北国街道(犀潟~新潟)を歩く

2012年03月25日(日) ~2012年03月28日(水)
総歩数:200712歩 総距離:142.9km

2012年03月26日(月)

米山~出雲崎

                                          雪

 7時50分に出発するが、今日も雪がちらつき、風も強い。ホテルからこれまで歩いてきた道を振り返ると、海のところまで切り立った崖が迫っている状況がよくわかる。
海のところまで
 ホテルの先から右折して坂を上っていき、自然休養村の周囲を回るようにして進むが、「北国街道米山三里 松並木」の標柱が立っている。ただ松は一本だけ立っていた。このあたりの道はかっては幅1mほどの沢道だったというが、現在は6m幅の立派な道路になっていた。
松並木」
米山山荘の前に「従是左 米山道」と刻まれた道標が立っている。
従是左 米山道
ぐるっと山荘を回り込むようにして進み、坂を下っていくと左手に「右ハかみがた道」と刻まれた道標が立っている。
右ハかみがた道」
 8号線に合流して進むが、歩道に積もっていた雪が溶けかかってシャーベット状になっている。まるで水たまりの中を歩くようで、たちまち靴の中が濡れてしまった。
左手、海の中に「二見岩」がある。
二見岩
 その先で道は二股に分かれており、8号線から分岐して左へ進む。この道は除雪ができていて歩きやすい。右手に「右ハ加多道」「左ハやま道」と刻まれた宝暦12年(1762)の道標や庚申塔、馬頭観音が立っている。
右ハ加多道」「
 左手鯨波中央というバス停の横に「鯨波村道路元標」が立っている。
 その先で鯨波駅の地下道を通ってJRの線路の向こう側に出、線路に沿って進む。その先右手に「薬師堂」があり、横に文化7年(1810)の二十三夜塔が立っている。
薬師堂
 その先で街道から外れて番神堂へ行ってみることにする。左折したところに万延元年(1860)の題目石が立っており、その先右手に「諏訪神社」がある。ここの境内には庚申塔1基と二十三夜塔が3基あり、また柏崎の船頭藤吉と小木の娘おべんの悲恋の物語として伝えられているという「お光・吾作」の碑等がある。
諏訪神社
 その先に「番神堂」がある。佐渡へ流されていた日蓮は文永11年(1274)に許されて帰途に着いたが、寺泊の港へ上陸する予定が、嵐に遭遇してこの番神岬に流れ着いたという。日蓮は八幡大菩薩の力によって無事上陸することができたと感謝し、菩薩を中心に二十九神を合祈して三十番神堂とした。この時からこのお堂は番神堂と呼ばれるようになったという。 柏崎の番神は、静岡の番神、九州島原の番神とともに日本三大番神といわれている。現在のお堂は明治4年の火災で焼失したので、その後明治11年に再建されたものという。
番神堂
 街道に戻って進むと道は二股に分かれているので、左手の道を直進する。左手に「地蔵堂」があり、多数の石仏が安置されていた。
左手に「地蔵堂
 右手に「貞心尼剃髪の地、閻王寺跡」の説明板が立っている。貞心尼は良寛の弟子で歌人だった人だ。遺構は残っていないが、ここに文政2年(1819)と寛政6年(1794)の名号碑が立っていた。
貞心尼剃髪の地
 右手、少し入ったところに「弘法大師御茶ノ池」がある。弘法大師がこの地まできて水を所望し、飲み残しの水を庭にまいたところ、そこから水が湧き出したという。
「弘法大師御茶ノ池
 右手に「勝願寺」がある。 柏崎は桑名藩の飛び領地があったところで、藩主松平平定が幕末の混乱時にこの地にやってきて、勝願寺を本陣として鯨波戦争を戦ったという。
勝願寺
 勝願寺の前に豊洲神社があり、境内に巨木が立っている。
左手少し入ったところに「虚空蔵寺」があり、境内に青面金剛像4基、庚申塔3基、二十三夜塔2基などが祀られている。
虚空蔵寺
 鵜川橋を渡り、その先で左折して進むと、右手に「香積寺」がある。ここの本堂は中越地震で崩壊してしまったため、現在再建の計画があるとのこと。境内には柏崎の最初の長といわれ、室町時代に成立した謡曲「柏崎」に登場する柏崎殿といわれる柏崎勝長の碑がある。もっともこれは江戸時代に建立されている。そのほかに天保10年(1839)の庚申塔や二十三夜塔が立っている。
香積寺柏崎勝長の碑

 突当りを右折して進むと、左手に「ねまり地蔵」がある。これは延命地蔵菩薩で、別名火よけ地蔵とも呼ばれている。これは江戸期以前の作と思われており、以前は西本町付近にあったが、明治天皇の北陸巡幸の際、現在地に移されたという。
ねまり地蔵
その先、左手に「立地蔵」がある。これは左に日光菩薩、右に月光菩薩を脇侍とする薬師三尊石像で、これもねまり地蔵と同様に明治天皇の北陸巡幸の際、この地に移転したという。
立地蔵」
 左手に石井神社がある。このあたりが柏崎宿の中心になっていたところという。
その先で街道を離れて左折していくと、市立図書館がある。資料によるとここに道標が立っているはずだが、わからないので図書館の方にお聞きすると、図書館は移転していて、道標はすぐ横にある柏崎小学校の前にふるさと人物館があり、そこにあるということだったので行ってみた。
道標には「右 三国街道 小千谷十日町道」「左 奥州道」嘉永4年(1851)と刻まれている。道標は二本立っており、一本は新しいので復元されたもののようだ。
右 三国街道 
 道を挟んだ前にある柏崎小学校の校庭に「明治天皇柏崎行在所」の碑が立っている。
 その先、校庭に沿って更に進んだところに交差点があり、ここから右折した右手に「生田万の供養塔」文久3年(1863)が立っている。国学者だった生田万は天保8年(1837)の大塩平八郎の乱に刺激されて貧民救済を目的として蜂起したが、鎮圧されて柏崎の海岸で自刃したという。そのほかに明治元年の鯨波戦争や長岡戦争で戦死した新政府軍各藩士の墓石が並んでいる。
生田万の供養塔
 街道に戻って進むと左手に「閻魔堂」がある。江戸時代には庵の西と新田町の境界に木戸が置かれ、木戸の内と外に分けられていた。木戸の外に位置する閻魔堂は旅人や浮浪者の宿に利用され、閻魔庵の前には茶屋が二軒でき、閻魔市もできてにぎわったという。
閻魔堂
ここで左折して進むが、このあたりで少し日が差してきたが、すぐにまた雪がちらつきだした。
その先で街道は内陸部ルートと海岸沿いルートに分かれるので、今回は海岸沿いのルートを進むことにする。右手にスーパーがあったので、まだ11時30分だったが、この先で食べるところがあるかどうかわからないので、ここで弁当を買って食べることにする。幸い休憩コーナーがあって、そこで食べたが暖房が利いていて生き返ったような気がした。
その先で柏崎刈羽原発があって街道は失われているので、原発の敷地の周囲を回って進む。ちょうど今日から定期点検に入るということがニュースで流れており、これで現在運転中の原発は北海道泊原発一基になるという。このあたりの宿は原発関連の人たちが大挙押しかけてきていて、どこも満員だった。原発の横に「青山稲荷」がある。ここは文禄4年(1595)に創建されたという古い神社だが、原発の敷地内にあったため、昭和52年の原発建設時に現在地に移転をしたという。
青山稲荷」
 原発の裏の坂道を上っていくが、ここも人がほとんど通らないため、歩道は雪がシャーベット状になっていて、靴の中までぐっしょり濡れてしまった。原発の周囲を約1時間かけて抜けると海岸線にでる。風が強く、雪が舞う。寒い!
高浜集落の入り口右手に「勝軍地蔵」がある。 勝軍地蔵は鎧兜に身を固め、馬にまたがった地蔵尊で鎌倉時代から軍神として武士の間で信仰されていたものだが、現在では全国的に数が少なくなっているという。その横に庚申塔や二十三夜塔が立っている。
勝軍地蔵
 椎谷集落に入ると、左手の民家に椎谷本陣の看板が掲げられているが、家はまだ新しい建物だった。
 その先、右手に入ったところに江戸時代に設けられたという椎谷藩の「椎谷陣屋跡」があるが、遺構は何も残っていなかった。
 街道に戻って進んでいくと、左手に「明治天皇椎谷御小休所」の碑が立っている。
 椎谷岬トンネルの右手に椎谷観音堂があるが、階段を300段上らなければいけないようなので、上ることをあきらめた。トンネルの左側に旧道があるので、これを進もうとすると、「この先行き止まり」と書かれている。ちょうど人がおられたので、お聞きすると中越地震で道が崩落していて通行できないということだったので、トンネルの中を進む。現在は東日本大震災に世間の耳目が集中しているが、中越地震も相当にひどい被害があったことが、こうして歩いているとよくわかる。
大崎集落のあたりまでくると、民家の前に板囲いをしている家を数多く見かける。風が強いので、その対策としてこうして板で囲っているのだろう。こういった風景は以前北海道の日本海側を歩いた際に見かけたことがある。
板囲いをしている
 その先で道は二股に分かれており、352号線から分岐して右へ進むと、右手に墓地があり、嘉永7年(1854)の馬頭観音をはじめとした石仏が3基、更に米山塔が1基あり、その横に六地蔵がある。
嘉永7年
 右手に「羅石寺」があり、境内には安政3年(1856)の馬頭観音等がある。
羅石寺
右手に350mほどの御影石の参道があり、その奥に「御島石部神社」がある。ここは延喜式内社で現在の建物は弘化3年(1846)に建立されたもので、社殿の壁面は素晴らしい彫刻で飾られている。神社裏の高台には椎の樹林がうっそうと繁っており、椎の原生林としては日本海側の北限になるという。新潟県の天然記念物に指定されている。
御島石部神社
 左手に立派な長屋門の家があり、その前に「明治天皇駐輦碑」が立っている。
長屋門の家
右手に「石井神社」がある。ここは延喜式内社で、大国主命が佐渡へ渡ろうとするが、船がなく困っていると、境内の霊木が一夜にして成長、それで船を作って佐渡に渡っという。和銅4年(711)に現在地に移されたという。文化12年(1815)に神職となった山岸氏守は神事の研究と舞楽の研究に励み、後に大和舞と呼ばれる舞を考案したという。この舞は柏崎市の指定文化財になっている。
石井神社
 右手に「勝見稲荷」がある。ここは源義経の兜の守護神を本尊として建立されたという言い伝えがあるという。その横に元治元年(1864)の米山塔が立っている。
「勝見稲荷
 その先で道は二股に分かれているので、右へ進み、尼瀬の集落の右手に「出雲崎代官所獄門跡」がある。ここは元和2年(1616)に幕府の直轄地になり、付属機関としてこの地で極刑の執行が行われたという。地蔵堂があり、そこに数多くの供養地蔵が安置されている。
出雲崎代官所獄門跡
 いよいよ出雲崎の街中へ入っていくが、雪は益々ひどくなっており、吹雪状態だ。江戸時代、出雲崎は幕府の天領となり、佐渡の金銀荷揚げ港として、また北前船の発着港として栄えたところで、良寛が生まれ、芭蕉が訪れて「荒波や佐渡によこたう天河」という句を残すなど、文化、交通の中心地だった。また全国的にも珍しい3.6㎞にも及ぶ「妻入り」の家並みは北国街道の名残で、当時の街並みの面影を色濃く残している。
妻入り
右手に「光照寺」があるが、ここは良寛が18歳から22歳までを過ごしたところで良寛禅師剃髪の地となっている。
光照寺
 右手に養泉寺があるが、その入り口に「堀部安兵衛住居跡」の説明板が立っている。
 右手に「芭蕉園」があるが、芭蕉園前にあった大崎屋に芭蕉は宿泊をしたという。
芭蕉園
 左手に「良寛生誕の地」の標柱が立っている。ここは良寛の生家橘屋の屋敷跡だというが、遺構は何も残っていない。
 右手に神亀2年(725)に行基によって創建されたという「多聞寺」があるが、もう周囲は暗くなってきており、写真を撮ったがうまく映っていなかった。このお寺は上杉謙信とゆかりが深く、佐渡、村上氏等の征討の際、ここに宿陣したという。
 さらにその先右手に「出雲崎代官所跡」がある。
 左手に「出雲崎村道路元標」が立っている。

 17時40分、ようやく今日の宿佐平次に到着する。

 本日の歩行時間   11時間50分
 本日の歩数&距離 56516歩、39.6km。

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記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん