秋月街道を歩く

2009年02月26日(木) ~2009年03月10日(火)
総歩数:179791歩 総距離:114.5km

2009年03月10日(火)

だんご庵~秋月城下町散策~野町~松崎 

                                   晴れ

 快晴で気持ちのいい朝だ。今日は距離も短いため朝はゆっくりとする。出発に際し、ご夫婦の写真を撮らせていただいて出発。大柄なご主人は穏やかな雰囲気で奥さんともどもとても感じのいいお二人だった。ご主人がブログを書かれているということだったので、アドレスをお聞きし、後で読んでみるとご主人は体調があまり思わしくないご様子。お大事にされてください。昨日の場所まで奥さんに車で送っていただく。車中で「暮待巣」の名前の由来をお聞きすると、「旅人の喜び」という花言葉を持つ「クレマチス」という花の名前と、以前ご主人がお勤めの傍ら、学習塾をされていて、子供達が集まってくる巣という言葉を兼ねて命名されたということだった。
暮待巣 
 8時32分にだんご庵のバス停に着き歩き始めるが、ここまで来る途中で奥さんに道を教えていただいたので、そのとおりに歩こうと思っていた。しかし改めて「歴史の道調査報告書」を見てみると、昨日囲いがしてあって歩くことをあきらめた道が地図に描かれている。そのためもう一度行ってよくよくみてみるとロープで囲まれてはいるが、その先には旧道らしい道が続いているので、ロープを跨いで進んでみた。
ダンゴ庵前旧道 
 そうするとすぐ先に「恵観院」があった。
 資料によるとここは日照院の末寺で、元文元年(1736)瑛真法印の開墓となっているが、ここでは宝暦6年(1756)と記されていた。
恵観院
 恵観院を背にして直進するとその先に「九州自然歩道」の看板が立っており、ここから右折して進む。
恵観院前旧道
 ここに来る車中で奥さんから、この道は最近できた遊歩道なので旧道ではないと教えていただいたのだが、「歴史の道調査報告書」ではこの道が旧道となっていたので、とりあえず報告書に従って歩くことにする。
 その先で環境庁が立てた「古処山・秋月キャンプ村 秋月バス停・不動ノ滝」という標柱があるので、バス停のほうへ下っていく。
 九州自然歩道の看板のあるところから旧道を離れて左折していく。奥さんが先ほどこの道が旧街道だったと教えてくれたところだ。左手に「白山宮」がある。白山宮は寛永2年(1625)に秋月黒田初代藩主長興公によって武運長久と住民の安泰を願って興されたと説明されている。
白山宮 
 旧道に戻って川沿いに歩いていくが川の水がきれいだ。そういえば宿で飲んだ水もおいしかった。空気もひんやりしていて気持ちがいい。
 左手に「野鳥口番所跡」がある。江戸時代、城下の入口に四、城内に三、計七つの番所が設けられ、この場所は城下東の出入り口だった、東の石垣の上に建つ武家屋敷は歌人松田常憲の生家と説明されている。
野鳥番所跡 
 そのすぐ先に御影石造りの橋が架かっており、「番所橋」と呼ばれている。
番所橋
 そのすぐ先右手に水車が回っていた。最近ではめったに見かけないものだ。
水車 
 郷土館前のバス停があり、ここから左折して秋月城址(現在は秋月中学校になっている)へと歩いていく。
 9時11分、これから街道を離れて城下町を散策する。
秋月は城下町ということもあって本陣というものがないので、
一応ここでカウントする。
9時11分、秋月宿を通る。
千手宿から3時間24分、9km。

ここから秋月城下を散策する。

杉の馬場
 杉の馬場は秋月城址へ向かう約500mの真っ直ぐに伸びた道路で、道の両側には200本の桜が植わっている。秋月のメーンストリートだ。
杉の馬場 
 昔はこのあたりに杉の大木があったためにその名前がついたといわれている。ここは藩主のお成り道で藩士達の登城道でもあった。時には武士達の馬術の稽古に使われていたので、杉の馬場と呼ばれている。明治38年、日露戦争戦勝記念として町の人たちによって桜の木が植えられたというということだ。桜の時期には大勢の観光客で賑わうという。
 稽古館跡
 藩士達の文武修行の大道場で安永4年(1775)創設。文化7年(1810)に大拡張され、明治4年廃藩とともに閉鎖された。現在は秋月美術館になっている。
稽古館 
 戸波半九郎屋敷跡
 戸波家は黒田長興公に供をして秋月入りした六兵衛定次を祖とし、中老、家老等の要職にあった家柄だったが、明治9年(1876)の秋月の乱の時、半九郎定夫は自刃した。その後戸波屋敷は旧藩主黒田家に譲られ、秋月の別邸として用いられ、昭和40年秋月郷土館開設にあたり黒田家の遺品と共に寄贈された。
戸波邸 
 瓦坂
 堀に架けられている橋で瓦を縦に並べて土の流れを防ぐようになっている。この坂を通って大手門へ向かっている秋月黒田藩時代のお館正門だった。
瓦坂 
 秋月城長屋門
 秋月城の裏手門として使用されていたもので、昭和62年から3年間保存修復工事及び発掘調査が行われた。その結果、北棟のさらに北側に古い軌石が発見され、原型に近い形での復元がなされた。秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影を最もよく伝えていると説明されている。
長屋門 
 黒門
 元々は秋月氏の本城であった古処山城の搦手門だったが、秋月藩成立後(1623)秋月城の大手門として先ほどあった瓦坂の奥に移された。明治13年に藩主黒田長興を祀る垂裕神社が建てられた際に、現在の場所に移されたものという。
黒門 
 垂裕神社
 安政6年(1859)秋月藩第10代藩主黒田長元が初代藩主長興の200周忌を迎えるにあたり、神霊を八幡宮相殿に祀ったのが始まりで、元治元年(1864)八幡宮から秋月城内の仮御殿に移した。その後明治5年から3年がかりで現在地に社殿を建設。明治13年に秋月城大手門(黒門)を境内に移築したという。
垂裕神社 
 秋月八幡宮
 ここは平安時代中期の天慶3年(940)に朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が神布皇后の旧地とされる宮の丘(現在の社のある周辺)で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することができたことから、946年この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりとされている。鎌倉時代の建仁3年(1203)秋月氏の祖、秋月種雄公が秋月に住むようになって現在の社の本宮を造営したとされている。寛永元年(1624)秋月藩初代藩主黒田長興公が就封されてからは、数度にわたって改修が行われたという由緒ある建造物だ。境内には歴史を感じさせる巨木が立っていた。秋月神社 
 医王山長生寺
 慶長5年(1600)興膳善入という当時84歳だった豪商によって建立されたが、善入は124歳まで齢を保ち、生きながら入棺する即身仏となられたということだ。境内には寛政2年(1790)に種痘の技術を確立した秋月藩医「緒方春朔」の墓がある。有名なジェンナーが発明した牛痘種痘法は1796年ということで、緒方春朔の種痘法はこれより6年も早かったことになるそうだ。
宮崎兄弟墓また、ここには秋月の乱で中心となった「今村百八郎」「宮崎車之助」「宮崎哲之助」三兄弟のお墓も並んで立っている。
緒方春朔墓 
 大涼寺
 初代藩主長興の生母、大涼院の菩提寺で前身は高照院浄仙寺といい、寛永9年(1632)にこの地に移転したといわれている。長興は寛永14年(1637)大涼院の三回忌にあたり、位牌をこの寺に安置し、寺号を大涼寺と改めた。裏山に巨石を使用した大涼院の墓碑が立っているが、この石を下の谷から引き上げる際に途中で動かなくなったのを、長興が自ら音頭をとり人夫達を励まし、遂には自ら綱を引いて目的地に据えたといわれている。
大涼寺 
 古心寺
 黒田家の墓所がある。秋月藩初代藩主長興が父長政の菩提寺として天保4年(1647)に建立し、寛文5年(1665)長興が死去すると江戸祥雲寺とともにこの寺にも墓が建てられ、以後歴代藩主の墓所となった。12代までの藩主とその夫人の墓及び石燈籠が建っており、秋月石といわれる花崗岩でできたそれらは非常に壮観である。これまでも藩主のお墓を各地で見てきたが、これほどの墓所はあまり見たことがない。
臼井六郎 またここには日本最後の仇討ちを果たした「臼井六郎」の墓がある。幕末動乱期に勤皇佐幕の論争の中、父母が11歳の六郎の目前で暗殺された。以来艱難辛苦の末、明治13年に仇討ちを遂げ、いまは両親とともにこの地に眠っている。
黒田家墓所 
 腹切り岩
 天正15年(1587)豊臣秀吉が秋月に侵攻してきたとき、偽の降礼使者となった恵利暢尭が秀吉の強大な戦力を目の当たりにし、主君秋月種実に和睦を進言したが、種実は聞き入れず、逆に暢尭を臆病者として一笑に付したため、面目を失った暢尭は妻や当時13歳、10歳の娘とともにこの大岩の上で自害したという。
腹切り岩 
 鳴門観音堂
 恵利暢尭が死後葬られたところで、黒田長興入国後、恵利暢尭の殉節に感じ入り、墓を中心に鳴門山音声寺を建立したといわれている。
鳴門観音堂 
 キリシタン橋
 石橋の裏にマリア像があるといわれているが、今は見えないと書かれている。
キリシタン橋 
 秋月種時の墓
 キリシタン橋を渡った先の鬱蒼とした杉林の中に立っていた。ここは秋月山大龍寺の跡ということだが、遺構は全く残っておらず、お墓だけが立っていた。秋月種時~種実、種長までの17代385年に及ぶ秋月時代のなかで、秋月に残る唯一の当主の墓といわれている。
秋月種実墓 
 須賀神社
 元来は上秋月八幡宮付近にあったものが、寛政5年(1793)に現在地に勧請されたもので、神座を除いた建立年代は棟札にある天保3年(1832)と推測されている。本殿は入母屋造りの正面に向拝一間、背面中央間に切妻造の神座をつけた特異な形式になっているが、これは昭和33年にもとの位置にあった本殿が壊れ、前にあった拝殿を引き移して本殿に転用したためと説明されている。
須賀神社 
 須賀神社の前に淨覚寺があるが、丁度工事中だった。
 秋月橋
 興膳善入が長崎より秋月氏に仕え、五千石を領有していた。その領地は上町、中町、今小路に跨る広大に地だった。その中で野鳥川に架かる裏門の橋がこの橋で興膳橋とも呼ばれている。このすぐ横の河岸の石垣に大きなクスノキが立っている。秋月橋 
 太閤腰掛石
 秋月橋の袂に金光教があり、その境内にある。天正15年(1587)豊臣秀吉が九州に進攻し、秋月種実・種長が降伏すると、秀吉は荒平城に入り、二日間滞在した。その際この石に腰掛けたといわれている。
太閤腰掛石 
 久野家住宅
 久野家は上級家臣で禄高は100石、馬廻組の家系で、明和、文政の両城下絵図とも現在の屋敷地にその名が見えるということだ。近年、修復がなされ、一般公開されている。
久野家 
  時櫓
 秋月氏は古処山の頂上に本城を置き、領域の要所に24の出城を設けた。出城の一つが福嶽城でその屋敷跡といわれている小高いところに城下に時刻を告げるための「時櫓」を設置したので、ここを「鐘山」といった。文化元年(1804)に御館西北の隅に二重の櫓を築き、太鼓で時を告げたが、聞こえづらかったので文化12年(1815)にこの場所に再度戻されたという。現在は宮地嶽神社の拝殿が立っているが、拝殿の控え石柱は木造の簡素な造作と不釣合いであり、本来時櫓を支えるためのものであったと思われるということだ。ここからは秋月の全域を見渡せることが出来る。
時櫓
 西念寺
 天正15年(1587)の創建。豊臣秀吉が秋月に立ち寄った際、小山田昌信宅へ泊まったが、その際、昌信は仏門入りを決心し、自宅を寺とし、名も正信と改めた。後、寛永元年(1624)秋月藩祖黒田長興が初めてお国入りをしたとき、現在地に建立、文化年間(1804~1817)大修復をして現在に至っている。太閤から拝領したといわれる「茄子の徳利」が寺宝として愛蔵されていると説明されている。
西念寺
 本証寺
 寛永元年(1624)に創建されたもので、本堂、鬼子母神堂、妙見堂、山門などがあり、妙見堂が最も古く、19世紀半ばのものと推測されているようだ。
本証寺 
 ここまで回って昼食にし、12時33分、旧道に戻って歩き始める。3時間22分を秋月城下めぐりに費やしたことになる。

 眼鏡橋がある。ここは以前は板橋であったため、度々橋が流されていた。そんなころ、秋月藩は長崎警備の代番を命ぜられたことから、中島川に架かる石橋を見て同様な橋を架けることを計画した。長崎から石工を招いて築いたが、石材として秋月で採れる花崗岩を使った。一度は完成直前で崩れ落ちてしまったというようなこともあったが、無事完工し、現在に至っているということだ。福岡県の有形文化財に指定されており、この橋を残すため、国道は迂回して作られている。藩からはこの橋を長崎橋と呼ぶようにお触れが出たが、眼鏡橋の呼称が定着しているということだ。
眼鏡橋 
 川沿いの道を進んでいく。ここも川の水はきれいだし、川沿いに菜の花が咲いていてきれいだ。
 野鳥川に架かる庄屋橋を渡って進むと、左側に「夫婦岩」がある。この場所は野鳥川が小石原川に合流して、最も急流になるところなので、大石二個を置いて水の流れを防いだところから、夫婦石の名前が起こったということで、この大岩のそばに八大龍王が祭られている。
夫婦石 
 その先で道は二股に分かれるところがあり、ここに「追分石」がある。「是ヨリ右さいふ 松ざ紀 左あまき 本がう」と刻まれている。
追分石 
これを右へ進む。
 右手に「明元寺」がある。元和元年(1615)浄夢を開基として建立された。もとはこの場所は秋月氏の菩提寺である安養寺があったところで、秋月氏が日向国高鍋へ移封された際、安養寺も移り廃寺になった。明治9年には秋月の乱に際し、秋月党が警部穂波半太郎をこの境内で斬殺している。
明元寺 
 田んぼの中の道を真っ直ぐに歩いていく。誰も歩いていない。気持ちがいい。
 右手に「老松神社」がある。永禄9年(1566)に創建され、文禄4年(1595)税田四郎左衛門により再建されたといわれている。また一説には萬寿元年(1024)に勧請したものだとも伝えられている。境内には巨木が立っており、保存樹に指定されている。
老松神社 
 その先に一里塚があり、「夜泣き松」の説明がなされている。
 それによると徳川家光の頃、秋月に志満屋という大商人がおり、その娘は春香といって秋月小町と呼ばれるほど美しく、やさしい娘だった。ところがある日突然春香が姿を消してしまった。その後事件が忘れられたころ、弥永の松のあたりで赤ん坊を抱いてやつれた女がいた。春香だったがいつの間にか姿を消してしまった。その後大きな松から赤ん坊が泣くような声が聞こえ、夜泣き松と呼ばれる様になったという。この松の皮をはいで寝床の下に敷いて寝ると子供の夜泣きが治るといわれているということだ。
夜泣き松 

 右手に「大己貴神社」がある。ここは延喜式内社であり、かつ夜須郡の総社でもある。「日本書記」によると神宮皇后三韓出兵の際、大神神社を祀り、剣を供えたところ、兵が自ら集まったといわれていると説明されている。
大己貴神社 
 「追分石」がある。ここは秋月から博多、久留米などに通じる重要な街道の分岐点で、「右 はかた さいふ道」、「左くるめ 松ざき道」と刻まれている。
久留米、博多追分石 
 弥永の信号を渡って進むと、草場川に架かる高橋がある。この袂に千間溝の案内板が立っている。それによると平安時代初頭の頃にはこの地に「雲堤」という地名が見られるが、「うなて」とは灌漑用の溝の意味なので、その頃にはこのあたりに象徴的な溝があり、それが地名になったのだろうとされている。その後、貝原益軒の「筑前国風土記」にこの用水は廃棄され壊されて、その痕跡が500mほど残っていると記されているということだが、現在ではほとんど消失していると説明されている。
 高橋を渡って直進しかけたが、すぐに気がつき右斜めに伸びる旧道を進み、依井・新町の信号を横断して進む。その先で再び道を間違えたが、元に戻って、天和みどり保育園から左斜めに伸びる道を進む。この先あたりから旧道は失われているので、とりあえずそのまま進み、その先の信号で右折してかなりの距離直進する。野町の信号で594号線に合流、左折して進む。
 右手に「高野神社」がある。ここは寛永14年(1637)に創建されたということだ。
高野神社 
 その先、右手に「野町宿」があるが、本陣跡は全く遺構は残っていなかった。ただ、ご近所の方にお聞きして場所を確定し、ここでカウントする。ここは現在工事が行われていた。
野町本陣跡 
 14時51分、野町宿を通る。
 秋月から5時間40分、5.4km。(秋月城下の見物時間を含む)
 その先左手に「宿駅跡 西南方10米先」「関所跡 北東約100米先」と刻まれた、まだ新しい碑が立っていた。
野町宿石碑 
 甘木鉄道原地蔵踏切を渡り、その先の原地蔵の信号左折し、500号線を進む。
 道路の右手に筑前国、筑後国の国境石が立っている。「従是北・東筑後領」と刻まれている。
筑前、筑後国境石 
 その先右手に長崎街道への分岐点がある。15時24分にここを通るが、今回は薩摩街道(豊前街道)へ合流する道を歩くため、ここは直進する。
長崎街道分岐 
 小郡IC南の信号を直進して進むと、やがて次の信号のところで薩摩街道(豊前街道)の合流点に来る。15時50分、薩摩街道(豊前街道)に合流する。ここから500号線から分かれて左折して進む。
薩摩街道分岐 
 間もなく松崎宿北構口がある。ここは昨年6月23日にきているので、記憶がはっきりと蘇ってくる。
松崎北構口 
 その先に上町恵比寿像がある。
 更に旅籠油屋があるが、このあたりは既に豊前街道で記載しているので、詳細は省略します。
 そして15時59分、松崎宿本陣跡に到着する。
松崎宿本陣 
 野町宿から1時間8分、5km。

本日の歩行時間  7時間27分。
本日の歩数&距離 36263歩、24.4km。


 秋月街道合計。
 総歩行時間     34時間2分。
 総歩数        179791歩。
 総歩行距離     114.5km。  
 宿場間距離合計  91.1km。(これは寄り道をせず、道を間違わずに歩いた場合の距離です)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん