日向街道〈薩摩道)を歩く

2009年11月25日(水) ~2009年11月27日(金)
総歩数:188470歩 総距離:138km

2009年11月26日(木)

都城~曽於市~霧島市隼人

                    晴れ

 7時15分に昨日の10号線にあるコンビニから出発する。今日も霧がでている。都城も霧が多いそうだ。 10号線は通勤時間帯に入っているためか、車が多い。ただ歩道があるので助かる。
 右手に「徳牟礼門直右衛門法難記念碑」がある。島津藩ではキリシタンと共に一向宗の禁制が行われた。一向宗の三番組御講総代だった直右衛門は禁制の間も布教を続けていたが、天保13年(1842)に捕らえられた。拷問を受けたが、仏を守るため、牢の中で役人が居眠りをしている間に脇差を抜き取って自害したという。44歳だったという。
徳牟礼門直右衛門法難記念碑 
 10号線をひたすら歩いていく。周囲はのどかな田園風景が広がっているが、車が多い。
 左手はるか向こうに桜島の噴煙が見える。最近は噴火活動が盛んでよく噴煙を上げているということだ。
桜島の噴煙 
 右手には高千穂の峰が見えている。いい景色だ。
 やがて通山の杉並木がある。樹齢は約100年ということだが、見事な杉の大木が並んでいる。
通山の杉並木 
 その先、右手にガソリンスタンドが二軒並んで立っているが、その間の道を入った所に「福山六地蔵」がある。
 これは明暦元年(1655)に庚申講衆によって建立されたもので、がん部(地蔵を彫る部分)にはそれぞれ六面に六種の地蔵種子を刻出しており、この周辺では珍しい例とされている。ここは最初気づかずに通り過ぎてしまい、途中で気がついて後戻りしてしまった。
福山六地蔵 
 右手に「通山宿場跡」の標柱が立っており、道を挟んだ反対側に 宿場跡の説明板が立っている。
 それによると、末吉通山あたりの現10号線は昔も高岡筋として重要な道路だった。この道路の要所に宿場があり、通山宿場跡には末吉側と財部側が同じ場所に向かい合って設けてあり、交代で郷士が詰め、雑役には百姓が使われたと説明されている。
通山宿場跡 
 10号線を進み、左手に光神小学校がある少し先で10号線から左折して501号線へ入り、階段を上ったところに「山王神社」がある。ここの境内に「光神庚申六地蔵塔」がある。末吉には六地蔵が5基あり、この六地蔵もその一つだが、庚申六地蔵であることが他と異なっており、六地蔵に庚申講が結びついたもので農耕神化である。これは寛文9年(1669)に建立されたものであり、以前は少し離れた田んぼの中にあったが、その後現在地へ移転したということだ。
光神庚申六地蔵塔 
 10号線に戻るとお墓がある。横一列に並んだこの形式はこのあたりでよく見かけるものだが、他所ではあまり見かけない形式だ。どのお墓にも花が生けられており、熱心に供養されている様子が窺われる。
るとお墓がある 
 その先、右手に民家があるところから右折していくと、
右手に民家 
「棚木の六地蔵塔」がある。これは享保10年(1726)に末次氏一族と湯浅氏一族によって供養塔として建立されたものだ。 六面には六道(地獄、餓鬼、畜生、人界、天界、修羅)の各界を示した一体の地蔵像と他は梵字が刻まれており、この表現は都城盆地では珍しいとされている。ここは通称「マムシの神様」といわれているそうだ。
マムシの神様 
 財部町から霧島市へ入るところで右折、すぐ先を左折して進むと、「羽山神社」がある。ここは享保17年(1732)の創建で、境内には樹齢250年余りと推定される大きな杉が神木として二本立っている。以前は4本立っていたそうだが、台風の被害で現在では2本になっているそうだ。イチョウの葉で境内は金色のじゅうたんを敷き詰めたようだ。
羽山神社 
 羽山神社を右に見ながら進んでいくと「旧日州街道」の標識が立っている。
旧日州街道 
 日州街道とは昔から鹿児島を起点とし、加治木、福山、都城を経て宮崎の高岡に通じる薩摩藩の軍事、経済上の幹線道路だったところで、今回私が日向街道として歩いてるこの道のことだ。ここから先、道はすぐに草道になる。
 最初のうちはきれいな道が続いていたのだが、段々草が生い茂ってきた。掘割になっているので道と分かるが、日ごろ誰も通っていない道のようで大分荒れている。
掘割 
 雨が降ったときはここが水路になるようで、地面は湿っている。藪を掻き分けながら進んでいくと、右手に道がある。ただ、地図を見る限り道は直進しているので、そのまま進んでいくとその先で竹やぶに入り込んだ。孟宗竹がビッシリ生えており、その隙間を縫い、倒れている竹の下をくぐって進むが、背中のカバンが邪魔になって中々歩くことができない。それでも進んでいくと下に畑が見えた。
 ところが高い崖になっていてとても下りることができない。
高い崖 
 暫く竹林の中をウロウロして下る道を探したが見つからないので、先ほどの右折した道のところまで戻って坂を下るとようやく舗装された道に出ることができた。
 道には出ることができたが、自分がどこに出たのか地図を見ても分からない。これは困ったと思っていると、横に家があり、そこに人がおられたので、地図を見せながら、「今ここはどこになるのですか?」と聞いた。話をしているうちに前川内という地名が出てきて、それが地図に記されているので、ようやく場所を特定することができた。当初考えていた場所から少しだけ右側にでていただけだった。
 ここから左折して進むが左手は切り立った崖だ。これでは下ることができないはずだ。
切り立った崖 
 その先で道は二股に分かれており、これを右折して進むと小さな川が流れており、それを渡って進む。暫く舗装された坂道を上って行くとやがて二股に分かれているところに来る。
 「この道路は造林事業の仮設道路で(435mで行き止まりです)交通事故、山火事防止のため、造林事業用以外の車両の通行をお断りします。もしこの道路で事故が発生しても一切責任を負いません」と書かれた看板が立っている。ここから直進するのだが、舗装はここで途切れており、先ほどの藪道と同じような感じがするが、とにかく進むしかないので直進する。
この道路は 
 ここも最初の頃はキャタピラーの跡が残っていて、歩き難い道ではなかったので、そのまま進んでいくと、途中でその跡が左折している。そこには杉の切り株が何本もあったので、切った杉を運び出すときについたキャタピラーの跡だったのだろう。ここから先は道は藪状態だ。
暫く藪コギ 
 暫く藪コギをしながら進んでいくと、杉林に入った。そうすると下草がなくなるので道がはっきり出てきたのでそれに沿って歩いて行った。
 杉林に 
 そのまま進んで行くと10号線に合流したので、これを右折して10号線に沿って進むと左手に「愛宕神社」がある。
 ここは江戸時代に創建されたと推定されており、この場所から250mほど離れた日州街道筋に建立されたが、山林の中で参拝に不便のため、昭和26年に現在地に遷座勧請されたと説明されている。
愛宕神社 
 その先牧之原の市街地に入るところで道は二股に分かれており、ここを左斜めへ進む。角に食事をする店があったので、丁度昼時でもあり、昼食を取る。
 その先で牧ノ原支所があったので、そこに入り、これから歩こうとしている旧道のことに関してどのようになっているのかを聞いた。この場所は事前調査の段階で通ることが出来るかどうかわからなかった場所なのだ。そうすると旧道の入口と出口に道はあるものの、山の中は土砂崩れ等があって、とても歩ける状態ではないということだった。
 そのため入口近くにあるという「肝付清仲の石仏」までは見ようと思って進む。五叉路があり、旧道は左斜めへ進む。
 さほど遠くない場所の左手に「肝付清仲の石仏」はあった。永禄4年(1561)仁田尾城攻防戦のとき、肝付方の従軍僧だった肝付清仲はこの地で戦死したので後日関係者により建立された供養塔である。碑には「一圓 節山永忠禅定門」「元禄4年7月12日」と刻まれているが、建立時期及び建立者は不明ということだ。
肝付清仲の石仏 
 このあたりはまだ住宅街で道はきれいに舗装されているが、ここから先の旧道を歩くことは断念してもとの五叉路に戻り、478号線を歩くことにする。左手は深い山の中ということがよくわかる。旧道は現在どのようになっているのだろうと思いながら歩いていく。478号線は曲がりくねっており、福山へ出るのに思った以上に時間がかかった。
 途中右手に「廻城跡」の標識が出ており、400mとなっていたが、そこは私有地で進入禁止になっていた。廻城は別名仁田尾城のことだ。
 しばらく歩くと右手に「日州街道」の標識が立っており、そこから急な下り坂になっている。478号線のその先左手に「日州街道」の説明板が立っており、そこから左手へ上る坂道がある。旧道はここで478号線を横断しているのだ。
日州街道 
 この坂道が「日州街道」の出口にあたる場所のようで、ここを上ると左手に「島津忠将供養塔」がある。永禄4年(1561)仁田尾城の攻防戦で第15代藩主島津貴久の二弟忠将が戦死したので、天正3年(1575)宮崎佐土原藩主島津以久がこの場所に供養塔を建立したと説明されている。
島津忠将供養塔 
 まだ道は続いていたが、ここで終わって元に戻り、矢印にしたがって旧道の急な坂を下っていく。一旦478号線に合流するが、すぐ先で旧道が続いているのでこれを下っていく。
 前方に錦江湾が広がっている。少し霞んでいるがいい眺めだ。
錦江湾 
 坂を下ったところ右側に「宮浦宮」がある。ここは延喜式神名帳に登載された式台社で、宝暦3年(1753)には正一位となっている。社殿は文化元年(1804)に島津藩主によって造営されたということだ。境内には神武天皇御東征前に仮の宮であったことを記念して植えられたと伝えられている樹齢1000年とも600年ともいわれる二本の大きなイチョウが立っており、県指定天然記念物に指定されている。右の木には寛政3年(1791)の大火による傷跡があり、左の木には明治10年の西南戦争で官軍から受けた砲弾の痕がある。二本の木が大きすぎて写真に入りきらなかった。
宮浦宮 
 その後220号線に出て歩き始めたが、その一つ山側に旧道があることに気がついてそちらの道を歩く。時刻はもう14時40分を過ぎている。今日は隼人泊まりで余裕があると思っていたのだが、意外に時間がかかっている。
 右手に旧福山小学校跡があり、そこに「大安寺」跡があるので行ってみた。大安寺は初め高山邑〈高山町)にあったが、第二世包山樹心和尚が福山の大廻に移した。開山の墓碑に天文元年(1532)とある。永禄4年(1561)の仁田尾城の島津氏と肝付氏との攻防戦で島津忠将が戦死、その後今の地に寺を移し、忠将の位牌を安置したという。
 五輪塔がある。これは藩政時代の福山地頭「種子島十左衛門」の供養塔と思われるそうだ。種子島十左衛門は正徳4年(1714)から享保11年(1726)の間、十二代福山地頭として在任したが、種子島家内騒動に巻き込まれ国老職を辞し、親交のあった福山の平原家を頼ったという。平原家は十左衛門を匿い、代々位牌と供養塔を守り続けてきたという。
五輪塔 
 大安寺跡は更に上にあるようなので、狭い階段を上っていっていると、何と目の前にマムシがいた!!!。
 この時期もうマムシはいないだろうと思って全く注意を払っていなかったので、これにはびっくりした。よくみると尻尾を震わせている。これは相手を威嚇しているのだ。さすがに気持ちが悪かったので、それ以上進むことをやめて引き返した。
マムシ 
 街道に戻って進むと、右手に福山総合支所があり、その奥に「不動寺跡」がある。不動寺は開基年月は不明だが、儒学者桂庵の島陰集によると文明10年(1478)にこの地を訪れ、不動時に一泊したという記録が残っているそうだ。現在は廃寺になっているということだが、行ってみると、標柱が立っており、その先は山の中だ。さすがに今、マムシに出会ったばかりなので、これ以上山の中へ入っていく気がしなくて、そこで引き返した。
不動寺跡 
 その先右手に「西念寺」がある。ここには大安寺の山門が移転されたということだが、どれがその門なのかわからなかった。
西念寺 
 一旦220号線に合流した後、右手に駐在所があるところから旧道が伸びているのでこれを進む。 
 右手に「旧田中家別邸」がある。これは田中省三氏(1858~1925)が郷里の福山に建てた別荘ということだ。田中氏は西南戦争の際、薩軍に従軍して転戦、その後関西実業界の重鎮となり、衆議院議員になった人とのことだ。別邸は昭和28年に福山町が購入している。
旧田中家別邸 
 その先で220号線に合流し、亀割峠を越える。ここは旧街道は道幅2mほどの急峻な坂道であったということだ。昔荷物は専ら駄馬によって運搬されていたが、荷鞍の装着をよほど完全にしないと途中荷崩れをおこすことが多かった。亀の字は瓶と同じ意味で液体を入れる底の深い陶磁器のことだ。特に瓶は割れやすく、荷崩れを起こして破損したときは大変な損失になるので、昔の人から恐れられた峠として有名になり、この名前が付いたと思われるということだ。
亀割峠 
 その先で左折する道があり、この坂を下ると脇元の集落がある。集落を通り過ぎると再び220号線に合流するのでこれを進む。
 高橋川に架かる高橋橋を渡って進むと、左手に駐在所があり、その先から左折すると「剱神社」がある。
 ここは古くは北東約500mの剣岩というところにあったといわれるが、延宝元年(1673)今の地に遷宮され敷根郷の崇社として崇敬されている。
剱神社 
 220号線に戻って検校橋を渡り、東九州自動車道の高架下を通って進む。このあたりはインターチェンジができたことで旧道が失われているようで、10号線を進む。水戸川に架かる水戸橋を渡り、最初の信号の先、右手の家の塀に「石敢當」が埋め込まれている。
家の塀に「石敢當 
 10号線を歩いていくと、左手一段下にある道に沿って石仏が三体並んでいるが、縁起は何もなかったのでどういう石仏なのかはわからなかった。
石仏が三体 
 右手に「大穴持神社」がある。ここは宝亀9年(778)に創建されたもので、光仁天皇の時、奥州津軽山に鎮座されていたが、その後勅命を以って神造島〈今の小島)に遷座したが、島くずれのため、現在の場所に移されたと伝えられている。「医療の神」としてまた「まむしよけの神」として崇められているという。
大穴持神社 
 天隆川に架かる新川橋を渡っている時に丁度太陽が山の向こうに沈むときだった。17時3分だ。
天隆川に 
 この先、隼人港入口の信号から街道を分かれて、今日の宿がある隼人駅近くのホテルへ向かう。17時16分だ。
 その先、左手に熊野神社がある。大分薄暗くなってきているので一応写真を撮ったが、翌朝明るい時に再度写真を撮った。
 ホテルまでそれほど離れていないと思っていたが、意外に時間がかかり、17時50分に到着する。周囲は既に真っ暗になっていた。

 本日の歩行時間   10時間35分。
 本日の歩数&距離  57628歩、42.8km。  

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん