薩摩街道(豊前街道)を歩く

2008年06月23日(月) ~2008年06月27日(金)
総歩数:183161歩 総距離:112.9km

2008年06月27日(金)

山鹿~味取新町~熊本

晴れ
 7時45分にホテルを出発する。
 山鹿は温泉、灯篭そして古墳で有名なところだ。山鹿温泉は保元2年(1157)宇野親治という人が山中で鹿が湯浴みをしているのを見つけて温泉を発見し、国主菊池九郎隆直公の許しを受けて湯主となったのが始まりと伝えられている。しかし一方では平安初期(934年頃)源順によって著された「和名類聚抄」に山鹿は温泉郷として紹介されてもいるそうだ。いずれにしても旧い温泉町だ。
 また灯篭は室町時代に端を発するもので金灯篭や神社仏閣などを和紙とのりだけで作り上げる伝統的な工芸品だ。毎年大宮神社に献上され一年間灯篭殿に奉納されている。毎年8月15、16日に開催される灯篭祭りは浴衣姿の女性が中に火が灯っている金灯篭を頭にのせて「よへほ節」を踊る姿は優雅で幻想的だ。   山鹿灯篭民芸館があるのだが、昨日到着したときはすでに閉館しており、今日は朝早いのでまだ開館していなかった。
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 「火除け地蔵」がある。今から千年程昔、上市に鶴山像成寺という真言律宗の大寺院があり、この地に惣門があった。その脇に地蔵寺が祭られていたのでここを地蔵口と呼んでいた。その後寺は城となり、山鹿城上市城と呼ばれ、菊池家の一族山鹿氏が代々居城、天正16年(1588)に亡ぶまで続いた。その後弘化3年(1846)や昭和46年の火災にも焼けることなく、この地蔵寺は残っていると説明されている。
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 「光専寺」がある。ここは西南の役山鹿口の戦いの薩摩軍野戦病院となった場所だ。西南の役で山鹿口と田原坂の戦いは最も激戦になったところで、官軍の戦死者325名、薩軍の戦死者は二百数十名であったそうだ。田原坂が落ちると山鹿口の薩軍も隈府方面へ退却したが、彼らは「我々は負けていない」と残念がり、本寺の庫裡の天井や鴨居を槍や刀で突き破って無念の情を表した。そのときの痕跡が今も鴨居の一部に残っていると説明されていた。
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 「本田邸(西惣門)」がある。ここは天保13年(1842)の絵図にもその輪郭を残している。ここは豊前街道有数の豪商であり、米問屋、造り酒屋と変革を遂げてきたと説明されている。2008062704 
 「惣門」が復元されている。ここは「東惣門」「西惣門」という地名が残っており、像成寺の惣門に由来するものだ。宝暦13年(1763)の「山鹿湯町絵図」には菊池川に面して冠木門形式の「構口」が描かれており、これをここに再建したと説明されている。
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 山鹿大橋に差し掛かる。この橋の袂の欄干に山鹿灯篭を被った人形が立っている。灯篭祭りに参加する女性の姿だ。
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 この橋を渡ると山鹿市の中心街から外れていく。 山鹿は旧い温泉町なので昔の風情が色濃く残っており、しっとりと落ち着いた雰囲気の町だ。
 「六里木跡」 の木杭が立っている。ここには大きな榎が植えられていたそうだ。ここから熊本城まで順調に行けば24km程。実際にはかなり延びるだろうが、それでも基本的に距離が短いため、気持ちの上で楽だ。
 米野岳中学校のところで道は三本に分かれている。その真ん中の道、「進んで挑戦、決めたらやり抜く」というこの中学の目標を書いた大きな看板の後ろに旧道の上り道がある。この標語、誰にでも当てはまる言葉だ。「歩いて日本縦断」必ずやり抜くゾ!と気持ちを新たにする。
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 旧道のこの坂を「うらやま坂」というらしく、中学生が書いた「長者の宝くらべ」という肥後昔話の表示板が立っていた。
 この坂は距離は短かったが倒木が何本も道を塞いでいたり、地面は先日来の雨で濡れていたりしていた。あまり歩く人はいないようだった。
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 「五里木跡」があるが、看板には里数木跡と書かれていた。ここも榎の大木が四方に枝を張っていたそうだが、昭和20年代に枯れたと説明されていた。このあたりはハゼの木がまだ所々に残っている。
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 街道から右手、少し入ったところに「善行寺」があるので行ってみた。
 ここは細川藩、島津藩、相良藩の参勤交代の際、御小休所として藩主以下の休憩所となっていた。境内には大きなイヌマキの木が立っており、元和元年(1615)に和田次郎正善が寺を創立したときに植えたと伝えられているそうだ。
 ご住職さんがおられたのでしばらくお話を聞く。
 このお寺の庇の部分に細川家の家紋である「九耀の紋」が彫られていた。この部分を背景にご住職さんの写真を撮らせていただいた。
 今テレビのドラマでやっている篤姫もここに立ち寄ったそうで、出発の際、千曳(現在の2万円程)を置いていったそうだ。2008062710  
 お寺の中の部屋を見せていただいたが上段の間が作られていた。殿様はここでご休憩されたのだろう。
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 ご住職さんから冷たい牛乳をご馳走になり、その後わざわざ乙貝坂まで道を案内していただいた。歩きながらこのあたりは広町と呼ばれており、昔は数多くの店があって賑わっていたというようなことを説明していただいた。乙貝坂まで送っていただいてお別れしたが、穏やかな方でとても感じのいいご住職さんだった。
 結小屋というところを過ぎると道の両側にズラリとビニールハウスが並んでおり、その真ん中を道が真っ直ぐに伸びている。これから先もビニールハウスは数多く目に付いた。
 途中、天然記念物一本榎跡の木杭が立っていた。四里木跡なのかもしれないが榎は残っていなかった。
 「放牛地蔵」がある。
 熊本に貧しい親子がいた。貞享3年(1686)酒代がないことに腹を立てた父親がかまどにあった燃えさしの薪を投げたところ通りかかった武士の眉間にあたった。父はその場で無礼討ちになってしまった。息子は自分の不幸のせいと嘆き、出家して放牛と名を改めた。30余年の後、享保7年(1722)から10年間に百体の石仏を建立して、父の菩提を弔う悲願を立てた。この地蔵は74体目とあり享保15年と彫られている。
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 「内空閑城跡」の看板が立っていた。内空閑氏は「事跡通考系図」によると初代基貞のとき、明徳元年(1390)に伊賀の国から下向したと伝えられており、菊池氏の有力な家臣だった。その後菊池氏末期の内紛と共に分立し、その滅亡とともに自立して室町から戦国時代にこの一帯を支配していたといわれている。2008062714 
 味取新町宿に入ると「瑞泉寺」がある。ここは種田山頭火が大正13年出家して禅僧になり、翌年この味取観音の堂守として読経と句作の独居を続けた。しかし長続きせず1年2ヶ月でここを去り、以来放浪生活を送ったのである。この寺の方と思われる女性からしばらくお話を聞く。このあたりは昔、大きな松が数多く立っていたが、戦時中に松根油をとるため全て切られてしまったということだ。お寺の階段は111段あって、元禄のころの石段ということだった。
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 参勤交代の際の茶屋が豪商松屋(土屋家)に置かれていたそうだが、今は何も遺構は残っていなかったので瑞泉寺のところでカウントする。
 11時50分、味取新町宿を通る。
 山鹿宿から4時間5分、20366歩、12.6km。

 ここからしばらく旧道を歩いた後、3号線に合流する。平田機工の工場の横に三里木跡の碑が立っていた。
 このあたりから旧道を正確に把握できていない。基本は熊本県の「歴史の道調査報告」なのだが、この地図は5万分の1なので細い道が数本、同じ方向に走っている場合、どの道が旧道なのか分かりづらい。そのため、そんな場所は該当市町村に連絡をして教えていただくのだが、このあたりはそれがうまくいかず、見切り発車してしまったのだ。そのため若干の狂いが出ている可能性がある。
 3号線から分岐した30号線を進み、植木の交差点から直進して進む。途中にあったお店の方にお聞きするとこの道が豊前街道ということだったのでそのまま進む。
 左手に「植木天満宮」がある。ここの境内に「官薩両軍緒戦之地」という碑が立っていた。
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 このお宮の前で道がY字路になっており、そこに豊前街道と書かれた標識が立っていた。一応確認のためお宮の境内に建っているお宅に伺ってみると、旧道はお宮の下を通っている細い道だという。
 Y字路を下ってみると確かに細い道が左側から続いていた。これが旧道だったのかもしれない。
 ここでその細い道に合流して進むと右手に自動車学校があり、更に進むと豊前街道の標識が立っていた。そこから道の左側に入ったところに「明徳官軍墓地」があった。ここには123基の墓碑が立っており、そのうちの92基は明治10年(1877)3月16日の向坂の戦いで戦死した将兵の墓碑ということだ。ここの戦闘は激しく、薩軍優勢で展開し、乃木希典率いる歩兵14連隊の軍旗が薩軍に奪取されたことで有名だ。
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 ここから以前の道に戻り、3号線に合流して歩く。途中、道の左側に豊前街道の標識が立っているところから左側の道に入るが距離は短く、菅原神社のところで3号線に合流する。
 その先に「御馬下の角小屋」があった。ここは文化年間に建てられ、文政10年(1827)と弘化4年(1847)に増築されたそうだ。表通りの町屋は家族の居間、奥が島津藩、細川藩公の参勤交代時の御小休に当てられた。江戸、明治、大正と三代に渡って庄屋を務めた堀内家が旧北部町(現熊本市)に寄贈したと説明されている。
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 このあたりに二里木の標識があるはずだったがわからなかった。
 ここを出て3号線をしばらく歩き、303号線と分岐するところから303号線に沿って歩く。一里木跡の木杭が立っている。熊本城札ノ辻まであと4km・・・のはずだ。
 道の右側、一段高くなったところに「山伏塚」がある。何も説明がなかったので帰ってネットで調べてみると、これは熊本城築城に際し、加藤清正が上方から山伏の龍造院を招いて地鎮祈祷を行った。祈祷は無事終わり、その後に開かれた宴席で龍造院が城構えについて話をしてしまった。これを聞いた武士達は城の秘密が漏れることを恐れ、龍造院を殺してしまった。この塚は殺された龍造院を葬ったものだという。
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 「住生院」がある。ここは安貞2年(1226)法然の弟子弁長によって創建されたと伝えられており、以前は白川の近くにあったが、加藤清正が古鍛冶屋町に移し、その後享保4年(1724)に現在地に移った。江戸時代、この地の浄土宗の触頭だったということだ。
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 肥後藩主細川忠利公が創立された愛染院を右に見ながら進むと、目の前に熊本城が見えてくる。
 「百間石垣」の前を通って進む。ここは熊本城北側の重要な守りとして築かれた石垣で加藤家重臣の飯田覚兵衛が築いたといわれている。高さ5間、長さは101間ある。言い伝えによると、ある年の正月、三東弥源太という若者が家老の長岡監物邸のしめ飾りを盗んで逃げるとき「え~もさいさい」とばかりに、この高い石垣から後ろ向きに飛び降りたそうだ。以来、熊本では思い切ったことをする時の例えに「百間石垣後ろ飛び」という言葉が使われるようになったと説明されている。
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  ここから熊本城内に入っていくが、何度きてもこの城の壮大さには圧倒される。素晴らしい城だ。これまで数多く城を見たが、熊本城が一番だという思いが強い。
 城内が広いので札ノ辻がどこにあるか分からず、しばらく探して子ども文化会館の近く、城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前でようやく見つけることができた。ここには「里程元票跡」碑が立っている。ここを基点として豊前・豊後・薩摩・日向お四街道の里数が測られたのだ。
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 これで無事豊前街道を踏破したことになる。
 16時36分、熊本城札ノ辻に到着する。
味取新町宿から4時間46分、23512歩、14.7km。

 今日はここで終わる予定だったので、地図もここまでしか持ってきておらず、そのまま帰るつもりだった。
 しかし実際に着いてみるとまだ体力的に余力があり、時間もある。ここから熊本駅方面へは薩摩街道となっているのではないか、だったらその部分を歩いておこう、そうすれば次回来るときにその分楽になると考えた。つい欲を出して、もう少し先へ、と思う悪い癖が出てしまったのだ。これが間違いの元だった。
 ここから先の地図を持ってきていなかったため、子ども文化会館で地図を分けていただき、道を教えて頂いて歩いた。途中、明八橋まではたしかに教えていただいた通りだったのだが、その先が間違っていて道が分からずウロウロしてしまうことになってしまった。そのため約一時間を無駄に費やしてしまった。
 結局、分からなかったのであきらめ、もう一度自宅にある資料を持って、気持ちも新たに歩きなおすことにして熊本駅に向かう。
 17時54分熊本駅発のJRで帰途に着き、19時39分に小倉に帰着した。
 
 本日の街道歩行時間    8時間51分。
 本日の総歩数        49158歩。
 本日の歩行距離       29.7km.
 

 豊前街道合計。
 総歩行時間     30時間14分。
 総歩数        183161歩。
 総歩行距離     112.9km。  
 宿場間距離合計  105.8km。(これは道を間違わずに歩いた場合の距離です)

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