山陰道(石州街道)を歩く

2010年03月02日(火) ~2010年04月07日(水)
総歩数:94289歩 総距離:64.2km

2010年04月07日(水)

長門峡~徳佐~野坂峠

                      曇

 8時24分に長門峡に着き、歩き始める。駅の前の道を右折して進んだのだが、うっかり橋のところまで行ってしまった。
地図ではその前に右折しなければいけないようになっているので、少し戻ると右折する道があったので、これを進む。朝から早速失敗だ。
地図ではその
 阿武川踏切でJRの線路を横断して進むと、道が二股に分かれており、左の川沿いの道へ下るが、右に上る道に「御堂跡」「薬師堂跡」と書かれた標識が立っていた。御堂原というこのあたりの地名の元となった弘法堂の跡なのだろうか。説明がなかったのでわからなかった。その先にも二股に分かれているところがあるが、これも左へ川沿いの道を進む。
阿武川踏切
 右手に「鐘淵の地蔵」がある。台座に「三界萬霊」「慶応2年(1866)」と刻まれており、付近の住民が水害がないように祈念して建立したという。
鐘淵の地蔵
 川沿いの道を進むが、風が強くて寒い。今日は終日この強風と寒さに晒されることになる。昨日の初夏のような陽気と比べると雲泥の差がある。三寒四温とはよく言ったものだ。
川沿いの道
 久保田踏切でJRの線路を横断し9号線に合流する。9号線が右へカーブしてJRの線路を跨ぐところの手前から右へ下る土道があり、これを進む。
久保田踏切
 築地の踏切でJRの線路を横断、その先右手に「三体地蔵」がある。年号等刻銘はないが、旅人の安全を願って建立されたものという。
三体地蔵
 阿武川に架かる渡川橋を渡るとその袂に「延命地蔵」が立っている。文化3年(1806)生雲村庄屋大谷勘左衛門と榎谷村庄屋中村九郎衛門が渡川に人馬の通行できる橋を造り、安全を祈って延命地蔵を建立した。天保7年(1836)の大洪水で橋・地蔵ともに流失したが、地蔵は川底から発見された。光背の欠損はそのときのものと伝えられている。その横に「繰舟永代録」があるが、これは嘉永6年(1853)持坂の庄屋伊藤市左衛門が繰り舟による渡川の渡しを考え付き、諸所からの寄付によって完成させた。繰舟永代録は寄付者の氏名を橋塚の台石に刻字したものだ。
延命地蔵
 ここから土地改良工事のため旧道は失われているので、橋を渡ってから直進、311号線に合流して、右折して進む。
 その先、左手に赤い鳥居の神社があり、資料ではその先から山の中へ入る道があるようになっているが、その入り口がわからない。地元の方がおられたので、お聞きしたのだがわからないとのこと。神社の手前には左折する舗装道があったが、資料では神社の先から山の中へ入る道になっているのでこれは違うようだ。農協の渡川支所があり、その横から細い道が山へ入っていたので、それを行ってみたが、墓地があり、その先に道はなかった。仕方がないので、そのまま311号線を進み、資料ではその先で311号線が直角に曲がるところで山の中の道が311号線と合流するようになっているので、その地点まで行ってみると、たしかにJRのガード下から細い道が合流していた。
そのため 
 そのためそこから遡ってみようと思って山の中へ入っていった。道は荒れてはいるが続いていたので、暫く進んでみたが、やがてよくわからなくなってしまったので、やむを得ず引き返して311号線を進む。
 すぐ先で311号線と分かれて右斜めへ進む川沿いの道があり、これを歩く。このあたりはまだ桜が満開で、きれいに咲いている。私の住んでいるところでは大分前に盛りを過ぎているので、このあたりは山地で寒いのだろう、咲き方が遅いようだ。
満開
 左折する道があり、その先に「妙信寺」がある。ここは萩藩士福原元俊の側妾の妙信院が寛永20年(1643)に葬られており、享保10年(1725)萩藩士福原主殿守が奉納したという銅鐘があるようだ。よくわからなかったので探していると、犬がうるさく吠え掛かってきたのでそれ以上探すことをあきらめた。
妙信寺
 街道はここで左折せず、そのまま川沿いの道を進んで行き、その先で311号線に合流する。
 ここから旧道はJRの線路敷設のために失われているようなので、311号線を進む。高の巣踏切でJRの線路を横断、その先で山際に旧道が残っているので、左折して山際の道を進み、突き当たりで、今回は歩かなかったが山代街道と合流、右折して311号線に合流する。
 左手に「諏訪神社」がある。社殿には36歌仙の絵馬があるが、中は暗くて写真を撮ったが、うまく写っていなかった。天明3年(1783)と刻まれた石灯籠が立っているが、これは鷹巣氏子中が寄進したものということだ。
諏訪神社
 次の十字路を左斜めへ進み、その先で再び311号線に合流する。
次の十字路
 右手に名草駅があるところから山道になっている旧道があるようになっており、それらしき道があったので進んでみたが、途中で猪除けの柵がしてあって先へ進めないので、元へ戻って311号線を進む。その先、さくら小学校のところから311号線と分岐して進むと、左手に「忠魂碑」が立っている。舗装された道はその先で右折するが、そのまま土道を直進する。
 左手に「経塚」が立っている。「大乗妙典 元文3年(1738)」と刻まれている自然石だ。
経塚
 左手に「隠れ切支丹墓標」がある。関が原役(1600)後、毛利氏の切支丹迫害は次第に激しくなり、1604年頃には山口の信者約二千人が宮野から逃れてきて、そのうちの一部がこの地に潜伏したという。ここに三基の石室型の墓標が置かれており、これは阿東町内に数十基散在している「切支丹墓」の一つという。
隠れ切支丹墓標
 左手大分入ったところに「地福八幡宮」がある。ここは永正7年(1510)宇佐より勧請され、元禄15年(1702)に現在地へ遷宮と伝えられており、現在の本殿の建立年代は棟札に記されている宝永2年(1705)と考えられているということだ。
地福八幡宮
 左手に「六地蔵」がある。首のないものがほとんどで諸所にあったものがここに集められたということだ。寛政5年(1793)と刻まれた地蔵様があったが、それ以外は読み取ることができなかった。
六地蔵
 道なりに進んで、長谷川に架かる長谷橋を渡り、新赤根屋橋を渡って進むと、左手に「お地蔵様入り口」と書かれた標柱が立っており、その先に「賽の神と地蔵」が祀られている。賽の神にはトイトイ馬〈藁馬)が投げ入れてある。その裏、道路側に「千人亡者供養塔」が立っている。慶応4年(1868)と刻まれており、阿武川沿いに打ち上げられる水死人の供養のために建立されたという。
お地蔵様入り
 左手に「村界標」が立っており、「地福村」「徳佐村」と刻まれている。
村界標
 このあたりにはりんご園がかなりある。りんごの産地のようだ。りんごというと北国を連想するが、このあたりも気温が低いのだろう。確かに今日は強風が吹きつけて寒い!
 その先、左手に池の堤が見えるところから左斜めへ伸びる旧道があるので、これを進む。蔵田という集落の裏を進むことになるが、その先で先ほど分岐した道と再び合流する。
 暫く歩いていくと前方に信号があり、その手前から右折する道があるので、これを進み、道路のガード下を通って進む。
 その先で橋を渡り〈橋名なし)嘉年踏切でJRの線路を横断、二つ目の十字路を左折して進むと、右手に「椿家本陣門」が立っている。椿家は徳佐村にあった3軒の本陣の一つで、代々庄屋を務めた家ということだ。
椿家本陣門
 その先交差点のところに「火除け地蔵」がある。
 左手、少し入ったところに「狐塚古墳」がある。県内の前方後円墳25基のうち県北部では唯一のものという。
狐塚古墳
上市裏の信号で9号線を横断して進む。
 沈丁花が咲いていて、いい匂いがしている。我が家の沈丁花は既に終わってからかなり時間が経っている。こんなところにも土地の違いを感じる。
沈丁花
 右手に「須賀原神社」がある。文永元年(1264)大宰府より勧請したと伝えられており、現本殿は享保15年(1730)に再建されたものという。境内には寛保2年(1742)萩藩奥阿武代官伊藤政右衛門が奉納した手水鉢があり、寛保4年(1744)の石灯籠などがある。
須賀原神社
 市場川に架かる坂手橋を渡り、市場の信号で9号線を横断して進むと、右手に「法界」と刻まれた石仏がある。
法界
 その先で再び9号線を横断して進むと、「野坂御番所跡」がある。野坂は長門国〈長州藩)と石見国〈津和野藩)の国境の地で、長州藩では慶長13年(1606)徳佐下山の藤井孫兵衛に御口屋番を命じ、旅人や通過物資の監視に当たらせた。貞享3年(1686)御口屋番が御番所と改められ、毛利氏から藩役人を差し向けて任にあたらせ、明治2年御番所が廃止されるまで存続したと説明されている。
野坂御番所跡
 右手に野坂堤があり、それの端から9号線と分岐して左斜めへ旧道は伸びているのでこれを進む。
野坂堤
 やがて野坂峠の頂上に来る。ここが山口県と島根県の境だ。
山陰道はこれからも続いているのだが、とりあえず山口県の山陰道を石州街道として分割して掲載することにしたため、ここで一旦区切ることにする。
野坂峠
 14時54分、野坂峠を通る。

 本日の歩行時間   6時間30分。
 本日の歩数&距離 41250歩、28.2km。

 山陰道〈石州街道)総合計
 総歩行時間  16時間16分。
 総歩数    94289歩。
 総歩行距離  64.2km。
 石州街道純距離 57.7km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)


*今日はこの後島根県に入り、津和野まで歩いて終わったが、その分に関しては後日島根県の山陰道として別途掲載させていただきます。 

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