人吉街道を歩く

2009年12月07日(月) ~2009年12月08日(火)
総歩数:50195歩 総距離:44km

2009年12月08日(火)

一勝地~人吉

                     晴れ

 朝、人吉のホテルを出ると周囲は一面の霧に包まれている。人吉は盆地のため霧が出やすいということだ。
人吉のホテル 
 ホテルは駅のすぐ前にあったので、7時37分のJRで昨日歩いた一勝地へ向かう。
 7時56分に一勝地駅に着き歩き始める。今日も球磨川沿いの15号線を歩く。15号線は車もあまり通らず、歩きやすいが、川を挟んだ向こう岸を見ると219号線が走っており、車の数がとても多い。
 歩き始めたが寒い。予報によると今日の人吉地方の最低気温は1℃ということだったが、確かに寒い。急ぎ足で歩き、早く暖かくなろうと思うが、なかなか身体が温もらないし、露出している顔や手は痛いようだ。
 八貫の踏切でJRを横断して進むと、すぐ左手に那良口の駅がある。那良川に架かる那良口橋を渡り、那良口の踏切を渡って再び、川沿いの道を進む。このあたりになると霧は益々濃くなり、まるで幽玄の世界をさまよっているようだ。
霧は益々濃くなり 
 三ケ浦踏切を渡り、その先で左折して相良橋で球磨川を渡る。資料によるとこの橋を渡ったところに渡し場があったということだ。舟が繋がれているのが見えたが、ここが昔の渡し場の跡のようだ。橋から身を乗り出すようにして写真を撮った。
相良橋 
 橋を渡ってすぐ先の四つ角を左折して少し行くと、左手家屋の前に「渡し場の地蔵」がある。小さな石の祠に祀られており、「火事の神様」と伝えられて、旧暦六月二四日に例祭が行われるということだ。またその横に、道標らしい石柱が立っており、文化14年(1817)の文字が見える。
渡し場の地蔵 
 昔の渡し場からこの場所へ道は通じていたのだろうが、ちょっと分かりにくくて、近くにおられた方にお聞きすると、わざわざこの場所まで案内していただいた。この方に限らずこのあたりの方は皆さんよく挨拶をされて、とても気持ちがいい。挨拶の大切さを改めて感じてしまった。
 その先右手に「くま川下り わたり発船場」がある。ここから球磨川の川下りが出ているのだろう。茶屋踏切でJRを横断し、219号線に合流すると途端に車が多くなる。
 その先で219号線と分かれて左斜めへ伸びる旧道があるので、これを進むと、すぐ左手に「雲泉寺」がある。
219号線と分かれて
 ここは相良氏の外城であった渡利城の城主井口氏が菩提寺として文明2年(1470)に創建されたといわれており、はじめ城山の中腹にあったが、井口氏の人吉移住後は興廃を繰り返し、明治12年に現在地に建てられたという。
雲泉寺 
 その先左手に「壽泉寺」があるが、ここは明治12年に仮説教所として始まり、明治34年に壽泉寺が移転してきたということだ。
 219号線を横断して進むと、JR線路に突き当たる。ここは踏切がなく、通行危険の看板が立っている。その先は道がなくなっているようなので、左手の坂を上って219号線に合流する。
 その先で左折すると石水寺へ行く道があるが、石水寺はここから1km程はなれた場所にあるようなので、今回は立ち寄らないことにした。
石水寺へ行く道 
 これを直進するとすぐ先で二股に分かれているので右へ進む。 馬水川に架かる栗林橋を渡ると人吉市内になる。このあたりになると10時近くになっており、寒さも随分緩んできた。
 右手に球磨川を渡る小さな橋があるところの先で左手の坂道を上って行く。
右手に球磨川 
 左手に「馬場子安観音(出口観音堂)」がある。
馬場子安観音 
 中原小学校があるが、ここは藩の米蔵があったという。かなり大きな敷地の小学校だ。その先にプールがあり、ここには御仮屋があったという。資料によると相良氏が人吉への帰途、休憩して服装を整える場所だったのだろうと書かれている。
 左手に墓地があり、その中に崩壊した庚申塔がある。正徳3年(1713)のものという。このあたりが人吉からの一里木があった場所という。人吉まで残り4kmほどだ。
崩壊した庚申塔 
 坂を下っていくが、この坂を不動坂というようだ。左手に「龍門寺不動堂」がある。龍門寺は既に廃絶しており、現在の不動堂には不動明王のほかに右に阿弥陀坐像、左に観音立像が安置されているが、龍門寺の仏像のいくつかがこの不動堂に移されたのだろうと資料に書かれている。
龍門寺不動堂
 この不動堂の横に石碑が立っているが、何と刻まれているかは読み取ることができなかった。またその裏に横穴があり、これらは古墳ということだ。
不動堂の横に石碑
 万江川に架かる万江川橋を渡って進むと、左手に「楽行寺」がある。ここには真宗(一向宗)禁制当時の遺品、古文書等を所蔵しているそうで、傘や俎の形をした入れ物に、親鸞上人や阿弥陀如来の画像を隠した傘仏や俎仏があるということだ。真宗解禁後の明治11年に林村の説教所として始められ、明治18年に楽行寺と公称したという。
楽行寺 
 右手に「八坂神社」がある。開基は不明だが、社家の伝記に天文年中(1532~1555)藤原頼方再興、明暦年中(1655~1658)改造、とあり、萬治年中(1658~1661)に現在地へ遷ったと説明されている。鳥居の横に享保10年(1725)の庚申塔が立っている。
八坂神社 
 人吉市城本町の信号で219号線を横断して445号線を進むと、左手に「青井阿蘇神社」がある。ここは大同元年(806)の創建と伝えられ、元久2年(1205)相良長瀬が人吉庄の地頭職に補任されて以来、歴代の崇敬篤く、江戸時代には相良藩250余社の宗社とされた。今の社殿は20代相良長毎が慶長15年(1610)に修造したもので、桃山期の華麗な様式を示す本殿・幣殿・拝殿・楼門などは国の重要文化財に指定されている。青井阿蘇神社 
 右手に「出町地蔵尊」がある。内部に明暦3年(1657)に造られた石製の地蔵尊立像が祀られていて、「庚申石像」と彫られているので、庚申信仰の対象になった石像であることがわかる。お堂はこの石像の覆屋として明治時代に建てられたということだ。
出町地蔵尊 
 人吉市九日町の信号から右折して人吉城へ向かうが、この角に札ノ辻があったということだ。
 球磨川に架かる大橋を渡ると、左手に人吉城があるが、その手前橋を渡った右手に「老神神社」がある。ここの開基は大同2年(807)で、現在の社殿は寛永5年(1628)に相良20代長毎によって造営されたものという。この神社の参道の真ん中に八角形の石燈籠が立っている。神域との結界を表示する人吉球磨には類例のない珍しい建て方で、京都、奈良の社寺に見られる燈籠の配置と同じである。この燈籠は基礎から笠まで全て八角形で青井阿蘇神社にも同様な物が建立されている。この燈籠には「奉寄進 板屋 寛延3(1750)庚牛十月吉日」と刻まれている。
老神神社 
 その先、右手に「新町地蔵堂」がある。これは相良氏入国以前に平朝臣笠山周防守宗慶の建立といわれ、明応7年(1498)宗慶寺再興、一時衰亡するが、貞享4年(1687)現在地に移転したと説明されている。地蔵菩薩像は平安時代末期定朝の作との伝承があるが定かではないということだ。
新町地蔵堂 
 人吉城は鎌倉時代の初め、源頼朝の命を受け、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄(現在の静岡県)を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられている。本格的な築城は文明2年(1470)の頃、12代当主相良為続のときである。天正17年(1589)20代当主相良長毎が豊後から石工を招き、人吉城を石垣造りの城として改修、寛永16年(1639)に石垣工事は中止されるが、このときまでに近世人吉城がほとんど完成したといわれている。球磨川とその支流の胸川に挟まれた場所を西外曲輪と呼んでおり、川沿いの石垣には船着場があって物資の出入りに使われていたという。現在では石垣だけが残っている。
人吉城 
 ここに11時17分に到着し、人吉街道を終わることとする。

 本日の歩行時間   3時間21分。
 本日の歩数&距離  20277歩、15.4km。

人吉街道総合計
 総歩行時間  10時間39分。
 総歩数    50195歩。
 総歩行距離  44km。(車での移動約6kmを含む)
 人吉街道純距離 36.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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