仏坂道を歩く

2010年03月05日(金) ~2010年03月31日(水)
総歩数:114708歩 総距離:82.9km

2010年03月30日(火)

木与~宇田郷~惣郷~須佐~江崎

                     晴れ

10時7分に木与駅に着き歩き始める。木与の駅の先から右手の山へ登り、焼ケ峠を越える道があったということだが、今では全くなくなっており、歩くことができないと資料に書かれていたので、海沿いの191号線を歩いていく。このあたりは海の際まで山がせり出しており、昔は山の中を歩かざるを得なかったのだろう。
木与駅 
今日は晴れているものの、風が強く寒い。特に海から吹き付ける風は冷たくて震えるようだ。
 変化に乏しい191号線を進んでいくと、右手にJRの田部トンネルがあり、その入り口のところから踏切はないのだが線路を横断する草道があり、これを進んでいく。
田部トンネル 
 その先で二股に道は分かれており、これを左へ進むと山の中へ入っていく。更にもう一つ二股があり、ここも左へ進む。山の中を歩いていると、風がピタッと止んだ。木々にさえぎられているからなのだろう。風が止むとさほど寒さは感じない。
 暫く山の中の道を進んでいくと集落がある突き当たりに出るが、ここでオバアサンがおられたので道を聞く。右へ行く道は農道で、その先で行き止まりになっており、宇田郷へ行くには191号線を通るしかないといわれたので、左折して191号線に合流する。資料ではまだ山の中を進んで行くようになっているのだが、道がないようだ。阿武町は情報が乏しく、よく分からないままに歩いている状態のため、安全策を取らざるを得ないのだ。
山の中の道 
 191号線を進んでいくと、JRの井部田踏切のところに右手から合流する道が下ってきている。地図を見るとこの道が旧道のようだったが、この道が先ほどの集落へ繋がっているのだろうか?誰かに聞きたかったがだれもいないのであきらめた。
井部田踏切 
 その先で191号線から左へ分岐する道があり、これを入っていくと、左手に「金子家」がある。金子家は江戸時代を通じて庄屋・浦年寄を務めた旧宇田村の顔役だったということだ。立派な屋敷が現在でも残っている。
金子家 
 今浦の集落の中を通り、右手角に第9分団消防機庫があるところから右折して進む。191号線とJRのガード下を通って進むと、宇田小学校、宇田中学校があり、その先に「宇田八幡宮」がある。弘化4年(1847)と刻まれた石灯籠が立っていた。ここの石灯籠の形は少し変わっている。
宇田八幡宮 
 この八幡宮の裏山を越えて旧道があったようだが、現在では全く道はなくなっているということなので、引き返して191号線を進む。
 宇田郷駅の先で191号線と分岐して線路沿いに進む道があり、これが旧道のようだったので、少し進んでみたが、その先で191号線に合流するように見えなかったので、引き返して191号線を進むことにする。
 跨線橋を越えて進むと、左手にパーキングエリアがある先から191号線から右折する道があるのでこれを進む。
跨線橋
 坂を上って行くと、左手に「御山神社」がある。治承年間(12世紀後半)に紀州熊野三所権現を勧請したと伝えられる神社で、神社境内を囲む鎮守の森は自然記念物樹林で見事な照葉樹林が広がっている。社殿の右手には巨木の切り株が注連縄を巻かれて立っていた。
御山神社
 また境内には大銀杏が立っており、その下に宇田八幡宮と同じ石灯籠が立っていた。その他にも文化7年(1810)と刻まれた石灯籠や文化9年(1812)と刻まれた鳥居が立っていた。
石灯籠 
 坂を上って進み、その先で坂を下る。 道はきれいに舗装されており、歩きやすい。ただ、その先、惣郷の集落へ入るところで、舗装道は右へカーブしているが、直進する細道がある。これが旧道だったようだが、細いし、かなり草が生えていたので、気がつかずに舗装道をそのまま進んでしまった。
 下まで下ったところで、左から合流する土道に気がつき、逆に上ってみると、石畳道があったので、ここが旧道だったことに気がついたのだ。
石畳道 
 191号線の高架下を通り、直進して突き当たりを右折して進み、白洲川に架かる恵郷橋を渡って進む。旧道はここから山の中へ入っていくのだが、今は道が失われていて、歩けないといわれていた。ただ、どのようになっているのか、ちょっとだけでもみておきたいと思って進んでみたが、畠があるところは人が往来するので、道はあるが、その先は藪になっているようで、進めそうになかったため、引き換えして191号線を進むことにする。ここから旧国道がJRの線路沿いにあるようで、当初はこれを歩こうかと思っていたのだが、旧国道も、191号線もいずれも昔の道とは別物なので、それであれば歩きやすく、より近道な191号線を歩くことにした。ただ、191号線は見るべきものがなくて単調、しかもトンネルが多く、大刈トンネルは1469m、須佐トンネルも714mと長い。トンネルの中は車の騒音がうるさくていやなのだが、旧国道を歩くより随分近道になるのでガマンをして歩く。
 左手に「笠松神社」がある。ここは益田家33代親施を祀っている。親施は毛利藩筆頭家老として禁門の変の責を負って元治元年(1864)徳山惣持院で切腹、32歳で生涯を閉じたが、旧臣によって慶応元年(1865)に笠松神社が建立され、高正大神として祀られている。境内の鳥居と灯籠には元治3年、元治4年と刻まれているが元治は2年までしかなく、徳川慶喜によって慶応に変わるのだが、慶応の年号を認めぬ反骨精神の現れで、全国的にも類例のないものだという。
笠松神社 
 その先に「須佐歴史民族資料館」があり、その横に「益田館」がある。益田家20代元祥は関が原の役後、徳川家康から旧領安堵の誘いを受けたがそれを断り、毛利輝元に従って益田七尾城主8万石から須佐1万2千石の領主としてこの地へ移住した。現在の館は明治7年に改築されたもので、往時より縮小されて往年の威容はなくなったと説明されている。
益田館 
 ここで西村さんへ電話をして待ち合わせることにする。西村さんは須佐郷土史研究会の副会長をされており、歴史の道調査報告書の執筆もされた方だ。
西村さんへ 
 事前調査の段階で色々と教えていただいた時、須佐を案内してあげようと言っていただいたので、お言葉に甘えて連絡を差し上げたのだ。西村さんは車でおいでになっておられるので、ポイントのところまで先に行かれて待っていただき、私が追いついたらまた先へ進まれるというやり方をすることにする。
 最初に惣郷から山を越えてきた旧道が須佐に入るところから案内をしていただいた。そこは以前、簡易水道を作るため道をセメントで固めているためによく分かるようになっていた。ただこれも最初の部分だけで、それから先は藪になっているということだった。西村さんがここを通ったとき、すぐ目の前を猪が走っていったので驚いたという話をされていた。
旧道が須佐 
 現在の育英小学校の校庭のところに育英館跡の門だけが残っている。育英館は享保20年(1735)に益田家27代益田元道が開いた学校で、長州藩のなかでも規模、内容共に優れており、吉田松陰の松下村塾との交流もあったということだ。旧道はこの門から直進していたようだが、現在は校庭になっているので、これを迂回して進む。
育英館跡 
 須佐川に架かる龍背橋を渡ると、道は一直線になっている。その先左側に「松崎八幡宮」がある。ここは大化6年(650)宇佐八幡宮から勧請して松ヶ崎に社殿が建てられたので社名になり、寛永16年(1639)に現在地に移されたという。社前に36基の石灯籠が並んでいるが、これは益田家歴代領主が江戸参勤から帰国の都度奉納したもので、鳥居は元禄2年(1689)益田就恒が建立したという。この松崎八幡宮を境にして、これより北が本町通りといわれて中、上級武士の住居だったということだ。
松崎八幡宮 
 次の角を左折、前方に「淨蓮寺」がある。ここは戦国時代には小早川隆景が幾度か宿寺としたため、4石の地を賜ったという。寛永13年(1636)益田氏によって現在地に移されたが、寛文3年(1663)火災で焼失、現在の本堂は弘化3年(1846)に改築されたという。安政5年(1858)には吉田松陰と関係の深い僧月性がこの寺に泊まったということだ。
淨蓮寺 
 ここから右折、更に次の角を左折して進む。
 左手に須佐中学を見ながら進み、奈古高校須佐分校の手前から右折、坂を下って315線に出る。西村さんとはここでお別れする。お忙しい中、わざわざお時間をとっていただいて、道案内をしていただき本当に有り難かった。
 315号線を少しだけ左へ行くと、右斜めへ下る道があるのでこれを進み、その先の突き当たりを右へ進む。
右斜めへ下る 
 山の中の道を進んでいくが、途中で二股に分かれている場所があり、これを右へ進んでしまった。このあたり、資料では山道へと上って行くと書かれているが、結局よく分からなかった。いずれにしてもこのあたりで道を間違ったようで、随分歩いて前方に池があるところに出た。地図とは明らかに違う場所だ。さて、分からない。丁度車が通りかかったので、手を上げて停まっていただき、道を教えていただく。キーワードは191号線だ。これはすんなり教えていただくことができたので、左折して進む。191号線に合流すると、やはり本来の旧道から少し先の場所へでたようだった。ここから191号線に沿って進む。
 その先で191号線から分岐して左斜めへ伸びる旧道があるのでこれを進む。
191号線から分岐 
 集落の中を通って進み、その先で191号線に合流、すぐ先で右折し、191号線と分岐して山際の道を江津川に沿って進んで行き、その先で191号線に合流する。
山際の道 
 その先「西堂寺六角堂」「江崎港」への標識が立っているところから左斜めへ旧道が伸びているのでこれを進む。
江崎港 
 集落の中の左側に「西堂寺」があり、ここに「六角堂」が立っている。これは往古活躍した大工集団「須佐大工」の代表作のひとつと考えられており、近世中期頃の製作と考えられ、慶応4年(1868)に古材を利用して再建されたものという。六角堂は県下唯一であり、国指定の建造物でも二例しかないという珍しいものだという。
六角堂 
 右手に「教専寺」がある。天保12年(1841)に本堂が焼失し、嘉永2年(1849)に再建されたお寺で、本堂天井には津和野藩御用絵師三浦紫畹が描いたと言い伝えられている天井絵があるという。残念ながら本堂はしまっていて見ることができなかった。
教専寺 
 江崎本町の信号で191号線を横断して進み、17時17分に江崎駅に到着する。17時21分の益田行きの電車があるので、これに乗って今夜宿泊する益田まで行く。この次の電車は18時53分までなく、かといって次の駅である飯浦まで行くにはかなり距離があってちょっと厳しいので、何とか21分の電車に乗ろうと思って急いだのだ。ピッタリ時間通りに到着することができた。

 本日の歩行時間   7時間10分。
 本日の歩数&距離  38610歩、29.4km。

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