秋月街道を歩く

2009年02月26日(木) ~2009年03月10日(火)
総歩数:179791歩 総距離:114.5km

2009年03月09日(月)

田川後藤寺~猪膝宿~大隈峠~大隈宿~千手宿~八丁峠~秋月宿   

                              曇り一時雨

 南小倉から田川後藤寺までJR、そこから前回歩いた金国のバス停までタクシーで行き、8時26分歩き始める。今日は曇天、どんよりとした空模様だ。
 322号線から猪位金川沿いにでて旧道を進む。少し先で322号線の信号を横断して進み、突き当りを左折して道なりに進んでいくと、前方に猪位金小学校がある。小学校に突き当たって左折し、322号線に合流する。
 その先で道は二股に分かれており、右手の直進する旧道を歩いていく。
左手に常夜燈が立っており、その横に道標があって、「従是東中津道」「従是南筑前八丁越」「従是北小倉道」と刻まれている。「梅ヶ原道標」だ。
梅が原道標 
 右手に歴史を感じさせる醤油醸造の商店があり、その横に蛭子社がある。ここは猪膝町全体で祀っており、毎年十二月三日の祭りには前夜から夜通し火が焚かれ、お籠もりが行われるということだ。ここが猪膝宿の中心部だったという。蛭子社 
ここでカウントする。
 8時57分 猪膝宿を通る。
 香春宿から4時間35分、13km。
 右手に正保年間に宗生が開祖したと伝えられる密厳寺を見ながら進むと、「義井塾跡」の石碑が右手に立っている。ここは猪膝村生まれで、医学及び儒学を学んだ伊藤浚明が開いた私塾の跡である。浚明は秋月藩の儒者吉田平陽から儒学を、豊後の帆足万里、肥後の村井蕉雪からは医学を学び、天保9年(1838)に猪膝において開業医となり、同時に子弟の教育に当たるようになり、その塾を義井堂と呼んだということだ。
義井塾跡 
 その横に岩壁に聳え立つようにして安養寺が立っている。
 右手に南構口の石垣の一部が残っている。秋月街道沿いで構口が残っているのは猪膝宿と松崎宿のみだ。この構口のすぐ横に太刀洗の井戸がある。これは昔日本武尊がこの地方の土賊・猪折を討伐したとき、この井戸で剣を洗ったという伝説があり、旱魃の時でも涸れることがないという。
猪膝宿南構口 
 右手に「白鳥神社」がある。ここは日本武尊を祀っており、社殿には数多くの絵馬が飾られている。古いものでは天保7年(1836)のものもあるという。境内には巨木が立っており、歴史を感じさせる神社である。太刀洗の井戸やこの白鳥神社はともに日本武尊に関するものだ。
白鳥神社 
 322号線に合流した先、大谷口のバス停のところに「豊前、筑前国境石」が立っていて、「東 豊前国」「西 筑前国」と刻まれている。江戸時代には福岡藩嘉麻郡上山田村と小倉藩田川郡猪膝村の間でさまざまな境界紛争が起こったが、元禄年間(1688~1704)になって、隣国絵図面を取り交わしてようやく決定したという。現在の国境石は新しく建てられたもので、以前のものは移築されているということだ。
豊前筑前国境石 
 その先で道は二股に分かれており、右側に伸びる旧道を進むが、その先で左にカーブして猪之鼻の信号で322号線を横断して進んでいく。
 左手階段を上ったところに「猪之鼻加窯跡」がある。嘉穂郡誌に「猪之鼻に陶工一戸ありて元文の頃(1736~1741)より陶器を製せしも近年絶えたり」とある。古高取焼の祖である高取八山が文禄・慶長の役後に来日したが、藩主が二代黒田忠之になったのを機に帰国を願い出たが、かえってその怒りに触れて蟄居を命じられ、山田に住むことになった。山田窯跡は木城唐人谷にあり、一旦四散した弟子工人の子孫が居を構え、陶器を製作したという。窯跡の碑が立っており、その横に大師堂が立っていた。
猪之鼻加窯跡 
 322号線に合流した後、猪之鼻の三叉路で左斜めに伸びる旧道に入る。ここは秋月街道をはずして国道が造られたため、昔の道筋が残っている。
 そのすぐ先、右手に322号線にある大橋の信号を見ながら322号線を横切って旧道は伸びている。
 山田川に架かる大橋を渡って進む。旧猪膝宿から大隈町に至る道程の中で唯一の橋である。
 その先突き当たり左手に自然石でできた「庚申塚」が立っている。江戸時代のものと推測されているそうだ。
猪之鼻庚申塔 
 塚の先に日赤病院前の信号があるのでこれを渡ってすぐに右折、少しもどる形になるが、左手に細い道があり、これが旧道だ。ここを左折して進むと、先ほどの信号から直進してきた道に合流する。
 左手に嘉麻赤十字病院があり、そのすぐ横に山田高校がある。ここで旧道は右斜めに伸びているのでこれを進むが、その先で再び322号線に合流する。
 右手に「為朝岩」がある。源為義の八男である為朝は鎮西八郎為朝と呼ばれ、身体は強大で弓矢の才に秀でていたといわれている。13歳の時、父の不興をかって九州に追われたが、持ち前の剛勇で九州で勢力を伸ばした。仁平元年(1151)には豊前国田川郡大原に移り、仁平4年(1154)馬見神社へ詣でる途中、大隈峠の下の大岩付近で兵馬を休めて休息をとったといわれ、この大岩は為朝岩と呼ばれるようになったということだ。
為朝岩 
 ここを過ぎると大隈峠だ。事前にこの峠のことを調べてみたが、詳しく書かれたHPが見当たらなかったので若干不安に感じていたのだが、それが的中してしまった。
 松岡病院が左手にあり、その病院の端の公衆電話BOXがあるところから左折して元猪之鼻炭鉱社宅跡へと入っていく。
電話BOX
 舗装された道が続いているのでそれに従って進む。右手に猪之鼻集会場があり、九十九折の坂道を上って行く。そのまま一本道を上って行くがきれいな道だ。道は次第に山の中に入っていく。なるほど、この道ならば分かりやすい。迷ったりすることはないなと思いながら更に進んでいくと、山の中で道が行き止まりになった。左手に一軒家があるが道はそこで途絶えている。右手に行って見たが、道らしいものはない。おかしいな?ここで分からなくなったので、一旦もとに戻ってみることにした。戻る途中でご夫婦がおられ畑仕事をされていたので、大隈峠を越える旧道はどこなのか聞いてみると、今は322号線を行くしか道はないといわれる。秋月街道ネットワークの会編集の「秋月街道をゆく」に「猪ノ鼻に入ると旧道を南西の方向に谷川沿いに数分進むと10m余の砂防ダムにさえぎられるが、ダムの南側山裾を西に杉林の中、わずかな傾斜を登り進むと街道の石畳が現れる。尾根伝いに石畳を登りつめて北側に曲がり、国道副楽トンネルの東側入口より20mほど上を横切る」と書かれていたので、そのように言うと、それは昔の話で、今はもう通れなくなっていると言われる。昔は何本も峠越えの道があり、現に今話をしている場所のすぐ横のところも以前は道だったといわれる。見るとなるほど、なんとなく道があったような感じがする。「ここは通れないのですか」と聞くと、「無理だね」。仕方がないので国道を歩くことにして坂を下り始めたが、昔、道だったという所が気になる。舗装された道と併行して少し小高いところを通っているようなので、そこに上ってみた。確かに以前道だったような感じの場所だ。藪を掻き分けながら進んでみたが、どうも違うようだ。キーワードである「谷川」「砂防ダム」がないのだ。結局あきらめて電話BOXのところまで戻って322号線に沿って進む。この間44分ほどロスしてしまった。
 しばらく322号線を進むと前方にトンネルが見えてきた。これが副楽トンネルで、この約20m上のところに旧道が走っているのだ。本に書かれているのでこれはまず間違いがないと思われる。場所が分かったので、ここから旧道に合流しようと思い立った。トンネルの横を見ると右側の崖はコンクリートで固めているのでとても登れそうにないが、左側の崖はなんとか登れそうなので崖を登り始めた。ところが、最近の雨で地面が濡れていて滑る。しかも思っていた以上に急な崖だ。これでは登ることはなんとかできても、下ることはできそうにない。一旦登りはじめたらとにかく前進あるのみだ。
 やがてトンネルの上まで登ってみると、旧道があった!きれいな道がトンネルの上を横切っている。
トンネル上の旧道 
 これで旧道に合流することができた。左手から道は続いているのでここを戻れば、どこからこの道に入ったのか分かるのだが、今日はこのあとに八丁越が控えており、時間的にも、気持ちの上でももうそんな余裕はない。とにかく前に進む。しかし、これだけきれいな道があるのだから、先ほどウロウロした場所のどこかに必ず登り口があったはずだ。それを見つけることができず残念だった。

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歩き終えた後も、この場所が気になってしかたがない。なんとなく不完全燃焼だ。そのため3月17日に再度挑戦してみた。
今回は大隈宿のほうから峠を登ってみた。実際に登ってみると、下る際は何も間違わなかった道が、登りでは意外と分かりにくく、寄るつもりのなかった愛宕神社に出てしまったりして、大分山の中をウロウロしてしまった。それでも何とかトンネルの上に出ることができ、そこから下っていった。しばらくはそれなりに道があったが、やがてそれも失われてしまい、倒木や草に覆われていて歩きにくい。そんな中を下っていっていると、左側の下のほうに草道が見えた。これが旧道の残りかなと思って急坂を下っていき、その道を歩いていった。前方に民家が見えるところまできて、左へ分岐する道があったが、そのまま直進していくと、道がなくなり、竹やぶの中に入っていった。竹をかき分け進むと前に小さな砂防ダムがある。これだなと思ったが、とにかく竹が密生していてうまく歩けないし、どうもおかしいと思い、先ほど分岐したところまで戻って、今度は左側の細い道を下ってみた。そうすると視界が開け、左手に砂防ダムがあった。水を取るのだろうかパイプが引かれており、それを跨いで下ると、炭鉱住宅のところにでた。
これが今回大隈側からの道だったので、猪膝からの道に焼き直しをすると、

松岡病院の横にある公衆電話BOXから入っていき、突き当りを右折、すぐに左折して進むと元猪之鼻炭鉱社宅跡がある。炭住入口ここの最後の棟のところ、前方に左に曲がる坂道があり、その上に猪之鼻集会場が見えるところで、右折して社宅のほうへ入っていく。家のすぐ裏を通ることになるがそのまま進んでいくと、前方に砂防ダムが見え、そこにパイプが引かれているので、これを跨いで左側を登っていく。砂防ダムそうすると山道に合流するので、これを右へ上っていく。しばらく上って行くと、右へカーブして322号線のトンネルの入口前に合流するようになるので、そこまで行かず、カーブをするところの左側の急坂を登ると旧道に合流する。ただ、この急坂を登るところは、どう見ても不自然なので、本来の旧道は最初私が下ってきたように、尾根を下っていく道だったと思われます。ただ、そこは道は全く失われてしまっていました。旧道に合流すれば、あとは道なりに歩いていくと峠を越えることができます。
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 この旧道は山の中を通っているが、歩きやすい道で、所々に石畳が残っている。やがて右手に愛宕神社の鳥居があるので、参道に沿って登ってみた。すぐ近くに社殿があるのかと思っていたが、意外に遠く坂道を大分登ったところ、頂上に社殿はあった。豊臣秀吉は天正15年(1587)に豊前岩石城を陥落させると、愛宕山から益富城下の状況を確認して入城したので、この坂を太閤坂と呼ぶと説明されている。
愛宕神社 
 この神社は大隈町が城下町としての一応の形態が整った頃、大火で町の半分近くが焼失して以来、上町、五日町、三日町の住民が防火の守護神として雷の神を祭り、明治の初めに建立したといわれている。正面に階段があり、そこに大岩がある。それには「奉寄進下町中三月吉日」と刻まれていると資料ではなっていたが、よくわからなかった。
愛宕神社大岩 
 先ほどの鳥居のところまで戻って山道を下っていく。このあたりは石畳の名残がかなり残っているが、逆に石がゴロゴロしている感じで、足首を捻挫しないように気をつけながら下っていく。
 途中で322号線を横断し、また土道を下っていくと前方にグランドがある。道はグランドの周りを囲むようにして通っているので右側を歩いたが、市役所嘉穂庁舎のほうへ行ってしまい、少し引き返すことになった。ここは左回りのほうが正しかったようだ。福円寺に突き当たるので、左折、その先を右折して進む。ここから大隈宿に入っていく。
 「北斗宮」が左手にある。ここは白鳳3年(664)北斗星を篤く信仰した若木皇子が益富山に勧請して北斗大明神と称し、延命長寿の神として祀ったことが起源とされ、天文元年(1532)に現在地に遷した。天正6年(1578)竜造寺隆信が筑後から筑前に攻め入った際、社殿が焼かれ、御神体は樹齢二千数百年の大楠の空洞に三ヵ年祀られた。天正9年(1581)秋月種実によって再建され、黒田長政が福岡藩主になってからの慶長年間(1596~1610)に筑前15社の一の宮と定められ歴代の藩主や藩士の尊崇が篤かったという歴史のある神社だ。このときの楠は枯れ、現在ある大楠は枯れた大楠からの根続きで分かれた楠だといわれている。
北斗宮 
 右手に「麟翁寺」がある。「酒は呑め呑め呑むならば・・・」という黒田節で有名な母里但馬守友信が益富城主だった元和元年(1615)に生涯を終え、ここに埋葬されている。友信の墓碑である有角五輪塔の地輪表面には「奉彫刻石塔 麟翁紹仁居士 頓生菩提也」と刻まれている。その横に友信の子「花巌宗榮」、孫の「実峰知相」の墓碑が三基並んで立っている。
麟翁寺 
 また、ここの山門は益富城の搦手門を移設したと伝えられている。
麟翁寺山門 
 その横に光円寺があるが、ここに関所(番所)が置かれていたということだ。
 「矢野家」がある。代々酒造業を営むこの家は黒田藩主などが宿泊する本陣として利用された。現在も銘酒「喜久玉の井」、「寒北斗」を製造している。
大隈宿本陣 
ここでカウントする。
 12時43分、大隈宿本陣跡を通る。
 猪膝宿から3時間46分、8.3km。

 予定では12時前には大隈宿を通り過ぎて、八丁峠の入口にどんなに遅くとも14時半には着き、それから峠越えをしようと思っていたのだが、かなり予定より遅れているので急ぐ。ところが気持ちが急ぐあまり、神功皇后の休息石があるという西宮大神宮を見落としてしまった。
 大隈の信号の所が大隈宿の構口跡ということだが、遺構は残っておらず、その横に神社が立っていた。
 大隈の信号で左折するとスーパーがあったので、ここで弁当を買って昼食にする。ところが雨が降ってきた。これから峠を越えようというときにいやな雨だ。時間が遅れている上に雨、もし引き返すならば、この大隈しかない。ここを過ぎると帰るアクセスがないのだ。一瞬どうしようかと思ったが、とにかく行こう!と思い、大急ぎで弁当を食べ終わって歩き始めた。
  このあたりは昔の道が失われており、スーパーを過ぎたところから川沿いに右折して進むのだが、その先で適当なところに橋がないので、そのまま直進して芥田川に架かる芥田橋を渡り、渡ってすぐに右折して川沿いに歩き、3本目のあぜ道を左折して進む。右手に善照寺が見えるが今回は省略!先を急ぐ。
 右手は山、左手は畑という中を道なりに進んでいく。道は舗装されており、歩きやすい。やがてこれまでの広い道は左折し、直進する道の幅は狭くなる。左手に322号線が見えるがそれに併行して道は続いている。ただ、だんだん藪状態になってくる。
 細い道は続いているので迷うことはないのだが、雨が降っているので傘を差しており、笹薮の中では極めて歩きにくい。かといって傘を差さないと濡れてしまう。こういうときはやはりカッパのほうがいいななどど考えながら、歩いていくとやがて322号線に合流する。
 322号線に出て右方向へ少し進んだところの左側に家があり、そこから左方向へ入る草道があるので、これを歩く。
左手家横に旧道 
 左手に池があり、これに沿って進むと、やがて右手にお墓が立っている。最初に一基、その先で二基立っていた。
 その先で三叉路に出るが、その右横、階段の上に「新千手四国霊場42番札所」がある。
新千手四国42番
 三叉路を右へ進みと、本町川に架かる本町橋がある。千手宿の入口だ。
 これを渡って進むと左手に「愛宕神社」がある。元宮は愛宕山上にあり、ここは仮宮、遥拝所だ。
千手愛宕神社 
 その先突き当たりに千手宿旧大屋家住宅があったようだが、今は取り壊されており、広場になっている。秋月藩の重臣だった秋月善九郎義種は豊臣秀吉との戦いに敗れ、天正15年(1587)武士道を捨てて、千手の住民になった。後、秋月黒田藩より上庄屋大屋姓を名乗るように言われ、庄屋になったと説明されている。
 ここでカウントする。
 14時28分、千手宿本陣跡を通る。
 大隈宿から1時間45分、5.8km。 

 ここから右折して進み、横町川に架かる横町橋を渡っていくと、左手に「千手宿横丁恵比寿像」がある。建立は享保13年(1728)で、横丁組が商業の神様として建てたものだという。横に立っている石造の詳細は不明ということだ。
千手恵比寿
 322号線に合流し左折して歩いていると、地元の方が同じ方向へ歩いておられる。言葉を交わして、これから八丁峠を越えるというと、3時間で越えるのは厳しいかもしれない、暗くなってしまうかもしれないねといわれる。山の中で暗くなるのはいやだな、それに今日は懐中電灯を持ってくるつもりにしていたのに忘れてしまっている。急がねば。
 左手に「庚申天」と彫られた石柱があり、その横に「猿田彦大神」碑が立っている。今でも二ヶ月に一回、近所集まって61個の団子を作り、庚申様を祭祀し夕方から夜九時過ぎまで談笑するということだ。
千手庚申天 
 千手川に架かる大力橋を渡るとすぐ先の左手に八丁峠の入口がある。時計をみると14時55分だ。遅くとも14時半にはここを通過したいと思っていたのに25分遅れている。ただありがたいことに先ほどまで降っていた雨はやんだ。とにかく急ごう。
 峠に入ると所々に石仏が立っている。峠を無事越えることが出来るようにお守りしてくれているのだろう。
八丁峠石仏 
 対岸に千手発電所跡の看板が立っている。昭和10年代まで旧千手、桂川、内野、夜須の四カ村に送電していたと書かれている。
 15時13分、八丁越えの看板が立っているところにきた。ところがこの看板、「← 八丁越え →」と矢印が左右正反対のほうに向いている。
八丁矢印 
 さあ、分からない。迷ったが、左側に川が流れているので、取り合えずそちらのほうへ行ってみると、川に橋が架かっているのでこれを渡る。八丁間違った橋渡ると左方向へ道がついているのであれ?と思ったが、そのすぐ先で右方向へカーブして上へ登っているので、とりあえずこれを登ってみることにする。すぐ横は谷川で流れはかなり激しい。ただ道には転落防止のロープが張られていたりするので、一応人が通っているようだ。そのまま急坂を登っていったが、いくら登っても標識が全くない。これだけ登れば、もう新八丁と旧八丁の分岐点にあるという標識がなければおかしい。これは道を間違ったなと気がついた。間違える場所は先ほどの看板のところしかない。ここから急いで今登ってきた坂を下っていき、もう一度、今度は反対側の矢印の方向へ歩いていった。時間を見るとここで25分ロスしている。ただでさえ遅れているのに、ここでまたもロス時間を作ってしまった。林の中では周囲はかなり暗くなってきている。今日は天気が悪いので、暗くなるのも早い。さすがに焦った。後で携帯していたGPSの軌跡を見てみると、最初に登った道は旧八丁とほぼ併行して登っており、最初に322号線に交わる少し前あたりまで登っていたことがわかる。
 気を取り直して登っていくと「蛇淵」という案内板が立っている。ここは雨乞いの場所と知られると書かれているが、この看板をみてこの道で間違っていないことを確認できたことがうれしかった。
 蛇淵
 「向歯落」の案内板が立っている。岩間から湧き出る小泉があり、秀吉がそれを飲んだとき冷たかったので名前がついたといわれていると書かれている。
向歯落 
 その先で、またしても「← 八丁越え →」の看板が立っている。今度は注意してみると、直進する道はかなりの急坂になっており、右方向へ行く道は迂回しているようだったので、直進して坂道を登って行く。
両側矢印 
 「茶店跡」と書かれた看板が立っており、その横に、更に大きな字で「これより先に入るな」と書かれた看板が立っており、その後ろに鉄条網が引かれていたので、その後ろには入るなという意味なのだろう。
茶店跡 
 15時50分、橋が架かっており、川を渡ったところに小屋が見える。小屋のところから道は二股になっているが、ここは右方向へ進むという標識が立っており、これに従って進んでいく。
旧道の橋 
 15時53分に新八丁と旧八丁の分岐点に着く。旧八丁は左の小川を越えて進んでいく。ここには昔茶店があったが、太平洋戦争後の洪水で流されてしまったということだ。ここは写真を失敗しており、掲載できませんのでご了承ください。
 15時58分、322号線にでるが,そこに「八丁越 古八丁峠まで1000m」と書かれた標柱が立っている。
八丁峠へ1キロ 
 322号線を横断して、再び山道に入っていく。長い石畳が続いており、かなりの急坂が続く。さすがに息が切れるが、とにかく暗くなる前に峠を越えたい一心で先を急ぐ。
 16時11分、「八丁越 古八丁峠まで500m」の標柱が立っている。
 峠まで5百 
 かなり登ったつもりだったが、先ほどの標柱からまだ13分間、500mしか登っていない。息が切れる。汗びっしょりになっているが、休まずに登り続ける。そのすぐ先に「おおよこい茶店跡」の看板が立っている。
 そしてようやく「古八丁峠頂上」の標柱が立っているところにきた。
八丁峠頂上 
 16時21分に到着。最後の500mは10分で登っている。まさにラストスパートというところか。頂上に出ると林の中と違ってまだ明るい。よし、なんとか明るいうちに峠を越えることができそうだ。
 下り始めるとしばらくは明るい道を下っていく。これなら大丈夫だと思いながら下っていった。
八丁峠下り 
 16時32分、農道に出、そこに「旧八丁道 潭空庵を経て秋月に至る」という表示板があるのでそれに従って再び林の中に入っていく。
八丁峠下り分岐点 
 この道にも石仏が所々にある。
 16時39分、再び農道に出、そこに今度は「ダンゴ庵へ」という表示板が立っているので、農道を横断して下っていく。
下りだんご庵 
 16時50分、国道に出るが、ここにも「旧八丁越えに至る 秋月街道」の表示がなされているので、国道を横断して下っていく。
八丁下り秋月街道 
 やがて16時58分に潭空庵跡(だんご庵)に到着する。
だんご庵 
 思っていたより早く、まだ明るいうちに下ることができてホッとする。八丁越えは秋月街道最大の難所ということだったが、道は整備されていたし、最初に両方に矢印のある標識で迷った以外はしっかりした標識も設置されていたので、比較的歩きやすかった。
 まだ明るいのでもう少し進もうと思い、だんご庵のバス停のところから前に旧道らしい道が続いていたので、これを歩いていったが、途中で囲いがしてあって通れなくなっている。しかたがないので一旦バス停まで戻って、とりあえず今日の宿を確保しようと思って、「民宿暮待巣」に電話をした。今からでは夕食の準備ができないと一旦断られたのだが、夕食はほかで食べるというと、泊まるだけならということでOKしていただき、ここまで車で迎えに来ていただいた。今夜は知人のお通夜があり、宿泊客もなかったので、夕食の準備をしていなかったということだった。宿に帰る前に白坂越のところを車で案内していただいたが、昨年の大雨で通行禁止になっていた。その後コンビニに寄っていただいたのでそこで弁当を購入、宿に着いてもお風呂もすぐ準備していただくなど、忙しい中とても良くしていただいてありがたかった。
 また暮待巣で発行されている「ぶらり、秋月」という冊子をいただいたので、夜のうちに読んでおいた。これが翌日の城下町めぐりに役に立った。

 本日の歩行時間   8時間34分。
 本日の歩数&距離  46385歩、27.7km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん