仏坂道を歩く

2010年03月05日(金) ~2010年03月31日(水)
総歩数:114708歩 総距離:82.9km

2010年03月05日(金)

萩~赤坂峠~越ヶ浜~猪熊峠~奈古~木与

                      曇

 萩から海岸沿いに通っている仏坂道は漂着する異国船への対応等,海防に関する役割が大きく、それがこの道の大きな特徴の一つだったという。

 9時50分に萩の唐樋札場跡を出発する。場所が北九州から離れるに従って、出発時間が遅くなってくる。今日も始発で出たのだがこの時間になってしまった。
 唐樋札場は高札場があり、罪人の晒しも行った場所で、防長両国の諸所に通じる道の基点として重要視され、ここから里程を数えた場所だ。萩は三角州の上にできた城下町だが、昔は三角州中央付近まで浸水し、その逆流を止めるために作った水門が唐樋であり、それが町名となったと説明されている。

 ここから一直線に進んで191号線の地下道を通るのだが、地下道から出たところで進む方向を間違えてしまった。どうも地下から出ると方向感覚が狂ってしまう傾向が私にはあるようだ。幸いすぐ間違いに気づいたので本来の道に戻って進む。
松本川に架かる松本大橋を渡り、舟津県道踏切でJRの線路を横断、二つ目の角を右斜めへ進む。
松本川に 

次の四つ角を直進すると前方に「松蔭神社」が見えてくる。松蔭神社は明治23年に松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが創建とされる。明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたものである。
松蔭神社 
境内に「松下村塾」が残されている。安政4年(1857)実家杉家宅地内にあった小屋を改造して八畳の塾舎とし、更にその翌年十畳半を増築した。松蔭27歳のときのことである。ここで松蔭が教育した間は僅か1年であり、実家の幽因室時代を通算しても2年半に過ぎないが、ここから有意な人材が多数輩出し、明治維新の原動力になったのである。それにしても質素な造りだ。
松下村塾 
その横に旧宅があり、幽因された3畳半が残されている。伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して捕らえられ、萩へ送り返されて、この幽因室に謹慎し読書と著述に専念したという。
幽因された 

親思う 心にまさる親こころ 今日の音づれ 何ときくらん

 安政の大獄で捕らえられ、処刑を覚悟した松蔭が安政6年(1859)10月20日に両親に送った手紙の中にある別れの歌である。

松蔭神社の横に「伊藤博文旧宅」が残されている。安政元年(1854)博文が14歳の時にこの家に住むことになり、17歳の時に松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。明治元年28歳で新政府に出仕するまで、14年間をここで生活をしたという。
伊藤博文旧宅 
松蔭神社から左へ進み、月見川を右折して川沿いに行くと、すぐ先に小さな橋が架かっているのでこれを渡って進む。
月見川 
右手に椿東小学校があり、その横から左斜めへ伸びる細道があるので、これを進む。
椿東小学校 
この道はそのまま益々細い道になって続いており、右手に「三界万霊」が立っているところを過ぎ、その先左手に無田ケ原県営住宅があるところの先から先ほど分岐した直線の道に合流する。
右手に「三界万霊 
その先で道は右斜めへ分岐しており、これを進むと山際の道になる。
右斜めへ 
これを進んでいくと右手少し入ったところに地蔵尊がある。昔、千人塚がこの下の田んぼにあり、戦いで死んだ兵士達を供養するためにこの地蔵が祀っていると資料には書かれている。
千人塚 
その先で広い道路に出、最初の四つ角を左折して進む。突き当たりを右折、その先二股に分かれているところを右へ進むと、左手に石井家と表札がかかっている長屋門の家がある。ここは吉見氏家来の末裔で江戸時代は庄屋を務めたという。
長屋門の家 
左手に「白山神社」の寛保という字が刻まれた鳥居や明和2年(1765)と刻まれた常夜燈が立っている。境内になにか縁起が書かれているのではないかと思ったが、特に書かれたものはなかった。
白山神社 
突き当たりを右折、橋を渡ったところの左側に天龍窯という萩焼の窯元があり、登り窯が見えた。萩は焼き物の里でもあるので、窯元が数多くある。
登り窯 
橋を渡って右折して坂を登っていくと赤坂峠になる。左手に山口福祉文化大学ある。このあたりは地図に道が出ていなかったので、事前調査の段階ではよくわからなかったのだが、山中さんから一本道だと教えていただき、実際に歩いてみると山の中ではあるが、掘割があり分かりやすい道だった。
赤坂峠 
峠を越えると前方に海が見えて景色がいい。右手に萩支援学校があり、その先でJRのガードをくぐり、すぐに右折して進む。
前方に海 
両側に家が立ち並ぶ狭い道を道なりに進んでいくと、右手階段の上に「福聚院」がある。ここは萩七観音の一つで、昔は裏山全体が境内で広かったそうだが、現在はすぐ後ろをJRの線路が通っていて裏山とは分断されていた。
階段の横に数体の地蔵尊が置かれていた。
福聚院 
 その先突き当たりを左折して191号線に合流する。その少し先で191号線から右折してJRのガードをくぐり、すぐ先にある道を進むと途中で道がなくなって歩くことはできないないが、切通しになっている旧道があると山中さんから教えていただいたので行って見たが、入り口を間違えたようでよくわからなかった。そのため191号線に引き返して歩く。
その先で左へカーブする191号線から分岐して、街道はJRの線路に沿って直進する。最初の角を右折。その先でJRのガード下をくぐって進む。左手にJRの線路があり、これに沿って進んでいく。ここは一本道で分かりやすい。
 やがて右手に貯水槽があり、その先の猪熊第2踏切でJRの線路を横断する。右手にJRのトンネルの入り口が見える。
 ここから猪熊峠に入っていく。途中で二股に分かれている道があり、ここは右へ進む。道はかなり痛んではいるものの、舗装されているし、一本道なので分かりやすい。暫く進んでいくと、犬の鳴き声が聞こえてきた。それもかなりの数いるようだ。山中さんからいただいた資料を見ると、ネットのなかに犬が沢山いるので注意と書かれている。坂を上って行くと確かに犬がいる。数匹はつながれておらず、ネットの外に出て盛んに吠え掛かってくる。幸い飛び掛られることはなかったが、しばらく先まで追いかけてきて、しつこく吠えていた。

やがて頂上にくる。ここにも古い貯水槽がある。犬といい、貯水槽といい、これらは道を間違っていないことを確認するいいチェックポイントだ。山中さんの資料にはこれらが詳細に記載されていたので、これといって目印のない山の中の道を歩く上でとても貴重だった。
貯水槽 
やがて道は下り始めるが、ここから土道になり、道幅は更に狭く、所々に倒木が道を塞いでいたりして歩き難い。しかも今朝までの雨で地面は湿っており、滑りやすい。
道は下り 
 もう一つ古い貯水槽が左手にあり、これもチェックポイントだと思って、そちらの方へ注意をそらした時、右足が蔓に絡まってつまずいた。瞬間的に左足を踏み出して踏みとどまろうとしたが、今度は同じ蔓に左足もとられてしまい、両足を同時にすくわれる形になって、そのまま90度の角度で倒れてしまった。危なく顔面から地面に激突するところだったが、辛うじて手をついて身体を支えることができたので、顔を打つこともなく、また服もそれほど汚さずにすんだが、右手と左手に持っていた地図は地面が濡れているので泥で真っ黒になってしまった。地図は唯一の頼りなのでこれが読めなくなると困ると思ってすぐ調べたが、幸い汚れて見えなくなったところはこれまで歩いてきたところだったので、これから歩く上では支障にならずホッとする。それにしても危なかった!
 この日、帰りのJRに乗った頃から右肩が痛くなり、そろそろ一ヶ月になろうとしている現在でも右肩が痛い。かなりの衝撃だったのだろう。

 そこから暫くは放水路になっていたのだろうか、コンクリートの道を進み、それから再び土道になり、一部は完全に藪状態になっている道を下っていくと、猪熊第1踏切に出た。猪熊峠を越えたのだ。ホッとして喉が渇いたので水を飲もうと思ってかばんに手を伸ばすとペットボトルがない。先ほどこけたときに落としたのだ。アレッと思って同じようにカバンにつけていたGPSを調べるとこれは落ちずに残っていたのでホッとする。
 人間妙なもので、水がないとわかると、必要以上に飲みたくなるものだ。かなり喉が渇いてきた。しかしこのあたりには自販機は全くない。地図をみるともう少し先で長門大井の駅の近くを通るようになっている。そのあたりには自販機はあるだろうと思って我慢をして歩いていく。
 その先で道は二股に分かれているところがあり、ここは直進したが、その先でこの道は先ほどの道と合流していた。JRのガード下を通って線路に沿って進み、更にその先でガードをくぐって線路を横断し、その先の大井川に架かる門前橋を渡って、川沿いに進んで191号線に合流する。この大井川は資料によると大変な暴れ川で最近になっても土手が切れ、田畑が流されたという。
その先で191号線と分岐するところがあり、これを右へ直進する。分岐するところに「元寇の碇石」の看板が立っている。この先でようやくコンビニがあったので、飲料を買う。
191号線と分 
その先で道は二股に分かれているので、これを左斜めへ進む。
その先で道 
右手に「荒人社」の鳥居が立っており、天保5年(1834)と刻まれたの常夜燈が立っている。線路の向こうに参道の階段が見えた。
荒人社 
その先右手に「元寇の碇石」と大きな猿田彦がある。碇石は地上に現れた部分の高さが2.3mあり、不整方柱形の暗紫色砂質凝灰岩製だ。元寇の碇石は全国で38ヵ所、40個が確認されているということだが、九州の日本海側、福岡県の博多湾を中心に佐賀県、長崎県で発見されており、博多山笠で有名な櫛田神社境内にもある。ここの碇石はわが国の元寇遺物としては最東端に位置するものということだ。
元寇の碇石 
 191号線を横断し、突き当りを右折して進む。その先で左へ上る道があり、これをいくと「オビイの墓」があるとなっていたので行って見たが、よくわからなかった。
191号線に戻って進んで行くと「立岩」があり、この岩が阿武町との境界になる。かっては松が美しく岩を盆景の如く形作っていたということだが、現在は岩が海中にあるだけだ。
立岩 

ここまで来たところでJRの線路の向こう側に旧道が通っていることに気がついた。本来の街道は海岸線を通っているのではなくて山を越えていたようだが、今では全くその痕跡をとどめていない。旧国道がJRの線路沿いにあるので、ここから旧国道に合流してこれを歩いていく。線路のすぐ横を通っているのだが、今は誰も通っていないようで、道はかなり荒れているが、それでも舗装されているので、歩く上で支障はない。
線路の向こう側 
蟹倉の踏切でJRの線路を横断して191号線に合流する。

その先左手に「万葉阿胡の海の碑」が立っている。
万葉阿胡の海の碑 
 左手に道の駅があるところで前方から来られた男性の方が歴史散策しているのですかと話しかけてこられた。この方のいわれるには、山陰道を歩いている方を見たのは私で6人目だという。やはり私のように歩いている方がおられるのだ。この方と暫く立ち話をして分かれる。一旦191号線の郷川に架かる釜屋橋を渡るが、もう少し河口寄りに小さい橋があり、旧道はこの橋を渡るようなので、戻って渡りなおすことにした。その先の191号線に接する手前で左折、そのまま進んで行き、正面に了雲寺があるので、そこまで行って見た。その後一つ手前の四つ角まで引き返し、了雲寺から来ると左折、これまできた道からみると右折して進む。
左手少し入ったところに「法積寺」がある。ここは安元元年(1175)に真言宗密言寺として開創、その後浄土宗に改宗、永禄3年(1560)に法積寺と改号されたという。明治に入って正面の御拝口を取り除き、左右両横に男女別の入り口を設けている珍しい造りをしている。
法積寺 
ここには蓮があって有名なお寺ということで、丁度和尚さんが蓮の手入れをされておられたので、お話をお聞きする。阿武町は歴史の道調査報告書の阿武町部分を執筆された方がお亡くなりになっておられ、役場の方もあまりよく把握をされていないということで、情報が特に少ない場所だったので、この和尚さんにこの先にあるサエガ峠の道筋をお聞きすると丁寧に教えていただき助かった。
左手に「菅原神社」がある。境内の入り口に大きな猿田彦大神の石碑が立っており、寛政5年(1793)や文化2年(1805)と刻まれた石灯籠が立っている。
菅原神社 
その先左手に安永7年(1778)と刻まれた三界万霊があり、その横に享保4年(1719)と刻まれた石仏など八体の石仏が祀られているが、どれも顔を白く塗られていた。
顔を白く 
やはり左手に「大覚寺」がある。ここは毛利氏に敗れた尼子義久が幽閉されたお寺で、当時光応寺と称したが、慶長15年(1610)に義久が没し、義久の法号によって大覚寺と改められた。山門の建築年代は宝暦年間とも天明5年(1785)とも伝えられる。裏山に尼子義久の墓があった。
大覚寺 
境内にはビャクシン(白杉)が二本あり、右側のものは根周り5.25m、樹高約15mという県内最大のもので、県指定天然記念物になっている。
ビャクシン 
 その先でサエガ峠を越える。表示板には才ケ峠と書かれていた。峠を越えてすぐ先で左折する道があり、これを行き、その先で二股に分かれているので、再び左折、更にすぐ先で再び二股に分かれているので、今度は右へ進み坂を下る。ここは法積寺の和尚さんに教えていただいたので、道を間違わずに歩くことができた。ここにも「クマ出没注意」の看板が立っていた。
道はくねくねと曲がりながら進むが、基本的に一本道なので間違うことはない。やがて右側から合流する道があり、その交点に観音堂と数多くの石仏が並んでいる。ところがこの石仏の首がことごとくない。先ほどの石仏の顔が白く塗られていたことと何か関連があるのだろうか。だれかにお聞きしたかったが、だれもいないので分からなかった。
石仏の首 
道なりに進んでいくと、宇久川が海に注ぐ河口に出る。橋を渡るとその先右手に円形をした猿田彦が立っている。文政7年(1824)と刻まれているが、このような形の猿田彦も珍しい。
円形をした猿田彦 
 飛砂防備保安林の中を歩いていく。左手、林の向こうは海で波の打ち寄せる音が聞こえる。静かで気持がいい。
 その先で191号線と合流するのだが、右手に跨線橋があり、旧道はその向こうから線路の横を通っていたようだ。実際下の線路の横を道が通っているのが見えるので、跨線橋を戻ってみたが、下へ降りる道が見つからず、そのまま191号線を通って木与駅に到達する。
左手は海が広がっており、北長門海岸国定公園の看板がある。きれいな海だ。
北長門海岸国定公園 
 木与駅に16時36分に到着する。次のJRは17時27分でまだ随分時間があるのだが、次の駅である宇田郷まで7km以上はありそうなので、ここで今日は終わることにする。

 本日の歩行時間   6時間46分。
 本日の歩数&距離 37070歩、25.2km。 

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん