羽州街道(桑折~南新庄)を歩く

2012年04月23日(月) ~2012年04月27日(金)
総歩数:218946歩 総距離:153.1km

2012年04月23日(月)

桑折~小坂~七ケ宿

           曇りのち雨
 4月20日で出羽街道・浜通りを歩き終え、21日に秋田から福島県の桑折まで移動する。
 桑折宿は奥州街道と羽州街道の分岐点で、ここには奥州街道を歩いた時にお世話になった渋谷さんがおられるので、ご連絡をしてお会いさせていただいた。奥州街道を歩いた時に思いがけないというか、劇的な出会いをさせていただいたのだが、詳細は奥州街道の下記の記事をご覧になっていただきたい。
奥州街道桑折宿(2007年10月18日)

今回も渋谷さんが努力を重ねて作られた「追分」の前で写真を撮らせていただく。追分前2
 前回、この追分を通ったのは平成18年(2007)だったが、その翌年の平成19年に国土交通省から「手づくり郷土賞」として表彰されていた。渋谷さんのご努力が評価されてのことなのだろう。追分から桑折御蔵へ場所を移してお話をさせていただいていると、奥の細道を研究して、現地を回っているという女性が二人訪ねて来られたので、一緒に写真を撮らせていただいた。
桑折宿2
 昨年の地震と原発事故で福島は大変だったというか、現在でもまだ大変な状況が続いている。町内には工場の跡地に仮説住宅が300戸も建っていて、たくさんの人がそこで生活をされており、また放射能の濃度を計測する機器が立っていたり、更には損害を受けた家々も修理が間に合っていなくて、壁にひびが入ったままになっているなど、ちょっと注意をしてみると、まだまだ復興途中だという感を強くした。

本来は翌22日に七ケ宿へ向けて出発をする予定にしていたのだが、なんと宿がとれない。山の中の宿で、三軒あるのでどこかに泊まれるだろうと思っていたのだが、一軒は現在営業をしておらず、もう一軒はダムの工事の関係者が泊っていて満員、残った一軒も風呂が壊れたということで、すべてダメだった。アクセスもないのでどうすることもできなくて福島でもう一泊することにした。
22日は疲れをとるために、ホテルでゆっくりしていたが、奥州街道を歩いた時に桑折宿の次の藤田宿でお会いした「けだおやじさん」の印象が強く残っていたため、お会いしたいなと思って、ネットで調べてみると連絡がついたので、訪問することにする。「けだおやじさん」こと武田紙店の武田さんは私のことを覚えていてくださった。訪問すると桜華楼の玉手さんを紹介していただき、そこでしばらくお話をさせていただいた。武田さんは相変わらずお元気そうで、ラジオ福島に現在でも投稿をされておられるようだった。玉手さんからは古い地図を見せていただいたり、片倉小十郎付の絵師が描いたという絵を見せていただいたりして、ここでも楽しいひと時を過ごすことができた。
けださん2
23日に羽州街道へ向けて出発する。羽州街道は13藩が参勤交代で利用していたという街道で、奥州街道と並ぶ東北地方の二大街道として知られている。
 7時25分に桑折の追分を出発するが、お世話になった渋谷さんにお礼の電話を入れたところ、わざわざ後を追いかけてこられて恐縮してしまった。丁度線路に沿って歩いていたところで、どこかに線路の向こう側に出る道があるはずだと思って左手ばかりに注意を向けていたところだった。渋谷さんにその少し前にあった羽州街道最初の一里塚の標柱を教えていただいて助かった。標柱は右手にあったので、うっかり見過ごすところだった。
一里塚2
渋谷さんにお世話になったお礼を申し上げて出発する。 桑折は丁度桜が満開できれいだった。
桜2
左手に線路を横断する通路があり、これを通って線路の反対側にでる。この通路を最上隧道と呼ぶそうだ。
左手に桑折町文化財に指定されている「松野善之丞」の墓がある。善之丞は元禄から享保のころ、病身の父と弟を助けて働き、二人が他界した後は仏門に帰依して冥福を祈ったという。
松野善之丞2
東北自動車道の高架下を抜けると、道は二股に分かれており、右手の土道を進む。左手に明治天皇行幸記念碑が建っており、銀山の鉱屑を運んだという女郎橋の跡が残っている。ここは昔、半田銀山があったところで、銀山は大同3年(807)に発見されたと伝えられており、以後採掘、閉鎖を繰り返し、最終的には昭和25年に廃止されたという。銀山で働く男たちを桑折宿の飯盛り女たちがこの橋のたもとまできて見送ったという。右手に半田銀山供養塔や二十三夜塔、寛政5年(1793)と読むことができる墓石等がある。
女郎橋2半田銀山供養塔

 そのすぐ先で353号線に合流して進むと、羽州街道の標柱が立っているところの左手に「早田伝之助邸」がある。早田家は代々伝之助を襲名、土地の名主として小坂峠の慶応新道を開いたり、土地改良や慈善事業等を私財を投入して行ったという。旧道は標柱と早田家の間の細道で、そのすぐ先で353号線に合流している。
早田伝之助邸2
 突当りに「益子神社」があるが、ここはその昔、赤瀬明神と呼ばれており、延暦年間(782~805)坂上田村麻呂が蝦夷討伐のために陸奥の国に出兵した折、大竹丸の弟赤頭太郎を討って、社をそこに建てたのが始まりといわれており、安政5年(1858)からは京都二条家祈願所になったという。明治3年に「益子神社」と改称されたという。
益子神社2
ここを右へ進むと、左手に庚申塔が立っている。
庚申塔2
 泉田橋を渡ったところ、右手に「羽州街道桑折追分」「羽州街道小坂宿」と記された標柱が立っている。
羽州街道は桑折宿から金山峠にいたるまでの間に宿場が七か所あったことから、この間を七ケ宿街道とも呼ばれている。
46号線に突き当たるが、このあたりが小坂宿のあったところで、口留番所の木戸が構えられていたといい、今でも街道の雰囲気が残っている。
街道の雰囲気2
 46号線を左折して進むが、小坂峠へ向けて上り坂になっていく。 「伊達家12代伊達成宗の墓600m」という看板が立っているので、街道を外れていってみた。しばらく歩くと墓まで200mという看板が立っており、そこから山道に入っていく。ところがその先で昨夜来の雨の影響か道がゆるく、靴がズブズブと埋まってしまう。それでもここまで来たからには何とか行ってみようと思ったが、どうにも進めなくなって、あとわずかの所とわかっていながらあきらめた。これまで街道沿いにある大名のお墓を色々とみてきただけにちょっと残念だ。
釣り堀とラーメン屋の廃屋があり、そのすぐ先左手に元文4年(1739)の庚申塔が立っている。
元文4年2
 萬蔵稲荷神社の赤い鳥居が立っており、その左手に清恵神という小祠と庚申塔2基、石碑1基が並んでいる。
清恵神2月
ここから道は大きくカーブしているが、その曲がった先に「産坂」の登り口があり、きれいな階段が整備されている。
産坂2
 ここから急な坂道だ。階段を登って少し行くと、道は二股に分かれており、「左 古代から近世にかけての羽州街道小坂峠古道」「右 慶応年間以降の羽州街道小坂峠新道」と書かれた標柱が立っている。
古道の左の道を進むと、「伊達正宗夫人愛姫がお輿入れに通った道」と書かれた標柱が立っている。天正7年(1579)に輿入れした三春城主田村清顕の息女愛姫もこの峠を越えたのだ。
 小坂峠は標高441mの山の中の道で、比較的緩やかな登りといわれる慶応新道と比べると古道はかなりの急坂。産坂という名前は急な山道を登る苦痛をお産の苦しみに例えたことから命名されたという。しかし現在では急坂ではあるものの、各所に階段があったりして、整備されており歩きやすい。坂を登っていると鶯の声が聞こえる。こうした山の中で聞く鶯の鳴き声は格別だ。
 峠を登ると右手に建物があり、その裏に「小坂峠不動尊」がある。秋田藩の藩主は参勤交代の折りには、この不動尊に奉幣を捧げて、道中の無事を祈願していたという。
小坂峠不動尊2
その先で46号線から分岐して鳥居が立ち並ぶ長い参道を進んでいくと、「萬蔵稲荷神社」がある。昔,小坂峠に萬蔵という馬方をしている人がいて、ある日峠道で体の弱った老人に出会い、心づくしのお世話をしてあげたところ、翌日、この老人が立派な駿馬を三頭、お礼にといって萬蔵にくれた。この老人は稲荷明神だったことから、萬蔵は三頭を売ってお金に換え、お堂を建ててそこの宮守になり、峠を往来する人々を助けながら、信仰一途に暮らしたという。 
萬蔵稲荷神社2
 その先で46号線に合流するが、道路の温度計が12℃を表示している。歩くには気持ちのいい気候だ。
 右手に馬頭観音と庚申塔が2基立っており、その先で46号線から分岐して上戸沢宿へ入っていく。
上戸沢宿2
すぐ先右手に「念佛塔」が立っている。
上戸沢宿は山中七ケ宿最南端の宿場で、仙台藩五大番所の一つとされた口留番所が置かれていた。
 左手に「番所跡」と「検断屋敷跡」の標柱が立っている。
 46号線を進んでいくと、右手に宝暦4年(1754)の念佛塔が立っている。ここから下戸沢宿だ。
 このあたりの街道は昔の雰囲気が色濃く残っていることから「日本の道100選」に選ばれたという説明板が立っている。
日本の道100選2
集落の中を進んでいくと、左手に明和2年(1765)と読める大黒天碑、年不詳の念佛塔、文政2年(1819)の湯殿山碑、明治6年と明治22年の馬頭観音が立っている。
明和2年2
左手少し入ったところに天然記念物に指定されている推定樹齢250年という「小原のヒダマキ」がある。 
小原のヒダマキ2
 突当りに湯殿山、秋葉山、火防供養塔他3基の石碑が立っている。
突当りに湯殿山2
 その先で46号線から分岐し左折して進む。
その先で道は二股に分かれており、ここを左折して「飛不動尊」へ向かう。旧道はこの道なのだが、七ケ宿ダムができたため、旧道はこの先で失われている。「飛不動尊」は伊達正宗が天正19年(1591)に創建したと伝えられており、元は113号線脇に建っていたという。
文禄3年(1594)に不動堂が焼失してしまったが、この火災の際、ご本尊が自ら飛び出し、堂の後ろにある岩窟に入って難を逃れたといわれ、それ以降、飛不動尊と呼ばれるようになったという。更に享保16年(1731)の大地震の際も、堂の一部は巨岩に押しつぶされたが、本尊及び僧侶達は怪我もせず、無事だったことから、益々尊崇を受けるようになったという。不動尊は享保19年の地震の後、現在地に再建され、七ケ宿街道もこの堂の前を通るようになったという。またこの堂の前には夫婦杉が立っているが、これは地震の際、杉の大木がご本尊を守ったと伝えられていることから、結婚した部落の若者が杉の苗2本を植えて、今では樹齢400年といわれる大木となっている。
飛不動尊2
 「飛不動尊」を参拝後、元へ戻って進み、材木岩橋の手前から左折して進むと、「旧上戸沢検断屋敷木村家住宅」が再建されている。
旧上戸沢検断屋敷木村家住宅2
 また白石川の向こう岸には小原の「材木岩」がそびえたっている。 材木岩の成因である巨斑紫蘇輝石石英安山岩が水成岩(白石川の水面の近くに見える水平層)の基盤を貫いて地表面に噴出し、急激に冷え固まるときに三角から六角柱状の節理をあらわしたもので、高さ65m、巨大な材木を垂直に100mほどの距離に立て並べたような自然の造形になっており、国指定天然記念物となっている。
材木岩2
この絶景を見ながら出発時にコンビニで買ったおにぎりを昼食として食べるが、ここには食堂が1軒あった。ここから113号線に合流して進むが、このあたりは高地のためか、桜はまだつぼみだった。ダム沿いに進むが、旧道はダム湖の下で、渡瀬宿も今ではダム湖の下に沈んでいる。
 このあたりから雨が強くなる。今回の旅は天候に恵まれてここまで順調に来ることができたが、今日は雨。特にここから先はかなり強い雨になったが、宿が近かったため助かった。
 113号線をダム湖に沿って進み、関宿に入る。ここの本陣は七ケ宿街道の中では最も本格的な本陣の跡で、奥羽地方にあった15大名のうち、米沢藩とその支藩を除く13大名が参勤交代で宿泊、休憩をしたという。一夜に200人を泊めたといわれる堂々たる規模だったそうだが、現在では庭園の一部が残っているだけだった。
関宿2
 その先にある七ケ宿館に15時24分に到着する。

 本日の歩行時間   7時間59分。 
 本日の歩数&距離 41177歩、29.4km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん