日向街道〈豊前道)を歩く

2009年10月12日(月) ~2009年10月28日(水)
総歩数:153382歩 総距離:99.3km

2009年10月28日(水)

豊後豊岡~亀川~別府~大分

                                    晴れ

 前回「ザビエルの道ウォーク」でご一緒させていただいた別府市史談会の副会長をされている恒松さんから詳細な資料が届いたので、早速今日はそれに従って歩くことにする。
 8時15分に豊後豊岡駅に着き、歩き始める。前回の「ザビエルの道ウォーク」では途中から豊前道から外れて日出町中央公民館へ行ったため、その分岐点からこの駅までの間は連続していない。そのため少しだけ元に戻って確認をする。この道は一本道なので連続していなくても分かりやすいと思う。
 三川に架かる三川橋、住吉川に架かる住吉橋を渡ると右手に「覚正寺」がある。ここは弘安8年(1285)に創建されたと伝えられており、本尊の阿弥陀如来は南北朝の作という。伝えによると日出藩木下公が鹿鳴越道で休憩を取っていたところ、眼前を覚正寺の御院家が馬に乗って通ったため、公の怒りに触れ、日出領内の全檀家を召し上げになったといわれているそうだ。
覚正寺 
 その先、右手に「住吉神社」がある。鳥居には文化2年(1805)と刻まれており、献灯は安政6年(1859)となっている。
住吉神社  
 その裏に「天満宮」があり、ここの鳥居には嘉永5年(1852)と刻まれていた。この二つは同じ境内にあった。
天満宮 
 右手に「境地蔵」があり、古い手水鉢が横に置かれている。境地蔵 
 そのすぐ先、豊岡トンネルの横に「観音堂」があり、その横に資料によると寛保元年(1741)のものとなっている手水鉢があった。 
観音堂 
 信号で車道を横断して直進すると、右手に「脇蘭室の碑」が立っている。脇蘭室は江戸時代後期の儒者で教育者だったので、数多くの藩士の子弟の教育にあたったと説明されている。
脇蘭室
 この碑を右に見ながら左折、江上川に架かる小浦橋を渡って左折、すぐ先右折し突き当たりを右折して進むと二股に分かれているので、これを左へ行き、次の十字路を左折、山の中へ入っていく坂道を上って行く。このあたりは日豊本線のトンネルの上になるのだが、大分県歴史の道調査報告書ではこのトンネルの上まで行かずに、直線で道が描かれていた。そのため注意をしながら歩いてみたが、よく分からなかった。恒松さんの資料に従って舗装された道を進んでいく。
 二股に分かれているところを左へ進み、その先右手に「速見灘萬平墓」明治16年と刻まれた墓があり、ここで二股に分かれているので、右へ直進する。
速見灘萬平墓 
 左手に別府湾が広がっているが、今日は好天にもかかわらず霞んでいる。
 水月寺の看板が立っているところから道は右にカーブをしながら上っている。
 右手に「海門寺」がある。文化元年(1804)の置鐘と文政7年(1824)の涅槃像掛軸があるという。
海門寺 
 道に沿って「豊前街道」という小さい看板が立っている。このあたりの方が立てたのだろうが、豊前街道では珍しいことだ。また、その横に「まむしがいます」と書かれた看板も並んで立っていた。この先にもまむしに注意と書かれた立て札が何本もあったので、このあたりはまむしが多いのだろう。あまりいい気はしない。 
 右手に「八坂神社」がある。ここには享保元年(1716)と貞享2年(1685)の鳥居が立っており、享保18年(1733)の常夜燈も立っていた。
八坂神社 
 その先、二股を直進すると前方に水のない池がある。水を抜いてしまったのだろうか?それとも干上がったのだろうか?よくわからない。
 その先で道路に突き当たる。「別府一周遊歩道ルート」「小坂より2km 浜脇より24km」と書かれた案内板が立っている。
別府一周遊歩道 
 ここで左折し、しばらく進んだが、どうもおかしいと思って地図を見直してみると、ここは右折しなければならないところだった。
 元に戻って進むと、前方に「別府工業」という会社があり、突き当りを左折、すぐ先を折り返すように右折して坂を上り、「別府工業」を右手に見ながら進んでいく。
別府工業 
 信号があるので、これを左折、山を下っていく。大所橋冷川に架かる大所橋を渡って進むが、左手に深い谷があり、道はその谷の周囲をグルッと回るようにして続いている。現在でこそ、海岸線を10号線が通っているが、昔はこの道のように谷の周囲を回って歩いていたのだろう。随分遠回りになる。
 山を下っていくと「スパランド豊海入口」という大分交通のバス停があり、そのすぐ先を左折、墓地があるので、これを左に見ながら、墓地の周りを回る形で進む。このあたりは造成された住宅街で、旧道は失われており、造成地の中を左折、右折を繰り返しながら進む。
 坂を下ると車道に出るので、これを左折するのだが、右手に「西念寺」がある。ここは文亀元年(1501)に開基された古いお寺ということだ。
西念寺 
 直進してJR日豊本線の古市ずい道口踏切を渡ると二股になっているので、ここを右折、645号線に合流する。
 すぐ先の信号から細い道に入り、その先で645号線の一本西側の道に合流する。この合流するまでの間の道はちょっと違っていたかな?と思うが、ただ、645号線に併行して通る道は旧道で間違いないようだ。
 JR日豊本線の本町踏切を渡って進むと、左手に「白亀塚」がある。承和15年(847)関の江海岸の近くにある「寒(冷)川で白亀が捕獲され、これを仁明天皇に献上した。この白亀は吉祥の亀であるので、嘉祥と改元せよとの勅命があった、という記述が続日本後記にあり、この一件から亀の甲が転化して亀川になったといわれていると説明されている。
白亀塚 
 右手に「亀川筋湯温泉」がある。「温泉が湯口から白く濁って出てくるのは、薬師様が入ったためであるので、その後で入ると病気がよくなる」と伝えられ、リューマチや神経痛の治療に浴利用されている。杖をついて入湯に来た人が、数日間湯治をして杖を置いて帰ったという話をよく聞く、心つくしのお賽銭で入浴できます」と説明されている。
亀川筋湯温泉 
 中から人声が聞こえていたので、誰か入浴していたのだろう。温泉に入りたかったが、先を急ぐ。
 右手に「西光寺」がある。ここの輪蔵の芯柱には宝暦6年(1756)の銘文があり、別府市指定有形文化財となっている。
また嘉永元年(1848)の常夜燈が立っている。
西光寺 
 右手に観音寺がある。
 平田橋を渡って進むと二股に分かれているので、右斜めへ進む。
 左手に上人小学校があり、その先、左手少しはいったところに「鬼の岩屋」古墳がある。これは6世紀末〈飛鳥時代)の古墳で、墳丘の直径は約30m、高さ約6mの円墳で、横穴式石室を持つ県下屈指の巨石古墳と説明されている。
鬼の岩屋 
 その先左手に別府大学があり、それに沿って進んで行ったが、このあたりの道は分かりにくく、どこかで右折し、その先で春木川を渡らなければならない。ある角で右折してみたが、行き止まりになっていてそれ以上進めなかったので、元の道に戻って進んでいくと春木橋までいってしまった。仕方がないので、橋を渡って右折、九州横断道路まで出て、これを横断して進む。
 九州横断道路を横断したすぐ先に右斜めへ伸びる旧道があるので、これを進む。結局このあたりの旧道はよくわからなかった。
 左手に「実相寺天神畑古墳」がある。この古墳はここから100mほど東にある畑地で発掘されたものを移築、復元したもので、古墳の主体は巨石を組み合わせた横穴式石室で、古墳時代後期後半の6世紀後半から末に築造されたものという。竪穴式住居二棟も横に復元されていた。また石棺の蓋もおかれていた。実相寺天神畑古墳 
 左手に「吉弘神社」がある。
 慶長5年〈1600年)豊後の関が原ともいわれる石垣原合戦において、西軍石田三成に味方して挙兵した大友義統の家臣吉弘統幸を祀る神社だ。
 統幸は東軍徳川家康方につくべしと主君を再三諌めたが聞き入れられず、黒田如水の東軍とやむなく戦い、戦場の露と消えた。その統幸を近くの臨済宗太平山宝泉寺の住職が村人と相謀り、石碑をたてて手厚く葬った。その印に一株の松を墓の側に植え、位牌を寺に安置して、その菩提を弔っている。大正11年(1922年)、地域の人々の手により、墓所の前に一間社流造の本殿と入母屋造裳階付の拝殿をつくり、吉弘神社と名付けたという。
吉弘神社 
 境川に架かる天満橋を渡って進むと、左手に「萬松寺」がある。歴史を感じさせる楼門があったが、特に説明はされていなかった。
萬松寺 
 そのすぐ先で左斜めへ伸びる旧道を進み、突き当りを左折する。
 その先で今度は右斜めに伸びる旧道を進み、道なりに進んで、JR日豊本線のガード下を通って645号線に合流する。
 13時33分、右手に別府駅を見ながら進む。
 そのすぐ先、右手に「西法寺」がある。開基は釈了意で、永正4年(1507)に本山から阿弥陀仏絵像を請けて、豊前街道の傍らに草庵を結び、慶長16年(1611)、釈宗圓が本山から阿弥陀仏如来木像と西法寺の寺号を請けたが、第5世宗雲の時に火災に遭い記録が全て失われたという。本堂と鐘堂は宝暦年間(1751~63)に再建されたもので、市街地では最も古く、山門前の縦道沿いは江戸時代からの門前町という。ここは別府本陣の跡でもある。
西法寺 
 13時36分にここを通る。豊後豊岡から5時間21分、29823歩。
 流川4丁目の信号の脇に「伊能忠敬測量史蹟」碑が立っている。往時ここに高札場があり、文化7年(1810)伊能忠敬がやってきて測量を行い、ここに江戸日本橋より263里(1052km)という国道元票を建てたと刻まれている。
伊能忠敬測量史蹟 
 右に「別府秋葉神社」がある。享保10年(1725)に遠江国秋葉山本宮秋葉神社から勧請したという。境内正面入口南側の手水鉢は享保17年(1732)に南石垣村の矢田氏から寄進されたもので、境内最古のものという。
別府秋葉神社 
 その先、永石温泉から旧道は左斜めへ伸びているので、これを歩いていくと、右手に南小学校の校舎が立っている。ところが手持ちの地図を見ると、南小学校はもう一つ東側に描かれているので、道を間違ったと思い、引き返してみた。しかしどう見ても道は間違っていない。仕方がないのでもう一度同じ道を進んでいくと朝見川に架かる朝見橋に出た。これは間違っていない。よく見ると小学校の校舎は古く、生徒の姿が全くない。どうやら校舎が建て替わっていて、古い校舎だけがそのまま残っているようだった。時計を見るともう14時だ。今日はこの後、銭瓶峠を越えて大分まで行かなければならないのだ。少しのロスもしたくないのでかなり焦る。
 左手に「浜脇秋葉神社」が立っている。慶長9年(1604)現在の浜脇中学校正門前に建立されたが、明治45年に日豊線敷設で移転、更に平成16年に道路工事のため再度現在地に移転したと説明されている。従ってまだ新しい社殿である。
浜脇秋葉神社 
 東別府の信号から右折、「山家區近道」という石柱が立っている横を通ってJR日豊本線のガード下を通って進む。
山家區近道 
 ガード下を抜けると左折、小川に沿って進み、その先の突き当たりを左折、すぐ先で右折、かなりの急坂を上って行く。上ると車道になっているので、ここを左へ進む。このあたり、わかりにくくお二人の方に道を聞いて、教えていただく。お二人とも私の格好をみて、どこに行くのか、何をしているのかと聞いてこられたので、豊前街道を歩いていて、今日はこれから銭瓶峠を越えて大分までいくつもりだと答えると、そりゃ大変だ、山の日暮れは早いから気をつけて、と言われてしまった。私も初めて通る道なので、どのくらい時間がかかるのかがわからない。とにかく頑張って歩くのみだ!
 「赤松入口」と赤字で書かれた看板が立っている横を通り過ぎていくと、杉の並木がある。静かで気持ちがいい。
杉の並木 
 右手に「観音寺」への案内板があり、その横に石仏が何体か置かれているが、立ち寄るには時間的に厳しいのでそのまま進む。
観音寺石仏 
 右手に池がある。このあたりに集落があり、赤松という場所のようだ。 
 その先に「赤松の岩穴地蔵群」があり、道路沿いに崖をくりぬいて二十体の地蔵群が安置されている。この道は大分と別府を結ぶ主要な道路だったので、旅の無事を願ったのだろうという説明がなされていた。
赤松の岩穴地蔵群 
 坂を上りきったところが銭瓶峠で15時6分に到着する。約1時間坂を上ってきたのでホッとする。これまで車も全く通らなかったが、ここで51号線に合流するため、車が通っている。
  銭瓶峠峠は海抜335m。別府、湯布院、大分、挟間へと通じる十字路で、重要な道路だった。別府~大分間は高崎山を回って海側を通る道とこの峠を通る山側の道という二つの道があった。海側の道は近道だったが、海の荒れる日は通ることができなかったため、遠回りにはなるが、安全な山道が本道だったということだ。この道はサル山で有名な高崎山の裏を通ることになる。銭瓶の名前の由来ははっきりしたことはわからないが、昔、泥棒が盗んだ銭を瓶に入れて隠したという言い伝えがあり、峠の名もこれに由来するという人もいると説明されている。
 「銭瓶石」がある。角閃安山岩〈通称高崎石)と言われるこの石は鉄などで叩くとカンカンと響音がするが、これはこの石の形状と置き方によるもののようだ。全国的に「かんかん石」と呼ばれる石は普通、讃岐石(サヌカイト)という石でたたくと金属的な澄んだよい音色がするが、この石は質が違うのでそれほど響かない。この石はいつ頃から置かれていたのか不明だが、何百年も前から置かれていて国境石に使用されていたそうで、江戸時代の宝暦11年(1762)幕府の巡礼使がこの峠を通るというので銭瓶石から別府赤松までの道路の掃除をすることになり、府内藩〈大分)の農民と赤松村〈幕府領)の農民が境界争いで大喧嘩をしたので、府内藩ではこれを「銭瓶石騒動」と呼んでいたと説明されている。
銭瓶石 
 ここには「北 別府道」「西 ゆふいんみち」「南 どうしり道」「東 府内道」と刻まれた道標が立っている。
銭瓶道標 
 十字路を左折してしばらく51号線を歩いて行くと道は二股に分かれており、左斜めへ進む坂道を上って行く。
銭瓶分岐 
 ここから再び車の通らない山道を進む。ただ道は舗装されているので歩きやすい。途中、看板が立っており、「無断立ち入りおことわり 特に猿」と書かれた立て札が立っていた。面白い。無断立ち入り 
 左手に「清心寺」の看板が立っている。これも貴重な目印で、ここまでは道を間違っていないことを確認できた。
清心寺 
 更にその先、右手に椅子張屋があると地図に出ており、これもあった。今は営業していないような感じだった。
山の中で誰にも会わないので、こういった目印は実に貴重なのだ。
 木々の切れ目から前方に大分の町が見え始めてきた。もう少しだ。なんとか暗くなる前に山を抜け出したいと思い、先を急ぐ。木々の切れ目 
 その先でT字路になっているところがある。
t分岐迷い道 
 ここは左折しなければいけないのだが、右折してしまった。この先に同様に二股に分かれていることがあり、そこは右へ行かなければならないのだが、その場所と一つ手前の分岐点であるこの場所を地図を読み違えて間違ってしまったのだ。従ってここから先の道は間違っており、詳細を書くことは省略させていただきますが、一応地図上には今回間違って歩いた道と本来の旧道の両方を記載していますので、そちらを参照ください。
 間違った道を歩いていくと、ようやく集落があり、そこにおじいさんがおられたので、「柞原八幡宮」の場所をお聞きすると、すぐ上だと言われる。おかしい、旧道を歩いていれば道の右側、下側に神社はあるはずだ。ここで初めて道を間違ったことに気がついた。そこでとりあえず神社へ行く道をお聞きすると、先ほど通ったところにあった神社の駐車場から左折して上っていけばいいと教えていただいたので、そのとおりに道を戻っていくと、神社があった。
 柞原八幡宮は豊後国一宮、旧国幣小社である。天長4年(827)に宇佐神宮から御分霊を勧請し、承和3年(836)国司により社殿を造営、爾来皇室も暑く尊崇された。
柞原八幡本殿 本殿は安政年間に再建された壮麗な八幡造りで、参道途中に建つ南大門は「日暮門」と称し、壁面には二十四孝等の彫刻が施され、門の横には樹齢三千年の天然記念物の大楠が聳えている。宝物殿には太刀、甲冑等重文六点が所蔵されている立派な神社だ。
柞原八幡 
 時刻は既に16時半を回っており、刻々と暮色が濃くなってきている。とにかく暗くなる前に山を抜け出さなければ。丁度神主さんがおられたので、旧道への道を教えていただき、神社の境内を通って歩いてきた道とは違う参道を進んで、神社の第2駐車場のところに出た。
 見ると左手から道が合流しており、これが旧道のようだ。
柞原八幡旧道 
 ここから戻ってどこで道を間違ったか確認したかったが、時間的にそんな余裕はないので、一応写真に撮って先を急ぐ。ただ、一応旧道の場所を記述しておこうと思い、間違った箇所まで戻って旧道を地図上に二重線を引いておきました。参考にしていただければ幸いです。
 左手にゴルフ場があり、その先で二股に分かれているところを直進していくと、鳥居があり、その先に海が見えた。このあたりに来ると人家が建っており、ようやく山を抜けたのだとちょっとホッとする。
鳥居海 
 その先で急坂を下る。かなりの急勾配だ。今日は山を登って、下ってというアップダウンの激しい道を歩いてきたので、この坂はさすがに堪えた。696号線で合流、左折して祓川沿いに進み、JR日豊本線のガード下を通り、左折して祓川に架かる御幸橋を渡って進む。
 すぐ左手に「火王神社」がある。ここは柞原八幡の放生会の際のお旅所となるところで、文久2年(1862)の鳥居が立っている。
火王神社 
 右手に西大分駅を見ながら進み、その先、二つ目の三叉路を左折、10号線に出て右折、10号線に沿って進む。
 東生石の信号で10号線と分岐し、左斜めへ進んでいくと、左手に「王子神社」がある。ここには寛政8年(1796)に建立された鋳造金鳥居が立っており、大分市の有形文化財になっている。時刻は17時43分、周囲はすっかり暗くなっている。
王子神社 
 その先左手に「春日神社」がある。ここは貞観2年(860)豊後国司となった藤原世数により、奈良春日神社を勧請して創建されたといわれており、鎌倉時代の建久7年(1197)豊後の地頭となった大友能直によって再興された。その後天正12年(1584)島津軍の入府の際と昭和20年の米軍の空襲で焼失。昭和42年に再建されたという由緒ある神社なのだが、もう暗くて写真を撮ってもうまく写っていなかった。
 この神社の前から道が二股に分かれており、最初間違って右斜めの道を歩き始めたが、間違いに気づいて元に戻って進む。
 その先、突き当たりに「住吉神社」がある。ここは天文元年(1533)大友義鑑が宮殿を造営したことに始まり、その後何度も火災によって焼失、再興を繰り返し、延宝4年(1673)に現在地に移転したということだ。
大分住吉神社 
 浜橋を渡って、すぐに左折、川沿いに進んでその先の住吉橋から右折すると、左手に日赤病院がある。この西端が府内城の堀川口門のあったところということなので、ここで豊前街道は終わるということにする。
 18時2分、豊前街道、堀川口門に着く。


 日向街道(豊前道)の
 本日の歩行時間   11時間47分。
 本日の歩数&距離 57542歩、37.4km。

 日向街道(豊前道)総合計
 総歩行時間  28時間31分。
 総歩数    153382歩。
 総歩行距離  99.3km。
 豊前道純距離 86.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)



 日赤病院を左手に見ながら直進する。ここからは豊後道とする。
 このあたりは駅に近く、ネオン街だ。右手に大分県総合生協があるところから左斜めへ進み、突き当たりを右折、アーケードの中を通って進むと中央町入口の信号に来る。もう前は大分駅だ。今日はここまでとし、駅近くのホテルに入る。

 日向街道(豊後道)の
 本日の歩行時間  19分。
 本日の歩数&距離 1730歩、1.2km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん