豊後街道を歩く

2009年03月31日(火) ~2009年04月09日(木)
総歩数:229528歩 総距離:156.8km

2009年03月31日(火)

熊本~大津~高尾野

                               晴れ

9時10分に熊本城札の辻に着き出発する。この場所は薩摩街道を歩いた時に二度来ており、豊後街道を歩く今回で三回目だ。
札の辻 
豊後街道は熊本城内を通るのだが、二の丸コースと三の丸コースの二通りの道があるということだ。いずれのコースも城内を通過させており、これは当時の城としては珍しく、城の堅固さを誇示していたのではないかと言われているようだ。今回は二の丸コースを歩くことにする。昔島津氏が二の丸を通過した際、槍を立てていたので、櫓の狭間が一斉に開いた。そのため島津家は槍を伏せて通行したという話が残っているそうだ。どの藩でも二の丸より内では槍を立てての通行は禁じていたという。
 札の辻に向かって右手の坂を上って行く。この坂を「法華坂」と呼ぶが、加藤清正がこの地にあった天台寺院跡に僧日真を講じて法華の寺院を建立し、後大坂から本妙寺をここに移したため、この名前が残っているということだ。
法華坂
最初に左折する道、二の丸駐車場に上る坂を左折していくと、左手に「野鳥園」の案内板が立っている。ここは4500石の柏原家の屋敷跡ということだ。坂を上ると突き当たりに来るが、左手に「宮内神社」「軍旗染血之跡」の碑が立っている。ここを右折して枡形を進んでいくと、左手に美術館がある。ここは往時小笠原家(6000石)、中村家(1000石)の屋敷だったところで、後に田中家(2500石)、住江家(1000石)の屋敷になったところという。
その先で左折、枡形の突き当たりを右折、すぐに左折、更にその先で右折すると右側に「百間石垣」がある。ここは何回見ても壮観だ。
百間石垣 
新堀御門から北へ直進すると左手に細川忠利公が創立された「愛染院」がある。右側の民家は明治初年のころ遊郭があったところということだが、今は全く面影は失われている。
 その先、突き当りを右折すると、京町三丁目の信号がある。ここを左折すると豊前街道になるのだが、豊後街道はここを直進する。
左手に拘置所があるところから道は下り坂になる。この坂を「観音坂」と呼ぶ。昭和28年の大水害で廃寺になるまで、この地には尼僧の守る観音寺があり、そこの石段は坪井川の洪水時の水深の目安とされてきたということだ。
観音坂 
 坂を下ると右手に「壷渓塾」がある。昭和5年に創立した日本で二番目に古い予備校ということだ。
 その先で左折、そのすぐ先で右折して進むと左手に壷川小学校がある。その先、坪井川に架かる空壷橋を渡って進み、突き当たりを左折、そのすぐ先を右折とこのあたりは左折、右折を繰り返す。
 熊本電鉄の踏切を渡って進むと左手に「立田大神宮」の赤い鳥居が立っている。浄行寺の信号で3号線を横断して進む。淨行寺が3号線の右側にあるようだが、うっかりして立ち寄らずそのまま直進してしまった。
右手に小幡神社があり、その先に「一夜塘」がある。寛政8年(1796)の大水害後、藩主細川斉茲公が陣頭指揮して作らせたもので、8月から年末までかかって完成したが、非常に早く完成したので、一夜塘と呼ぶようになったと説明されている。今も遺構が残っており、記念碑が立っている。ここは昭和28年の大水害の時にも決壊しなかったということだ。
一夜塘 
道の両側に熊本大学がある。このあたりは道の両側に石垣が残っており、昔の街道のままの道幅が残っている。総幅員は15mほどあり、当時の道とすればとても大きな道だったことが分かる。
熊本大学 
337号線に沿って歩いていくと左手に「桜山神社」がある。境内には池田屋事件で自決した宮部鼎蔵や維新の際、国難に殉じた肥後勤皇党の二十三士を祀った「誠忠の碑」や明治新政府の急激な欧化政策に不満を抱いて決起した「神風連の変」で倒れた大田黒伴雄ら百二十三士の墓が桜の花びらに包まれて整然と並んでいた。ここに眠っている人々は今、どのような思いで現在を見つめているのだろう。粛然とした気持ちになって深々と一礼した。神風連の資料館があったが、残念ながら閉まっていた。
桜山神社 
すぐ先、一里木のバス停のところに「一里木跡」の石碑が立っていた。
一里木 
 337号線に沿ってひたすら歩く。車の通行量は非常に多い。やがて右手にJR豊肥線の竜田口駅がある。竜田陣内のところで337号線はJRを跨ぐのだが、歩道がないため、跨線橋の手前から右斜めに下る道を進み、その先で再び337号線に合流する。合流したところにコンビニが左手にあり、街道を離れてその横からJRの踏切を渡って進むと「宝積寺」がある。
ここは永正11年(1514)に立田将監の父重雄の菩提を弔うために建立された寺で、その後明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となったが、その後地元の人々の努力で再建されたということだ。
宝積寺 
街道に戻って進むと、すぐ先右手に「立田阿蘇三宮神社」がある。元弘2年(1332)に創建され、寛文元年(1661)現在地に造営されたということだ。境内には筋無木という神木が立っている。子供の筋無(ひきつけ)が起きたとき、神木の葉を水に浮かべて飲ませると直ちに治癒するといわれているそうだ。
阿蘇三宮神社 
 右手に龍田小学校がある。資料によると「小学校の東が二里木である」とし、「里程木は国道右端より7mくらい外側に下がりまわりは駐車場や雑物置場になっている」と書かれている。小学校の手前で右に少し入る道があり、そこを歩いてみると、下り坂になった下に大木が立っており、なにやら看板が立っている。あれかなと思って坂を下っていった。途中、龍田中学校の野球のユニホームを着た学生が「こんにちは」と挨拶をしてくれたのでいい気持ちになってそのままどんどん下っていった。しかし、それは塚木ではなかった。また失敗してしまった。仕方がないので、その横から小学校に上る道を通り、グランドの中を通って街道に合流して進む。
その先、少し行くと右側に「二里木の石碑」が立っており、塚木が立っていた。ただ枝を切ったのだろう、資料(歴史の道調査報告書)の写真と比較すると随分小さな木になっていた。その横に道標が立っている。それには「1628番」と番号が刻まれており、「右 あそ 大分」「左 大津 内ノ牧」「当所 清水亘次」「阿蘇郡甲斐有雄」と刻まれている。甲斐有雄は阿蘇郡野尻村(現高森町)に生まれ、農業と石工を業としていたが、旅人がよく道に迷うことに心を痛め、文久元年(1861)から道標石の建設を始め、明治42年までに1900基の道標を建設したという。
二里木 
その先右手に「武蔵塚公園」があり、そこに宮本武蔵の銅像が立っていた。武蔵は正保2年(1645)62歳で没したが、生前の遺言によって、主君の参勤交代を、見守るため甲冑を帯し、六具に身を固め、立見の姿でこの地に葬られたと伝えられている。
武蔵公園 
その先で昼食を摂る。今日は337号線に沿って歩いているので、食事をする店が数多くあり安心だった。
このあたりから杉並木が道沿いに残っている。337号線の向こう側の一段低くなったところをJR豊肥線が通っており、その間に桜並木があって今を盛りと咲いていて気持ちのいい道だ。街道は豊肥線の向こう側まであったようで、向こう側にも所々に杉の木が立っている。当時の感覚から行くと桁外れに大きな道だったことがよく分かる。「肥後の大杉並木」として全国に宣伝されたということだが、たしかにこれまで全国の色々な街道を歩いてきて、これほど大きな街道は見たことがない。この杉並木に関して「樹齢400年を誇るこの杉並木は慶長6~7年頃(1601~1602)加藤清正が熊本城から二重の峠までの街道に植えたもので、熊本城改築の資材として、敵襲に備えての武者隠しとして、あるいは杉を切り倒して敵の進軍妨害の手段にするために植栽された」と説明されている。いずれにしてもスケールの大きさに驚く。
街道沿い風景 
三里木の駅が左手にあり、その前に「三里木跡」の碑が立っている。以前は数本の榎が立っていたそうだが、現在では地名にそれを残すのみと説明されている。
三里木 
更に進んでいくと、右手、街道にはみ出すようにして「頼山陽」の碑が立っている。文政元年(1818)長崎からの帰路、竹田行きの途中に詠んだという歌が刻まれている。
頼山陽 
左手に大原阿蘇神社がある。ここの手水鉢は享保10年(1725)と刻まれていた。
 丁度結婚衣装に身を包んだ新郎新婦が境内で写真を撮っていた。古い神社の境内での撮影、中々いいものだ。
阿蘇神社新婚さん 
そのすぐ横左手に「聞光寺」がある。この寺の入口東脇に観音菩薩と地蔵尊を納めたお堂がある。不運にも無礼討ちになった父を弔うために出家して「放牛」と名乗り、修行の後に各地に118体の放牛地蔵という石仏を完成させた息子がおり、ここにある地蔵はそのうちの66番目のものだという説明がなされていた。
聞光寺 
 すぐ先に原水駅があり、ここを過ぎると周囲は田畑が広がっており、菜の花が一面に咲いていてきれいだ。春爛漫。前方には阿蘇の山並みが見えて気持ちがいい。
南方のバス停の先、右手に「四里木跡」の石碑が立っている。以前は榎塚があったが、大正3年の鉄道敷設のために伐採され、今ではその地名も残っていないと説明されている。
四里木 
 その先入道水踏切でJRを越え、325号線のガード下を通って進む。
 左手に大津町営老人ホームの看板があり、その先に熊本日日新聞社の大津支局がある手前から左折し、堀川(井手)が流れているので、これに沿って右折して進んでいく。
その先突き当りを左折して進むと、左手に「大願寺」がある。ここは慶長16年(1611)釈浄誓によって開基され、西南戦争の時には薩摩軍が司令部を置いたところだ。
その前に白く塗られた眼鏡橋、大願寺橋が架かっている。堀川に架かっている橋はいずれもアーチ型の石橋だが、白く塗られているのはこの橋だけだった。
大願寺 
大願寺の門のすぐ横に階段があり、それを上る途中、右手に「芭蕉塚」が立っている。芭蕉百回忌である寛政5年(1793)に建立されたということだが、今では何と刻まれているか分からなくなっている。
芭蕉塚 
街道に戻って進むと左手に「光尊寺」がある。承応2年(1652)に開基された古刹だが、ここにも眼鏡橋が架かっている。新緑と桜が映えてとてもきれいだ。山門の前に「橋の欄干」の石材が無造作に置かれていた。文化12年(1815)乙亥建立、山鹿郡下内田村石工と刻まれている。
光尊寺 
鶴口橋があるが、これを渡らず、直進したところにちょっとした広場があり、ここが「人馬所跡」ということだ。
 橋を渡るとすぐ左に「高札場跡」の案内板が立っており、お地蔵様が祀られていた。
高札場 
その少し先に「大津手永会所跡」の案内板が立っている。
手永会所 
本陣の跡は全く残っていないということなので、ここでカウントする。
 15時32分 大津宿を通る。
 熊本から6時間22分、20.7km。

 そのまま歩いていくと左手に古い鳥居が立っていたので、階段を上ってみた。そこには注連縄を巻いた大木が立っていたが、ほかに何もない平地だった。オジサンが草を刈っておられたので、お話をうかがうと、ここは以前日吉神社が立っていたということだった。いつ頃移転したかはわからないということだった。横の崖に穴があるので古墳かなと思って聞いてみたが、そうではなくて以前近くに酒屋があり、そこが品物を貯蔵するために使っていたものだということだった。
 「大津御蔵跡」の案内板が立っている。藩政時代、大津手永全域、阿蘇郡市全域からの年貢米約7万石(16万俵以上)を納めた細川藩の御蔵跡という説明がされている。毎年年貢米を納める時期は二重峠から大津まで俵を負った馬が絶えず、このため大津を他所の人が「大津の馬の糞町」と呼んだそうだ。
左手五里木坂公民館の入口の看板の横に「簀戸口跡」の標柱が立っている。ここは藩主の通行前後の臨時関所の跡で、簀(スダレ)は男竹、真竹を高さ二間に編んだ二枚を左右に立て、簀戸守が警戒に当たっていたと説明されている。
五里木公民館 
このあたりから次第に山の中に入っていく。大津町営総合グランドへ行く道が右側に下っているが、下らずに直進すると、すぐ先右側に「五里木跡」の碑が立っている。
五里木 
 その先、202号線と交差するところで信号を渡り、左斜めに伸びる旧道を歩く。ここも桜並木が続いている。
 しばらく歩いていき、右折する道があるので、16時21分、街道を外れてここを右折し、今日泊まるホテルである亀の井ホテルへ行く。

 16時37分、ホテルに到着する。

 本日の歩行時間   7時間27分。
 本日の歩数&距離  40764歩、26.6km。

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記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん