萩往還を歩く

2010年03月17日(水) ~2010年03月18日(木)
総歩数:86976歩 総距離:62.8km

2010年03月18日(木)

佐々並~防長国境~山口~鯖山峠~宮市~三田尻

                    雨後曇

 朝、宿を出ると雨が降り出している。つい数日前までは昨日、今日と快晴の予報が出ていたのに・・・と恨めしく思うが、仕方がない。もっとも昨日歩いた感覚では萩往還はきれいに整備されており、藪コギはなさそうなので、雨が降っても大丈夫だろうとこのときは思った。佐々並からバスに乗って昨日歩いた中作まで行き、7時22分に出発する。
 262号線から右折、すぐ先を左折して進むと左手に「日南瀬の首切れ地蔵」がある。昔、渡辺という武士が囲碁の争いから相手方に討たれたので、渡辺の下僕の源助はそのことを悲しんで毎日墓参をしていた。ある時、ここで休んでいると、地蔵菩薩が現れて、この下に地蔵が埋まっているので、それを掘り出せば願いが叶うといった。周囲を掘ってみると本当に地蔵が出てきたので、これを手厚く供養した。その後、幼主も成長してめでたく仇を討ったので、この地蔵尊のお陰と参拝者が増えたという。この地蔵尊は最初から首がはなれていたので首切れ地蔵と呼ばれているということだ。
日南瀬の首切れ地蔵 
 そのすぐ横に「日南瀬の石風呂」が復元されている。これは風呂の原型というべきもので、石を組んで石室をつくり、土を覆ったものだ。中で火を焚いて底の石を焼き、その上に萩の海岸から運んだ海草を敷き、その上に着物を着たまま休んでいたという。今日のように湯を使うようになったのは江戸時代中期以降といわれていると説明されていたが、着物を着たままでは湯上りのさっぱり感は感じられないだろうし、身体についたほこりや汗はその当時はどうのようにしてぬぐっていたのだろう。
日南瀬の石風呂 
 62号線に合流、右折して進むと左手に「上長瀬一里塚」がある。ここは五番目の一里塚で、ここと悴坂のものはほぼ原型に近い形で残っている。 
上長瀬一里塚 
 左手に「逆修石」がある。一の坂金山を管理していた宇田川備後守がなかなか金、銀を掘り当てることができずに困っていたが、ある日、夢で太陽が懐に入る夢をみたことから、再び掘ったところ大量の銀を掘り出したと伝えられている。慶長の初めから元和5~6年(1619~1620)頃が盛んであり、寛永11年(1634)に宇田川備後守がこの逆修を立て、施行したころが終わりであったという。
逆修石 
 すぐ先、左手に「猿田彦」が岩の上に置かれていた。
猿田彦」が岩の上 
 62号線を進んでいくが、3月10日の大雪でいたるところで木が折れていたりしてかなりの被害が出ていることがよく分かる。佐々並では膝の辺りまで雪が積もっていたということだった。あれから大分日にちが経過しているが、現在でも道の端にはかなりの雪が残っていた。
折れた木 
 実は3月10日以降に天気のいい日があったので、歩くことが出来るか問い合わせをしたところ、山はまだ雪が残っていて歩くことは難しいという返事だったので、歩くことを控えていたのだ。現在でもこの様子では、当時は歩くことは困難だっただろうと改めて思った。
雪 
 坂堂峠を登ったところ、左手小高いところに周防と長門の「国境の碑」が立っている。この碑には「南 周防国 吉敷郡」「北 長門国 阿武郡」「文化5年戊辰11月建立」と刻まれている。
国境の碑 
 ここで道を間違った。一旦国境の碑を左に見ながら階段を下ったのだが、下ったところにある標識に萩への方向には「歴史の道 萩往還 萩まで25km」と書かれているが、これから進もうとする方向には「防府市まで 27km」とだけ書かれていて、萩往還の文字が書かれていない。これまできちんと書かれていたので、これはおかしいなと思った。
  もう一度国境の碑まで戻ってみると、そこから下へ下る道があり、「点検中のため、使用禁止」と書かれた札が下がっていた。
点検中
 前日も通行禁止という札がかけられていたが、特に問題なく歩くことができたので、ここもそうだろうと思って下っていくと、たしかに道が続いている。そのためどんどん山を下っていった。ここも倒木がかなりあり、しかも今日は雨が降っているので、道を塞いでいる倒木の葉がぬれているし、傘が邪魔になる。坂も滑って歩き難い。これまで萩往還はきちんと整備されていて、歩きやすい道になっていたが、ここだけは例外かな、と思いながら下っていった。ただ、どうも様子がおかしい。これは道が違うかなと思いながら更に下っていくと、「山神社跡」の標識が立っており、そこに「この先は山道で迷いやすく危険なため、地図などをお持ちでない方はこれより奥には進まないでください!」と書かれている。やはり道を間違えていたのだ。
 そこでもう一度坂を登って、国境の碑が立っているところまで戻り、ひょっと道路の反対側を見ると、「東鳳翩山登山口(21世紀の森コース)山頂まで90分」と書かれた標識が立っているが、萩往還の文字はない。
東鳳翩山登山口 
 ただ、階段の手前に「萩往還 ⇒」と書かれた標識が立っている。しかも階段の入り口には倒木があって、入りにくくなっている。これを見た時、階段は登山コースだと思い、更に萩往還の標識はここから萩の方向を示しているのだと思い、この階段は萩往還ではないと思ってしまった。ここで地図をしっかり確認すればよかったのだが、それを怠ってしまった。後からみるとなんでこんなところで間違えたのだろうと思うのだが、間違える時とはこういうことなのだろう。そのまま62号線を進んでしまったのだ。
 その先に標高511mの標識があり、そこに21世紀の森の事務所があったので、そこへ行って道を聞き、ここで初めて先ほどの階段が萩往還であることが分かったので、引き返す。この間1時間20分ほど無駄にしてしまったが、このロスタイムが最後の段階で大きく影響を及ぼしてしまった。
 もう一度先ほどの階段のところに戻って進むと、ここもきれいに整備された道だったし、標識もしっかり立っていた。その先で一旦62号線に合流するが、そのすぐ先で再び階段があり、これを上って行く。歩き終えた後で分かったことだが、萩往還に関しては全てきれいに整備されていて藪コギやそれに類するような道はないということだ。
再び階段 
 ここにも何カ所も石畳が残っている。ここは国内一の坂道ということから「一の坂」と命名されいる。雨が降ると土砂が流れるため、石畳を敷き詰めたということだが、逆に今日のように雨が降って濡れていると滑るので、注意をしながら下っていく。
 左手に「キンチチ”ミの清水」がある。とても冷たい水でこの先にある六軒茶屋のトコロ天の水として使われていたということだが、キン○○がチチ”ミあがるほど冷たい水という意味なのだろうかと勝手に想像する。
キンチチ”ミの清水 
 御駕籠建場の案内板が立っている。この場所は昭和の初め頃までは草原で見晴らしがよく、萩方面から来ると最初に山口が見え、晴れた日には遠く九州の山々まで見えた場所ということだ。現在は桧、杉に覆われている。現在と比べると昔のほうが人の手が入っていないので鬱蒼とした木々に包まれていたと思いがちだが、ここのように植林によって森になるという場合もあるのだ。
 その先、左手に「一ノ坂一里塚」が復元ざれている。昔は塚木に「北方 従萩唐樋札場 六里」「南方 従三田尻船場 六里」と記されており、ちょうどここが萩往還の中間点だったことがわかると書かれていた。
一ノ坂一里塚 
 これまで歩いてきた時間を計算すると、なんとか今日中に三田尻に着きそうだ。

六軒茶屋が復元されており、ここはかっての御茶屋跡とされているが、同じ場所に「この場所は庶民の地で、昔からこの奥に一ノ坂御水茶屋という御駕籠建場があり、何故この場所を六軒茶屋というのか県に再調査を願ったが無視された」と復元に協力した地主が異議申し立てを行っている看板が立っていた。街道を調査していると、街道がどこを通っていたかで人によって意見が分かれているところが多々あり、この場所のようなケースもそれぞれの地域であるようだ。
六軒茶屋 
 このあたりまで来ると遠くに山口の町並みが見え、萩からは最初に山口の見える場である。
山口の町並 
 坂を下っていくと、左手に「石体子安観音堂」がある。ここは大宝2年(702)創建とされており、古来安産の仏様として尊崇されており、また乳の出ない人がこの地の乳安川に来て祈願すると乳が出るようになるといわれている。しかし永禄12年(1569)に焼失、その後再建されたという。境内に寛政11年(1799)と刻まれた石灯籠が立っていた。
石体子安観音堂 
 右手に一の坂ダムがあり、ここで旧道は失われている。ダムの下を見ると川を挟んで62号線の反対側にダムから下る道が見える。あの道がダムで失われた旧道の続きなのだろうと思って、ダムの上を反対側へ向かって行ったが、下へ降りる道がないので、元に戻って62号線を下っていく。
一の坂ダム 
 その先で62号線は旧道と合流するので、突き当たりを左折する。ここに来る前で、どこかで旧道に合流するところがあったのかもしれないがわからなかった。ここから札の辻まで一直線に旧道は伸びている。
 右手に「木町人丸神社」がある。ここは柿本人麻呂卿を祀っているが、昔、山口は大きな火災が再三起きていたので、文化6年(1809)に島根の高角山から御分霊を迎えて建立、「ひとまる」の語から「火止まる」、火難除けの神様として古くから信仰されており、その後山口では大火がないといわれている。
木町人丸神社 
 右手に「瑠璃光寺」があるので、街道を離れて行って見た。この寺は文明3年(1471)山口市の奥地仁保の地に創建された。現在の地には以前、大内義弘の菩提寺香積寺があったが、萩に移ったため、元禄3年(1690)その跡地に瑠璃光寺が建立されたという。ここは陶弘房の菩提寺でもある。
瑠璃光寺 
 ここには五重塔が立っているが、これは嘉吉2年(1442)に応仁の乱で戦死した大内氏25代義弘の菩提を弔うため弟の26代盛見が建立したという。池の向こうに聳えるこの塔は大内文化の最高傑作といわれ、日本三大名塔の一つに数えられている。その見事さにしばし見とれてしまった。
五重塔 
 このお寺の裏に香山墓地がある。この墓地は萩藩主(毛利本家)の墓所で十三代敬親公が文久年間に居城を萩から山口に移して以降の墓地として使用するために造成されたものという。
 墓地へ向かうところに石畳があるが、このあたりで手を叩くか強く足踏みをすると美しい音が返ってくるので「うぐいす張りの石畳」と呼ばれているそうだ。近くにいた若いカップルが盛んに手を叩いたり、足踏みをしていた。私は気が弱くてちょっと恥ずかしかったのでなにもしなかった。
香山墓地 
 街道に戻って進むと左手に「大内氏遺跡凌雲寺跡 築山跡」がある。ここは大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いた築山館跡で、教弘以後歴代当主の居館となったところだ。ここには本殿が国指定重要文化財で、永正16年(1519)に大内義與が建立した八坂神社と築山神社(修理中でシートがかけられていた)とがあった。
八坂神社 
 右手に「旧野村家住宅」がる。ここは明治19年に酒造商家として建築されたもので、現在は山口市に寄贈されているということだ。
旧野村家住宅 
 左手に「龍福寺」が建っている。ここは大内館の跡で大内氏24代弘世が正平15年(1360)に山口に移って館を定めたところだ。弘世以後歴代がここで政務をとったため、山口は西日本の政治経済の中心地になった。天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の反乱で滅亡、その後陶氏を滅ぼした毛利氏は弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うために、この館跡に龍福寺を建立したという。
龍福寺 
 その先で札の辻に来る。ここは先日山陰道(石州街道)を歩いた時に通ったところだ。ここから右折して少しの間、山陰道と同じ道を歩く。丁度昼になったので、前回と同じ中華料理店に入って昼食にする。山陰道の時は小郡から歩いてきて丁度ここで昼になったのだ。食べたメニューも前回と同じ酢豚定食で1040円だった。

 昼食を済まして進むとアーケードがあるのでそれを進み、その中にある信号から左折して進む。右手に裁判所があり、その先から右折して進む。前方に山口駅がある。このあたりに来ると街道の標識が全くなくなっている。
巌上松 二つ目の四つ角から左折、鰐石踏切を渡って進む。鰐石橋の袂に「巌上松」と刻まれた大きな岩があり、その上に松が生えていたが、何か由来があるのかは分からなかった。
 宮島町の信号で21号線に合流するが、このあたりまで来てようやく雨が止んだ。やれやれだ。その先で右にカーブする21号線と分岐して旧道は直進する。
 左手に天保10年(1839)と刻まれた地蔵尊があるところから、街道を離れて左折して進むと、「乗福寺」がある。ここの開基は大内重弘で、元応2年(1320)重弘をここに葬ったという。
天保10年
 その後火災によって荒れてしまったが、享禄年間(1530頃)に大内義隆が再興、その後大内氏滅亡によって再び衰退したという。ここは古い土塀に囲まれており、境内の裏には開基した大内義弘の墓や山口開府の恩人であり、天授2年(1380)に死去した大内弘世の墓がある。
大内義弘の墓 
 その先、興隆寺・北辰妙見社への入り口の看板が立っている五叉路があり、これを右斜めへ進む。仁保川に架かる氷上橋を渡って進むと、中国自動車道の山口ICがある。このあたりは旧道が失われていて分かりにくかったが、ICの下を通って進む。
 左手に「柊神社」がある。ここは創立は不明だが、宝暦8年(1758)長州藩主毛利宗広の二女誠姫が再興したという。昔から婦人病の者が鳥居を奉納して祈れば霊験あらたかと伝えられているそうだ。
柊神社 
 その先に「高郷堂」がある。このあたりにあった地蔵尊や三界万霊等が集められたということだ。
高郷堂 
 左手小高いところに墓地があり、かなり古いお墓もあるようだった。手前に六地蔵があった。
六地蔵 
 左手に大師原公園を見ながら進むと、「総塚」と刻まれた石碑と六地蔵があった。このあたりには墓地が多い。
総塚 
 その先、街道が262号線に接する手前に石仏があり、その横に萩往還の道標が立っている。この道標は所々に立っているが、このあたりでは数は少ない。
石仏とその横に萩往還 
 262号線の交差点から左折、すぐ先を右折すると、左手に鳴滝温泉満天の湯があり、その先左手に「吉岡一味斎遭難之地」という石碑とその横に小さな祠がある。吉岡一味斎は毛利藩剣道指南役で、「その」という美しい娘がいたという。その娘を同藩の京極内匠が嫁にもらおうとしたが、一味斎はこれを許さなかった。これをうらみに思った内匠は一味斎をこの地で待ち伏せ、鉄砲で暗殺したという。一味斎の妻は娘を連れて夫の仇をとるため内匠を探し、小倉城下で本懐を遂げたという。この物語は潤色されて浄瑠璃の彦山権現「誓助剣」となって文楽でも上演されているということだ。
吉岡一味斎遭難之地 
 右手にパンの工場があり、いい匂いが漂ってくる道を進むと、左手に萩往還の道標が立っており、ここから街道を離れて左折して進むと「禅昌寺」がある。このあたりの道標はお寺の入り口に立っているようだった。禅昌寺は応永3年(1396)に開創、開基は大内義弘ということだ。開創当時は約80の末寺小庵が取り巻き、千人近い修行僧がいて、一大法城の観を呈していたという。大内公がお寺に三千石の知行を寄進しようと申し出たが、開山禅師は「安定は堕落のもと」とこれを断り、代わりに修行僧が防長二州を托鉢することを申請して特許され、以後この淨行は幕末までの五百年間続いたという。「安定は堕落のもと」、なかなかいい言葉だ。私も安逸を貪るのではなく、これからも街道歩きに挑戦し続けることにしよう。ここの山門は応永3年(1396)の開創当時に建立され、享保15年(1730)に修造したもので見事な造りだ。
禅昌寺 
 街道に戻って道なりに進んで行き、262号線に接するところまで来たところで、道が分からなくなった。このあたりに「美由伎松」があるはずなのだがよくわからない。更にここから「佐波山」を越える旧道があるはずなのだが、その入り口もわからない。暫くウロウロしたが分からないので、近くにあった会社に入って聞いてみたが、分からないという返事。困ったな、と思っていると、男性が散歩をされているような感じで歩いてこられたので、聞いてみると、防府へ向かう262号線沿いの右側に電話ボックスがあり、その横から峠を越える旧道があるが、この前の大雨でこのあたりはあちこちで被害が出ており、今歩くことが出来るかどうかはわからないとの事だった。とにかく行ってみてだめだったら262号線のトンネルを通って防府へ抜けるしかないと思い進んでみた。
 電話ボックスの横に道があり、その横に萩往還の案内板と道標が立っていたので、それに従って峠を越えた。
電話ボックスの横 
 実際歩いてみると距離は短く、また舗装された道でこの場所に特に被害は出ていなかったようですんなりと峠を越えることができた。
 途中、左手に萩往還の道標が立っており、その横に久しぶりに「歴史の道 萩往還」の標識があり、三田尻御茶屋まで7650mと書かれている。
萩往還の道標 
 時計を見ると4時55分だ。現在の日没は大体18時半ごろなので、三田尻にギリギリ着くかどうかだ。途中で1時間20分もロスしなければ余裕で到着することができたのに、と思った。
 右手に庚申塚が立っており、その先で右へ進む。
庚申塚 
 このあたりは旧道が失われていて分かりにくかったが、民家のすぐ裏を通って進み、その先で262号線を横断する。
 左手に「勝坂砲台跡」の説明文がある。文久3年(1863)萩藩は新しく政治の中心と定めた山口を外敵から防衛するため、勝坂に関門を設置し、あわせて東西両側の高地に砲台を築いた。この付近は明治3年の脱隊騒動では最大の激戦地になったという。
 すぐ先の信号から左斜めへ進むが、ここにも道標と標識が立っている。このあたりからまたこれらがよく立っていて助かる。
 剣川に沿って進むが、ここは平成21年7月の大雨で氾濫したのだろう、河岸が大きく崩れていた。 
 新幹線の高架下、右手に「剣神社」があるが、ここは延喜式神名帳にも記載されている古い神社で、社伝では、仲哀天皇が熊襲御親征の際、当地へ行幸され、賊徒降伏祈願として「八握の剣」を御神体とし、素盞嗚尊を鎮祭したとある。
剣神社 
 左手に萩往還の案内板と道標が立っており、その横に地蔵堂があった。防府市に入ると急に道標が増えてきたので歩きやすい。
左手に萩往還 
 その先地下道で2号線と山陽自動車道を横断し、佐波川に架かる米橋を渡り、橋の右手から堤防を下って直進する。
 このあたりの街道には小祠があちこちにあり、地蔵尊が祀られている。
小祠 

 萩往還の案内板と道標、そして「歴史の道 萩往還」の標識が立っている。ここから三田尻御茶屋まで3250mとなっている。時計を見ると17時55分だ。先ほどの場所から丁度1時間で4.4kmだ。とにかく急ごう。そのすぐ先を左折して進む。
 左手に「定念寺」があり、ここに宮市観音がある。この定念寺が西念寺と呼ばれていたころ、和尚さんは観音信仰に熱心だった。観世音菩薩はその尊身を三十三に変えられ、その尊像を祭る三十三カ所の霊場があるが、ある日旅人が訪ねてきて、和尚さんと観音様について色々と話をした。翌日旅人は姿を消し、後には霊場まで参拝できない人達のために作ったという三十三身の観音像が残されていたという。それが宮市観音であると説明されている。
宮市観音 
 右手に「宮市本陣兄部家」がある。宮市直季は寛永19年(1642)に旅館を造り、藩から宮市本陣を命じられて明治維新まで兄部家は本陣を務めた。現在の建物は寛政6年(1789)の火事で焼けたが、建て直されたという。ここは山陽道を歩いた時に通ったところだ。
宮市本陣兄部家 
 その先左手に防府天満宮の鳥居があるところから、右折して進むとアーケードに入るが、ここのアーケードの中を車が走っている。これはあまり見たことがない光景だった。
防府天満宮の鳥居 
 JRの高架下を通って進むと、左手に「中主神社」がある。ここは推古天皇24年(625)の創建と伝えられる古い神社で、永禄4年(1561)3月5日の大祭に毛利元就公が神社料を奉納するという書状を納めているという。この境内には前方後円の車塚古墳があり、六世紀頃に造られたものという。
中主神社 
 防府高校を右手に見ながら進み、四つ角に道標が立っているところから左折する。道標には「左 宮市天満宮」「右 志ものせき」と刻まれている。
四つ角に道標 
 時刻は18時33分。周囲はかなり暗くなってきているが、もう少しだ。
 その先、旧い立派な家のところから左折、次の角が萩往還の終点である三田尻御茶屋〈英雲荘)だ。18時38分に到着するが、この先の御舟倉跡まで行くことにする。
三田尻御茶屋 
 その先で右折、更に左折、そして右折して進む。このあたりは枡形になっていたようだ。

 18時45分、辛うじて残照の残る中、「三田尻御舟倉跡」に到着する。関が原の戦い後、周防、長門の二カ国に封じ込められた毛利輝元は参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を現在の下松市に設けたが、慶長16年(1611)に三田尻に移した。江戸時代中頃までの参勤交代はここから船出をしていたという。
三田尻御舟倉跡 

 これで無事萩往還を歩き終えたことになる。よく整備されており、歩きやすい街道だった。

 本日の歩行時間  11時間23分。
 本日の歩数&距離 58006歩、42.7km。

萩往還総合計
 総歩行時間  17時間14分。
 総歩数    86976歩。
 総歩行距離  62.8km。
 萩往還純距離 54km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合で三田尻御舟倉跡までの距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん