山陰道(石州街道)を歩く

2010年03月02日(火) ~2010年04月07日(水)
総歩数:94289歩 総距離:64.2km

2010年03月02日(火)

小郡~山口札の辻~杖坂峠~長門峡

                      曇

 今回歩いた道は萩藩小郡から野坂を経由して石見国へ至る道である。萩藩は県内の主要道を大道、中道、小道に区分して管理・維持していたが、この道を大道としており、萩藩における主要道のひとつであった。猶、名称に関しては山口県歴史の道調査報告書ではこの道を「石州街道」としているが、島根県歴史の道調査報告書では野坂以降のこの道を山陰道としているので、ここでは山陰道で統一し、ただし山口県内ということが分かるように山陰道(石州街道)というようにした。山陰道は小郡で山陽道と合流して下関まで続いているのだが、小郡~下関間は既に山陽道を歩いた際に踏破しているので、今回は小郡から歩くことにした。

 山陰道と山陽道の分岐点は津市上と田町の境界に位置する津市角の交差点で、そこに「右 京江戸」「左 萩山口石見」裏面に「牛馬繋事無用」と刻まれている。
津市角
 もっともこの道標は複製されたもので、原物は周辺地造成中に破損したため、近隣民家に保存されているということだ。ここは山陽道を歩いた時にも通っており、HPに写真も掲載しているのだが、どうも記憶が朧だ。僅か一年ちょっと前なのに。。。これも老化現象の一端か。
 ここを7時33分に出発する。このあたりは昭和の30年代までは旧商家が数多く残っていて、往時の面影を残していたそうだが、現在ではほとんど残っていない。

 蔵敷に入ると左手に「火除け地蔵」があり、第十一番の標識がかかっている。これは蔵敷区内の11戸が持ち回りで当屋となり、毎年8月24日に供養を行っているという。
火除け地蔵
 街道右手を水路が並行しているが、これは椹野川の林光井手から分流する上水門用水路で、寛文4年(1664)勝間田開作の新田に灌漑するために起こされたものということだ。
 交差点の左手横に「淡島大明神」がある。かっては中領八幡宮参道脇に祀られていたが、昭和57年に地区住民によって現在地へ建てられたということだ。御神体と思われる木札には「謹請粟島大明神安置守 明治32年旧9月」と書かれている。
淡島大明神
 柳井田交差点を渡って進むが、この交差点が「柳井田関門跡」だ。文久3年(1863)に山口防衛のため、このあたりに砲台場を築き、台場と街道筋の出会うところに関門を設けて他国人の進入を禁止したという。
四十八瀬川に架かる柳井田橋を渡って左折、すぐ先を右折する。振り返ると旧道の延長線上にこの道が伸びていることがよく分かる。
 旧道を進んでいくと、左手に海善寺があり、その先で9号線を横断、右手に上郷駅があり、その先の上郷踏切でJRの線路を越えて椹野川沿いの道に出て川に沿って進む。その先、仁保津の踏切でJRの線路を越えて9号線に接するが、9号線のICがあるところは車道しかなくて歩けないので、その横にある自転車道を歩き、中国自動車道の高架下を通った先で9号線に合流する。
 仁保津の信号のところ、9号線の左手に大きな家がある。ここが幕末期の豪農林勇蔵の住宅で本屋と蔵が部分的に補修、改築された状態で現存している。
林勇蔵の住宅
 朝日ヒルズ前というバス停がある先の信号から右折、朝田第2踏切でJRの線路を横断してすぐ先を左折、田んぼの中の舗装道を進む。このあたりの街道は堤防拡張の関係もあって半分近くが削りとられて農道化したという。
 右手に鉄塔が立っている横、左手に「山伏さま」と呼ばれている祠がある。昔、ある大名の家老と家臣の間でいさかいがあり、敗れた家臣が山伏に変装して落ち延びる途中に討ち果たされ、その妻も後を追って自害したことから、地元の人が憐れんで両人を祀ったと伝えられているということだ。祠の中には石仏が二つおかれていた。
山伏さま

 その先、二股に道が分かれているところがあり、直進するとすぐ先左手に和田地区公会堂がある。その前に明治23年ごろに建てられたいう「大神宮」と刻まれた常夜燈とその横に地蔵尊がある。
大神宮
 ここから右折してすぐ前で二股に分かれた右方向へ進む道に入る。右手にクリーニング工場がある前を道なりに進んでいくと土道の農道になるが、そのまま直進する。今日は朝から肌寒い。まだ3月に入ったばかりなので当然なのだが、先日の暑いような日からみると様変わりだ。
 その先、草道が一旦終わり、舗装された道になったところに十字路があり、街道をはずれてここを右折して進むと椹野川に突き当たり、水門がある。このあたりに「赤崎大明神」があるはずだがと思いながら探すがわからない。しかたがないので街道に戻って地図を見ながら進んでいると通りかかった車の中から地元の方が話しかけてきたので、お聞きすると、先ほどの水門から右手へ少し行ったところにあると教えていただいたので、元に戻ってみるとあった。これは三作地区の鎮守で横に五輪塔や地蔵尊があった。地蔵尊の台座には「三界萬霊」と刻まれていた。
赤崎大明神
 街道に戻って再び土道を進み、吉敷川に架かる大歳橋を渡る。渡って左折した左手の最初の家の庭に「庚申」と刻まれた庚申塔があった。字が深く掘られている。
庚申
 黒川市の街中を直進すると左手に「恵美須神社」がある。これは建立の由来も作者も不明ということだが、大内時代からあった古い恵美須といわれている。このあたりは室町時代から市が立っており、商売繁盛の神として祀られていたようだ。
恵美須神社
 このあたりの街道は一直線に伸びているが、右手少し入ったところに周防五の宮である「朝田神社」がある。大歳村にあった一郷社、六村社が、明治39年に発令された神社整理に関する内務省令によって現在地に合祀されたということだ。
朝田神社
 下湯田踏切でJRの線路を横断して直進するが、左手に大歳分団一斑消防機庫があるところから左折、すぐ先で右折して進む。道路はこれまでと違って細くなっており、彎曲しているので、地元の人はこの道路を「大曲り」と呼んでいるそうだ。昔は椹野川が大きく蛇行してこのあたりを流れていたので、それに沿って街道が付けられた名残りだといわれているそうだ。
大歳分団
 このあたりを周布町と呼んでいるが、これは幕末期、萩藩の重臣として大きな功績を残した周布政之助に因んで付けられた町名ということだ。幕府の長州征伐にあたって、萩藩では俗論派が威をふるい、急進派の志士を遺責したが、周布も謹慎を命ぜられ、大歳の大庄屋吉富家へ軟禁された。しかし周布政之助は元治元年(1864)身を持って藩内の紛争を防ごうとして遺書を残して自刃したという。右側に周布公園があり、その中に「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」と刻まれた大きな顕彰碑が立っている。
周布町
 大曲りした道が直進した道と合流した少し先左手に「世外井上馨侯遭難之碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。元治元年(1864)幕府は京都蛤御門の変を理由に長州征伐の軍を進めたが、長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきとする保守派が少壮有意の正義派をしりぞけ責任者を処罰した。9月25日藩主の前で開かれた会議で井上馨は恭順派と争い、武備を整えて幕府に対すべきだと主張したため、湯田の自宅への帰路、この地で反対派の壮士に重傷を負わされたが、幸い一命はとりとめたという。周布政之助の死はその翌朝だったということだ。
井上馨侯遭難之碑
 左手に「長寿寺」がある。ここは以前慈観堂という千体仏のある伽藍だったが、当時領主であった大内義興公が病気がちで隣国の兵乱にも出馬鎮圧できぬことを憂い、この慈観堂に病気平癒の願書を納めて祈願したところ、病気が快癒したため、御書を下された。その中に「長き寿」と祝われたので、大永2年(1522)融稟慶俊上人を開山上人として長寿寺と号すようになったという。
長寿寺
 そのすぐ先から街道は西門前アーケードに入っていく。アーケードの中ほどにある一の坂川に架かる安倍橋を渡る。この橋の右手下流に「史跡安倍本陣之跡」という石碑が立っている。江戸時代に山口の大年寄を勤め、本陣でもあった豪商安倍家がこのすぐ近くにあり、橋の修理、架け替えなどを行っていたという。
安倍本陣
 右手に「本圀寺」がある。ここは文和2年(1353)大内氏24代弘世公によって武運長久の祈願所として創建されたもので、西国(中国・四国・九州)で日蓮法華宗最初の道場ということだ。
本圀寺
 その先に山陰道(石州街道)と萩往還の交点である「札の辻」がある。何らかの道標があるのかと思っていたが、電柱に「萩往還道」「札の辻」と書かれたあまり大きくない看板がかかっているだけだった。
札の辻
 そのすぐ先、左手に「万福寺」がある。ちょうどお寺の奥さんがおられたので、黒地蔵のことをお聞きすると、本堂を開いて見せてくれた。これは天文19年(1550)に大内義隆が願主となって仏師覚継によって制作されたもので、全身に黒漆が施されていた。右手を頬に当て、右ひざを立て、左足を踏み下げる姿勢をとっており、この姿勢の地蔵菩薩は延命地蔵菩薩といい、南北朝から室町時代にかけて流行したものという。しばらく奥さんと話をしてお別れしたが、思いがけず実物を拝むことができてよかった。
黒地蔵
 街道を直進すると突き当たりに「石観音堂」がある。境内には天保7年(1836)と刻まれた猿田彦や石仏、延命地蔵等が祀られている。
石観音堂
 ここから直角に左折して進み、204号線を横断した先右手に「今八幡のお旅所」があり、庚申塔が立っている。
今八幡のお旅所
 次の信号を右折して進むと、左手少し入ったところに「聖ザビエル記念公園」がある。天文20年(1551)山口を訪れたフランシスコ・ザビエルに大内義隆は布教の許可を与え、ザビエルの住居に廃寺だった大道寺を与えた。明治22年、フランス人アマトリウス・ビリヨン神父がザビエルの遺跡、特に大道寺について探求し、この地がその跡と考えて有志の協力でこの土地を買い求めた。詩人中原中也の祖父中原政熊もその一人だったという。大正15年高さ10mの花崗岩にザビエルの肖像をはめ込んだ記念碑が建立されたという。
ザビエル記念公園
 またここには大内義長がザビエルの弟子トルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にした碑が立っている。
大内義長
 左手に「仁壁神社」がある。ここは創建年月は不明だが、延喜式神名帳にも掲載されている古社で周防三ノ宮ともいわれている。明応6年(1497)大内義興は九州の戦陣から帰り、防府の玉祖神社、徳地の出雲神社、この仁壁神社といった五社を参拝した。この参拝の順に一の宮、二の宮、と呼んでいるということだ。元禄12年(1569)に焼失、その後再建、焼失を繰り返し、享保5年(1720)に再建されたという。このあたりを宮野と呼ぶが、その地名の起こりとなったという。
仁壁神社
 262号線の高架下を通り、宮野桜畠の信号で204号線に合流する。左手に山口県立大学を見ながら進み、その先で道は二股に分かれているのでこれを左斜めへ進む。
道は二股
 左手に宮野中学校を見ながら進み、その先宮野下歩道橋で204号線を横断して204号線から分岐して右斜めへ進む。
 左手に宮野小学校があるところで右折、そのすぐ先から左折して進む。その先で直進した道に合流する。
 河原公園前バス停があるところ、左手に文化9年(1812)と刻まれた石灯籠が立っている。
石灯籠
 道なりに進んでいくと、9号線と交差するのでこれを横断、直進するのだが、街道から外れて宮野新橋を渡ったところの左手に「義少年合同の碑」が立っている。このあたりは昔から稲田の水争いが絶えなかったが、寛文3年(1663)の旱魃の時、二人の少年が萩藩へ直訴、水の配分について話し合って解決した。しかし当時は藩主への直訴は罪となることから、二少年は死罪となったため、村人はその死を悼み、石仏を建てて供養した。
義少年合同
 この碑の横に「一ノ井手改築記念」碑があるが、昭和50年に関係者により合同碑として建立されたものである。
 街道に戻って進むと、左手に「龍王社」がある。ここには社殿を囲むようにしてムクの巨木が5本あり、最大のものは根回り約8m、高さ約25mあるという。この巨樹群は山口市の指定天然記念物に指定されている。
龍王社
 椹野川に沿って進んでいき、椹野川にかかる橘橋を渡って196号線を横断、その先の二股を左へ進む。
椹野川にかかる橘橋
 右手に地蔵尊と五輪塔、石灯籠がある。永禄12年(1569)の大内輝弘の乱の際、高嶺城を守備する毛利方への援軍として津和野から来た吉見正頼方の軍勢が宮野口の当地で戦い、赤木余次郎、伊藤左近等が戦死したその墓だという言い伝えがあるという。
地蔵尊と五輪塔
 左手に山口ユースホステルが見える。ユースホステルは学生時代利用したことがあるが、卒業して以降利用したことがない。なんとなく当時のことを懐かしく思い出しながら進んでいく。
 このあたりから杖坂川に沿って山の中へ入っていく。畑があるので、だれか耕しているのだろうが、だれもいない。静かだ。
杖坂川
 道が二股に分かれているところがあり、そこに「クマ注意」の看板が立っていた。中山道や奥州街道では何度も見た看板だが、山陰では初めてみた。これから先、こういった標識に何度もお目にかかるのだろう。ここは右へ進む。
クマ注意
 杖坂の小さな集落があり、左手階段を登ったところに「河内社」がある。宝暦10年(1760)と刻まれた地蔵尊が立っており、鳥居には天保7年(1836)と刻まれていた。
河内社
 資料によると、ここから二股に分かれた道の右側が石州街道ということだが、現在は歩くことができないようなので、川沿いに伸びる左側の道を進む。 
 このあたりから次第に上り坂になっていく。左手小高いところに「馬頭観音」がある。このあたりは左手は崖、右手は深い谷になっており、昔はかなりの難所だったのだろう。
馬頭観音
 更に坂を上って行くと9号線と262号線が交差しているところに出るが、そのまま直進する。交差点あたりに数軒の店があったが今日は火曜日で定休日だった。その先左手に「国境の碑」が立っている。「南 周防国吉敷群」「北 長門国阿武群」と刻まれている。ここが海抜370mの大峠と呼ばれる周防と長門の国境になるのだ。ここから道を下っていく。
国境の碑
 左手階段を上ったところに「神明社・河内社」がある。神明社の鳥居には文政2年(1819)と刻まれており、河内社の鳥居には文政12年(1829)と刻まれている。横に猿田彦が立っているが、昭和7年となっている。昭和に建立されたものは珍しい。
神明社・河内社
 右手に9号線が見えてきたところ、左手に「馬頭観音」と地蔵尊がある。馬頭観音は二体あるが、以前は三体あったそうで、一体は盗難にあったということだ。
馬頭観音は二体
 その先、左手に「文殊堂」がある。本尊文殊菩薩については「寺社由来」の海禅寺の項に当寺抱えの文殊堂とした上で、「施主吉賀十郎兵衛(篠目の庄屋)の先祖、先年深田より掘り出し、威霊の印有り、深田文殊と申し伝え」という記述があるという。境内には明和2年(1765)造立の延命地蔵、猿田彦、寛延3年(1750)造立の廻国塔がある。
文殊堂
 その先で篠目川に架かる乱橋を渡る。里伝によると、敵が攻めてくればすぐに落とせるような橋、すなわち乱れた橋(粗末な橋)から名づけられたという。
乱橋
 街道は9号線と合流、少し先から9号線と分岐して右斜めへ伸びる道を進む。
街道は9号線
 右手に「万霊塔観音堂跡」という標識が立っており、その横に三界万霊が立っている。資料によると昭和初年まであった観音堂および庵の参道入口に立っているとなっている。元禄15年(1702)と刻まれているそうだが、読み取ることはできない。国境の大峠からこの万霊塔までそれぞれに標識が立っているが、裏をみると史跡めぐりH21と書かれており、何かの行事があった際立てられたものなのだろう。
万霊塔観音堂跡

 その先で310号線に合流し、これを進む。左へ分岐する道があるが直進し、その先で左折、細野第1踏切を渡る。
 平谷川を渡って左折、川沿いの道を進む。右手に安政5年(1858)と刻まれた猿田彦がある。
刻まれた猿田彦
 舗装された道を進んでいくと、物見ケ岳登山口という看板が立っているところで道は二股に分かれており、これを右へ進む。
 しばらく歩いていくと、右手に山へ入る道があるので、これを進んでみた。阿東町の方から教えていただいたところによると、これから先はかなり道が荒れており、やがて全くの藪状態になっていて、その先は歩くことができないということだった。
阿東町の
入口ははっきりとわかったのでしばらく進んでみたが、やはり相当に荒れており、これ以上進んでも歩くのは無理だと思って引き返し、9号線を歩く。
右手に山
 ここまで来たところで雨が降ってきた。駅まで後僅かのところだったので、急いで駅に入る。幸い雨はこれ以上ひどくはならなかった。
 17時19分に長門峡駅に到着する。ここも無人駅だ。封鎖された窓口に「人件費でない」と書かれていた。
人件費でない


 本日の歩行時間   9時間46分。
 本日の歩数&距離 53039歩、36km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん