鯖街道を歩く

2012年10月28日(日) ~2012年10月31日(水)
総歩数:138769歩 総距離:97.1km

2012年10月28日(日)

小浜~上中

                                          雨

 鯖街道は今から千二百数十年前、奈良の都に若狭の海の幸や塩が運ばれた道が起源で、その後も若狭各地から京都へ鯖をはじめとした諸海産物や日本海経由の多くの文物を運び、また逆に京都から若狭地域へは、さまざまな都市文化がもたらされたルートをさす俗称で、近年使われだした言葉だという。小浜では「京は遠ても十八里」といわれる言葉があるように、京都を身近に感じていたようで、京都へつながるルートも複数存在しており、それらを総称して鯖街道と呼んで、特定の道を指すものではないという。また、小浜に伝わる古い文書で『市場仲買い文書』というのがあり、その中に「生鯖塩して荷い、京へ行き任る」という文章が記載されており、これは若狭から運ばれた鯖が、京の都へつく頃には丁度よい塩加減になったという事を意味している。今回は小浜から熊川を経て、朽木谷を通り、出町柳に至る若狭街道と呼ばれるルートを歩いたが、この道が最も盛んに利用された街道だったという。

 「いづみ町商店街」のアーケードの中の路面に「さば街道起点」の碑が埋まっており、その横に「鯖街道資料館」があって資料が展示されている。
いづみ町商店街
 ここを10時48分に出発する。  アーケードを出たところに14号線があり、信号があるので、これを横断、すぐ次の松寺小路と呼ばれる細道を左折するが、ここに「浜街道」と刻まれた石碑が立っている。
浜街道
 その先すぐ次の十字路を右折して進むと左手に「本境寺」がある。福井県歴史の道調査報告書(以下資料という)によると、ここは奥州の武将安倍(安東)氏の若狭代官・関戸豊前守がこの寺に駐在して京都との連絡にあたったと推測されるお寺ということだ。境内に廻船問屋でもあった小浜の豪商組屋六郎左衛門家歴代の墓があるとなっていたが、場所がわからないので、お寺の方にお聞きすると、気持ちよく案内をしていただいた。境内には松の巨木が立っており、このあたりでは最も大きな松ということだった。
本境寺1本境寺2

 案内をしていただいた方はお寺の奥さんだったようで、その後丁度出かけられるところだったご住職さんとも御挨拶をさせていただいたが、お二人ともとても気持ちのいい方だった。別れ際に妻の仏前にといわれてお線香をいただき、感激してしまった。お二人にお会いしたおかげで気持ち良く街道を出発することができた。感謝である。
 すぐ先、左手に「妙光寺」があり、入り口に「蓮如上人御留錫舊地」の石碑が立っている。 ここを開山した蓮智は足利尊氏の孫で、蓮如上人がこの寺に一年間滞在したということだ。
妙光寺
 その先の信号を横断、すぐ次の角に「後瀬山歴史街道」の標柱が立っている。
後瀬山歴史街道
 街道はここから左折して進むのだが、そのまま直進すると、左手に「八幡神社」がある。ここは神護景雲3年(769)に創建されたという古い神社だが、その入り口に「家康くん」「忍者」と書かれた名札を付けて仮装をした男性が二人立っていた。今日は「まちなかオリエンテェーリング」という催しが行われているそうで、この催しはテレビドラマ「お江」にちなんで昨年から行われるようになったという。この先も仮装をした人を何人も見かけた。
八幡神社
 そのすぐ先に「空印寺」があり、境内に「八百比丘尼の洞窟」がある。
若狭の漁村で暮らしていた少女が、漁師である父親が持って帰ってきた人魚の肉を食べたことから不老不死になってしまった。長い年月を経ても少女は老いず、美しさと輝きを失うことがなかったが、一方で結婚をしても必ず夫に先立たれてしまうし、遂には村の人々に疎まれて尼となり、自らの肉体の死を求めて全国を行脚する。八百年の後、少女はめぐり巡って、生まれ故郷の若狭に辿り着き、この洞窟に入定したという。
八百比丘尼の洞窟
 空印寺は小浜藩主酒井家の菩提寺であり、墓所があるそうだが見ることはできなかった。
 街道に戻って進むと、左手「連興寺」の門前に「蓮如上人御建立地」の石碑が立っている。ここは文明年中(1469~1487)に蓮如が建立したといい、元亀元年(1570)徳川家康がこの寺で一夜を過ごしたという。
連興寺
 第2丹後街道踏切でJRの線路を横断すると、右手に「心光寺」がある。ここは藩主酒井忠勝の室、心光院の菩提を弔ったお寺という。
心光寺
 その先右手に文政4年(1821)の常夜燈とその横に「後瀬山歴史街道」の標柱が立っており、更にその横に「発心寺」の石柱が立っている。このあたりが欠脇口番所があったところという。
欠脇口番所
 27号線を横断、その先の突当りを左折、更にその先の27号線と合流する直前を右折して進むと、右手に小浜藩馬術指南だった「小野打家」の墓がある。馬の嘶きの聞こえる場所に葬られることを望んだ故人の遺志によって街道脇に造られたという。
小野打家
 そのすぐ先、右手に草に埋もれて石仏があるが、これは「さんまい」跡という。両墓制における死者埋葬地「埋め墓」で、現在は火葬の普及によって利用されていない。
さんまい」跡
 右手に「熊野神社」があり、その前の左手には高さ3.9mの大きな常夜灯が立っている。このような大きな常夜燈はこれから先も見かけた。
熊野神社常夜燈1

 その先で道は二股に分かれており、右へ進むと南川に突き当たるので、これを左へ進み、湯岡橋を渡る。橋を渡って右折、すぐ先で左へ下ると、小浜市子育てセンターがあり、ここを左折、その先で27号線に合流する。ここでちょうど昼になっていて、食堂があったので、昼食にする。ここまで来るのに思っていた以上に時間がかかってしまった。
 食事を済まし、街道は27号線を進むのだが、街道から外れて27号線を横断して進むと、「西方寺」がある。ここは室町時代初期に阿弥が創建したと伝えられており、境内には高さ3.5mの宝篋印塔があり、市の文化財に指定されている。
西方寺
 街道に戻って27号線を進むと、木崎の信号の手前右手に「多田薬師如来 是ヨリ八丁」「新四国八十八番」と刻まれた道標が立っている。ここから街道を外れて右折して進むと、左手入ったところに「多田神社」がある。ここの入り口にも大きな常夜燈が立っており、境内には文久3年(1863)の狛犬がある。
多田神社
 27号線に戻って進むと、右手に多田寺東入り口の看板が立っており、ここから27号線から分岐して右へ進む。このあたりを検見坂というようだ。このあたりの街道沿いには数多くの地蔵堂が立っている。
 右手入ったところに「神通寺」がある。ここは和銅年間に僧行基が開き、延暦年中に空海が創建したと伝えられ、内藤下総守の菩提寺になっていたという。
神通寺
 街道に戻って進むが、この辺りには「福井県認定証 ふくい伝統的民家」という看板を付けた歴史を感じさせる家が何軒も残っており、昔の街道の雰囲気を残している。この「ふくい伝統的民家」は北陸道を歩いた時にも何度も見かけている。
ふくい伝統的民家
 その先、35号線を横断するところで街道を外れて、右折して進むと、右手に若狭国一宮「若狭彦神社下社」がある。別名若狭姫神社といい、竜宮伝説で名高い豊玉姫命を祀っている。境内には千年杉が立っており、歴史を感じさせる神社だ。この先に「若狭彦神社上社」があり、更にその先、神宮寺、鵜の瀬、根来と続いて、京都へ行く一番古い鯖街道と呼ばれている針畑越えの道となっている。もう少し先まで行ってみるか迷ったが、雨がかなり強く降っていることもあって、行くことをあきらめた。
若狭彦神社下社
 その先街道に戻って進むと、右手に若狭彦神社、若狭姫神社の一の鳥居が立っている。
 遠敷(おんにゅう)川に架かる遠敷橋を渡るが、渡ったすぐ左手に「地蔵堂」と「経堂」がある。経堂には元国分寺にあったという大般若経が六百巻収納されており、小浜市指定文化財になっている。
地蔵堂」と「経堂」
 その先で十字路があり、ここから街道を外れて左折、27号線を横断して進むと、「若狭国分寺」がある。ここの釈迦堂は江戸時代初期に再建されたもので、安置されている釈迦如来坐像は県下最大の巨像で小浜市の文化財に指定されているそうだ。
若狭国分寺
 街道に戻って松永川に架かる東市場橋を渡って進むと、右手に「地蔵堂」がある。
地蔵堂」
 その先、右手入ったところに「日枝神社」があり、ここには太興寺廃寺、大伽藍の礎石が手洗い場に使われている。資料では日吉神社となっているが、私のメモには「日枝神社」と記されており、YAHOOの地図にも日枝神社と記載されているので、ここでは日枝神社としておきます。
日枝神社
 その先で27号線に合流、すぐ先で27号線と並行して左手に旧道があるので、これを進む。一旦27号線に合流するが、平野の信号で左へ分岐、すぐ先で右折して進むと、右手入ったところに「桜神社」がある。
この神社は若狭彦姫神社の末寺で奈良時代初期の鎮座木花開耶姫命が祀られている。境内には巨木が立ち並んでいる。
桜神社
 その先左手に「白髭神社」がある。ここは小浜市唯一の前方後円墳で、市指定文化財に指定されており、神社は古墳の上に建っている。
白髭神社
 左手に国指定史跡である「下船塚古墳」がある。これは全長80mある大型の古墳で、埴輪の残片が見られることもあるという。築造年代は6世紀中葉と考えられている。
下船塚古墳
 その先で左折してJRの線路のガード下を抜け、その先で右折して進むと、「義民松木長操」の遺跡がある。江戸時代の初期、小浜に新しい城を築くため、年貢、特に大豆の税が大幅に増額されたため、若狭の農民は大変な苦しみを強いられることとなった。この時、弱冠16歳という新道村の若き庄屋であった松木庄左衛門(贈名(おくりな)長操)は、若狭の農民を救おうとして、9年も嘆願を続け、ついに磔の刑に処せられたが、その一命と引き換えに悲願は達成されたという。慶安5年(1652)に行われた処刑の地はこの近辺であったという。ここは少し早く左折し過ぎたようで、この後街道に戻ってみると、街道の遺跡の入り口にあたる場所に標識が立っていた。
義民松木長操標識が立っていた

 野木口バス停のすぐ先、27号線から左折したところの第一日笠踏切の横に文化13年(1816)の「右 志ゆん連以みち」「左 北圀ゑちせん道」と刻まれた道標が立っている。
第一日笠踏切
 27号線に戻って進むと、その先で右斜めへ分岐する道があるので、これを進むと、右手に「曹福寺」があり、境内に総長425cmという県指定文化財の「九重の層石塔」がある。南北朝時代の応安の国一揆の供養塔といわれているという。
九重の層石塔
 街道に戻って進むと、左手に古墳時代後期の前方後円墳「十善の森古墳」がある。全長67mあるという。
十善の森古墳
 その先、天徳寺の信号で27号線を横断して進むが、天徳寺はこの少し手前にある。しかしすでに薄暗くなってきており、雨も激しくなっているので、このまま先へ進み、16時47分に上中駅に着く。ところが小浜行の電車は16時36分に出たばかり、次は17時44分までない。駅にはバス停もあって、時間をみると17時25分があったので、それで小浜まで引き返すことにした。この間、駅のベンチで時間を潰したが雨に濡れた身体は寒かった!
今日の宿は小浜駅のすぐ近くの若杉本館だったが、どういうわけか警察機動隊の人が泊っており、窓に金網を張った車が三台駐車していた。そのうちの一台は北九州ナンバーだったので驚いた。


本日の歩行時間          5時間59分。
本日の歩数&距離        29293歩、20.2km。
街道のみを歩いた場合の距離 12.9km。

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