、鎌倉幕府の執権北条時宗は薩摩・大隈・日向・肥後など南九州の御家人などに出兵を命じた。当地の神代良忠はこれらの軍勢の北上に際し、工夫を凝らして九州第一の難所といわれた筑後川神代浮橋(舟橋)の通行の便を計らい、諸軍を速やかに博多に赴かせたと説明されている。
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 橋を渡ってすぐ先に「神代天満宮」がある。別名「身浴びの天満宮」ともいう。
 ここは菅原道真公が水田の郷から北野への帰途、神代天満宮の所在地で沐浴をされたことから、村人がこの地に天満宮を立て当地の産神とした。このことから身浴び天満宮とも呼ばれているそうだ。
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 「高良大社の一の鳥居」がある。高良大社は履中天皇元年(400)創建と伝えられ、現在の社殿は久留米藩3代藩主有馬頼利の寄進によるもので万治3年(1660)に本殿が、寛文元年(1661)幣殿、拝殿が完成している。 社殿は国の重要文化財に指定されており、神社建築としては九州最大と説明されている。
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 この一の鳥居のすぐ近くに昔大きな井戸があり、参勤交代の行列や旅人はその井戸で喉を潤したといわれているそうだ。
 このすぐ先に「高良下宮社」がある。ここは上宮(高良大社)と同じ年の創建といわれ、上宮を遥拝する位置にある。南北朝時代の天授3年(1377)征西将軍宮穣良親王がここに願文を納めたことは有名と説明されている。
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 このあたりは府中宿なのだが遺構は残っていない。ただ、いかにもそれらしき建物があったので、その前にあったお店の奥さんに尋ねると庄屋さんの跡ということだった。一部は空き地になっていたが、昔は「大なべや」「小なべや」と呼ばれていたそうだが、その奥さんもそれ以上の詳しいことはわからないということだった。 
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 ここでカウントする。
 15時10分、府中宿を通る。
 松崎宿から3時間57分、19482歩、12.7km。
 府中宿を過ぎると陸上自衛隊久留米駐屯地や高良台演習場といった自衛隊関連の施設が数多くある中を歩いていく。旧道は久留米駐屯地の中を通っているようだが、中に入れないので遠回りをして歩く。高良台演習場のところは山の中の両側が演習場になっており、その間を縫うようにして道が一本通っている。ここを歩いていると頭の上を砲弾が飛び交うような錯覚に陥る。
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 山を下ると209号線に合流する。ここは車の通行量が多い。やがて上原々向山の信号から左折して再び旧道に入る。今日歩いた街道は旧道がかなり残っており、それらは静かな通りになっていた。ここも同様で閑静な住宅街の中を旧道が通っている。
 一旦209号線を横切って道の反対側に出、そこからしばらく旧道を歩いた後、209号に合流する。
 このあたりが羽犬塚宿の中心部のはずで、どこかに何か遺構はないかと探しながら歩いていたがよく分からない。近くにあったお店の奥さんに聞くと親切に案内してくれた。羽犬塚小学校があり、ここが茶屋本陣の跡ということで説明文が立っていた。
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 ここでカウントする。
 18時8分、羽犬塚宿本陣跡を通る。
 府中宿から2時間58分、18596歩、12.9km。
 この地を羽犬塚と呼ぶがそのいわれは、天正15年(1587)天下統一を目指す豊臣秀吉が数万の軍勢を率いて九州へ遠征してきた。ところがこの地に差し掛かったときに、連れていた敏捷で羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬が敵の矢に当たり死んでしまった。秀吉はこの愛犬を弔らうため塚を作り、この地を羽根の生えた犬の塚という意味で羽犬塚と呼ぶようにしたそうだ。
 209号線を歩いた後、山の井川の手前で右折する旧道に入る。左手に旧坊津街道(薩摩街道)の碑が立っている。
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 旧道は442号線と209号線の交点である山の井の信号を横切って進む。少し行くとここにも街道の碑が立っている。このあたりは所々にこうした碑が立っている。よくあることだが立派な碑だ。これを見ていつも思うことがまた心に浮かぶ。
 この碑を作る費用があれば、もっと簡素なプレートであればより多くの道標を作ることができるはずだ。そしてどうせ碑を建てるのであれば、迷いそうな場所に建ててくれたほうが歩く人間にとっては助かるのだが、なんの変哲もない、道に迷うことのない場所に建ててもあまりメリットがないように思う。
 年寄りの小言ではあるが、まんざら的を得ていないわけでもないだろう。
 「天満神社」がある。境内には立派なくすのきが立っており、これらの木は筑後市名木百選に指定されていた。
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 史跡一之塚源平古戦場という真新しい石碑が立っており、そこはちょっとした広場でその奥に大きな石碑が立っていた。由来を書いたものはなかったので、近くで草取りをしていたおばさんに聞いてみたが、昔この地で源平が戦ったらしいということだけで、それ以上は知らないということだった。平家は壇ノ浦の戦いで敗北したので、残党狩りでこの地で戦闘があったのかもしれないと思ったが結局詳しいことはわからなかった。 
 尾島上町の信号で209号線に合流して進み、尾島の信号から右折して進むと水洗小学校がある。ここはY字路になっている。旧道は左手に進むのだが、今日はここまでとし、右に進んでJR船小屋駅へ向かう。
 駅に着くと丁度うまい具合に19時20分の電車がきたのでこれに乗り帰宅する。22時に自宅着。
 家を出発して帰り着くまでに今日は68718歩歩いていた。
 
 本日の歩行時間   10時間42分。
 本日の総歩数    68718歩。
 本日の総歩行距離  42.6km。

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