西国街道を歩く

2008年09月12日(金) ~2008年09月14日(日)
総歩数:122720歩 総距離:70.9km

2008年09月12日(金)

京都~山崎~芥川

                               晴れ

小倉駅を6時17分発の新幹線で出て、京都駅に8時51分に到着。
 今回は13日、14日に京都で学生時代のクラブのOB会があるので、そのついでに西国街道を歩くことにする。
予報ではいい天気のようだ。ただ、まだ暑い日が続いているのであまり快晴だときついかもしれない。
西国街道の出発点である「東寺」へ向かう。「東寺」は平安遷都とともに延暦15年(796)羅城門の東に東国(左京)の鎮護のために建てられた。弘仁14年(823)に嵯峨天皇から空海に下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場となった。東大門の横に「史跡 教王護国寺境内」の標石が立っている。
東寺東大門 
 創建後、度々兵火にかかったが、その都度再建され、「南大門、金堂、講堂、食堂」が南から北へ一直線に並ぶ伽藍配置や規模は平安時代のままだ。最も有名な五重塔は寛永21年(1644)徳川家光によって再建され、総高55m、現存する木造塔としてはわが国最高であり、国宝となっている。
五重塔
 同様に金堂や数多くの仏像、絵画等多数の国宝を蔵しており、じっくり見物すると丸一日かかってしまうが、これまでに何回も来ていることもあり、今日は中に入らず先に進むことにする。
 建久9年(1198)に再建された南大門から9時23分に出発する。
南大門
 九条通りを歩いていくと右手に「羅城門跡」がある。ここは平安京の頃、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面玄関として羅城門が建てられた。しかし平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともに次第に荒廃していき、弘仁7年(816)の大風により倒壊、再建されたが天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることはなかった。芥川龍之介の小説を映画化した「羅城門」でこの門は世界的に有名になったが、今では当時を偲ぶものはなにもなく、小さな公園になっていて標石だけが立っていた。
 羅城門
 羅城門跡へ入る入口左側に「矢取地蔵尊」がある。清和天皇の天長元年(824)に旱魃が起き、朝廷から守敏と空海の二人に雨乞いの勅命が下った。結局空海の術が守敏に勝ったので、守敏は空海を恨み、矢で空海を射たが、その時地蔵が現れ空海に代わってその矢を受けた。地蔵の背に傷があり、その後人々はその身代わり地蔵を矢負の地蔵と呼ぶようになったが、それがいつの間にか矢取の地蔵と呼ばれるようになったと説明されていた。
 矢取地蔵
 九条通りを更に西に進み、九条御前の信号のところで右に入り、更に右折して進むと「西寺跡」がある。ここは延暦15年(796)頃から羅城門の西側に東寺と対称に造営された官寺で、金堂、講堂を中心に南大門、中門、五重塔、僧房、金堂などの建物が建ち並んでいたが、天福元年(1233)に塔が焼失し、以降再興されることはなかった。今は公園になっており、その中心部のところに標石が立っているのみだ。
 西寺
 街道に戻ると丁度道路を挟んで反対側に旧道が残っている。信号を渡ってこの道に入り、西高瀬川に架かる吉祥院橋を渡って進むと「日向地蔵尊」がある。明治の廃仏毀釈運動の頃、村人がこの地蔵尊を隠して保存したという説明がされていた。樹齢130年という大きなモチノキが横に立っていた。
 日向地蔵
 久世橋を渡り、久世殿城の信号を右折、新幹線のガード下を通り、JR東海道線の踏切を越えたところで左折して進む。
左手にJR向日町駅を見ながら道なりに進むと今度は阪急京都線の踏切を渡る。右手角に「太神宮」常夜燈が立っている。かなり大きな常夜燈だ。 
大神宮
ここから斜め左に入っていくと石畳の歩道になっている。
もう9月の半ばというのに暑い日が続いており、今日も日が照りつけて暑い!そんな中、旧道は道幅が狭いので朝のうちは日陰ができていて、非常に助かる。
  「梅ノ木道標」があり、4基の道標が立っている。一番大きい標石には「官幣中社大野原神社 右へ一里」と刻まれており、そのほかには「淳和天皇御陵」等の文字が刻まれている。昔このあたり一帯が梅林であったため、この名前がついたとされているようだ。
梅ノ木道標
 右手に愛宕権現と刻まれた標石が立っており、「六万地蔵尊」が祀られていた。愛宕山常夜燈があちこちに立っている。
 六万地蔵
 このあたりは小高い地形になっていて段をなしているように見えたのだろう、西国街道を中心に東側を「東ノ段」、西側を「西ノ段」と呼んでいたという説明がなされていた。
 206号線と合流するところの右側、道路の向こう側に京都府指定文化財になっている「須田家住宅」がある。昔は醤油の製造販売をしていたということだが立派な建物だ。すぐ前に「右 西国街道 中 あたごみち 左 たんばみち」と刻まれた新しい道標が立っている。
 須田家住宅
 アストロ通りと呼ばれる道を歩いていくと、右手に「向日神社」がある。少し上り坂になった石畳の参道が続いている。大きな神社だ。ここは「延喜式」神明帳に記載されている式内社で、應永29年(1422)に創られ、三間社流造という室町時代の代表的な神社建築として国の重要文化財に指定されている。 
日向神社
 街道に戻り、そのまま街道を越えて直進して行き、右折、更にその先を左折すると「長岡京大極殿跡」がある。長岡京は桓武天皇が延暦3年(784)平城京から遷した都で延暦13年(794)に平安京に遷るまでの約10年間、今は公園になっているこの地が長岡京の重要な中心地で「大極殿」と呼ばれていた。
長岡京大極殿
 再び街道に戻り、向日市商店街を通っていくと五辻という信号に出る。ここは五叉路になっているが、正面の商店街を直進する。
 左手に「石塔寺」がある。ここは延慶3年(1310年)開山日像上人が題目石塔を建て、文明年中(1469~87)にこの石塔の傍らに本堂を建立したのが始りと伝えられている。このあたりは長岡京時代は都の中心部に位置しており、造営長官藤原種継の暗殺場として知られ、また紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」もこのお寺周辺と伝えられているそうだ。
 石塔寺
 歩いていてこのあたりのマンホールの蓋に「歴史街道」「西国街道」と刻まれていることに気がついた。長崎街道の道路の側溝に長崎街道を行く駕籠かき等が描かれていたのを思い出した。
 マンホール蓋
 87号線を横切り、阪急京都線のガードの下を通って進み「小井川」「西国街道」と欄干に書かれた橋を渡る。
 小井川欄干
 ここもきれいに石畳が敷き詰められており、古い趣のある大きな屋敷が道の両側に並んでいる。
 その先で一文橋を渡る。この橋は室町時代頃に造られた橋で大雨の度に流されるので、その架け替え費用のために通行人から一文を取り始めたのが橋の名前の由来と説明されている。バスが走っているようで、一文橋というバス停があり、その先のバス停の名前が一里塚となっていた。このあたりに一里塚があったのだろう。
  馬場一丁目の信号で87号線と分かれ旧道を歩く。この道は一直線に伸びている。神足商店街があり、道はカラー舗装されている。「神足石仏群」が街道から右手に入ったところにある。墓地の一角に数多くの石仏が並んで置かれている。このあたりにあった石仏をここに集めたような感じだったが、説明文がなかったのでわからなかった。
神足石仏群
 この通りの右側に「石田家住宅」がある。この住宅は店舗と住まいを兼ねた町家で規模が大きく、江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国の登録有形文化財となっている。現在は「神足ふれあい町家」となっていて、喫茶室があったり、集まりで部屋を使ったりしているそうで、きれいに整備されていた。 石田家住宅
  大山崎町役場を左手にみて進むと、右手に大山崎集会所があり、その前に離宮八幡宮神領と黒門跡の案内板が立っていた。中世離宮八幡宮の油座は時の幕府から油の専売権等の特権を与えられ、油座の構成員である神人達は大きな富を築いていた。八幡宮の西は五位川、東は水無瀬川までを神領とし、その神領内に神人達は住んでいた。、その神領の東西の入口に黒門が設けられ、通行する人々を監視していた。
山崎宿本陣
 大山崎歴史資料館に問い合わせを行ったところ、ここに本陣があったということだったので、ここでカウントする。
 13時50分、山崎宿本陣跡を通る。
京都から4時間27分、22251歩、12.6km。

 右手に小高い山が見える。これが豊臣秀吉と明智光秀が戦った天王山なのだろう。ここには観音寺や十七烈士の墓等があるようなので、当初の予定では行くつもりにしていたのだが、今日は日差しが強く、とにかく暑い!暑さに弱い私はこの時点ですでにかなりバテ気味。そのため、行くことをあきらめた。それにしても暑い。最高気温は32℃になるといっていた。結局今日は丸一日歩いてホテルに着いたときはクタクタになっていたので、この時の判断は正解だったと後で思った。
 「離宮八幡宮」がある。貞観元年(859年)清和天皇は奈良の大安寺の僧行教と山城守紀御豊を宇佐八幡宮に派遣した。宇佐八幡宮の神霊を奉じて戻ってきた二人が山崎津までくると山の中に霊光が見えたので、そこを掘ると岩の間から清水が湧き出した。天皇はその話を聞いてその地が霊地として「石清水」の八幡宮を創建、分霊を祀った。この地が嵯峨天皇の離宮跡だったことから、ここを離宮八幡宮と呼び、鎮座後は対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが「石清水八幡宮」と称されるようになったと説明されている。、東門から境内に入ると風情のある建物だ。 
離宮八幡宮
 境内に「塔心礎(かしき石)」がある。これは行基建立の山崎院にあった五重塔塔心礎と考えられており、山崎院廃絶後、平安時代に相応寺塔心礎に再利用したと考えられていると説明されていた。
 塔心礎
 JR山崎駅のすぐ横に「妙喜庵」がある。ここは江戸時代までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったもので明応年間(1492~1500)に山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝えられている。ここにある千利休が建立した待庵と茶室から続く書院の二つは国指定文化財となっているということだが、入るには一ヶ月前までに予約をしなければならないとなっており、中を見ることはできなかった。
 妙喜庵
 離宮八幡の先で右折し、すぐに左折したところに「従是東山城国」と刻まれた大きな標石が立っており、その横に「関大明神社」がある。古代攝津国と山背国(後の山城国)の関所である山崎の関の跡といわれ、関守神または辻神を祭ったことが起こりといわれている。大阪府重要文化財に指定されている。
 境内に山崎宗鑑がこのあたりに住んでおり、「宗鑑井」と伝えられる井戸が残っていると書かれていたので探してみると、神社の斜め前の民家の中にあるので見ることはできないということだった。
関大明神
 JRの線路に沿って歩いていくと線路の向こう側にサントリーの工場が立っている。宣伝等でよく見かける建物だ。
 「水無瀬神宮」は街道から左手に少し入ったところにある。ここは後鳥羽上皇が建てた水無瀬離宮の跡に上皇を弔うために建てられた御影堂がはじまりと伝えられている。ここには国宝である後鳥羽上皇の像や数多くの絵画、文書類が所蔵されており、明治6年に官幣中社になり、昭和14年に官幣大社に昇格した。 境内に湧き出る「離宮の水」は全国名水百選に選ばれており、ペットボトルをいくつも抱えた人たちが次々にやってきては水を汲んでいた。こういう光景を見ると自分も飲んでみたくなる癖がある私は順番を待って飲んでみた。味は少なくともまずくはなかったが、普通の水とさほど変わりはないように思った。
 水無瀬神宮
 「桜井駅跡」がある。奈良時代の初め、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するため、駅家が新設された。その一つ「摂津国嶋上郡大原駅」が続日本紀に記されており、これが桜井駅と考えられているということだ。
 延元元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え討つため、京都を発った楠木正成が桜井駅で長子正行に遺訓を残して河内へと引き返らせたことが太平記に記されている。「青葉繁れる桜井の・・・」という歌は有名だ。「滅私奉公」と刻まれた近衛文麿公の筆による文字が刻まれた像がある。
 桜井駅
 右手に「妙乗寺」がある。享禄元年(1528)日進上人が創建した日蓮宗のお寺で、明治30年本堂を西法寺へ移した正寶寺跡のこの地に移転したと説明されている。
 妙乗寺

 「梶原一里塚跡」がある。榎を塚木とした一里塚だったそうだが、今はその場所に地蔵尊が祭られている。これはかって淀川沿いの中村にあったが、度重なる水害から守り継がれてきたもので「水あがりの地蔵さん」と呼ばれているということだ。
梶原一里塚
 右手に「一乗寺」がある。ここも日蓮宗のお寺で応永34年(1427)に建立された。境内には日親上人の銅像、「弁慶の駒つなぎ」伝説のある楠などがある。
一乗寺
 「畑山神社」があり、天児屋根命と菅原道真を祭っている。社伝によると元亀年間(1570年代)に建立され、永福寺と名づけられたが慶長年間に火災で焼失、宝永年間(1706)現在の社殿や多宝塔などが再興された。明治元年(1868)の神仏分離令で明治5年(1872)畑山神社と称するようになったと説明されている。また7世紀後半頃、この地には市内最古の寺院の一つである梶原寺が創建されていたとみられ、瓦等がここから出土しているとも説明されている。 
畑山神社
 「法照寺」があるがここも日蓮宗のお寺だ。このあたりは日蓮宗のお寺が多い。ここは江戸時代初期に日乗上人が草庵を結び、寛文5年(1665)上人に帰依した長田氏が創建したという。丁度葬儀があるらしく、準備がなされていた。
 法照寺
 芥川仇討ちの辻の案内板が立っていた。秀吉の家臣で賎ケ岳七本槍の一人であった加藤左馬之助の曾孫が14歳のとき、ここで仇討ちをした。討たれた人間が自分は人を殺したので討たれて当然だという書状を懐中に持っていたと説明されている。
 「芥川一里塚跡」がある。芥川は12世紀頃既に宿(町)として成立していたが、17世紀はじめ徳川幕府によって宿場町としての姿を整えた。幕末の文久3年(1863)政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら七卿もこの芥川に泊まったということだ。
芥川一里塚 
 右手に「教宗寺」があるところの前、左手が本陣のあったところだ。
教宗寺
 ここでカウントする。
 17時24分 芥川宿を通る。 
 山崎宿から3時間34分、
 18097歩、9.8km。

 芥川手前の右手に地蔵尊があり、文政5年と刻まれた愛宕山献灯がある。
 芥川橋の手前と渡り終えた先のそれぞれ左側に「橋詰地蔵尊」があった。
 橋詰地蔵
 街道から右手に入ると嶋上郡衛跡があった。郡衛とは郡の役所のことをいい、この地が郡衛の中心部だったと説明されている。
 右手少し入ったところに「今城塚古墳」がある。ここは6世紀前半に死亡した継体天皇陵ということが定説になっているということだ。墳丘の長さは190m、内濠、外濠を含めた兆域は一辺約350mの方形で淀川流域では最大級の前方後円墳ということだ。残念ながら中に入ることはできず外からしか見ることができなかった。
今城塚古墳
 巡礼橋のところまで行って今日は終わることにする。ここから左へ真っ直ぐにいき、JRと阪急のガードを通って左折するのだが、この道は歩道がなく狭い道に車が数珠繋ぎに並んでいる。歩きにくいどころではない。危険を感じる。ヒヤヒヤしながらそれでも阪急富田駅までたどり着くことができた。今日の泊まりは高槻なので、阪急電車で高槻市駅まで戻る。
 9月中旬とはいえ、今日は日が射して暑い一日だった。ホテルに入るとグッタリなってしまった。
  18時9分に巡礼橋についたのでそれまでの街道歩きの実績。

 本日の歩行時間  9時間18分
 本日の総歩数    52707歩。
 本日の歩行距離    31.8km。
 

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記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん