萩往還を歩く

2010年03月17日(水) ~2010年03月18日(木)
総歩数:86976歩 総距離:62.8km

2010年03月17日(水)

萩駅~明木~一升谷~佐々並

                     晴れ

 萩往還は関が原の戦いで敗れた毛利氏が萩に居を移した後の慶長9年(1604年)、城下町萩と主要街道である山陽道とを連絡する参勤交代道として整備をされた。またその他に日本海側の萩と瀬戸内側の商港であった中関港を結ぶ役割もあったという。
 9時35分に萩駅に到着、歩き始める。萩往還は唐樋札場が出発点だが、先日赤間関街道(北浦道筋)を歩いた際、萩駅から唐樋札場まで既に歩いている為、今回は萩駅からの出発とした。
 駅の前を右折、最初の信号を右折して跨線橋を渡り、次の信号で左折、すぐ先を右折する。その角に「茶臼山と面影山」の説明書があり、それぞれの頂上には中世の砦跡の石垣が残っていて、これは鎌倉時代、元寇に備えて築かれたといわれていると書かれている。
 ここから山へ向かって直進する。左手に標識が立っており、涙松跡まで1.4kmと記されている。
涙松跡まで 
 この標識はこれから先も頻繁に立っていた。ライトブルーの色が目に付きやすくて遠くからでもすぐに分かり、また次の史跡までの距離が書かれているので、非常に役に立った。
 左手に「前原騒動の慰霊碑」が立っている。この碑のすぐ手前に六本杉があり、萩の乱の際、このあたりが激戦地となり、吉田松陰の甥の吉田小太郎もここで戦死したということだ。多くの若者の死霊を弔うため、地元の人がこの碑を建てたという。
前原騒動の慰霊碑 
 その先、大屋川に架かる観音橋を渡って進むと、左手に漆喰壁と格子のある旧家がある。いかにも萩らしい雰囲気の家だ。漆喰壁と格子 
 右手に「涙松遺跡」がある。江戸時代萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は大屋から左へ折れるので城下のみえるのもここが最後となる。そのため松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すので、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいた。吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一人ぬるる涙松かな」と詠んで有名になったという。
涙松遺跡
 左手に「猿田彦神」と書かれた木が無造作に置かれている。4年に一度、当家になった方が納め、豊作を祈念するということだ。
猿田彦神 
 左手に祠があり、萩八十八箇所の第八番札所となっている。毎年4月21日はお祭りになっており、立ち寄った人皆にたけのこや小豆ご飯等が接待されるという。祠の横にあるお地蔵様の顔が白く塗られていた。
第八番札所 
 その先で道は二股に分かれているが左へ直進する。
 右へ下る階段があり、その先で車道の下のガードを通って進む。ここにもしっかりと標識が立っている。
右へ下る階段 
 ここから土道になる道を進んでいくと、当時の姿を残している「悴坂一里塚」がある。ここは唐樋札場から最初の一里塚で、周囲を玄武岩の石垣で組み、内に土を盛った小山だ。台上に立てられた塚は木であったと思われていると説明されている。
悴坂一里塚 
 右手に「栗山孝庵女体解剖の跡」碑が立っている。宝暦9年(1759)藩医だった栗山孝庵によって日本で始めて女体解剖が行われたという。ここは大屋刑場跡だったということで、刑死者を供養するための石地蔵が建っている。
栗山孝庵女体解剖の跡 
 舗装された道にでると、右手に松蔭記念館と、道の駅萩往還公園がある。ここから左斜めへ進む。
松蔭記念館 
 その先で山道に入るが、ここにもしっかりと標識が立っているので間違うことはない。ここはトンネルの上を通ることになる悴坂だ。山道ではあるが、きれいに整備されていて、歩きやすい。近くで鶯の鳴き声が聞こえて長閑だ。
その先で山道 
 急坂を上り、その先で一気に坂を下り、更にもう一度坂を上ったところに「悴坂駕籠建場」が復元されている。ここには駕籠を置く切芝の台二ヶ所とその周囲に柴垣を設け、近くに便所を設けていたと説明されている。
悴坂駕籠建場 
 ここから急な階段を下っていく。
 山を下って舗装道路に出たところ、右手を見ると、「鹿背隧道」が見える。これは悴坂峠を貫通する隧道で、明治16年に着工、翌年開通したということだ。
鹿背隧道 
 ここは隧道とは反対側へ進み、すぐ先で舗装道から分岐して左へ下っていく。ここにも標識が立っている。道の端には先日降った雪が僅かだが残っていた。
 横には小川が流れており、せせらぎの音が聞こえる。静かで気持のいい道だ。ここには所々に石畳が残っている。
石畳 
 右手に「烏帽子岩」がある。大きな岩だが、幕末の慶応元年(1865)藩内の保守派と推進派が争い、香川半助と冷泉五郎の首と睾丸がここに晒されたと資料に書かれている。
烏帽子岩 
 今回の資料は国土交通省から入手した「萩往還散策マップ」を使用しており、写真入りで詳細な資料になっている。
 山を下り、阿武川沿いに進んでいくが、風が強く、空気が冷たい。山の中だけに冷え込みも厳しい。
 右手街道に背を向けた形でお地蔵様がある。
背を向けた 
 左手に「吉田松陰の歌碑」が立っている。藩政時代の明木橋はここから約1kmほど上流にあったのだが、なぜかここへおかれているという。「少年有所志 題柱学馬卿 今日檻與返 是吾晝錦行」と刻まれている。
吉田松陰の歌碑 
 静かな山沿いの道を進んでいくと、右手に昔、湧き水の出ていた所がある。ここは冷蔵庫としても利用されていたということだ。
冷蔵庫 
 明木川に架かる明木橋を渡る。幕政時代の明木橋もこのあたりにあったということだ。ここにもさきほどあった吉田松陰が安政元年(1854)10月24日、この明木橋を過ぎるにあたり詠んだという詩が書かれた案内板が立っていた。
 右手に「乳母の茶屋」があり、ご自由にお入りくださいとなっていたので、ここで11時半とちょっと早いが昼食にする。今朝は早かったのでパン、昼食もお店がなさそうだったので(実際お店はなかった)パンを持参してきており、朝、昼合計で八個のパンを食べた。とにかく空腹を感じなければそれだけで満足な私なのだ。ここは御茶屋の跡地という説明がなされていた。
乳母の茶屋 
 右手に「瑞光寺」がある。ここの山門は立派だ。
瑞光寺 
 その先、右手に倉床商店があるが、ここの看板には大きな文字で「萩往還」「一升谷入口」と書かれていて、いい目印になる。
倉床商店 
 ここから左折して進むと一升谷に入っていく。その曲がり角、左手に道標が立っていた。慶応3年(1867)の建立という。
道標 
 その先右手に赤間関街道中道筋との分岐点があり、その左側に祠と庚申塔が立っていた。
赤間関街道中道筋 
 中道筋も近々歩く予定にしているので、場所をしっかりと記憶しておく。右手少しはなれたところにある明木小学校を見ながら進み、262号線のガード下を通って進むと、土道になる。すぐ右手を小川が流れており、水がきれいだ。
 一升谷の案内板が立っている。一升谷は明木市から釿切までの約3kmの上り坂で、長く急な坂道のため、この坂道にとりかかって炒豆を食べ始めると登り切るまでに丁度一升なくなることからこのように呼ばれることになったといわれている。またここには石畳が残っており、昭和の初め頃までは道松とともに諸所にみられたという。実際登ってみるとたしかに長い坂だったが、標高差300mということで、さほど急坂という感じではなかった。
 左手に「町田梅之進 自刃の地」という案内板が立っており、そのすぐ後ろに碑があった。町田梅之進は旧山口藩士族で、明治9年前原一誠が起こした萩の乱に加わり、明治10年には西郷隆盛軍と合体しようとして県庁軍と戦ったが負傷し、この地で刀を喉に突き立てて自害したという。行年30歳という若さだった。
町田梅之進 自刃の地 
 またその後ろに「行司の墓」があるが、これは東京の行司であった木村久治が明治10年に旅の途中でこの地で病死したということだ。
行司の墓 
 その先に「金ケ浴」の標識が立っているが、昔、大泥棒が処刑されるとき、一升谷の中間地点に盗んだ千両箱を埋めたらしいという埋蔵金伝説があるそうで、まだ発見されていないということだ。このあたりまで来ると道の端に雪が残っている。
 その先で「倒木危険のため通行禁止」の札が下がっている。3月10日に山口地方を襲った大雪でかなりの被害が出たようだ。
通行禁止 
 ただ、もう八合目を過ぎており、ここまで来て引き返すわけにもいかないので、そのまま進んでいった。
 たしかにかなりの木が道に倒れかかってはいるが、道はしっかりとしており、注意さえすれば特に問題はなかった。
木が道に 
 13時8分に頂上に到着、下り始める。暫く下ると橋が流されたようで、工事が行われていた。幸い迂回する道があったので、それを通って進む。資料を見ると根の迫石橋ではないかと思った。
根の迫石橋 
 262号線のガード下を通るとその先で三本に道が分かれており、その真ん中の道を進む。ここにも標識が立っている。
 その先左手に「庚申」と刻まれた明治19年建立された庚申塔が立っていた。
庚申 
 左手に「御駕籠建場と桜茶屋」の看板がある。萩往還では悴坂、釿切、日南瀬、一ノ坂、柊、鯖山の六ヶ所に御駕籠建場が設けられており、それぞれに道との境を柴垣で区切り、駕籠すえ台二基と仮設便所があったという。ここで出されるお茶は塩漬けされた八重桜だったことから「桜の茶屋」とよばれたということだ。
 左手に「中ノ峠下一里塚」がある。萩から三里目の一里塚だ。
中ノ峠下一里塚 
 その先で左折するのだが、ここにも標識が立っているので、それに従って進む。
標識 
 ところがここでも通行止の札が下がっており、しかもここは柵が閉められている。これは困ったぞと思いながら、そばまでいってみると、「萩往還を歩かれる方へ この門を開けて通ってください。ただし必ず閉めてください」と書かれた札が下がっていたので、鍵を開けて進む。ここも先ほどと同様に倒木があったが、道はしっかりしているので難なく通ることができた。
通行止の札 
 山道を進むとその先で262号線に合流、これを進んでいくと、釿ノ切峠405mの標識がある。少し262号線を下り、左折、すぐ先を右折して階段を下っていく。ここにも標識がしっかり立っているので間違うことはない。
ところがここにも柵がしてあり、しかも半ば倒れかかっている。ただ、ここも先ほどと同じ「萩往還を歩かれる方へ」という札があったので横から柵を越えて進む。柵が倒れかかっていたので、何とかできないかと思って立て直そうとしたが、腰をすえてやらないと無理なようなのでそのままにして進む。ここにも石畳が残っていた。
柵 
 その先も標識が随所に立っているので、それに従って進めばよく、地図を見なくても大丈夫だ。よく整備されていて歩きやすい。
 「落合の石橋」がある。これは橋長2.4m、橋幅1.7mの石造りの刎橋だ。刎橋とは石組みの両岸から片持梁の役割を果たす柱状の石材が桁として突出し、その上に板石をのせた形態の橋でこの造りは山口県特有のものということだ。
落合の石橋 
 千持峠を越える。このあたりも標識が立っているので、それに従って歩けば迷うことはない。山を下っていくと舗装された道に出るので、これを左折して進むと、左手に西岸寺がある。佐々並川に架かる佐々並橋を渡ると、今日の宿である林屋旅館がある。時計を見るとまだ14時44分だ。早めに着くことは予想していたので、とりあえず挨拶だけでもしておこうと思ったが、だれもいなかったのでそのまま先へ進む。
 旅館の先から左折、突き当たりを右折すると、すぐ先左手に「佐々並市頭一里塚」がある。萩唐樋札場から四番目の一里塚だ。
佐々並市頭一里塚 
 左手に「貴布禰神社」がある。ここは大内氏の建立と伝えられているが、由緒、年号は不詳ということだ。京都貴船山中の貴船神社を勧請したものと推定され、水事を主宰する水の神として祈雨、止雨に霊験があったという。
貴布禰神社 
 その先で262号線に合流、右手に「吉田松陰先生 東送通過之地」という石碑が立っているところに中作のバス停があるので、時間的にはまだ早いのだがここで今日は終わることにする。
吉田松陰先生 東送通過之地 
 事前の調査でここから佐々並までJRのバスが通っていることを調べていたのだ。これから先の街道はバスの通る262号線と分かれてしまうし、タクシーもこのあたりにはないので、これ以上進むと佐々並まで戻ることができないのだ。
 15時26分、中作バス停に着き、15時43分のバスで佐々並へ引き返し林屋旅館に入る。
 この旅館は萩往還沿いにある唯一の旅館ということで、夕食の時、ここの大女将さんが色々と話をしてくれた。大女将さんは昭和17年にここへ嫁いでこられたそうで、その頃はこの通りの人通りは多く、宿屋も数軒あったということだ。40代でご主人がお亡くなりになり、それから女手一つで旅館を支えてこられたそうで、今年米寿を迎えられ、今ではお嫁さんに仕事を譲られているそうだが、まだカクシャクとされていてお元気だ。

 本日の歩行時間  5時間51分。
 本日の歩数&距離 28970歩、20.5km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん