北国街道(犀潟~新潟)を歩く

2012年03月25日(日) ~2012年03月28日(水)
総歩数:200712歩 総距離:142.9km

2012年03月28日(水)

岩室~新潟

                          雨、雪終日ちらつく

 7時8分に薬師堂を出発する。この時には雨は降っていなかったが、歩き始めて15分もすると予報通りに雨が降り出した。
樋曽の信号の先、左手に地蔵尊を安置する祠があり、その横に庚申塔が立っている。
左手に地蔵尊
 道なりに進んでいくと、左手に「神明社」があり、境内に文政6年(1823)、天保5年(1834)、嘉永元年(1848)の石灯籠が立っている。
神明社
  左手に「本間屋」がある。文政12年(1829)の冬に初代猶右衛門が豪雪で苦労していた京の雲水を助け、そのお礼として製法を教わったという柚餅子の製造を現在でも行っている店だ。
新潟市に入ると「北国街道」の標柱がところどころに立っていて、目印になって助かる。
北国街道」の標柱
 左手に「隆宗寺」がある。ここの本堂脇の別堂に十二神将像がある。ただガラス戸が閉まっていて写真を撮ったが、うまく写っていなかった。
 左手に「一山寺」がある。ここは三根山藩主だった牧野家の菩提寺で万治3年(1660)に二代目藩主だった牧野忠清が初代藩主忠成の墓を建立して以降、歴代藩主(11代を除く)の墓が本堂の裏に並んでいる。
一山寺
 その先で旧道はゴルフ場の中を通っているのでこれを進む。
ゴルフ場を抜けた先、左手に「平沢清水」があり、その奥に石仏と不動明王が祀られている。ここは北国街道の名所として、かっては現在の数倍の湧水があったという。
平沢清水
 その先にも新潟市が立てた北国街道の標柱が立っていて、「現在地 平沢」となっている。
 この十字路を左折すると、すぐ左手に景清寺があり、ここも十字路になっているが、わかりにくくてそのまま直進してしまった。しかしなんとなくおかしいので、景清寺まで戻って、今度は右折して進む。その先で道は二股になっているので、これを左へ進むが、ここに「現在地 松郷屋」の標柱が立っているのを見て、道を間違っていないことを確認できた。
その先に「現在地 伏部」の標柱が立っているところに「右ハやひこ道」と刻まれた道標がある。
右ハやひこ道
 すぐ先右手に「八幡神社」があり、境内に文政13年(1830)の石灯籠と「神石」がある。資料によると神石には天保2年(1831)と刻まれているそうだが、読み取ることはできなかった。
八幡神社
右手に文化14年(1817)の庚申塔が立っている。
文化14年(1817
「現在地 稲島」の標柱が左手に立っており、その先で道は突当りになっている。地元の方がおられたので、お聞きすると、突き当りを左折、すぐ先を右折して進むことを教えていただいた。この標柱、非常に助かるのだが、進む方向の矢印が記されていないのでちょっとわかりにくい。稲島では継立を行っており、宿泊施設がどの程度あったか不明という。
左手に石仏を安置する祠があり、その先で道は二股に分かれており、そこに明治19年の二十三夜塔と地蔵堂が立っている。
明治19年
 ここを右へ進むと、すぐ先で再び道は二股に分かれているので、ここは左へ直進する。このあたりは手持ちの地図と現実の道がうまくマッチしなくてわかりにくかった。
その先、右手に嘉永5年(1852)の石仏が安置された祠がある。
嘉永5年(
 「稲島の旧道」と書かれた標柱が立っているところから右へ進むと、すぐに道は二股に分かれているので、左へ山道を上っていく。
山を抜けたところに「現在地 稲島」の標柱が立っており、舗装された道に出るのだが、ここもどっちらへ進めばいいのかわからない。とりあえず右へ進んでいくと、なんと先ほど通った二股のところに出てしまった。もとに戻ってしまったのだ。ちょうどそのとき、ご近所の方がおられたので、道をお聞きすると、先ほどの標柱があったところから左へ進まなければいけないと教えていただいたので、元へ戻っていると、その方が車で追いついてきて、同じ方向へ行くので乗せていってあげようと言ってくれた。このあたり、まだ自分の頭の中と地図が一致していなかったので、とりあえずその先まで載せていただくことにする。標柱から右へ進むと、すぐに562号線に出る。ここを右折、そのすぐ先で道は562号線から分岐して左へ進み、少し行くと右手に「庚申塔と石仏」があった。ここは事前に調べていたところなので、ようやく地図と頭の中が一致したため、ここで車を降りて歩くことにした。この間わずか1~2分だったが、助けていただいてありがたかった。
庚申塔と石仏
 そのまま道なりに進んでいくと、突き当りに「布目」の標柱が立っており、ここを左折するのだが、右手に寛政11年(1799)の「大乗妙典六十六部供養塔」とその横に地蔵堂があり、そこに馬頭観音が安置されている。
寛政11年
 街道に戻って進むと2号線に合流するが、ここにも「現在地 仁箇」の標柱が立っている。
 その先左手に「現在地 松山」の標柱が立っているところの横に寛政9年(1797)のお墓や題目石が立っている。
寛政9
 そのすぐ前、右手に「松野尾村道路元標」が立っている。
 松野尾の信号のところにコンビニがあったので、まだ時間は早かったのだが、とりあえず昼食のおにぎりを購入する。とにかく購入できるときにしておくのが鉄則だ。
 この信号のすぐ先、左手に馬頭観音がある。
 その先の信号のところに「現在地 松野尾」の標柱が立っており、その横に「右 やひこ道」と刻まれた文化3年(1806)の道標がある。
右 やひこ道
その先で道は二股に分かれているので、2号線から分岐して右へ進むと、突き当りに「大滋寺」がある。慶長9年(1604)庄屋石黒家の祖弾右衛門が開基したという。入り口に大きなたぶのきが立っている。ここの鐘楼にある梵鐘は戦艦陸奥を引き上げた際、その鉄を溶かして作られたという。ここに道標があると資料に記されていたが、わからなかった。
大滋寺
 その横に、「赤塚神社」がある。ここは平安時代からの歴史を持つ神社で、現在の社殿は明治時代に再建されたという。この赤塚村には旅籠が二軒あったという。
赤塚神社
 その先で一旦2号線に合流、、その先の赤塚の信号で2号線から右斜めへ分岐して進む。
左手に墓地があり、寛政8年(1796)の石仏や宝篋印塔等が立っている。
寛政8年(1796
 右手に「円通庵」があり、寛政6年(1794)、嘉永5年(1852)の庚申塔が立っており、その横に月山、湯殿山、羽黒山の「出羽三山碑」が2基立っている。
円通庵
 木山の信号で2号線を横断して進み、その先、賀詠重機という会社があるところから右折して進むが、旧道はこの先で失われているようなので、農道のような道を進む。四ツ郷屋の集落に入るところにバス停の小屋があったので、まだ昼前だったが、昼食にする。この先、腰かけるような場所は全くなかったので、ここで食べて正解だった。ここで食べているうちに雨はやんだ。やれやれだ。その先で402号線に合流してこれを進む。このあたり、旧道はもっと海側の砂浜の中を歩いていたようだ。
 402号線は旧道ではないので、沿道に旧跡は何もない。砂地が道の両側に広がっていて、これを畑にして耕作がなされていた。見るべきものがないので、唯々黙々と歩き続ける。左手に新潟県水産海洋研究所があるところから道は二股に分かれているが、地図には道が描かれていない。そのためそのまま直進したが、海辺を進んでいてどうもおかしいので、元へ戻って、右手の道を進む。
掘割橋を渡るが、海からの風が強く、身を切るように冷たい。橋を渡ったところから左折してより海岸線に近い道を進む。こちらのほうがより旧道に近いようだ。
新潟旭町郵便局が前方に見えるところから右折して細道を進むと、民家に突き当たる。その左手横に人が一人かろうじて通ることができるような路地があるのでこれを進み、舗装された道に出たところで民家に突き当たる。左手に三本の道が伸びているので、その真ん中の道を進むと、116号線に合流する。
 右手に「白山神社」がある。ここの創建は不詳だが、平安時代中期と考えられており、現在の本殿は正保4年(1164)に建てられたもので、弥彦神社、新潟県護国神社とともに、新潟県を代表する神社の一つといわれている。
「白山神社」
 ここから左折して古町通を進み、古町の信号のところで、16時33分、今日は終わりとし、近くにある東横インに宿泊する。
これで北国街道を踏破したことになる。

 本日の歩行時間   9時間25分。
 本日の歩数&距離 51047歩、36.8km。

北国街道(直江津、犀潟~新潟)合計
 総歩行時間   41時間13分。
 総歩数      200712。
 総歩行距離   142.9km。
 北国街道純距離 127.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

北国街道(信濃追分~新潟)総合計
 総歩行時間   89時間29分。
 総歩数      454940歩。
 総歩行距離   326.4km。
 北国街道純距離 285.0km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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