伊勢街道を歩く

2011年05月17日(火) ~2011年05月19日(木)
総歩数:122329歩 総距離:78.2km

2011年05月18日(水)

白塚~津~雲出~松阪~斎宮

                      晴れ

 7時10分に白塚駅に着き、その後23号線に合流する。今日は終日いい天気で暑い一日だった。
 合流したところのすぐ先で旧道は23号線から分岐して右へ進むので、地下道を通って23号線の反対側に出て旧道を進む。このあたりも旧道の雰囲気を残している。
 高田本山第7号踏切で近鉄の線路を横断して進むと左手に「逆川神社」がある。ここは詳細は不明だが、人皇第68代後一条院帝の頃に創建されたと伝えられているという。境内を流れる川(現在は川とは呼べないような小さな流れ)が海と逆の方向に流れていることからこの名前がついたといわれているそうだ。ここには文久2年(1862)と明治6年の「かっこ踊絵馬」があるという。
逆川神社
 右手に津の地酒寒紅梅酒造を見ながら進んで行き、その先で枡形になっているので、これを左折、すぐ先を右折して進み、その先で23号線に出るが、横断歩道がないので、少し左へ戻って23号線を横断、先ほど歩いてきた道の延長線上に旧道が伸びているのでこれを進む。
 甕釜冠地蔵堂で分岐した巡礼道との合流点に天保10年(1839)の常夜燈が立っている。この巡礼道は河芸町内を伊勢街道と並行して走っていて、東千里で再び伊勢街道と合流しているが、伊勢街道よりも古い道ともいわれているそうだ。常夜燈には「武州若槻木綿中間中」とあり、44名の寄進者の名前が刻まれている。江戸時代伊勢は木綿の産地として有名で取引が盛んに行われており、武蔵国の木綿業者がこの常夜燈を寄進したのだという。
 ここに「左 上野白子 神戸四日市道」「右 白塚 豊津道」という道標が立っている。  
巡礼道
 この辺りの街道には以前松が立っており、その根元が7尺もあって、その下を人々がくぐって通ることができたので、そのことからこの辺りを根上がり村と呼んだという。
 左手に地蔵尊5体を安置する「地蔵堂」がある。
地蔵堂
 その先左手に嘉永4年(1851)の「常夜燈」が立っている。ここに「五穀成就」と刻まれていることから、打ち続いた飢餓から一息ついたという表現になっている。
嘉永4年
 三重大学前の信号で23号線に合流する。23号線を暫く歩き、江戸橋北詰の信号で23号線から分岐して右へ進み、志登茂川に架かる江戸橋を渡るが、丁度学生の登校時間と重なったようで、歩道のない狭い橋を数多くの学生が列をなして歩いていた。渡り終えた先、右手に安永6年(1777)の常夜燈が立っており、その手前に「左 高山本山道」と刻まれた道標が立っている。この場所が伊勢別街道との追分になる場所だ。参勤交代の藩主の見送りもここまでということから江戸橋と名づけられたという。ここを左折して進む。
江戸橋
 ここから津宿に入るが、津城は永禄年間(1558~1569)に長野氏の一族の細野圧敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まり、永禄12年(1569)に織田信包が入城して本丸、二の丸、三の丸を整備し、城郭を拡充したという。その後変遷を重ねて、慶長13年(1608)に藤堂高虎が入城して城の大改修を行い、また海岸近くを通っていた伊勢街道を城下を通るようにして宿場町としても発展させたのだ。
 右手に「深正寺」があるが、ここには三重県指定有形文化財に指定されている鎌倉時代末期の特徴がみられる「阿弥陀二十五菩薩来迎図」があるという。
深正寺
 その先で街道は昨日宿泊したホテルのすぐ近くを通るので、一旦ホテルへ戻って置いていた荷物を取る。今朝は荷物をホテルに置いたまま身軽な身体でここまで歩いてきたのだ。
 そのまま道を進んでいくが、伊勢街道も先日歩いた竹内街道と同様に平坦で一直線な道が多いので歩きやすい。
 右手少し入ったところに「四天王寺」がある。ここは聖徳太子が建立した四つの四天王寺の一つであり、境内から出土した瓦片から、建立されたのは奈良時代の7世紀ころの説があるという。山門は寛永18年(1846)に再建されたもので、本堂は戦災で焼失したため、戦後に再建されたものという。ここには織田信長の生母「花屋寿栄禅尼」の墓がある。織田信長の母土田御前は本能寺の変の時、安土城にいたが脱出、信長の孫である信雄の庇護を受けていたが、その後津城を築城した信長の弟の信包を頼って文禄3年(1591)に亡くなるまで津で暮らし、亡骸は四天王寺に埋葬されたという。藤堂高虎夫人久芳院の墓もここにある。
四天王寺花屋寿栄禅尼

 街道に戻って進むと安濃川に突き当たるので左折、塔世橋を渡って23号線を進み、歩道橋があるのでこれを渡って左折、その先をすぐ右折して進み、561号線を横断し、次の角を左折すると左手に「観音寺」がある。ここには「津の観音さん」で親しまれている如意輪観音があるが、これは日本三大観音の一つといわれている。
観音寺
 大門商店街のアーケードの中を進むが、ここに津宿の本陣や問屋場等があったという。アーケードを抜けて四つ目の角を右折、次の角を左折するが、ここに「旧町名 分部町」の石柱が立っている。それによると「長野氏の一族、分部氏に由来する町名といわれている。津城築城時の東大手口は分部町に通じていたが、藤堂高虎の改築でふさがれた」と書かれている。
旧町名 分部町
 岩田川に突き当たり、これを右折して岩田橋を渡る。 23号線を進んで岩田の信号から左斜めへ進むと左手に「立合町」の石柱が立っている。昔、ここには米相場の立合所があったと言い伝えられているそうだが、江戸時代にこの地に米相場の立合場があったという形跡はなく、町名の由来ははっきりしないという。
 左手に「五番地蔵大菩薩」という地蔵尊3体を安置した地蔵堂がある。
五番地蔵大菩薩
 左手に「真教寺閻魔堂」がある。閻魔堂は二代藩主藤堂高次が建立したもので、本尊は閻魔大王坐像。当時はこのあたりが町のはずれで、閻魔堂は角町の守護として建てられたという。
真教寺閻魔堂
 その横に「市杵島姫神社」があるが、ここは昔は庚申塚だったが、その後伊勢国司北畠氏の守り神となり、北畠氏の滅亡まで多気の城内に鎮座されていたが、その後、当地の産土神になった。町名「弁財町」は、この神社が弁財天と呼ばれたことに由来しているという。
市杵島姫神社
 ここから右折して進むと、左手に「神明神社」がある。ここの創建は不詳だが、悪病が流行して町中が苦しんだとき、上阿漕町の中心部に神様を祀って祈祷したところ悪病が治まったので、以後阿漕町の守護神になったという。御祭神は天照大神で天窓(屋根の上)にお祭りされているので通称「まんどさん」と呼ばれているという。
神明神社
 左手に「八幡神社」の社標が立っている。これは裏参道の入口を示したものだ。このあたりにも連子格子の家が数多く立っている。
八幡神社」の社標
 右手、民家の庭に「明治天皇八幡町御小休所」の碑が立っている。明治天皇に関連した碑は伊勢街道ではここが初めてだった。
明治天皇八幡町御小休所
 左手に「縣社八幡神社」の社標が立っている。これは八幡神社の表参道の入口を示している。八幡神社は、足利尊氏が京都の男山の岩清水八幡宮から勧請したと伝えられ、寛永九年(1632)、津藩の二代藩主、藤堂高次が、垂水の山から現在の地に移し、同時に藩祖高虎の霊を祀ったという。ここは戦争で全焼したため再建されたという。
左手に「縣社八幡神社
 小川に架かる橋の袂に標識があり、ここが香良洲街道へ向かう分岐点(追分)だ。香良洲街道は天照大神の妹神とされる稚日女神を祭る香良洲神社への参詣道だったという。
香良洲
 ここを直進して垂水南の信号で23号線を横断、藤枝踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「成就寺」がある。寺に伝わる文禄2年(1593)の縁起によると、行基が伊勢参詣の途中、この辺りの山中から仏像を掘り出して堂を建て安置したという。その仏像が出現した跡地から香水と称する一切の痛みのある病を治すという水が噴出し、その水を白河法皇に献上したところ、病気が治癒したことから七堂伽藍を建て、寺領を寄付したという。本尊である大日如来坐像は平安時代後期、12世紀後半の作と考えられているという。また境内には「さる稚児さくら」がある。これは西行法師が伊勢神宮参拝の途中でここを訪れたとき、一人の子供が境内で遊んでいたが、法師を見ると何を思ったのか、側のさくらの木に登り、高い枝に腰を掛けた。余りに見事な木登りだったので法師は思わず「さるちごとみるより早く木にのぼり」と上の句を口ずさむと、木の上の子供は「犬のような法師来たれば」と、すかさず下の句をかえした、という説話があるという。本堂の前の桜はその孫で、「さる稚児さくら」と呼ぶという。
成就寺
 右手に「金剛寺」がある入口に「石敢當」があった。これは魔物の進入を防ぐ魔よけで、鹿児島を歩いた際、数多く見かけたものだが、関西で見るのは初めての経験だ。鹿児島か沖縄のご出身の方なのかな?
石敢當
 右手に須賀神社があり、その先の二股を左へ進むと、右手に「式内加良比之神社」の社標が立っており、その横に明和元年(1764)の銅製の常夜燈が立っている。
式内加良比之神社
 ここから街道から外れて右へ進んでいくと「加良比之神社」がある。「垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、御遷座の時、ここに神殿を建設し鎮座したが、宮中は水利不便であるため、樋を以って通したことから片樋宮と称した。 四年後、天照大神のご神託により、他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神を祀り、加良比乃神社と称した。 以後、土地の御産神として、今日に至る」と説明板に書かれている。
加良比之神社
 相川に架かる相川橋、天神川に架かる天神橋を渡って進むと、右手に常夜燈が立っており、その横に薬師堂が立っている。
天神橋
 右手に「高茶屋神社」と刻まれた社標が立っており、その奥に文久3年(1863)の常夜燈が立っている。この神社は十社の森と言われて伊勢神宮へ参詣する勅使の休息所があったという。
高茶屋神社
 165号線の高架下を通り、高茶屋踏切でJRの線路を横断、二股を右へ進むと、用水路の右手に小祠があり、その両側に二基ずつの「山神」がある。伊勢街道には山神が多い。
二基ずつの山神
 右手に「明治天皇島貫御小休止址」の碑が建っている。ここが雲出宿の本陣だったところだ。先ほど見た八幡町の御小休止所とこの場所の二つが伊勢街道で見た明治天皇行幸に関係した碑だった。
明治天皇島貫御小休止址
 明治天皇碑の立っている横の細道を入ったところに二基の「山神」がある。
二基の山神がある
 雲出川に突き当たるのでこれを右折して進み、雲出橋を渡るが、この橋の袂に天保5年(1834)の常夜燈が立っている。これはかっては渡し場口にあったものをここに移設したと説明されている。
天保5年
 橋を渡ったところに寛政12年(1800)の常夜燈が立っているが、これもかっては西小野江(旧村名 須川村)の渡し場にあったもので、幾度かの地震で倒落しては再建され、近年では昭和19年の東南海大地震で倒壊したが、再建されたという。常夜燈の奉献は建立する土地と献灯する油代を賄う田を奉献者が寄進し、地元で管理を行ってきたという。
寛政12年(
 左折して川沿いに進み、対岸で川に突き当たった場所の延長線上にある二つ目の階段を下ると、左手に「本楽寺」がある。ここは慶長8年(1603)に創建され、来迎阿弥陀. 如来立像 を安置しているという。
本楽寺
 左手に「松浦武四郎生誕」の家が残されている。武四郎は幕末の北方探検家で北海道の名づけ親といわれている。築170年以上経過したといわれるこの家は伊勢街道特有の妻入りつくり、格子窓の付く家で、軒には目隠しを兼ねる「がんぎ」と呼ばれるひさしが付いている。
松浦武四郎生誕
 この辺りから先、「亀屋」「伊勢屋」「あげ屋」といった昔の屋号を掲げた家が並んでいる。
 右手に「江戸乾物問屋中」と台座に刻まれた常夜燈が立っている。これは文政7年(1824)に建立されたものという。
江戸乾物問屋中
 平五郎橋を渡り、左手にセメント工場を見ながら小川沿いに進んでいくと、「月本追分」がある。ここは伊勢街道と奈良街道の分岐点で、月本という地名は古くから月読社が勧進されていて、月読社のもとの集落ということからついたという。ここには右手に「月本おひわけ」「右 さんぐうみち」「左 いがご江ならみち」「左 やまと七在所順道」と刻まれている天保13年(1842)に建立された3.1mという伊勢街道最大の道標が立っており、その横に道標を兼ねた伊勢街道にある他の物にくれべれば小さい常夜燈が立っている。また道路の左手には天保期(1830~1843)に建立され、明治3年に再建された常夜燈が立っている。
明治3年に再建
 左手に「右 からす道」と刻まれた道標が立っており、ここから街道を外れて左へ少し入ったところに「勅使塚」がある。 この塚は養和元年(1181)神宮祭主大中臣親隆の長子 神祇少副定隆がこの地で亡くなったので埋葬した場所という。
右 からす道勅使塚

 街道に戻りその先の十字路を左へ進むが、その右手角に「太一」と刻まれた常夜燈と「左さんぐう道」と刻まれた道標、そして石橋の親柱に山神と刻まれたものが立っている。
石橋の親柱
 すぐ先の中道公会所のところに「右 さんぐう道」と刻まれた道標が立っており、その横に常夜燈と「天白村中道青年団」と刻まれた石柱が立っているので、ここを右へ進む。
天白村中道青年団
 580号線の高架下を通って進むと、左手に「小津一里塚跡」の石碑が立っており、「この竜宮橋より南95m」と刻まれている。石碑の立っているところに小さな橋が架かっていたので、それを竜宮橋と呼ぶのかな?と思ったが、良く分からなかった。伊勢街道で一里塚跡を見たのはこの場所のみだった。
小津一里塚跡
 左手に明治45年の常夜燈が立っており、その横に「右 松阪及山田」「左 津及香良洲」と刻まれた道標が立っている。
明治45年の常夜燈
 三度川に架かる三度橋を渡る。この川は中世伊勢参宮古道の時代に渡し場が三カ所あったことから三度の名前がついたという。ここの右手に道標が立っており、「いがこえ追分 六けん茶や」「やまとめぐりこうや道」「右 いせみち 六軒茶屋」と刻まれている。ここは初瀬街道との追分になるのだ。また道の反対側には文政元年(1818)の常夜燈が立っている。
いがこえ追分
 この辺りは旧家と思われる家が数多く建っていて、昔の面影を残している。
 左手に「志井之道」「わすれ井是より半丁」と刻まれた道標が立っている。
志井之道
 左手に「市場庄公会堂」がある。ここは大正7年に建てられ、昭和30年まで米ノ庄村役場として使われてきたが、現在は公会堂として使われていると説明されている。
市場庄公会堂
 近鉄山田線のガードをくぐると左手に市場庄の町並み案内図が立っており、それに家の屋号が書かれていた。こうしてみるとかなりの数の商店があったことがわかる。
案内図
 左手に「地蔵尊」が立っている。ここは久米集落の入口にあたる場所だ。
左手に「地蔵尊」
 三叉路に突き当たるが、ここに「左 さんぐう道」と刻まれた道標、行者堂、嘉永5年(1853)に建立された常夜燈、そしてその横に庚申堂、山神が二基、更に「いおちかんのん」と刻まれた道標が立っている。
いおちかんのん
 ここを左へ進み、その先の十字路を右へ進んでいくと、左手に立派な塀に囲まれた家がある。ここは藤堂藩の城代家老を勤めた舟木家で南北朝時代から続く家柄という。街道から少し入ったところは長屋門になっていて壮大な屋敷だ。
舟木家1舟木家2

 左手に「山神」が二基あり、右手には庚申堂がある。
左手に山神右手には庚申堂

 左手に「古川水神常夜燈」と刻まれた石碑が立っており、万延2年(1861)の常夜燈、更にその奥に「古川水神遥拝所」と刻まれた石碑、そして「山神」が二基祀られている。
古川水神常夜燈
 ガード下を通り、突き当りを左折、すぐ先で道は二股に分かれているのでこれを左へ進む。百々川に架かる塚本橋を渡ると左手横に嘉永5年(1852)の常夜燈が立っている。
 この辺りの家には笑門と書かれた注連縄がかかっている。地元ではこれを「福神様」と読んでいるようだが、熊野古道伊勢路を歩いたときにも見かけたものだ。一般的に注連縄は正月の間だけしているものだが、この地方では一年中しているという。
注連縄
 船江踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に行基の開基と伝えられる「利生山延命院薬師寺」がある。見事な仁王門があり、本堂は承応2年(1653)の建立といわれる。ここは大河内城を攻めあぐねた織田信長が和睦の条件に二男信雄を北畠家の養子にしたが、その時信雄が預けられたのがこの薬師寺だったという。
利生山延命院薬師寺
 その先で道は二股に分かれているので右へ進み、更にその先の二股を右へ行き、その先の十字路を左折する。阪内川に架かる大橋を渡ると松坂宿に入る。松阪城は天正16年(1588)に蒲生氏郷によって築城された城だ。左手に「小津清左エ門」の住宅跡がある。ここは紙問屋で、松阪御三家の一つに数えられた豪商だったという。
小津清左エ門
 その先左手に「三井家発祥の地」がある。江戸日本橋越後屋、後の三越となって発展していった三井家の発祥の地でその祖である三井高利が生まれ育ったところである。
三井家発祥の地
 14時を大分過ぎてようやく食堂があったので、昼食にする。その店のすぐ前に車道に面して「本陣跡」の石碑が立っていた。そのすぐ先に馬問屋跡の石碑が立っていたが、これは歩道側を向いて立っていた。この辺りが松阪宿の中心街だったのだろう。
本陣跡
 日野町の信号のところが伊勢街道と和歌山街道の追分で、ここに「左 さんぐう道」「右 わかやま道」と刻まれた道標が立っている。松阪は紀州藩領であったため、和歌山との往来が頻繁だったという。
日野町の信号
 その先愛宕町西の信号から左へ進むと、左手に「龍泉寺」がある。ここの山門は16世紀末、桃山時代のもので、松ケ島城裏門を移したとも、また松阪城の門を移したともいわれているが、確証はないとのこと。これは松阪で一番古い建物で県指定文化財になっている。
龍泉寺
 左手に三角公園があり、突き当たりを右折、その先で道は二股になっているので再び右へ進み、志村病院の先で二股を左へ進んで名古須川に架かる里中橋を渡る。
 右手に「信楽寺」がある。ここの境内には旧本堂の鬼瓦が置かれており、閻魔堂もあった。
信楽寺2信楽寺

 左手の森の中に「神戸神社」と「御乳母稲荷」がある。
神戸神社
 金剛川に架かる金剛橋を渡って進んでいくと、右手に文化2年(1819)の「永代常夜燈」が立っている。
永代常夜燈
 ほぼ一直線の道を進んでいき、徳和踏切でJRの線路を横断を横断する。
 加茂川という小さな川の左手に「万人講」と刻まれた天保2年(1836)の常夜燈が立っており、右手には「片岡山大日如来是より三丁」と刻まれた道標が立っている。
片岡山大日如来是より三丁万人講

 右手に「禁酒の神 沖玉の夫婦石」という石碑が立っている。この石に酒をかけると禁酒できると伝えられているそうだ。
禁酒の神 沖玉の夫婦石
 左手に弘化3年(1846)の「従是外宮四里」という道標が立っている。もう一息だ、と気合を入れる。
従是外宮四里
 右手に淨林寺を見ながら進むが、この辺り道幅が狭い。しかし逆にそのことが周囲の家並みとマッチして旧道の雰囲気を残している。豊原南の信号を直進、櫛田の信号で37号線を横断、すぐ先で左へ進むと、左手に「豊養稲荷」があり、その境内に「式内大櫛神社」「大櫛大市」と刻まれた石柱が立っていた。
豊養稲荷
 その先で左折、すぐ先を右折すると櫛田川に突き当たる。ここに「左 さんくみち」「右 け加うみち」と刻まれた文政2年(1819)の道標が立っている。
文政2年(
  ここを右折して進み、櫛田橋を渡って左折、堤防を少し進んで、その先で坂を下ると、右手に「乗大寺」があり、その横に早馬瀬神社がある。ここに「右 けのう」と刻まれた道標が立っている。
乗大寺
 右手に天保9年(1838)の地蔵尊が祀られている。
天保9年(1838
 のどかな田園風景が広がっており、既に田植えを終えた田に水が張られている。
 左手に梵字が刻まれた六字名号碑、「梵字塔」が立っている。
梵字塔
 左手に漕代駅があり、今日はここで終わる予定で駅へ向かったが、目の前で電車が出てしまった。時刻表を見ると次の電車まで約20分ほどある。電車を待とうかと思ったが、地図を見ると次の斎宮駅までそれほど距離はないようなので、次まで歩くことにした。街道に戻って祓川に架かる祓川橋を渡って進むと、左手に「従是外宮三里」と刻まれた弘化4年(1847)の道標が立っている。もう残りは僅かだ。昔の人もこの道標をみて、同じ気持を持っただろうなと思いながら、先を急ぐ。
従是外宮三里」
 18時1分に斎宮駅に着き、18時3分の電車で松阪駅まで戻る。今日の宿は松阪なのだ。

 本日の歩行時間   10時間51分。
 本日の歩数&距離  59689歩、37.3km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん