伊勢街道を歩く

2011年05月17日(火) ~2011年05月19日(木)
総歩数:122329歩 総距離:78.2km

2011年05月17日(火)

日永~神戸~白子~上野~白塚 

                    曇一時雨

 伊勢街道は日永の追分で東海道から分岐し、伊勢神宮までの参詣道のことをいう。伊勢参詣は江戸時代には特に盛んで、文政13年(1830)には500万人の参詣者があったという。当時日本の人口は3000万人ほどだったので、その数の多さには驚かされる。
 10時47分に「日永の追分」を出発する。ここは東海道を歩いた時に通ったところだ。東海道を歩いた時は初めての街道歩きだったので、その後まさか自分が伊勢街道を歩くようになるとは思ってもみなかった。あれからもう4年(まだ4年かな?)が経過しているのだと改めて思う。
 日永は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間の宿で旅籠や茶屋があったという。
 安永3年(1774)の常夜燈と嘉永2年(1849)の道標が立っており、「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すぐ江戸道」と刻まれている。ここには名水があって、地元の方が何人も水を汲みに来られていた。
 またここには神宮遥拝鳥居が立っているが、これは当初安政3年(1774)に立てられたもので、以来、伊勢神宮式年遷宮ごとに神宮の古材を使って建て替えられているという。 
日永
 1号線から103号線へ進んでいくが、この辺りは鉄工所が立ち並ぶ工場街だ。その先で103号線が少し左へカーブするところで道は二股に分かれており、右へ直進すると内部川に突き当たるので、左折、その先の河原田橋を渡って右折、先ほど川に突き当たったところの延長線上のところから左折して進む。この辺りは旧道の雰囲気が残っている。
 左手に里程標が立っており、「津市 六里三十二町」「海蔵村 二里八町」「名古屋市 十五里十一町」「守山町 十七里十七町」「宇治山田市 十七里四町」「久居町 八里三十二町」と刻まれている。
左手に里程標
 右手に明治42年にこのあたりにあった六つの神社を合祀して建立したという「河原田神社」があり、その先で103号線を横断して進み、河原田踏切でJRの線路を横断する。103号線のガード下を通って進むと、右手に高岡神社の鳥居があり、その先右手に寛政11年(1789)の常夜燈が立っている。これから先、街道沿いに数多くの常夜燈が立っていて、しかもいずれも大きな常夜燈でいい目印になっている。
寛政11年
 鈴鹿川の川土手を進み、高岡橋を渡る。橋を渡ったところから右折して進むと、道は三叉路になっており、そこに文化4年(1807)の常夜燈が立っており、点灯用なのか石の階段が付いている。ここから左斜めへ土手を下って進む。
文化4年
 田んぼの中の道を進んでいくが、この時期この辺りではもう田植えは終わっている。
田んぼの中の道
 右手に文化14年(1817)に建立され、大正9年に再建されたという常夜燈が立っている。
大正9年に再建
 一本道を進んで行くと神戸見付跡があり、土塁と石垣が残っている。ここは神戸宿の入口にあたり、町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには門を閉じて通行を禁じたという。その横に「式内 阿自賀神社」と刻まれた社標が立っている。
神戸見付跡
 右手に連子格子の「加美亭」がある。現在でも旅館として営業をしているようだ。この連子格子の家はこれから先もいたるところで見かけた。大きな常夜燈と連子格子の家は伊勢街道の特色となっている。
加美亭
 近鉄の踏切を横断、六郷川に架かる大橋を渡って進み、その先で道は二股に分かれており、その分岐点に「日永村へ壱里弐拾八町拾六間」「白子町へ 壱里弐拾弐町四拾四間」と刻まれた「里程標」と「神戸町道路元標」が立っているので、ここを左へ進む。この辺りが神戸宿の中心地だったようだ。
「里程標」と「神戸町道路元標
 その先で道は二股に分かれているので、右へ進むとスーパーがあったので、ここで弁当を買って昼食にする。これで今日は空腹に悩むことはなくなったと一安心する。
 左手に「明治天皇神戸行在所」の碑が立っている「専修寺 神戸別院」がある。
専修寺 神戸別院
 右手に「願行寺」があるが、ここには南北朝時代の作と考えられる「光明本尊」の絵があり、鈴鹿市の指定文化財になっているという。
願行寺
 その先、道は二股に分かれているので、これを右へ進み、その先の突き当たりを左折して進むと、左手に嘉永2年(1849)の大きな常夜燈が立っている。これは明治8年の洪水で倒壊したので、昭和3年に地元の方が再建したものという。それにしても伊勢街道の常夜燈はいずれも大きなもので、大きな建物がない昔では随分目立っていただろうと思う。
嘉永2年
 左手に「矢掎神社」がある。このあたりでカミナリが鳴り出して、空には真っ黒な雲が広がってきた。これは一雨きそうだ。
矢掎神社
 伊勢鉄道の高架下を通り、54号線を横断して右斜めへ進むと、左手に「山神」が祀られている。ここで雨が降りだした。
伊勢鉄道の高架下
 突き当たりに「道標」があり、「若松道」と刻まれているようだ。
若松道
 ここを右折して進むと、すぐ先右手に「山神」が祀られている。このあたりから山神が数多く祀られている。
 山神は女神で、山に住む山民と麓に住む農民とで考え方が異なっており、山民の山神に対する思いは自分達の仕事場である山を守護する神であり、常にその山にいると考えられており、農民の間では春になると山神は山から下りてきて田の神となり、秋になると再び山に戻るという信仰があるという。
山神2
 道なりに進んで行き、地下道で23号線を横断するが、ここまで来て雨が激しくなってきたので、暫く地下道で雨宿りをした。旅に雨はつきものだが、できれば雨の中を歩くことはしたくないものだ。しばらく待っていると小降りになってきたので、地下道から抜け出して右へ23号線に沿うようにして進む。
 島橋を渡って進むと、右手に「表忠碑」が立っており、その横に「山神」が祀られている。
山神3
 街道はそのまま直進するのだが、その先で下水道工事が行われていて、通行止めになっていたため、左折して玉垣小学校の横を迂回して進み、その先で街道に合流する。
 正面に正信寺があるところに「右 さんぐう道」と刻まれた文化4年(1807)の道標が立っており、道は枡形になっているので右折、すぐ先を左折して進む。
文化4年(1807
 23号線に合流する手前から左折するが、ここに「左 さんぐう道」と刻まれた元治2年(1865)の道標が立っている。
元治2年
 その先の十字路を右折するが、左手に真新しいコンクリートの建物の「彌都加岐神社」がある。その先で再び道は枡形になっており、右折、左折して進む。左手に「彌都加岐神社」の社標がある。
彌都加岐神社彌都加岐神社」の社標

 右手に「山神」が祀られており、その前に赤い鳥居が立っている。
山神4
 左手にフジクラ鈴鹿工場を見ながら進むと、左手に「菅原神社」がある。ここの社殿はまだ新しかった。
菅原神社
 右手に「老農水原政次翁彰功碑」が立っている。水原翁は三重県の農業の普及に勤めた方で、大正13年に建立されたという。
老農水原政次翁彰功碑
 白子7号踏切で近鉄の線路を横断すると、左手に「北の端地蔵堂」がある。この地蔵尊は鎌倉時代に造られたもので、石像本体の周囲に六体の菩薩が刻まれている。
北の端地蔵堂
 ここから右へ進むと、左手に「江島神社」の社標が立っている。
江島神社
 この辺りにも連子格子の家が多く見受けられる。連子格子
 鈴鹿市白子コミュニティーセンターの前に安濃津治安裁判所、登記所、法務局の跡の標識が立っている。明治時代になって私有財産権が認められたため、田地田畑の所有権を登記する行政機関として治安裁判所が設置されたが、この白子地区にもこの場所に置かれたという。
 その先、突き当たりに郵便局があり、ここも枡形になっているので、右折、すぐ先を左折して進む。
 右手に「高札場跡」の説明板が立っている。ここは江戸時代の白子代官所が高札を公示した場所だったという。この辺りが白子宿の中心だったのだろう。白子宿は江戸時代、伊勢街道で最も商業が栄えたところという。
 「旧河藝郡役所跡」の説明板が立っている。明治26年に設置されたという。
旧河藝郡役所跡
 堀切川に架かる和田橋を渡ると、ここも枡形になっているので、右折、すぐ先を左折して進む。
右手に「久留真神社」がある。ここは延喜式神名帳に記されている神社で、第21代雄略天皇の頃に創建された古い神社だ。寛永11年(1634)に現在地に移転したという。 
久留真神社
 その先唯信寺に突き当たり、ここも枡形になっているので、ここを右折、すぐ先を左折するとその角に「さんぐう道」「神戸四日市道」と刻まれた道標が立っている。この辺りは曲がり道が多く、参宮の往来に道に迷わないため、この家の先祖がここに道標を立てたのだが、再三再四倒され、昭和12年に再度立て直したのだが、昭和30年代に再び倒されたため、現在のように立て直されたという。そのため、当初3mあった高さは2mになってしまっているという。今この道標は街のシンボルとなっていると説明されている。
」「神戸四日市道」
 この辺りは旧道の雰囲気が色濃く残っており、「同心屋敷跡」や「目付役所跡」の説明板が立っている。
 釜屋川に架かる釜屋橋を渡って二本目の角を右折して進むと、右手に西方寺があり、突き当たりに「子安観音寺」がある。ここは聖武天皇の太平勝宝年間(749~759)の創建といわれており、白子浦の海中から鼓の音がしたので網を入れたところ鼓に乗って白衣観音が現れたのでお堂を建て安置したという。子授け、安産信仰で知られており、境内には元禄16年(1703)建立の仁王門、寛文6年(1666)の銅燈籠や年中葉や花を絶やさない不断桜(国天然記念物)、などがある。この桜の虫喰葉の巧妙な自然の文様に着目して伊勢型紙が創られたという。
子安観音寺銅燈籠

 ここから左折して進むと、「右 くわんおんみち」「左 いせみち」と刻まれた弘化4年(1847)の道標が立っており、ここを右折する。
弘化4年(1847
 細道を進んでいくとすぐ先に「左 いせみち」「右 くわんおんみち」と刻まれた道標が立っているので、ここを左折して進む。
左 いせみち
 突き当たりを右折して進むと、堀切川に架かる蓬莱橋が左手にあるが、これを渡らずに川沿いに進む。この蓬莱橋の袂に「右 いせみち」と刻まれた道標が立っている。
蓬莱橋の袂に
 川沿いに進んで行き、磯山第7号踏切で近鉄の線路を横断、その先で地下道を抜け、水門橋で堀切川を渡る。 右手に八幡神社を見ながら進み、その先で23号線に合流、中ノ川に架かる中ノ橋を渡る。東千里の信号で23号線を横断して左斜めへ伸びる旧道に入り、千里第6号踏切で近鉄の線路を横断、その先の二股を右へ直進、すぐ先で道は再び二股に分かれているので、右へ進むと、巡礼道と分岐するところの右手に「甕釜冠地蔵堂(かめかまかぶり)がある。難しい言葉で早口言葉の練習によさそうだ。屋根の上に竈(かま)を置き、その上に甕(かめ)を伏せているユニークな地蔵堂で、往時参宮者に茶の接待をしたといわれている。ここを右へ進む。
甕釜冠地蔵堂
 左手に親鸞の弟子だった西念房が創建したという本福寺を見ながら進み、三叉路を右へ進むと、左手に千里駅がある。千里1号の踏切で近鉄の線路を横断、更に千里駅前の信号で23号線を横断、突き当りを左折して進むと右手に「田中地蔵」という二体の地蔵尊を安置した地蔵堂がある。
田中地蔵
 田中川に架かる大蔵橋を渡って進むが、この辺りにも連子格子の家が建っている。伊勢街道では本当に連子格子の家が多い。 右手に「上野神社」がある。ここは創建年月は不詳だが、伊勢の国司北畠氏の祈願社として創建されたと伝えられており、応永13年(1406)の棟札があるという。
上野神社
このあたりにも「虫籠窓連子格子」の家がある。この造りも伊勢街道では数多くみることができるのだが、この造りを虫籠窓連子格子と呼ぶというのは、恥かしながら今回初めて知った次第。人生何事も勉強だ。
虫籠窓連子格子 
 左手に「弘法井戸」がある。昔、この地を通りかかった高僧が民家へ立ち寄って水を所望したところ、この辺りには飲み水に適した水がないため、遠くまで水を汲みにいって飲ませたという。高僧は飲み水がないのはお困りだろうといって、持っていた錫杖を突き刺しここを掘ってみなさいといわれたので、掘ってみると清水が湧き出てきた。人々は弘法さまのお陰だと喜んで、「弘法講」という仲間をつくり、井戸の周りに屋形を建て、弘法大師の坐像を安置して、この井戸を弘法井戸として大切に使ってきたという。この辺りが上野宿の中心だったようだ。
弘法井戸
 右手に「上野城址」がある。上野城は元亀元年(1570)に織田信包が築城、文禄4年(1595)に分部光嘉が城主になったが、元和5年(1619)に城主の移封にともない上野藩は廃藩になったという。ここは公園になっていた。
上野城址
 街道に戻って進むと、左手に大正2年の「道路元標跡」碑が立っている。「白子町へ 壱里参拾壱町九間 上野村」等と刻まれている。
大正2年の
 右手に「光勝寺」がある。ここは慶長6年(1601)に分部光嘉が長子光勝の菩提を弔うために建立したもので、宝暦元年(1751)に現在地に本堂を建立、明治30年に焼失したが、その後再建したという。
光勝寺
 河芸町交番前の信号で23号線を横断して進むが、その先で再び23号線に合流する。ここの左手少し入ったところに「痔神神社」がある。ここは元は地の神を祀っていたが、現在は痔の神になっているという。痔は悪くないのだが、予防の意味を込めてしっかりと参拝しておく。
痔神神社
 その先から23号線から離れて白塚駅へ向かい、18時8分に到着する。ここから電車で津へ向かう。
 今夜の宿は津にある。

 本日の歩行時間   7時間21分。
 本日の歩数&距離  43322歩、27.6km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん