西国街道を歩く

2008年09月12日(金) ~2008年09月14日(日)
総歩数:122720歩 総距離:70.9km

2008年09月13日(土)

富田~郡山~瀬川・半町~石橋

                        朝のうち小雨後晴れ

 朝6時にホテルを出て高槻から阪急電車で次の駅富田まで行き、そこから昨日歩いた巡礼橋まで行く。今日は土曜日だし、朝も早いため車の数は少なかった。今朝は思いがけず小雨が降っているが、この程度の雨であればたいしたことはないし、直射日光がないのでむしろ助かる。巡礼橋に6時23分に到着、ここまで既に2788歩歩いている。
 歩き始めて間もなく右手に「継体天皇陵」がある。ここは太田茶臼山古墳と呼ばれており、全長226m、前方部147m、長さ117m、高さ19.8m、後円部径138m、高さ19.2mという。前方部の幅と後円部の径があまり違わないこと、平坦地に造られていること、出土埴輪の形式などから古墳中期のものと考えられている。継体天皇は第26代の天皇で507年に即位され、没年は531年頃とされている。
 継体天皇陵
 その先東芝の工場に沿って左折していくと太田廃寺の案内板が立っている。明治40年にこの地で上面ほぼ三角形をした大きな礎石が発見されたことから調査をすると、このあたりに飛鳥時代末か奈良時代初めに立派な寺院が建っていたことが明確になったと説明されていた。
 左手に「阿為神社御旅所」がある。これはここから1.5km北にある阿為神社の御旅所だ。御旅所とは神社の御礼祭の際、本宮から来た神輿がしばらく留まるところだ。阿為神社は醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」の神名帳に記されている式内社の一つである。
 阿
 右手に「法華寺」がある。開基は妙満寺第28世蓮照院日善上人で法華宗のお寺だ。
 法華寺
 茨城川手前、右手に「白井河原合戦跡」がある。案内板によるとこの茨木川をはさんで茨木・伊丹両氏と池田氏が戦った場所で、茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、元亀元年(1571)この場所で激突した。このとき池田勢2500余騎に対し、和田勢はまだ500余騎しかそろっておらず、部下の高利平太夫が「多勢に無勢」と進言したが、惟政は聞き入れず突撃して討ち取られてしまった。主君を失った和田、茨木の郎党達は「主君を討たれてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れになる」ほど赤い血に染まったと説明されている。
 案内板の横にお地蔵様が並んでおり、その向こうには太平洋戦争で戦死されたらしい方のお墓が並んでいた。
白井河原合戦 
 茨木川に架かる幣久良橋を渡って進むと「中河原の道標」が立っている。
 東 大津11里、京都7里、八幡5里、山崎3里廿町、芥川1里廿町
 南 堺9里、住吉7里、大阪5里、吹田3里、茨木駅三十町
 西 姫路廿三里、神戸11里、池田3里、箕面2里
 と書かれた道標だ。明治30年に建立されたが、昭和57年事故で破損したため再建されたということだ。
 中河原道標
 その横にある案内板には「ここは茨木市内を東西に走る西国街道と南北に走る亀岡街道の交点となっている。町名を中河原町というが、これは賎ガ岳七本槍の一人として有名な中川清秀が生まれたところから来ていると説明されている。
道標に刻まれた文字から交通の要所だったことがよく分かる。
 「郡山宿椿本陣」を通る。ここは西国街道の中間にあたる宿駅で、この本陣は享保3年(1781)に類焼によって焼失し、享保6年(1721)に西国大名などの寄付によって再建された。この本陣の正面の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから「椿の本陣」と呼ばれるようになったと説明されている。「椿」と言う言葉からなぜか三船敏郎の「椿三十郎」を連想してしまった。我ながら理解不能である。
 郡山本陣
 ここでカウントする。
 8時6分、郡山宿本陣を通る。
 芥川宿から2時間16分、11931歩、6.7km。
  このあたりは静かな屋敷町でむかしの宿場の雰囲気が色濃く残っている。
 その先、左手宿川原西会館のところに道標が3基立っていた。「右かうをうじ」等の文字が刻まれている。
宿川原西会場
  左手に「春日神社」がある。階段を登っていくと神社は鬱蒼とした森の中にあり、静寂が周囲を包む。雨が降っていることもありだれもいない。静かだ。気持ちがいい。
春日神社
 尾寺川に架かる山下橋の手前右側に「是ヨリ豊川学校 勝尾寺 栗生宿久庄清水道」と刻まれた道標があり、その横に細い道が続いている。
 豊川学校道標
 街道から右折してこの道を通っていくと清水橋があるのでこれを渡り、渡ってすぐのところに交番があるので、この前を川に沿って左折して進むと「ぼろ塚」がある。
 少し痛んだ案内板が立っていて、所々読めない箇所があるが、要約すると一人のぼろ(虚無僧)の先生が「いろをし」というぼろに殺され、その敵討ちをこの宿河原で行うことになった。しかし敵討ちを繰り返しているといつまでも続くことになるので、二人で一緒に死ねば敵討ちはここで終わることになるということになって、お互いに刺し違えて死んでしまった。こうしたぼろ(虚無僧)の命に執着しない心根を兼好法師が徒然草第115段に書いていると説明されている。
ぼろ塚 
 豊川で大坂モノレールが通っており、その下を歩く。大坂にモノレールがあることは知らなかった。
 「春日神社のお旅所」がある。春日神社の大祭の際に神輿が巡幸するが「お旅所」と呼ばれるこの場所に神輿を置くための台座がある。
春日神社お旅所
 すぐ先に「楠水龍王宮」がある。楠木正成がここの井戸水を飲んだということがお旅所の案内板に書かれていた。
 小野原を進むが、街道沿いに昔を偲ばせる立派な屋敷は立ち並んでいる。このあたりは昔も豊かな一帯だったのだろう。
 小野原屋敷
 西宿2丁目の信号のところで171号線に合流するが、このあたりで雨が止み、時折日が射し始めた。雨といっても小雨だったので歩く上では支障にならず、むしろ暑くなくてよかったのだが、日が射し始めるとやはり暑い!
  左手に「萱野三平旧邸」がある。案内板によると萱野三平は美濃の旗本大嶋氏の所領である椋橋荘の代官を勤めていた萱野重利の三男として生まれ、13歳のとき大嶋出羽守の推挙で浅野内匠頭に小姓として仕えた。元禄14年江戸城松之廊下で内匠頭が吉良上野介義央に対して刃傷事件を起こして切腹した。忠臣蔵である。
 敵討ちの同志に三平も加わろうとしたが三平を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対を受けて、元禄15年この地で切腹し28歳の生涯を閉じた。ここには切腹をした部屋も残されており、大阪府指定史跡になっている。
萱野三平宅
萱野三平切腹部屋

 その先左手に小さな道票があり、萱野三平の墓となっていたので、それにしたがって左折して細い道を進んでみた。すぐ近くにあると思っていたのだが、かなり先に墓地があり、その中にあるように思えたのでちょっと迷ってしまった。
 というのも今日はクラブのOB会があり、それに先立って金沢からくるI君と三重から来るG君と三人で会い、昼食をともにすることになっている。I君が13時9分に京都駅に着くということで、その時間に集まるようにしており、そのためには桜井駅を11時44分の阪急電車に乗らなければ間に合わないのだ。ここから京都駅まで行くとなると阪急電車からJRに乗り換える必要があり、次の電車というと12時44分までない。そういうことで行くことをあきらめ先を急ぐ。
 左手に芝村の高札場跡があり、案内板が立っている。それには萱野地区に一里塚があったと推測されていることが書かれていた。
  「牧落の旧札場と道標の案内板」が立っている。それによるとこの地は箕面、大坂道と西国街道の交わる四ツ辻にあたるので高札場とし、行路の目安となる道標が二基、今も残っている。
牧落道標
 11時7分に阪急桜井駅に着く。意外に早く着き44分までまだ時間はある。ここで待って予定の時間の電車に乗るべきか、それとももう一つ先の駅である石橋駅まで行くか迷う。明日は今日電車に乗った場所から歩き始めるし、石橋駅と桜井駅は乗換えが発生しそうで面倒だ。駅の方に桜井駅と石橋駅の距離を聞くと1.6kmだという。街道は曲がっているのでもう少し距離としては増えるだろうが、それでも時間的には間に合いそうだ。そう思って石橋駅まで歩くことにする。
 「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」の案内板が箕面自動車教習所の横に立っている。それによるとここは公用の人と馬・荷物を継立てる立会(共同)駅と参勤交代の西国大名の泊まる本陣、庶民の泊まる宿場だった。寛永年間(1624~1643)頃に瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間(1751~1763)には半町も瀬川本陣同様の旅舎を造り上げ半町本陣と名乗るようになったと書かれている。歩く前に郷土資料館長に問い合わせをしたところ、瀬川本陣と半町本陣は並んで立っていたということだった。 瀬川・半町本陣跡
 ここでカウントする。
 11時14分、瀬川・半町宿を通る。
 郡山宿から3時間8分、16457歩、9.2km。
 「弁慶の鏡水」があるというので行ってみた。「瀬川2丁目」の信号の一つ手前、右手に入る路地があり、そこを入っていき、最初にある右折する道というより本当に細い路地なのだが、そこを進んでいくとすぐ先にあった。ただ、標識も何もなく、ただ窪んだ小さな湿地のような場所だった。昔はもう少し大きな池だったのだろうか?
 弁慶鏡水
 石橋坂大下の信号のところに11時34分に到着。ヤレヤレと思ったのだが、ここから石橋駅に行く道が分かりづらくて、大分迷ってしまった。右折して進み、商店街の入口を右折して商店街の中を進むと駅がある。分かってしまうと問題ないのだが、大分時間がかかってしまった。それでも無事予定通りの電車に乗ることができた。
 京都駅で三人で合流し、駅の近くで昼食。皆と学校のキャンパスで会うことにしていたのだが、くたびれていたので申し訳ないがキャンセルして直接今日のホテルへ三人で行く。
 やがて皆が集まってきた。クラブのOB会は最初の頃は2年に一回開催していたのだが、それが一年に一回となり、今では、3月に後輩を含めた集まり、9月には同期の連中の集まりと年に2回も開かれるようになっている。出席率もよく、皆楽しみにしているようだ。今回は8名の同期の連中が集まった。
 話題は誰が一番最後まで生きているか。
 なんともはや。。。。
 OB会

  本日の歩行時間  4時間59分。
  本日の総歩数    36797歩
  本日の歩行距離   18.6km.

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