日向街道〈豊前道)を歩く

2009年10月12日(月) ~2009年10月28日(水)
総歩数:153382歩 総距離:99.3km

2009年10月12日(月)

中津島田口~四日市~地蔵峠入口

                                   快晴

 今回、大分から宮崎を経由して鹿児島へ至る道を歩くことにし、この道を日向街道と称することにしたが、資料を読んでみると、日向街道という言葉が出現したのは明治以降で、それも大分(府内)から宮崎への日向へ至る道というごく軽い意味で俗称的に使われていたようだ。特にこの間の陸路は大変な難路で主たる往来は海路だったようで、更には各藩の藩域も複雑に絡み合っていたため、一本の経済路線という意義は有しておらず、同一藩内における年貢輸送等に利用されていたということだった。従って呼称も各地域によって異なり、中津~大分(府内)を豊前道、大分(府内)~宮崎(佐土原)を豊後道、宮崎(佐土原)~鹿児島までを薩摩街道と沿線の各県の「歴史の道調査報告書」には記載されている。
 ところが私のHPではJR鹿児島本線側を歩く際に熊本県の歴史の道調査報告書を参考にしていたため、熊本から以北に「豊前街道」、熊本から大分までを「豊後街道」、熊本から鹿児島までを「薩摩街道」として既に掲載している。昔は同一名称を異なる地域で使用していたということを今回の調査ではじめて知った。そのため今回この道を歩くに際し、日向街道ということで統一し、その中に中津~大分間を「豊前道」、大分~宮崎を「豊後道」、宮崎~鹿児島までを「薩摩道」として分割して掲載することにした。
 またこれは日向街道に限ったことではないが、場所によって旧道がどこを通っていたかで諸説ある場合もあるが、あくまでも私が歩いた道ということで掲載しているのでご了承いただきたい。
 中津駅を下りて左側にあるアーケードを通って島田口に到着する。ここは昨年日田往還を歩いた時に通ったところだ。ここから高瀬の辻までは日田往還と重なっている。街道は「上往還」と「下往還」に分かれているが、今回は「上往還」を歩くことにする。中津市の旧道は中津地方文化財協議会の会長をされている中尾さんに詳細に教えていただいた。
 7時35分に島田口を出発し、JR日豊本線のガード下を通って進むと近砂商店があり、その前の二股の道を左へ進む。
左手に「中津市庁舎分室」と書かれた古い建物が建っている。
 栄町の信号で113号線を横断して直進、二股に分かれているところで左へ進む。
宮永七曲 
 すぐ先にある最初の三つ角を左折する。ここは最初うっかり直進してしまい、その先にある鮮魚店の看板を見て間違いに気がついて引き返す。
七曲最初角 
 ここから「宮永七曲道」に入っていく。ここは前回も通ったところだが、今回は逆方向へ進むことになる。ここから右、左、右、左、右、左、右と何度も曲折を繰り返しながら進む。
上宮永貴船神社 8時「上宮永貴船神社」に着く。ここも前回通ったところではっきりと記憶が残っている。境内に近所にあったと思われる庚申塔が六基並んでおかれている。
 神社の横の突き当りを左折して進むと、右手に「徳勝寺」があり、その先の突き当たりを左折、すぐに右折して進むと、右手に古い藁葺きの家がある。表具店を営んでおられるようだ。
 その先で一旦110号線に出るが、すぐ先で右斜めに伸びる旧道に入る。
110号右斜め 
 その先で真ん中に桜の木が立っている分かれ道があり、これを左へ進むと再び110号線に合流する。
桜木分岐 
 ここから注意が必要な場所にくる。前回は逆方向から来たため、「高瀬の辻」から旧道が伸びており、それに沿って歩いてきたので、すんなりと歩くことができた。しかし今回は逆方向から歩くため、旧道への入口がよくわからない。ご近所の方がおられたので地図を見せながらお聞きすると、「ムラオ団地入口」と書かれた看板が立っているので、そこを入っていけばいいと教えていただいた。言われたとおりに進んでいくが田んぼのあぜ道に出てしまった。おかしい?こんなところは前回通らなかったはずだと思いながら、それでもあぜ道を進んでとりあえず1号線に合流するところまできた。合流する地点に「高瀬の辻」があるはずなのだがない。明らかに道を間違っているのだ。仕方がないので、そのまま1号線を左へ進んでいくと、道路を挟んだ先、右手に「高瀬の辻」があった。その場所から前回歩いた旧道が伸びている。この道は確かに記憶に残っているので、そのままその旧道に沿って進んでみると、110号線に出ることがわかった。
 110号線からの入口は「中津大島屋」という菓子食品卸の物流センターの敷地内だった。これで110号線からの入口がわかったので、道を引き返して「高瀬の辻」にでる。
中津大島屋 
 「高瀬の辻」は豊前と豊後を結ぶ勅使街道(上往還や豊前道ともいう)と中津城下の島田口から宮永街道を通り、日田へ通じる日田往還(高瀬の辻より南は永山布政所道ともいう)の交叉点にあたる場所だ。道標が立っていてそれには「従是東豊後宇佐ミチ」「従是北中津道」「従是西小倉道」「従是南日田玖珠道」と刻まれている。ここには貝原益軒や伊能忠敬も通ったとも説明されている。
高瀬の辻 
 8時45分、ここから日田往還と分かれ、左折してこの先で1号線から663号線に名称が変わる道を進んでいく。
 右手に「廣池千九郎」の生家の看板が立っていたので、道から少し入って行ってみた。廣池千九郎は麗澤大学を創立し総合人間学モラロジー(道徳科学)を樹立して生涯教育の先駆をなした方という説明がなされていた。
廣池千九郎 
 663号線を進んでいくと、9時44分、右手に「大貞八幡(薦神社)」がある。ここは宇佐神宮の祖宮といわれており、承和年中(834~48)に初めて社殿が建てられたという古い神社だ。その後守護大名だった大内氏によって社殿が再建され、更に細川忠興公によって元和年間(1615~24)に本殿他が再建されたという。このとき再興した楼門が現在の神門で国の重要文化財に指定されている。
大貞八幡(薦神社)」 
 その先左手に「西の誉」の三保鶴酒造があり、酒造会社に特有の赤い煉瓦の煙突が立っている。
三保鶴酒造 
 ここから道幅が急に狭くなる。
 そのすぐ先左手に「福島大師堂」がある。これは西国十番札所で旧中津藩主細川忠興公の寄進と伝えられているそうだ。本尊は弘法大師の木像だったが、昭和13年に何者かに持ち去られたため、現在は石像を祀っていると説明されている。
福島大師堂 
 更にその先、左手少し入ったところに「長久寺」がある。ここは応仁の乱の終わる文明9年(1477)に開基されたお寺で、境内は福島田丸城址ということだ。本堂は天保9年(1838)山門、鐘堂、経堂、石橋は享保元年(1716)の創建とされている古いお寺だ。お寺の横には市指定文化財(天然記念物)のコジイ林がある。長久寺 
 左手に「地蔵堂」があり、その横に「法華一字一石塔」、その裏に「中津川墓」がある。昭和36年に有志が地蔵堂を復旧した際、棟木に安政6年(1859)建立と書かれていたそうで、横にある法華一字一石塔には寛政6年(1794)池部和右衛門の刻文がある。このことから寛政6年に池部和右衛門が地蔵尊をこの地に勧請し、65年後の安政4年に建立したものと思われると説明されている。
地蔵堂 
 また「中津川墓」は墓石に堀米亀之助と刻まれていることから江戸末期から明治初期にかけて当地方の草相撲の大関だった人物と伝えられているそうだ。
中津川墓 
 10時37分、右手少し入ったところに「貴船神社」がある。文化5年(1808)に創建したもので、社殿の横に「黒川古墳」がある。現在は盛土が失われているので規模は明確ではないが、石室の大きさから見ると直径20m前後の円墳と考えられ、6世紀後半から終末(約1400年前)の築造と思われ、三保一帯を治めた人物の墓ではないかと思われているということだ。
貴船神社 
 犬丸川に架かる田中橋を渡って進むと左手に「夜泣の松跡」という石碑が立っておりその横に地蔵堂がある。説明がなかったのでご近所の方に由来を聞いたが、以前大きな松の木があったが、枯れてしまったということ以外分からないということだった。すぐ前にあるバス停も「夜泣の松」という名前がついていたので何か由来があるだろうと思ったが、それ以上のことは分からなかった。
夜泣の松 
 このあたりは長閑な田園風景が広がっていて、気持ちがいい。天気もいいし、歩くには最適な時期になってきた。
稲が実っており、早くも収穫が行われていた。
田園風景 
 宇佐市飛永の信号で213号線に合流すると車の量が急に多くなる。宇佐市の旧道は宇佐市役所の教育委員会の方にお話を聞いた。大分県歴史の道調査報告書も5万分の1の地図なので細部になると分からない場所が多いのだ。
 11時42分、大根川を渡ったすぐ右手に「大根川神社」がある。ここは宇佐神宮八摂社の一つで「八幡宇佐宮御託宣集」によると八幡神が御修行の折、この川辺で大根を食されたと説明されている。
大根川神社 
 そのすぐ先、ガソリンスタンドがあるところから右斜めに伸びる旧道へ入る。
gsyori 
 少し旧道を歩いていき、宇佐市北赤尾の信号で10号線を横断し、すぐに右折して進もうとして、右手を見ると、10号線沿いに大きなお寺が見えたので、もう一度信号を戻って10号線に沿って行って見た。
 随分大きなお寺だが、まだ新しい。念法眞教念法寺となっていたが、由来等はなく、ネットで調べても確たるものは出てこなかった。
 旧道に戻ろうとして、ひょっと横を見ると「バイキング」と書かれた大きな看板が立っている。丁度昼時だったので、ここで昼食にした。私は「バイキング」大好き人間なのだ。店に入ると先に会計をするようになっていたので、支払いをしていると、後から来られたお客さんが、「60歳以上は割引があるのね」といわれている。よくみると確かに「60歳以上割引」の札があるので、「私も60歳以上です」というとレジをやり直してくれた。2割引きだ。60歳を過ぎれば食も細くなるということなのだろう。
 さて、まずは寿司からスタート。1貫が小さく、取り皿も小さいので3回取りに行って15貫食べ、ついでに焼きそば、パスタ、ラーメンを少しずつ(少しずつです)、おかずにサラダや筑前煮、おでん等、それにエビフライ等の揚げ物を食べ、デザートにケーキとアイスクリーム、みかん、パイナップル、メロンの果物と何十年ぶりというあんみつまで食べて、さすがに満腹になった。なんだか値引きしてもらったことが申し訳ないような気になりながら、店を出て再び歩き始める。ここで腹一杯食べたので、今日は最後まで空腹を感じることはなかった。
 旧道を歩き宇佐市山下の信号で10号線は二本に分かれているので、伊呂波川に架かる伊呂波橋を渡って進むと、「山下入口」というバス停の手前、「宇佐養護学校」の看板が立っているところから10号線を離れて左折して進む。
宇佐養護学校 
すぐ先こんもりとした林の前に「久々姥2号墳」の標柱が立っており、そこから右折して進む。その先にも同様に「久々姥古墳」の標柱が立っている。この古墳は古墳時代(約1600年前)に横山谷を拠点とした有力者の墓と考えられ、現在二基が残されていると説明されている。
久々姥2号墳 
 13時14分にここを通過する。
 ここから暫く山間の道を歩く。静かで気持ちがいい。
山間の道 
 道なりに歩いていって10号線を横断し、その先で625号線も横断して進むと、左手少し入ったところに「四日市陣屋跡」がある。今では門のみが残っており、その向こうは勤労青少年ホームのグラウンドが見える。
四日市陣屋跡 
 ここを13時42分に通る。中津島田口から6時間7分が経過している。
 左手に「桜岡神社」がある。ここは永禄元年(1558)に創建した蛭子宮と元禄11年(1698)に勧請した稲荷宮、慶安3年(1650)に勧請した天満宮を祀っている。400年前から続く五穀豊穣を祈る秋季大祭「天神祭り」が有名だ。
 桜岡神社 
 すぐ先右手には「本派本願寺四日市別院」がある。すぐ近くにも東本願寺別院の大伽藍が隣接して建てられているが、このようなケースは珍しいという。
 本願寺四日市別院(※以下、西別院)の源流は16世紀後半、石山本願寺の顕如上人に帰依した宇佐郡の豪族・渡邊蔵人統綱:出家して専誉の創建した草庵が始まりと言われている。この庵が真勝寺というお寺になり、後に真勝寺の正願によって真宗大谷派(東派)へ改派した。
元文2(1737)年、真勝寺の末寺・門徒の派閥争いが勃発し、当時の住職・宗順師は本山より隠居の命がくだされた。その後、宗順師は門徒を率いて西本願寺に改派するという事態となった。この改派騒動の中で、真勝寺本堂の受け取り交渉が難航し、最終的には宗順師率いる西派が所有する事となる。しかし、この事件は幕府の寺社奉行・大岡越前守によって裁かれるという事態に発展。その結果、真勝寺は幕府に没収の後、東本願寺に下げ渡されるという判決がくだり、延亨元(1744)年に「本願寺掛所豊前四日市御坊真勝寺」が東別院として発足。一方、真勝寺の住職であった宗順師、教覚寺恵明師は遠島(教覚寺恵明師は遠島前に獄死)。その他にも追放、獄死などの犠牲者が出た。その後、浄土真宗本願寺派(西派)の僧侶・ご門徒も西本願寺の別院を建てようと計画したが、当時の幕府の法度(法律)によって新しく寺を建てることは到底認められなかったので、川部村の正明寺(現在は宇佐市川部地区に在所)をご本山に差し上げ、四日市に移転して創立し、後に本堂を改築するとの計画で、延亨3(1746)年に「本願寺兼帯所豊前四日市正明寺」が為り、ここに西別院が発足した。(HPより参照)
本派本願寺四日市別院 
 法鏡寺北の信号で10号線と合流し、駅館川に架かる赤く塗られた瀬社橋を渡る。宇佐神宮が近くなったことを感じる。この川の渡し場はこの橋の少し北側にあったようだが、今では遺構は何も残っていない。旧道はハイパーモールメルクス宇佐の中を横切る形で通っていたようだが、現在では歩くことができないため川を渡ってすぐ、瀬社橋交差点の信号から左折して進み、3本目の三叉路を右折して坂を上ると10号線に出るのでこれを横断して旧道を進む。
 宇佐市御幡の信号で10号線に合流するが、すぐ先の二股で10号線と分かれて左斜めへ進む。
宇佐市御幡分岐 
 14時52分、右手に「化粧井戸」がある。吉富町にある古表神社と中津市にある古要神社に御神体として傀儡子(人形)があるが、隼人征伐の際、隼人等はこの人形に見とれている間に討たれたという神話が残っており、隼人の慰霊の為に宇佐宮では放生会を行い、会に参加するこの人形の化粧をするための井戸といわれている。
化粧井戸 
 左手少し坂を上ったところに「凶首塚古墳」がある。養老4年(720)に朝廷が大隅、日向の隼人を討伐した際、宇佐八幡の神軍も参加し、隼人の頭(首)を持ち帰ってこの塚に葬ったと伝えられているが、この古墳は6世紀末頃の横穴式石室で伝説の時代とはずれていると説明されている。
凶首塚古墳 
 その先左手に「百体社」がある。ここには隼人の霊を慰めるため、宇佐宮では放生会が始められたが、百体社にはその霊が祀られているということだ。
百体社 
 10号線を横断して進むと、正面に宇佐神宮の赤い鳥居が見えてきた。「呉橋」が寄藻川に架けられている。ここは宇佐神宮の西参道の入り口にあたるが、昭和初期まではこの通りが表参道だったそうだ。この橋の創建年代は不詳だが、昔、中国の「呉」の人が架けたと伝えられている。この様式は先ほど立ち寄った大貞八幡(薦神社)の境内にもあったが、全国的には少ないということだ。
元和8年(1622)細川忠利公が修築したものが現存するが、明治9年、昭和12年と修理が加えられ、昭和26年頃に現在のコンクリート橋になったと説明されている。
呉橋 
 時刻は15時12分、日没まで3時間弱だ。宇佐神宮は以前にも来たことがあり、また境内は広いので、今回は立ち寄らないことにした。結果としてこの行動は大正解で、ここで立ち寄っていれば、今日の予定の場所まで行き着くことはできなかっただろう。
 宇佐神宮から先の旧道は宇佐観光協会の小倉さんに詳細をお聞きしたので、それに従って歩いた。
 寄藻川に沿って進んでいき、突き当りを左折、10号線を横断して進むと左手に「大楽寺」がある。ここは元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅願寺、宇佐神宮大宮司到津家の菩提寺として建立され、国指定重要文化財の本尊弥勒仏三尊像や四天王像をはじめとする多くの文化財が伝えられている。ここの鐘楼堂は元禄年間の建立で、梵鐘は南北朝時代の永徳2年(1382)に鋳造されたもので、和製で現存のものでは大分県最古とされている。
大楽寺 
 この先で旧道は右折するのだが、そのまま直進すると「円通寺」があるので行ってみる。ここは寛元元年(1243)に神子栄尊を開山、大宮司宇佐公仲を開基として創建されたところで、栄尊は宇佐宮弥勒寺金堂の復興にも尽力したという。
円通寺 
 宇佐高校へ向かう道を横断して進むと、前方に墓地がある。地図に墓地は記載されていないので、墓地の中をそのまま進んでいったが、行き止まりだ。下を見ると10号線が走っている。10号線に併行する形で旧道が残っているようだが、分からない。横を見ると階段がついているので、とりあえずそれを降りて10号線に出た。でも地図とは違うので、そのまま10号線を歩き、その先で旧道と10号線が合流するところまで行って見た。
宇佐高校前旧道入口 ここから旧道が出ているので、逆にその道を辿ってみると、細い草道が続いており、やがて先ほどの墓地の入口にでた。なるほど、これが旧道だったのかと納得して、今来た道を引き返す。
 旧道を伝って10号線に合流する。本来の旧道はまだ先まで続いていたようだが、道が失われているため、10号線を歩く。
大分農林水産研究センター その先左手に「大分農林水産研究センター」「大分県宇佐家畜保健衛生所」の看板が立っているところの少し先に、右斜めに下っていく農道があり、これを進んでいく。先ほど失われた旧道はここに繋がっていたようだ。
 16時8分、左手に「橋津神社」がある。「橋津神社」は延文2年(1357)にしゅうず邑(ムラ)の産土神として勧請され、明治に入って近郷に散在していたお社や石祠を合祀、大正3年に社号を橋津神社と改称して現在に到っていると説明されている。境内には嘉永元年(1848)、天明6年(1786)と刻まれた献灯や貞享2年(1685)と刻まれた鳥居が立っていた。
橋津神社 
 その先、十字路を直進し、最初の角を左折、細いクネクネとした道を進んで行き、寄藻川に架かる寄藻橋を渡って左折、道なりに進み、宇佐市岩崎の信号で10号線を横断、向野川に架かる玄川橋を渡り、JR日豊本線のガード下を通ってすぐに右折、その先の二股に分かれているところを左へ進む。ここで道が分からず、少し迷ったが、小川に沿って細いあぜ道のようなものを発見、ただ草がビッシリ密生していて、この時期ここに分け入るにはちょっと無理と判断、一旦少し戻って舗装されている直線道路を進み、その先で左折、先ほどの小川伝いに延びている旧道に合流して進む。右手に宇佐駅が見える。
 山沿いの道を歩いていると、左手に「江熊城址」の説明板が立っていた。それによると江熊氏は江熊村に居住していた郷士で、今から800年前平安時代より豊臣秀吉の一国一城主義の犠牲になって滅亡するまでの400年あまりの間、この地で繁栄したという。江熊城址の確かな場所は分かっていないという。
 江熊公民館のところで右折すぐ先で左折して進むが、その先左手少しはいったところに六柱神社があり、これを見るつもりにしていたのだが、時刻は17時10分を過ぎており、次第に暮色が濃くなってきているので、先を急ぐ気持ちが強く、つい見落としてしまった。
 向野川に架かる江熊橋を渡ると、すぐ先の一段低くなっているところに石像が二つあり、その横に「殿様通り」の案内板が立っている。それによると江熊橋下の馬頭観音から恵美須巨石までの100mの間に宿屋、人力車屋、鍛冶屋、雑貨屋、飲食店等13軒ばかりが道の両側に並び、往来する人馬も多く、宿場街道として繁栄していたという。立石から豊後高田港に通じる唯一つの道で、立石藩の殿様もよく通られたので殿様通りと呼んでいたという。
殿様通り 
 川沿いの道を進んでいくと、左手に「御馬下神社」が見えたので、旧道を外れて行って見た。元禄16年(1703)と刻まれた鳥居が立っていたが、ここに「従是島原領西屋敷村」と刻まれた石標があり、国界標があると資料に書かれていたが、境内には大きな石や石標が数多くあり、よく分からなかった。
御馬下神社 
 時刻は17時40分だ。周囲は次第に薄暗くなってきている。つるべ落としの秋の夕暮れ、先を急ぐ。旧道に戻って一旦10号線に合流、その先で二股に分かれているところで右斜めに進むが、その先で再び10号線に合流する。
最後の二股 
 暫く10号線を歩いていくと、右手に「地蔵峠入口」の標識が立っている。10月18日に杵築市観光協会山香観光案内所が主催する「ザビエルの道ウォーキング」があり、ここから出発するのだ。山の中を通る道のようで、地図では分からないため、私もこれに参加をさせていただく予定にしている。従って今日ここまで歩いていると、きれいに繋がるので、何とかここまで歩いておきたいと思っていたので、大成功だ。時刻は17時59分。もう周囲はかなり暗くなっているがそれでもなんとかかすかに残照が残っているうちに到着することができた。
地蔵峠入口 
 17時59分、地蔵峠入口に到着。
中津島田口から10時間24分、39.9km、61157歩。

 ここから西屋敷の駅まで戻ったが、もう周囲は真っ暗。ただ駅までは一本道なので気が楽だ。18時19分に駅に着くが、ここは無人駅、次の電車は19時までない。幸いベンチがあり、人は誰もいないので汗で濡れたシャツを着替えて電車を待つ。
本格的に歩いたのは4ヶ月ぶりだったのでさすがにくたびれた。

本日の歩行時間 10時間44分。
本日の歩数&距離 63320歩、41.3km。
 

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん