人吉街道を歩く

2009年12月07日(月) ~2009年12月08日(火)
総歩数:50195歩 総距離:44km

2009年12月07日(月)

佐敷~角割坂~告坂~一勝地

                     晴れ

 佐敷はほとんど全域が山地である芦北地方の中心地として古くから重要な地位を占めており、「延喜式」にも芦北の要地として佐職〈佐色)が登場しているということだ。ここは昨年薩摩街道を歩いた時に通ったところで、人吉街道はその薩摩街道から分岐して球磨川に沿った人吉までの道をいう。人吉・球磨地方は鎌倉時代から明治4年の廃藩置県に至るまでの約700年間相良氏によって統治されており、このように長い期間継続した藩は全国的にも稀で、九州では相良氏と宗氏、島津氏だけだといわれている。
 寛文5年(1665)人吉の商人林藤左衛門によって人吉~八代間の舟路が完成し、その後の相良氏の参勤交代は,人吉青井神社前の祓川から乗船して一日で球磨川を八代まで下り、一泊後陸路を北上したという。帰路は球磨川の溯航が困難なため、八代から佐敷まで来て一泊、翌日一勝地まで歩いて一泊、三日目に人吉に帰着というスケジュールだったということだ。
 田ノ浦から佐敷太郎峠を越えてきた薩摩街道は左手に佐敷中学校を見ながら進み、その先の五本松のバス停があるところで人吉街道と分岐する。直進する薩摩街道と分かれ、人吉街道はここから左折、305号線を進む。
街道分岐 
 10時4分にここを出発する。
 最初の角を右折して進むと、集落があり、その先で佐敷川沿いの道に合流、諏訪橋があるのでこれを渡る。
最初の角を右折 
 左手に「佐敷諏訪神社」があるので、街道から外れていってみる。ここの主神は建御名方神で、五穀豊穣を司る農耕神、あるいは狩猟神、海陸交通の守護神である。最初は芦北郡白木村に祀られていたが、その後現在地へ遷座、永享11年(1439)に相良近江守前続公によって再興されている。元文2年(1737)と文化10年(1813)の二回にわたる再建が記録され、昭和14年には500年祭が執り行われたということだ。御神紋の「違鎌紋」は主神である建御名方神の妹神の下照姫命が鎌に移り住むという伝承によるもので、鎌の霊験を信仰し、敬う風習が残っており、この地方の人々は下駄の緒などを切るのには決して鎌を用いなかったという。
佐敷諏訪神社 
 境内には江戸時代に熊本から派遣された佐敷番の武士たちが奉納した石灯篭が参道に並んでいる。
奉納した石灯篭 
 ここから諏訪橋のところに戻り、左手へ進むと給食センターがあり、その裏手に「宮浦阿蘇神社」がある。ここには男女の神像22体が祀られており、その神像の裏書にある天文2年(1533)が創建と推測されているということだ。現在の社殿は17世紀中期の延宝年間ごろの建造と考えられており、屋根は本来、木はだ葦であったと思われるが、現在は簡単な板葺屋根となっており、覆屋によって保護されていると説明されている。
 また、この神社境内及びその横のゲートボール場の地下には「宮浦地下式板石積石室古墳群」があり、この付近一帯に広がっていると思われているそうだ。この方式の古墳は宮崎県や熊本県等に分布しており、弥生時代後期における隼人族独特の古墳と考えられているということだ。
宮浦阿蘇神社 
 諏訪橋に戻り、佐敷川沿いの道を進むが、昔はこの川を何度も渡りながら球磨川流域へ向かうので、この渡場を球磨渡瀬といい、佐敷川のことを八瀬川とも呼ぶのはこれを八回渡るからという。諏訪橋の近くにその第一の渡場があったということだ。
  第二の渡場付近には八幡橋が架かっている。 旧道はここを渡り、そのすぐ先で、またこちら側に戻るようになっており、その場所付近に現在は堰があると資料には書かれていたので、渡ることが出来るかなと思って川を見てみると確かに堰がある。
 しかしこれは渡ることができないので、そのまま27号線を進んでいった。この堰は文化2年(1805)林満右衛門が開墾した水路の取水地で、八幡、宮浦地区の水田を潤している。
この堰は文化2年  
 堰の袂に面する山際に彼の功績をたたえる石碑が立っている。
林満右衛門 
 佐敷川が直角に曲がるところの少し先から27号線と分かれて川沿いの道があるので、これを進む。
 桑原橋があるので、これを渡っていき、旧道が残っていないか調べてみたが、やはり道はなかったので、もとに戻って進む。資料にそれぞれの渡場の場所が書かれてあったので、私もそれに従って渡ってみようかと当初は思っていたが、現在では道がなくなっているようだ。
 佐敷川に架かる塩浸1号橋、塩浸2号橋を渡って進んだが、このあたりに旧道の入口があり、当初はそこから祝坂が始まると思っていた。そして今回、祝坂を案内していただく方を紹介していただいていたので、その方に教えていただければいいと思っていたのだ。このことは完全に勘違いしていたことが後になってわかった。そのまま27号線を進み、27号線と270号線が分岐するところ迄来て案内をお願いした坂寺さんと合流する。
 今回この街道を調べるにあたって、芦北町教育委員会の深川さんにご連絡をして教えていただいた。深川さんは薩摩街道を歩く時にも色々と親切に教えて頂いた方で、今回もご連絡を差し上げた。その際、道をよくご存知の方ということで坂寺さんをご紹介していただいたのだ。
 軽トラックで坂寺さんはこられており、じゃいきましょうかと車に乗るように言われた。歩くことをやっている私はできれば歩きたいというと、この道は昔の街道ではなくて最近できた道なので、歩いてもあまり意味がないだろうと言われ、なるほどと納得してしまった。このあたりのことをよく理解できていない私は祝坂はすぐ近くにあると思っていたのだ。車に乗って連れて行っていただいたところは先ほどのところからかなり距離があるところで、そこが祝坂という集落だった。そこで集落のことや旧道のことを教えていただく。昔、このあたりは山ばかりと思った八代の商人が米をこの地で売れば儲かると思って、米を沢山運んできたところ、祝坂の集落の先に広い平地があるのをみて、米作りが十分にできていることがわかって、折角持ってきた米を全てこの地において帰ったというような話が残っているそうだ。
 その平地にも案内していただいた。確かに盆地になった平地があり、現在でも米作が行われているようだ。
その平地 
 祝坂の集落には30軒の家があるがそのうち28軒が「坂」という字を苗字に使っており、他の場所から来た人は苗字が違うのですぐに分かるということなど面白い話を教えていただいた。
 その中で先ほどの旧道の話が出てきて、坂寺さんは入口は分からないが、出口は分かるといわれたので、お願いをしてその場所まで案内していただき、そこから逆に旧道を遡ってみた。
 かなり荒れてはいるが一応道と分かるようになっていた。そのまま、入口まで行ってみたかったが、坂寺さんが下で待っておられるので、ある程度まで行ったところで引き返した。
かなり荒れてはいるが 
 帰宅後深川さんに電話でお聞きしてこのあたりのことを整理してみると、最初の塩浸の橋のところから登る坂を「立石峠」といい、その後下りに入ったところ、今回私が一部歩いた坂を「牧士(マキサブレ)峠」、そしてその後越えた峠が「角割坂」ということだった。祝坂は集落の名前だったのだ。坂の字がついているので、てっきり昔の道のことだと思い込んでしまっていた私の失敗だった。後で記録をみてみるとこの間約6km程を車で案内していただいたことになっていた。
 そこから改めて「角割坂」に挑戦する。坂寺さんがカーキ色の上着を着た。狩猟が始まっているので用心のためだ。深川さんからも事前に狩猟が始まっているので十分に注意をしてくださいといわれていたが、いつもは私一人で山の中をウロウロするのだが、今回は地元の方と二人で行くので正直なところ私としては気が楽だった。
 270号線から左斜めへ進む入口があり、溝がある。その横に「歴史の道〈相良往還・角割坂登り口)」と書かれた標柱が立っている。
角割坂
 この溝は坂を上りだして分かったのだが、旧道は現在では水の流れ道、谷川になっており、雨が降ると川になってしまうようで、その先にこの溝があるようだ。そしてこの登り口は先ほど少し歩いた山越えの旧道「牧士峠」の延長線上にあたる場所にあった。
 坂にかかると石がゴロゴロしている。昔の石畳の跡ということだが、水が流れた後らしく、所々に水溜りが残っている。水があって岩がある。マムシの条件にぴったりだと思っているとやはりマムシが多いらしい。坂寺さんは地元の方なので、ここは子供の頃からの遊び場だったといわれていた。
坂にかかると 
 ここから先はひたすら坂寺さんに従って坂を上って行く。坂寺さんは70歳を少し過ぎた方で、以前古墳の発掘に携わったことを契機として、文化財の発掘や保全に携わっておられるということだ。地元の方なので安心してついていけばいいので地図をみる必要がなく楽だ。ただ登りはかなりの急坂だし、倒木があったりして道が荒れており、歩き難い。
ここから先はひたすら
 途中にきれいな石畳の跡が残っている場所があったがそれは一ヶ所のみで、それ以外は石がゴロゴロ転がっているという感じだ。
途中にきれいな  
 やがて林道にでる。この林道は20数年前にできたそうで、林道が旧道を分断しているため旧道を通ることができない場所等があり、それらを親切に説明していただいた。
 林道を進んでいくとその先二股に分かれているところがあり、旧道はそこを直進しているそうで、少し行ってみたが、そこには石もなく、道の痕跡は全く残っていない。坂寺さんもよく分からないといわれていたため、二股に分かれている所まで戻り、そこから右折して林道を進む。
林道を進んでいくとその 
 坂寺さんは現在は仕事をやめられて山の手入れをされているということだったが、とてもお元気だ。
 やがて331号線に合流するところに来る。坂を登りだして49分が経過している。ここから暫く331号線を歩いていくことになるため、坂寺さんとはここでお別れすることになる。今来た道をまた戻られるようだが、お元気だ。記念に写真を撮らせていただいた。お世話になりました。
坂寺さん 
 お別れしてすぐに今度は、この先にある告坂を案内していただく漆山さんに電話をし、今、坂を越えた旨お伝えをする。この方も深川さんからご紹介をしていただいた方だ。
 暫く曲がりくねった坂道を下っていく。途中に集落があり、道が二股に分かれているところがある。右手に「高尾城跡入口」の標柱と石碑が立っている。
高尾城跡入口 
 ここを左折して坂を下る。集落を抜けるとその先で再び山に囲まれた道を下っていく。道は舗装されているが、車はほとんど通らない道だ。
 暫く坂を下っていくと、左手に「歴史の道 相良往還角割坂 登り口」の標柱が置かれている。
歴史の道 
 こんなところに何故この標柱が置かれているのだろうと思っていると、丁度そのときに漆山さんから電話が入り、この標柱のことを言われる。あまりにもピッタシの時間だったので驚いたが、この標柱の横に旧道があるというのだ。
 よく見てみるとかなり急な斜面に道といえばそうかもしれないというような痕跡が残っている。石もみえるので、これも石畳の跡なのだろう。それにしてもすごい急な斜面だ。これは登ることも下ることも大変だっただろう。
よく見てみるとかなり 
 さきほど、坂寺さんもよく分からないといわれていた旧道がここに繋がっているのかなと思った。にお地蔵様 資料にもこの場所の道は確認できなかったと書かれていた。
 標柱のすぐ右手にお地蔵様が祀られていた。
 やがて集落が見えてきた。ここに漆山さんのお宅があるので、訪問させていただくと、息子さんのお嫁さんといわれる方がお茶とお菓子を用意して待っていて下さった。
お二人とも感じのいい方だったので、ここで一息入れさせていただき、写真を撮らせていただいて出発する。
お二人とも  
 ここは漆川内という集落で、ここには「漆」という字がついた苗字の方が多いということだ。祝坂集落の坂と同様、明治に入って苗字をつける際、その地域の一字をつけた名前にした名残だということだ。
 左手に観音堂がある。「芦北三十三ケ所霊場 十五番 漆川内」という標柱が立っている。
左手に観音堂 
 写真を撮っているとなにやら歌が聞こえる。カラオケをやっているようだ。すぐ横にある公民館で老人会の忘年会があっているとのこと。漆山さんも誘われたそうだが、私のために断ったということをお聞きし、申し訳ない気持ちになってしまった。
 331号線に戻って進むと、右手に山へ入る道があり、これを登っていく。
331号線に 
 これから「告坂」に入るのだ。ここも祝坂と同様に石がゴロゴロしている道を登って行く。
 途中にお地蔵様が祀られており、漆山さんは持参した焼酎を捧げていた。神仏に敬虔な思いを抱かれていることがよく分かる。私にも一杯注いでくれたのでありがたくご相伴させて頂いた。
途中にお地蔵様 
 そこから先、道は更に険しさを増してきた。草がかなり繁っていて歩き難いが、漆山さんはそんなことはものともせず、スイスイと山を登っていかれる。父親が製材業をされておられたそうで、小さい頃から山に入っておられたそうだ。
そこから先
 今年77歳になられるそうだが、とにかく足取りが違う。背筋をピンと伸ばされて倒木が重なり合ったところでも難なく登っていかれる。途中でこの程度のスピードでいいかと聞かれた。私には十分すぎるほどのスピードなのだが、まだまだ早く登ることもできるようだ。
今年77歳 
 かなりの急坂をへばりつくようにして登り、つかんだ木に力を入れて身体を持ち上げようとした途端、その木は朽ちていて折れてしまい、バランスを崩して危うく坂道を転げ落ちそうになったりしながら、ようやく峠にたどり着いた。息が上がってフーフーいいながら汗びっしょりになっている私に対し、漆山さんは平然としておられて、汗もかかかれていないようだ。すごい!脱帽だ!。
 頂上までくると、その先に鉄塔があるそうで道がかなり整備されており、下りは歩きやすい。漆山さんは昨年まで九電からこうした鉄塔へ行く道の草刈等の仕事を請けておられたそうで、八代から川内までにある九電の鉄塔へ至る道の草刈を5~6人で三ヶ月ほど掛けてやっておられたということだ。こうした山仕事にずっとかかわってこられたわけで、私とは鍛え方が違う。とにかくすごいお方だった。その前に案内をしていただいた坂寺さんとも旧知の間柄ということだった。
 下り始めて少し行くと、やはりお地蔵様があり、ここにも参拝する。ここにはつい最近どなたかがお参りにこられたようで、真新しい紙に包まれたお米や塩、木の実がおかれていた。
下り始めて 
 更にその先に「大乗妙典 一石一字 明和7年(1770)」と刻まれた供養塔が立っていた。この下に「大乗妙典」のお経を一つの石に一字づつ書いて埋めているのだろう。少し倒れ掛かっているのが気がかりだ。
大乗妙典 
 やがて告川沿いの道に出る。ここにも「歴史の道 相良往還告坂登り口」の標柱が立っている。
告川沿いの道 
 坂を登り始めて57分が経過している。この告川が細川藩(熊本)と相良藩(人吉)の境界であり、現在では芦北郡芦北町と球磨郡球磨村の境界になっている。従って同じ集落であっても、川を挟んで行政区域が異なるので、郵便配達は毎日二人、川の手前と川向こうに別々の人間がやってくるそうだ。また、告川に架かる橋で交通事故が起きたことがあって、芦北町と球磨村の警察のどちらが調査するかでもめた(?)というようなことも現実にあったということだ。なんとなく面白い。
 左折して少し下ったところ左手に「告御番所跡」の説明板が立っている。それによるとこの番所は正保4年(1647)から幕末までの間、細川藩の関所として存在していたそうだ。異変があれば、直ちに熊本本藩へ飛脚を走らせてその旨を告げたので、「告」の地名を称するようになったと説明されている。
告御番所跡 
 説明板の横に番所役人だった四宮家のお墓が立っていた。
跡地は今は田んぼになっており、その中に当時の古井戸が今でも残っていた。
当時の古井戸 
 やがて球磨川に行き当たる。ここの左手に「清正公岩」が聳えている。加藤清正が人吉の相良氏を討つため軍勢を引き連れて球磨川を上って来たとき、道路から50mの高さのこの岩に登って上流を偵察したという。ところが険しい山々が連なるばかりで、町はまだ遠いようだと思って、ここで進軍をあきらめたと伝えられているそうだ。
清正公岩 
 304号線との交点のところに道標が立っており、それには「従是東球磨郡 明治7年」と刻まれている。
道標 
 ここから下流へ行くと球泉洞という鍾乳洞がある。このあたりは大坂間という地名で、このすぐ先にある駅名も以前は大坂間駅だったということだが、現在は観光アピールも含めて球泉洞駅という駅名にしているということだ。ここから球磨川に沿って走る304号線を歩くので、ここで漆山さんとお別れする。漆山さんはどなたかに車で迎えに来ていただくそうだ。
 実際にここを歩いてみて分かったことだが、坂寺さんや漆山さんに案内をしていただかなければ、一人ではとても歩くことはできない道だった。無事歩くことができたことはお二人そしてお二人をご紹介していただいた深川さんのお陰だと思う。本当に有り難かった。
 球磨川に沿っている304号の右手は切り立った崖で、ここに「舅〈姑)落し」の標柱が立っている。江戸時代の頃に、岸壁に長さ50mほどの土橋が架けてあり、これによってようやく往来ができていて、人吉街道で最も危険な場所だったということだ。昔、意地の悪い姑が嫁を球磨川に突き落とそうとして、誤って姑が落ちてしまったのでその名がついたと説明されている。
舅〈姑)落し 
 道の上のほうの石窟に「権現さん」が祭られているということだが今回は行かなかった。
 振り返ると、清正公岩の下あたりに「槍倒しの瀬」が見える。岸壁の下がえぐれており、その下は深い急流になっている。参勤交代で川を下る相良氏の舟がここだけは槍を倒して通過したという。
槍倒しの瀬 
*後で指摘されたのですが、「槍倒しの瀬」はここから更に500mほど下流にあるということでした。私が間違っていました。*
 湯の谷川があるが、ここから100mさかのぼったところの川岸に水量は僅かだが、温泉水が湧き出しており、流れには湯の華が浮かんでいるということだ。
 そのすぐ先左手に「柴立姫神社」がある。昔、芦北方面からきた武士(公卿ともいう)の父娘が近親相姦の末、父が娘を斬り、道端に埋めて柴を立てて立ち去った。村人は娘を憐れみ、お堂を建てて祀ったという。ここは柴神さんと呼ばれて婦人病や腰から下の病に霊験があるといわれ、今でも参拝者が多いという。
柴立姫神社
 境内には大きな男根の形をした木が聳え立っている。
 男根の形 
 この横が「修理の瀬」と言われる場所で、球磨川は日本三急流の一つで流れが速い。
 その中でも大坂間と一勝地の間にある「網場の瀬」「修理の瀬」「二俣の瀬」は球磨川六十四瀬の中でも五大瀬のうちに入る激流だったそうだが、現在ではダムが造られて水量が減り、昔の急流の面影は全くないといわれている。
 昭和7年に与謝野晶子が夫寛と娘藤子とともに人吉を訪ねた帰りに川下りをしたときに詠んだという「船の舳を波立ちかこみ球磨川の修理の瀬にわれ灌頂を受く」の碑が立っていた。
修理の瀬 
 一勝地の踏切を越えて進むと「池の下村台場」の標柱が立っている。明治10年の西南戦争の時、官軍は池の下村山上に台場を築き、四斤山砲二門を備え、大明神山(一勝地阿蘇神社裏山)の薩摩軍陣地へ向け17発の砲撃を加えたと説明されている。
 右手に「一勝寺」がある。ここは元禄11年(1698)嶺雲秀鶴和尚が開山した黄檗宗のお寺で、相良新四国88ヶ所の第82番札所になっている。境内には石造仁王像が立っている。
一勝寺
 その先、芋川に架かる一勝地橋を渡ると「一勝地阿蘇神社」がある。ここは大同2年(807)の創建と伝えられ、健磐竜神以下の阿蘇神を祀っている。
一勝地阿蘇神社 
 境内には承応4年(1653)と延享4年(1747)の二つの庚申塔がある。また鳥居には文化2年(1805)と刻まれていた。
庚申塔 
 JRのガードをくぐって進むと、曲がったところ、右手に「セキソの地蔵」がある。祠の前面に「文化10年(1813)8月吉日 茶屋嘉左衛門」と刻まれている。このお地蔵さまは子供の熱病、耳の病気を治してくださるそうで、胸当てを作ってお地蔵さんに掛け、お参りしたあと、胸掛けを持ち帰り、病気の子供に掛けてやると霊験あらたかと説明されている。
セキソの地蔵 
 一勝地駅に17時22分に到着する。電車は17時36分だ。この駅では電車は一時間に一本しかないので、丁度いい時間に着くことができた。電車に乗る時には既に周囲は真っ暗になっていた。

 本日の歩行時間   7時間18分。
 本日の歩数&距離 29918歩、28.6km。(ただし、車での移動約6kmを含む)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん