竹内街道を歩く

2011年04月30日(土) ~2011年05月01日(日)
総歩数:63535歩 総距離:42.1km

2011年04月30日(土)

堺~太子町 

                      晴れ

  竹内街道は大坂府堺市から二上山の南麓、竹内峠を越えて奈良県葛城市にある長尾神社へ至る道で、推古天皇21年(613)に設置された日本最古の官道である。また沿道には4世紀から5世紀にかけての陵墓や古墳が数多く残っているため、その当時から既にかなりの人々の往来があったと考えられており、遣隋使や遣唐使、更には隋や唐からの使者もこの道を通って飛鳥へ入ったといわれている。
 今回は会社の仲間Kくんと一緒に歩くことになった。以前から歩こうといっていたのだが、タイミングが合わずに今日まで来てしまっていた。今回丁度GWになるということで連絡があり一緒に歩くことにした。
 私は先日歩いた小辺路で想定外の腰痛を起こして最後の一日分を残していたため、当初は一緒に堺入りする予定を変更、昨日残っていた熊野古道小辺路を歩き終えて堺入りし、今日堺駅で待ち合わせることにした。
 9時25分に堺駅を出発する。地図は私が堺市役所から入手した少しアバウトな地図を持ち、Kくんが詳細に落としたYahooの地図を持つことにした。

 街道の出発点は大小路の信号のところで、ここに江戸時代に大阪湾沿いの交通路として整備された「紀州街道」という道標が立っている。
紀州街道
 ここを出発して早々、開口神社へ行こうとして道を間違ってそのまま街道を直進してしまった。私もうっかりしていたのだが、Kくんも満足に地図を見ていなかったようだ。そのため引き返す羽目になったが、幸い僅かの距離だったのでよかった。この失敗からKくんはこれ以降しっかり地図を見るようになって、立派なナビ役を務めてくれた。大小路の信号から二つ目の信号を右折して進むと右手に「開口神社」がある。ここは神功皇后によって創建されたと伝えられており、奈良時代には港を守る役割を持っていて開口水門姫神社とも称せられていたという。行基によって念仏寺も建立されたといい、念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺になった後も地元の人々に「大寺さん」と呼ばれているという。入口に延享元年(1744)の大きな常夜燈が立っており、また境内には「影向石」があるが、これは開口大神がご影向の際、この石に腰掛けられ、その後住吉へ向かわれて住吉の神となった、あるいは行基上人と法談した場所、更には弘法大師とご対面されたときの御座所だったとも言われていると説明されている。
開口神社影向石

 街道を挟んで丁度反対側にあたるところに「菅原神社」がある。ここの楼門は17世紀後期の作とみられており、大坂府指定有形文化財に指定されている。また境内には文久3年(1863)の大きな常夜燈が立っている。
菅原神社
 街道にもどって進むと、「大通庵跡」の石碑が立っている。ここは堺の茶人で名高い津田宗及が父親の宗達の菩提を弔うために創建した臨済宗大徳寺派の寺院だったが、明治初年に廃絶して寺跡の大部分は現在の熊野小学校の敷地になっているという。
大通庵跡
 堺東駅南口の信号を右折して進むが、その角に「右 履中天皇御陵千八丁 仁徳天皇御陵道十四丁」「左 反正天皇御陵道 二丁」と刻まれた大正2年の道標が立っている。
堺東駅南口の信号
 すぐ先から左斜めへ分岐する道があるのでこれを進むと、左手に「地蔵堂」があり、文久2年(1862)と天明3年(1783)の地蔵尊他が安置されている。またその横に「題目石」が立っている。
地蔵尊他題目石

 南海電鉄の踏切を横断して右へ進むと、右手に「高野山女人堂 十三(里?)」と刻まれた安政4年(1857)の道標とその横に地蔵堂が立っている。
安政4年
 その先の二股を左へ進むがこのあたりには「竹内街道」のまだ新しい道場が立っている。
竹内街道
 向陵西町の信号で街道から外れて「仁徳天皇陵」へ行ってみる。ここは熊野古道紀伊路を歩いた際に通った道だが、Kくんが初めてということで行くことにした。この場所から正面は丁度反対側になるので、往復するとほぼ一周することになる。一周が約3kmあるのでかなりの距離になるが、やはり正面から見るとそれなりの趣があり、なんとなく背筋が伸びるような気持になる。
仁徳天皇陵
 天皇陵を見学後、向陵西町の信号まで戻って2号線を進むが、行きと帰りでは距離感が違い、帰りのほうがはるかに早く感じると話しながら先ほど分岐したところまで戻る。その先、向陵中町の信号で道は三叉路になっているので、真ん中の道を進む。すぐ先の二股を左へ進み、その先の十字路を直進すると左手に「黒土西地蔵尊」があり、その前に「従是 万代八幡 十二町」「家原文殊 三十町」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。
黒土西地蔵尊
 この先で店があったので、そこで昼食にしたが、そこから先は街道沿いに食事が出来る店がなかったので、ここで食事をして大正解だった。
 この先も基本的に道なりに進んでいくと、正面に「金岡神社」がある。この辺りは昔、河内絵師といわれる人々が住んでいて、優れた絵や彩色の技術を持ち、奈良の大仏殿の絵を描くなど活躍した。その中で特に優れた金岡は絵所長者といって絵の仕事をする役所で最高の位を極めていて、家原寺の重要文化財行基菩薩行状絵伝も金岡の筆によるものと伝えられているという。また金岡が筆を洗ったという金岡渕という地名がこの地に残っているなど、巨勢金岡ゆかりの地とされており、その業績を称えて、当神社の祭神として祀っているという。社殿をはさんで両側に楠の巨木が立っているが、これは堺市指定保存樹木となっている。
金岡神社
 神社から右手の道を進むがこの辺りの道は街道の雰囲気を残しており、道はカラー舗装されていて、街道と分かるようになっていた。
カラー舗装
 この辺りまで来るとKくんも慣れてきて、的確に進む道を見つけ、また私が写真を撮りたいと思うようなところにくると、ちゃんとわかってくれるようになったので、随分歩きやすくなって来た。
 大泉緑地の信号で2号線を横断し、左手に広がっている大泉緑地に沿って進むと、前方に大池があり、これに沿っていくとすぐ先で道は二股に分かれているので、右へ進む。西除川に架かる西除橋を渡ると左手に道標があり、これになんと刻まれているか見ていると、通りかかった女性の方が何を調べているのかと言って近寄ってきて、一緒に道標を解読してくれた。「右 大坂 ひらの道」「左 さやま 三日市 こうや道」「左 さかい道」と刻まれているようで、寛政9年(1797)に設置されている。
道標を解読
 近畿自動車道の高架下を通り、その先で2号線を横断、突き当りを左折して進むが、この辺りは工場街のようで、町工場が並んで立っていた。右手に新ケ池をみながら進み、池の端から右折すると、野村のバス停があり、その横に五体の地蔵尊を安置する「地蔵堂」と「日吉神社」があって弘化4年(1847)の石灯籠がある。
地蔵堂」日吉神社

 ここから左折して進み、その先の二股を左へ進む。右手に八王神社があり、東除川に架かる伊勢橋を渡って進むと、左手に高灯籠が立っており、ここから街道を外れて左折して進むと、「野中寺跡」がある。
高灯籠
 「野中寺」は伝承では聖徳太子が建立した48寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基したとされる。また「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれている。境内に残る礎石から、飛鳥時代~奈良時代前半には大規模な伽藍が存在したことは明らかで、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もあるという。創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しているが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など法隆寺式伽藍配置を示す礎石が残っており、「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。現在の本堂は寛永~寛文年間(1624~1673)に、他の堂宇は享保年間(1716~735)に再建されたという。
野中寺野中寺旧伽藍跡

 ここの境内には「お染久松」のお墓がある。豪商油屋の娘お染と丁稚久松が道ならぬ恋のはてに心中するという歌舞伎浄瑠璃で有名だ。
お染久松
 街道に戻って進むと、左手に「大神宮」の常夜燈と「右 大坂」と刻まれた道標があり、右手に地蔵堂があるところから右折して進む。ここは最初そのまま直進して進んでしまったが、途中で間違いに気がついて引き返して、改めて街道を進んだ。
大神宮右手に地蔵堂

 すぐ先で道は二股に分かれており、真ん中に小さな公園があって、標識が立っているので、それに従って左へ進むと、右手に池がある。そのまま道なりに進み、県道に合流する手前、右手に小さな階段があるのでこれを上っていく。ここは分かり難くて最初うっかり見過ごしてしまい県道まで出てしまったが、Kくんがおかしいことに気がついて後戻ってこの道に気がついた。
うっかり見過
 右手に池を見ながら進み、突き当りを左折して進むと、右手に「峯ケ塚古墳」がある。これは5世紀末から6世紀初めに造られた墳丘長98mの前方後円墳で、その規模の大きさやすぐれた副葬品から大王かそれに匹敵する人物の墓と考えられているという。
峯ケ塚古墳
 軽里北の信号の先、歩道橋を下りたところで道は二股に分かれているので、これを右斜めへ進むと左手に「軽羽迦神社」がある。ここには寛永4年(1627)の常夜燈が立っている。
寛永4年
 この辺りの街道には「ウオーキングトレイル はびきの 時のルート」と刻まれた標識が埋め込まれているので、これをみながら進んでいく。
ウオーキングトレイル
 右手に「白鳥陵古墳」がある。これは墳丘長190mの前方後円墳で、宮内庁によってここは景行天皇の皇子であった「日本武尊」の陵墓とされている。日本武尊が全国各地を遠征し、その帰途、伊勢の能褒野で息を引き取った。武尊は白鳥に姿を変えて大和の琴弾原を経由して古市に飛来、その後埴生の丘に羽を曳くが如く飛び去ったと日本書紀に記されており、この白鳥伝説からこの地が「羽曳野(ハビキノ)」の地名になったという。
日本武尊
 古墳の先で道は二股に分かれているので、右へ進み、その先の突き当りを左折して進む。白鳥の信号を右折、踏切で近鉄の線路を横断するが、すぐ左手に古市の駅がある。左手に白鳥神社があり、古市商店街の中を進んでいくと、左手に「長円寺」がある。ここは寛永9年(1632)に僧孝順によって開基されたもので、重要文化財に指定されている十一面観音立像があるという。
長円寺
 「左 大和路」「右 大坂」と刻まれた嘉永元年(1848)の道標が立っており、その先を標識に従って右へ進む。
左 大和路」「右 大坂
 右手に公園があるところから左へ進み、突き当りを左折、大乗川に架かる大乗橋を渡り、すぐ先の石川に架かる臥龍橋を渡って右へ進み、最初の信号を左へ進むと「川内の道標」が立っている。道標は二つあって、一つは「大黒の大黒寺」への道案内であり、もう一つは安永4年(1775)に再建された当時南河内で唯一の法華宗のお寺であった法華寺への道案内で、これは安政6年(1859)に建立されたものである。
川内の道標
 この辺りは羽曳野市商工会の名前の刻まれた「竹内街道」の標識が道に埋め込まれているが、設置して大分時間が経過しているのだろう、文字が薄くなっていた。
竹内街道」の標識
 飛鳥川に架かる逢坂橋を渡り、右斜めへ進むと「知恵地蔵」を安置する地蔵堂がある。
知恵地蔵
 突き当たりを右折するが、左手街道から少し入ったところに「杜本神社」がある。ここは延喜式に名神神社として記載されている古い神社だが、天正3年(1575)に織田信長の古市高島城攻めで焼失してしまい、江戸時代に再建されたという。境内には寛政5年(1793)の常夜燈が立っている。
杜本神社
 街道に戻り、飛鳥川に架かる月読橋を渡って進むと右手に「八丁地蔵尊」と「役行者錫杖水」と刻まれた石碑が立っている。
八丁地蔵尊
 166号線を進んで行き、飛鳥川に架かる八丁橋を渡り、上ノ太子第2号踏切で近鉄の線路を横断、更に飛鳥川に架かる松本橋を渡る。春日西の信号で166号線から分岐して直進するが、ここに道標が立っている。その先の十字路を右へ進むが、ここにも道標が立っているので、それに従って進む。
 166号線を横断、飛鳥川に架かる六枚橋を渡って進むが、太子町に入ると各所に標識が立っている。特に電柱に独特の標識が貼り付けてあるので、それに従って進む。
電柱に独特の標識が
 街道から少し外れたところに今日の宿である「太子温泉」があり、17時38分に太子温泉に到着する。
 Kくんは初めての街道歩きだったが、いたって元気。歩くスピードも早いし、地図を見ながら、沿道にある旧跡を訪ねて歩くという私の街道歩きのやり方をしっかり理解してくれて、とても歩きやすかった。感謝である。

宿では一日の疲れを温泉で癒し、ビールで乾杯をして一日の健闘を称えあった。

 本日の歩行時間   8時間13分。
 本日の歩数&距離 45476歩、30.3km。

旅の地図

記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん