日向街道〈薩摩道)を歩く

2009年11月25日(水) ~2009年11月27日(金)
総歩数:188470歩 総距離:138km

2009年11月27日(金)

隼人~加治木~白銀峠~鹿児島

                     晴れ

 ホテルの近くに「隼人塚」があったので、立ち寄ってみた。これは熊襲の祟りを鎮めるために和銅元年(708)に作ったという説と養老7年(720)の隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説があるそうだが、江戸時代の地誌記録「三国名勝図会」によると「隼人塚」は現在の史跡隼人塚より約4キロメートル北東の国分重久付近にあるとされており、また塚から「旧正国寺蔵石仏」(隼人塚史跡館所蔵、)と同じ康治元年(1142)の銘を持つ石仏が出てきたことから、現在の史跡隼人塚は平安時代後期に正国寺(廃寺)の前身寺院として作られたという説が有力になっているということだ。
隼人塚 
 熊野神社にもう一度立ち寄って写真を撮りなおす。ここは文禄4年(1595)島津義久公の御勧請によって社頭を建立、その後寛永年中(1,624~1644)に再興、さらに寛文年間(1661~1673)に類火にて炎上したため再興修復されたという。
地蔵菩薩 鳥居のところに一対の仁王像が立っているが、これは明治38年に用水路を通すため、地面を掘ったところ掘り出されたという。また境内には寛文8年(1668)の地蔵菩薩他数基の石仏が立っている。
仁王像 
 10号線に合流し、7時25分に歩き始める。桜島は今日も活動しているようで噴煙が見える。
 左手に「鑰島(カギシマ)神社」がある。ここは由緒、創建年月は不明だが、高千穂宮(皇居)が欽明天皇5年(544)に初めて顕座、応神天皇以下、竹内宮、隼風宮、鑰島宮など勧請とあり、寛治5年(1091)、鹿児島神宮焼失後、承徳元年(1097)に神宮の鑰をこの神社に納められてから鑰島神社と言うようになったという。平成2年の改築時に梁の部分から文政元年(1818)の墨書銘が発見されたという。鳥居の横には30代横綱西の海の顕彰碑が立っている。
鑰島神社 
 左手に「AZはやと」という大きな商業施設がある先で10号線は左へカーブしているが、そのまま直進し、その先で左へカーブして橋を渡り、10号線に合流する直前で右折して進む。 
 10号線から離れると途端に車が少なくなり、静かになる。そのまま道なりに進んで行き、突き当たったところを左折、すぐ先をもう一度左折すると左手に「弘法大師の井戸」がある。昔、夏の暑い日に一人の坊さんが疲れた様子で野久美田の部落に来て土地の娘に水を求めた。娘はかわいそうに思い、遠くから水を汲んできて坊さんに飲ませると、坊さんは厚く礼をいい「そのように遠くから水を汲むのはさぞ難儀なことだろう」と、持っていた杖を地面に突き刺し引き抜いたところ、そこから水が湧き出しという。この旅僧は弘法大師で気立ての優しい娘に、お礼の印として井戸を作ってくれたのだと言い伝えられているという。伝説の弘法大師云々は別として、街道はここから迂回していることから、相当昔から存在していたと考えられているそうだ。
弘法大師の井戸 
 その先に「中山神社」がある。ここの由緒は不明だが、境内には寛文8年(1668)の石碑等があり、室町時代か戦国時代ごろと考えられる五輪塔の頭部もある。中山神社 
 ここも事前調査の段階でよく分からなかったところだ。神社までは石段、横には舗装された道があるが、その先は山の中へ入って行き、やがて道がなくなってしまった。藪の中を暫く道を探したが分からないので、やむなくもとに戻ると近所の方がおられたので、道が残っていないかお聞きすると、道はないということだった。仕方がないので舗装道に戻り、その先で471号線に合流、隼人道路の下を通って進む。ただ、このガード下を抜けたところの左手に道があったので、この坂を上って行ってみた。事前調査ではこの道に旧道は合流するようになっていたからだ。坂を上ると「西日本高速道路サービス九州」の支店があり、その横を道が通っているので、それに沿って歩いてみた。暫く行くと高速道路に跨道橋が架かっているのが見え、向こう側は中山神社の森のようだ。だがそこに下りる道がない。
地図で見ても、この道は隼人道路の向こう側を通っているようで、こちら側には来ていないようだ。なにかよく分からないまま、仕方がないので引き返した。結局ここも距離としては僅かの区間だったが、旧道は分からないままだった。
 471号線を進んでいくと、左折する道があり、「史跡長浜城跡 入口」の標柱が立っている。ここは大永5年(1525)に樺山信久が築いた山城があったが天正2年(1574)に反島津の肝付氏が降伏したことにより使命は終わったということだ。今は土塁や石垣が一部残っているようだが、草薮の中に埋もれているということだったので、立ち寄らずにそのまま471号線を進んでいった。
史跡長浜城跡 
 その先で再び左折する道があり、この坂道を下る。かなり急な坂道を下ると集落があり、その中を通っていく。
 途中で十字路があり、最初これを直進して10号線に出てしまったところで間違いに気がつき、ここまで戻って右折して進む。右手に小浜小学校を見ながら進み、一旦10号線に合流するが、すぐに右折して旧道を進む。
 突き当たりに「馬頭観音と保食神」がある。由来は分からないが、馬頭観音には嘉永6年(1853)と刻まれており、保食神には明治6年と刻まれている。
馬頭観音と保食神 
 ここから左折して10号線に合流する。
 跨線橋を渡って進むと、右手道路下に能仁寺墓地があり、ここに「加治木島津家墓地」がある。加治木島津家は寛永8年(1631)に18代大守家久の第三子又八郎〈忠朗)が島津義弘の遺名により、その隠居領に1万石を貰って創立した家だ。加治木島津家は一門家の筆頭として本家に次ぐ格式の高い家柄で、ここには初代から11代久賢間での墓があるという。
加治木島津家墓地 
 その先で日木山川に架かる日木山橋を渡って進むと左手に墓地がある。ここに「川畑道仁」の墓があった。道仁は天保7年(1836)に加治木で生まれた鋳物師で、島津忠義の命によって鋳物の製作に従事していたということだ。
川畑道仁 
 網掛川に架かっている網掛橋を渡る手前、左側に「恵比須神祠」がある。これは一石で大きな祠部分を、別の一石で屋根の部分を造り、これを重ねた丈夫な構造で、社殿は屋根の勾配が優美な「流れ造り」である。明治中頃に加治木の石工によって造られたと思われると説明されている。
恵比須神祠 
 橋を渡ったところの左側には「網掛地蔵」がある。これは昔、漁師が網を打つとお地蔵様が入っていたので、川のほとりに安置したという。時代は変わって、島津義弘が加治木で亡くなると、後継者の島津家久は加治木から鹿児島へ移られた。その際、網掛地蔵も鹿児島へ移すことになり、今の天文館の南口に据えられたということで、現在「地蔵角」と呼ばれている付近がその場所だったということだ。確かに私が鹿児島にいた頃、「地蔵角」という場所があったことを思い出した。現在の網掛地蔵は向江町の人々が寛政7年(1795)に新しく作ったということだ。
網掛地蔵 
 東岩原の信号で右折する10号線から分かれて直進、跨線橋を渡り、10号線を横断、別府川に架かる姶良橋を渡って進み、再び10号線に合流する。少しの間10号線を進むが、出口交差点の信号から再び10号線と分かれて、左折して進む。
 帖佐駅前の信号から街道を離れて左折、鹿児島相互信用金庫の横から左折すると「島津忠将の供養塔」が立っている。忠将は永禄4年(1561)の廻城攻めの時に戦死しており、この碑には永禄10年(1567)と刻まれているということだ。現在はあまり管理されていないのだろう、雑草に埋もれていた。
島津忠将の供養塔
 その先にスーパーがあったので、まだ11時だったが、これから先、食事が出来る店があるかどうか分からなかったため昼食にした。この先にコンビニが数軒あったが、飲食店はなかったので、正解だった。
 思川に架かる重富橋を渡り、跨線橋を渡って進む。重富の信号の一つ先の角を右折、JRの線路を横断するが、ここには踏切がなく、「通行危険」の標識が立っていたので、左右を注意しながら線路を渡る。
通行危険 
 10号線のガード下を通ると、右手に「国史跡 大口筋白銀坂」の大きな看板が立っている。いよいよこれから白銀坂へ挑戦だ。ここは姶良町脇元から吉田町牟礼ケ岡までの坂道のことをいい、古代における薩摩国と大隅国の国境だった。戦国時代には島津貴久や島津義弘などの武将がこの坂に陣を構えたといわれており、江戸時代に入ると鹿児島藩の主要街道である「大口筋」上の難所として多くの人に知られていたという。
大口筋白銀坂 
石畳が敷かれた坂道を上り始めるが、標識が立っており登り口から800mのところに展望所があり、頂上まで3kmと書かれている。
 石畳道を黙々と上る。かなりの急坂で、汗が流れ落ちる。ただ道はきれいに整備されており、途中には説明板も立っていて迷うことはない。それにしてもこれだけの石を、この高さまで持ってきて、道を作るには重機のない時代だったので、大変な工事だっただろうと思う。
石畳道 
 展望所があり、ここに「坂の頂上まで2.2km、麓の登山口まで80 0m」の標識が立っており、ここから大隅が一望できる。
大隅が一望 
 途中に水が石畳を横断して流れているところがあり、こんなところにはマムシが多いんだがなぁ、と思っていると、やはり「マムシ注意」の看板が立っていた。
 頂上に上ると「東目筋」「字三里塚」の標柱が立っていた。下札ノ辻から三里のところで、昔は大きな松があったということだが、今はなくなっている。13時23分にここを通る。なんとか暗くなる前に鹿児島に到着できそうだ。
字三里塚 
 ここから左折して道を下っていく。暫く下ると牟礼岡団地があり、ここから関屋谷を通って旧道があるということを聞いていたのだが、団地の前は崖になっていてその入口がわからない。団地の方がおられたのでお聞きしてみたが、分からないということだったので、しかたなく車道を通って下ることにした。右手をみると谷はかなり深い谷になっていて、旧道の場所は全くわからなかった。谷をグルッを回るようにして道は作られており、それを進んでいくと、220号線に合流するので、これを右折して進む。その先左手に横山記念病院があり、ここを左折して進む。
 菖蒲谷というところを通り、一直線に進んでいくと、左手に桜島が大きく見えてくる。噴煙を上げた跡がはっきり見える。
 道端には火山灰が溜まっている。鹿児島は灰が降ると大変なのだ。
桜島 
 右手に吉野小学校があり,その校庭に「私学校跡」の石碑が立っており、その横に「島津重豪公御薬園跡」の碑があるが、小学校の中には入ることができないので入口にあった私学校跡碑のみ写真に撮った。
私学校跡 
 二股に分かれているところがあり、これの右側を進むが、すごい急坂だ。ここは「磔者坂(ハタモンザカ)」と呼ばれており、約600年ほど前、清水城が島津氏の本城であったころ、重罪人を磔にした刑場であったといわれている。大石兵六夢物語では主人公の兵六が吉野原の妖怪退治に出かけて、狐の化けた茨木童子〈大江山酒呑童子の弟で、眼は燃える火のように赤く、口は耳まで裂けている怪物)に脅かされる、最初の場面がこの磔者坂という説明板が立っていた。
磔者坂 
 ここを下っていると、上のほうから「ギャー」「コエぇ~」という叫び声が聞こえてきた。振り返るとこの急坂を自転車に乗った中学生か高校生と思える二人がブレーキをかけずにまっしぐらに下ってきた。これは怖いだろうな、でも元気があってなかなかいいもんだと思った。
 大明ケ丘入口のバス停から左へ進む。その先右へ入ったところに「実方神社」がある。ここは創建、祭神については分からないが、実方という名から歌の神様として知られる藤原実方朝臣ではないかといわれ、また、大山祇神〈山神)ともいわれている。現在の神社は明治12年に現在地に祭られたといわれている。神社の本殿には石造の御神体と木造の御神像が安置されており、木造の御神像は菅原道真公で胎内には天和3年(1683)に平氏の鳥居次郎兵衛忠有が島津久竹公から命を受けて菅原道真公の像を作ったという文章が残っていると説明されている。
実方神社 
 街道に戻ると、ここは五叉路になっており、これまで歩いてきた道から見ると左から二番目のこれも急な坂を下っていき、稲荷川に架かる実方橋を渡る。
五叉路 
 その先で坂を上って行く。上りつめた所に葛山入口というバス停があり、右折して今度は坂を下る。
 東坂元4丁目のバス停があり、その先で二股に分かれているところがあるので、左へ進み、坂を下る。とにかくアップダウンが多く、しかもどこも極めて急坂だ。特に下るときは膝にくる。
 この先でようやく鹿児島の市街地が見えてくる。もう少しだ。
 市街地に入り、大龍小東角の信号から右折、更に突き当たりを左折して進むと、右手に「南洲神社」があるので街道をはずれて行ってみた。ここには南洲墓地がある。ここは岩崎谷で戦死した西郷隆盛以下40名を仮埋葬したところで、その2年後に市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、更に6年後には宮崎、熊本、大分の各県からも集めた2023名の将兵が眠っている。墓石は正面に西郷隆盛、左手に桐野利秋、右手には篠原国幹、他に村田新八、辺見十郎太、別府晋介などの幹部が並んでいる。
南洲神社 
 ここからも桜島がよく見える。まだ噴煙が少し立ち上っている。鹿児島の代名詞である西郷隆盛の墓所から桜島を眺める。これもまた一興だと思う。
噴煙 
 上本町の信号から右折して10号線を進むと、右手に「西郷南洲翁設立私学校跡」碑がある。
私学校跡 石塀 
 ここには明治10年の西南戦争の際の銃弾の痕が数多く残っている。
西南戦争 
 そのすぐ先に鹿児島城がある。ここは鶴が翼を広げた形をしていることから、別名鶴丸城と呼ばれている。慶長6年(1601)関が原合戦の後、島津家18代家久が着工、慶長11年(1606)に城の前の橋が完成したという。ここは天守閣や層楼のない屋形づくりで「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていたという。
鹿児島城 
 ここで無事日向街道を歩き終えたことにする。

 16時35分、鹿児島に到着する。

 本日の歩行時間   9時間10分。
 本日の歩数&距離 47970歩、36.4km。

 この後、学生時代の友人に電話、くたびれていたのでそのまま帰るつもりにしていたが、会おうということになって、忙しい中わざわざ来てくれ、暫く話をして分かれる。 

日向街道は情報が少なく事前調査に時間がかかった。しかも調査ではどうしても分からない場所もあり、ぶっつけ本番で臨んだが、結局旧道がわからない部分がかなりあった。それだけ難路だったということだろう。それでも沿線の市町村の方や、郷土史家といった方々のご協力を頂いて何とか無事鹿児島までたどり着くことができてホッとしたというのが正直な気持ちだ。これで九州を一周したことになる。

日向街道(薩摩道)総合計
 総歩行時間  32時間。
 総歩数    188470歩。
 総歩行距離  138km。
 薩摩道純距離 128.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん